第一章 母の突然の激変。車椅子からガン発症へ。
"一日 数分の笑顔があれば それだけで生きて行ける" 篠崎正喜
母との死別以来、住まいは静かになった。
十三階の住まいはいつも一人で、訪ねて来る人は希だ。
テレビを消すと時折、新河岸川の鉄橋を過ぎる列車の音が聞こえる。
そんな時、ふいに心の中に死んだ家族たちが帰って来ることがある。
「ああ着いた着いた。家はやっぱりいいね」
外通路から母の陽気な声。そして、死んだ父、祖母、兄、姉の声が続く。
やがて皆のにぎやかな声が近づいて来て玄関が開く。
「ただいま。元気に暮らしていたの。ご飯はちゃんと食べているの」
母の明るい声。
しかしすぐに、静かな現実に引き戻される。
今も、当たり前のはずの死を納得していない。家族たちが私より先に死んだからではなく、何故にかくも大きな哀しみを残したのか理解できないでいる。
先日、母の使っていた置き時計が止まっていた。電池を取り替えたのは二年前で、母はまだ元気だった。電池を取り替えながら「やっぱり死んだのか」と独り言をつぶやいた。母との死別以来、何かにつけて独り言を漏らすようになった。
十年前の記憶でも昨日のことのようによみがえる。
確かめるように日記をたどると十年前の初冬の日が目がとまった。
・・・今日は雲一つない空だ。
赤羽自然観察公園へ母の車椅子を押して行くと汗ばんでしまった。
いつものように、母に手摺を掴ませて軽い運動をさせた。
秋は深まり、日射しが心地良い。
母の運動が終わるのを待ちながら、ぼんやりと十年後の自然公園を想像した。
目の前に細いケヤキの幼木が生えている。
その幼木は十年後には見上げるように成長して、夏には涼しい木陰を作ってくれるだろう。
その頃は、母を含め散歩に来ている老人の大半は死んでいない。もしかすると、私は公園の常連の老人たちの一員に加わっているかもしれない。しかし、ケヤキが大木に生長した三十年後となると、私は八十七歳で生きている自信はない。
「ずい分、涼しくなりましたね」
今日も公園のあちこちで老人たちが立ち止まり、挨拶を交わしていた。
この静かな穏やかさは素晴らしい・・・
それから十年が過ぎた。
成長を楽しみにしていたケヤキの幼木は草刈りボランティアたちによって切られてしまった。
「元気に大きくなりなさいね」と、
母がいつも撫でていた遊歩道脇のトウネズミモチの幼木は見上げるように成長した。
母は一昨年の七月一日、九十七歳で死んだ。
私は老人たちの仲間入りはせず、一人で散歩を続けている。
その十年前の日記を書いた頃、私は五十七歳で母は八十九歳だった。
母が倒れたのは二千二年十一月四日。
母は二週間前から、近所の病院でぎっくり腰の治療を受けていた。
しかし好転せず、痛みは日に日にひどくなって行った。
早朝、母の呼ぶ声で目覚めた。急いで行くと、母は腰の激痛のため寝返りもうてない。トイレを訴えたので、慌てて死んだ父が使っていた簡易トイレを 押し入れから取り出しベット脇に置いた。介助して起こす間、我慢強い母が苦痛で顔をゆがませていた。重大な病変があるのではと不安が募った。
母が落ち着いたところで、離婚して西ヶ原の霜降橋で一人暮らしをしている晃子姉に連絡した。今日は文化の日の代替え休日。明日、姉と二人で、母が 二十年前から世話になっている板橋の病院に連れて行くことにした。母はその病院で、胆石、子宮がん、膝の人工関節、と様々な手術を受けている。板橋の病院 へ連れて行くと伝えると母は安堵していた。
翌五日にタクシーを呼んだ。住まいの十三階から姉と二人がかりで母を支え、下で待っているタクシーまで連れて行った。病院へは事前に急病の母を連れて行くと伝えておいた。
三十分ほどで板橋の病院に着き、病院の車椅子に母を乗せ待合室連れて行くと相変わらず大混雑で三時間ほど待たさた。
ようやく診察を受けると「よくある老化現象で、時間が経てば痛みは収まります」と、医師の説明は心許ない。病名も痛みの原因もあいまいなまま、母は入院し、鎮痛剤治療が始まった。
とりあえず私たちは安堵して帰宅した。しかし、それからの三日間の治療でも激痛は軽減しなかった。今のまま鎮痛剤治療を続けても好転しそうにない。この状態が続くと筋肉が痩せ、寝たっ
きりになってしまう。ネットで調べると、母の痛みには神経ブロックが効きそうだ。それはペインクリニックの一つで、神経のポイントに軽い麻酔をして痛みを取る治療だ。痛みが消えると同時に周辺の筋肉の緊張がゆるみ、血行が良くなって持続して痛みは消える。
早速、担当医師に会って神経ブロックをしてもらえないか相談した。
「効くかどうか・・・どうですかね」
医師は治療できるかできないかはっきり言わない。神経ブロック担当の麻酔科との連携に問題があるのかもしれない。このまま入院を続ける意味はなくなったので、その場で退院を申し出た。拒否されると思っていたが、意外にも医師はすんなり承諾した。
帰宅してすぐ、神経ブロックをしてくれる整形外科をインターネット検索すると、近所の川向こうに九月に開院したばかりの北赤羽整形外科がヒットした。治療項目トップがペインクリニックで母は運が良いと思った。すぐに予約を取り、介護保険で車椅子を借りる手続きをした。
十一月十二日
朝一番で車椅子に母を乗せ北赤羽整形外科へ連れて行った。車椅子押しは、昔、父が倒れた時に経験している。操作は問題なく、十分ほ
どで整形外科に着いた。すぐにレントゲンが撮られ腰椎が五個つぶれているのが分かった。板橋の大病院のレントゲンでは分からなかったのに、その病院の最新デジタル画像では鮮明に写っていた。
「これでは痛かったでしょう。よく我慢できましたね」
若い医師は母に優しく話しかけた。心がこもった接し方に、信頼できる人だと思った。
母
はその病院最初の神経ブロック患者になった。医師は腰椎の硬膜外に慎重に麻酔注射をして三十分間付き添って経過観察した。効果はすぐに現われ、腰のあたり
が温かくなって楽になったと母は笑顔になった。痛みは残っていたが、治療台から一人で立ち上がり車椅子に腰かけた。この一週間、そのような姿を目にしていないので心底うれしかった。次の治療は三日後だ。
「毎日でもできる治療ですので、もし今夜、痛くなったら明日朝一番で連れて来てください」
医師はそう言って、私たちを受付まで見送ってくれた。
十一月十六日
二度目の神経ブロックで痛みは殆ど消えた。今日は始めて、車椅子で四キロ離れた赤羽自然観察公園へ連れて行った。母は散歩の習慣が
なく、長年赤羽で暮らしているのに近所をほとんど知らない。車椅子から青空に映える紅葉を見上げながら、遠くを旅行しているみたいだと喜んでいた。公園に
着くと、母は少し歩いてみたいと、自分から手摺伝いに五メートルほど歩いた。後ろ姿を眺めながら、母は確実に回復する予感がした。
車椅子散歩は母には新鮮な驚きの連続だった。人と同じスピードで移動し、音も静かで、小鳥の音や風の音が聞こえ、路傍の野草も身近に眺められた。買い物袋を取っ手に下げられるので、いつもより多くの買い物をすることができた。
毎日、母を連れて商店街へ行った。手押しドアの場合は背中で支えながら入るのだが、大抵、知らない人が気づいて駆け寄ってドアを開けてくれた。車椅子になって世間の優しさがよく分かった。
痛みは再発せず、神経ブロックは一週間に一度に延びた。車椅子になってから母の行動範囲は元気な頃より格段に広がった。人やペットたちとの出会いも多く、母の笑顔は日に日に増えて行った。
私にとって良かったのは、三十年間続いた私の夜昼逆転の生活が改まったことだ。仕事は絵描きで、静かな夜に制作に集中し、明け方まで描く毎日だった。
それが、母の介護のために十二時前に就寝して朝六時に起床した。極度の不眠症で、始めはほとんど眠れなかったが、早起きを強引に続けている内に自然に眠れるようになった。
車椅子は毎日十キロ以上押した。おかげで、長く忘れていた私自身の健康感が戻って来た。もし、母が車椅子生活にならなかったら、成人病寸前だった私は健康を損ねていたかもしれない。
雨の日も、風の日も車椅子散歩は休まなかった。防寒具や雨具は登山用を使った。雨具は車椅子用より登山用のポンチョを改造したものが軽くて快適だった。
困っ
たのは車椅子の操作性だ。僅か二センチの段差でも、うっかり見逃すと、前車輪が横向きに引っかかって急制動がかかり、母を放り出す危険があった。対策とし
て、登山用具のカラビナと帯ロープを使って安全ベルトを作った。車椅子用安全ベルトは市販されているが、華奢で信頼性に疑問があったので自作した。
十二月になって木枯らしが吹き始めた。
母は神棚の水換えだけは頑固に続けていた。足元の悪い母が転ぶのが心配だったが、自主性を尊重して好きにさせた。
十三日朝
母はふらついて神棚の花生けを落して割ってしまった。転ばなかったのは不幸中の幸いだ。母は八十歳の時両膝を手術して人工関節に変えていた。外科医からは、転ぶと関節が壊れるから気をつけるようにと厳命されていた。
花生けを買いに、気晴らしに浅草稲荷町まで行くことにした。私は絵描きに転向する前、彫金で生活していた。その頃は稲荷町近くの道具街へよく出かけていた。懐かしい街並を散策して、神具店で花入れを買った。帰りは観音様まで足をのばしてお詣りすることにした。
観音様は寒い夕暮れにもかかわらずにぎわっていた。
「ええーっ、凶だ」
おみくじ売場から若者の大きな声が聞こえた。気の毒にと思いながら、私もおみくじを引くと七十五番と良い数だ。大吉を期待しながら小引き出しから取り出すと、なんと凶だ。以前、凶を引いた時、その数ヶ月後に祖母が死んだ。
気になるので、再度、本堂で家内安全を祈ってからもう一本引いた。しかし、七番と良い数なのに再び凶。更に反対側のおみくじ売り場で引いたが、またもや凶。
もう声も出ない。浅草の観音様は凶が多いと知っていたが、三連続ではかなり滅入った。これから起こる事をあれこれ心配しながら帰宅した。
「楽しかった」
明るい声で迎えた母に、土産の切り山椒を渡した。しかし、凶のことは黙っておいた。
翌十二月十四日
好天の中、知人の十三回忌の法要に池袋へ出かけた。彼は、絵描きに転向したばかりの私を助けてくれた恩人だ。
知人宅は大谷口の給水塔近くにある。近所のお寺の境内の墓地には木陰に先日の雪が清々しく残っていた。法要の後、未亡人や古い知人たちとのんびりお茶をして夕暮れに帰宅した。
玄関を開けると晃子姉が待っていた。姉が訪ねる予定はない。どうしてと聞くと、母が浴室の床に落ちていたシャツを踏んで転んだと言う。私はいつも洗濯済みの下着は浴室のカゴに積み上げる。その一部が崩れ落ち、それを踏んで滑って転んだようだ。
外科医からは、転ぶと人工関節が壊れる厳命されていたので、一瞬血の気が引いた。
しかし、母は居間でのんびりテレビを見ていた。
転んだ後は大変だったようだ。人工関節は九十度までしか曲がらず、自力では立てない。母は電話まではって行き、私の携帯に電話をかけようとしたが、気が動転して電話番号が押せなかった。それでかけ慣れている晃子姉に電話して助けに来てもらった。
経緯を聞きながら昨日のおみくじの凶が頭をかすめた。しかし、母はカゴにふわりと積み上げていた衣類の山へ倒れ、怪我一つしなく運は良かった訳だ。三連続凶は、「これから足元は、いつも片付けておきなさい」との観音様の啓示だと良い方に考えることにた。
暮れの間も休まず、毎日母を赤羽自然観察公園へ連れて行った。自然の治癒力はすばらしく、母の足取りは日に日にしっかりして、歩く距離は五十メートルに延びた。
母が歩いている間、私はぼんやりと冬景色を眺めながら待った。
鮮やかな紅色のネコ柳のつぼみ。ニガイチゴの蝋質の白い粉でおおわれた濃紫の茎。冬の草木は枯れているように見えても、命にあふれていた。私は田舎育ちで、自然のことは何でも知っていると思っていたが、五十七歳になって始めて冬の自然の美しさを知った。
二千三年一月二日
母が元気になってくれたおかげで、さわやかな新年を迎えることができた。玄関を開けると真っ白な富士が見えた。正月も休まず散歩に母を連れ出した。
緑道公園の路傍に雪が残っていた。昨夜、雪が降ったようだ。
母が初夢を見たかと聞いた。詳しくは思い出せないが、楽しい内容だったと答えると母は笑顔になった。緑道公園は戦前、旧軍の軍事工場への引き込み線跡に作られた公園で全長二キロほどある。我が家からは桜並木を経て緑道公園に入り、
その終わりに赤羽自然観察公園があるので、散歩は終始緑地を行くことになる。
正月の赤羽自然観察公園は静かだ。葉を落としたミズキが紅色の枝を青空に広げているが清々しかった。
母は管理事務所に、車椅子用トイレを使わせてもらっているお礼だとポンカンを渡した。公共の施設だから、お礼は不要と言ったが、意に介さなかった。
係員にお礼を言われて母は気分が良くなったのか、いつもより長く歩いた。このまま元気を回復してくれると有り難い。
帰宅すると、左目がムズムズした。鏡を見ると結膜が出血して真っ赤になっている。細い血管が切れて出血したもので、一週間ほどで自然に吸収され る。視力には影響はないが、人が真っ赤な目を見るとおどろくので、明日からサングラスをかけることにした。母の介助で、知らず知らずに疲労がたまっていた ようだ。
一月四日
午後に母を散歩させた。好天で、自然公園はいつもより人出が多かった。母は体調が良く、いつもより20メートル多く歩いた。
帰宅してから、新宿の世界堂へ行って画材を補充した。絵の具と大量のボードは腕が抜けそうに重い。しかし、画材が十分にストックしてあると、気持ちが落ち着く。絵描きにとって大変なのは制作ではなく、絵が描ける生活環境を作ることだ。
帰宅して、母が見舞いで貰ったメロンを食べた。食べ頃は今日指定だが、暖房の所為で少し熟れすぎていた。メロン類は種の周りが好きだ。これをざるに あけて裏ごしするとコップ半分程のジュースが取れる。ジュースはメロンのエッセンスが集中していて香り高く味も濃厚だ。種に絡む糸状の部分も、丹念に種を 取り除いて食べた。サクサクした食感がとても美味い。
日南市大堂津の子供時代は、メロンは高級過ぎて目にする事はなかった。代わりに、まくわ瓜をよく食べた。まくわ瓜は果肉の味が薄いので、種の回りの濃厚なジュースを果肉に絡ませて食べた。その時、種は面倒なので一緒に食べた。それで腹を壊したことはない。
始めてメロンを口にしたのは昭和30年代後半だ。デパートの食堂で、クリームパフェの頂上にサクランボと並んで麗々しく飾ってあった。メロンは向こうが見える程の薄切りで、私はサクランボとメロンを最後に残して宝石のように大切に味わった。
一月五日
母の車椅子散歩から帰ると、日曜なのに年賀状が届いていた。これで主な差出人は出揃った。明日以降に届くのはお義理のものが多い。その中に、昔のガールフレンドからの結婚報告が四通あった。どれも二人でケーキにナイフを入れている写真だ。新婦は可愛いが新郎は間抜けに見えた。
午後、池袋西武の詩のコーナーへ行った。
"私は最後に残ったお金で心を満たす詩集を買うだろう。決して食べ物を買ったりはしない。"
などと気障なことを考えながら、アメリカの現代詩集と水野るり子の「ヘンゼルとグレーテルの島」を衝動買いした。本当は最後に残ったお金で詩集を買ったりはしない。
昔、山で遭難しかけた時、空腹感は耐え難いものだった。だから、大切なお金は総て食べ物に使うはずだ。
一月七日
七草である。松飾りを外して七草粥を作った。正月の気配が消えて、ほっとしする一方、何となく寂しい。冬はすぐに終わり春が来る。そして夏があっ という間に終わり秋が来て再び年末年始の慌ただしさを嘆く。これは洗濯や料理と同じようなものだ。繰り返すことに喜びがある。思い煩わず、ゆったりと時の 流れに身を任せていれば良いことだ。
そんな事を考えていたら、ふいに五体投地に一生を捧げるチベットの巡礼者の姿が浮かんだ。あの映像を見ていると、彼らの思い切りの良さが羨ましくなった。
今朝は風が無く寒さが緩んだ。西の方角に赤みを帯びた富士が見えた。母が定期検診で老人センターへ行く日だ。早朝、無線タクシーを呼び、朝食後に来た姉に病院へ連れて行って貰った。
母を送り出して二度寝をしたら、お昼近くに宅急便で目覚めた。荷物は九州からの椎茸だ。肉厚の良品で、すぐに冷水に浸けて冷蔵庫にしまった。こ明日はこの椎茸と高野豆腐を煮る。
一月十一日
この数日の暖かさで、自然公園の厚く氷結していた池はすっかり溶けてしまった。冬至から三十分は日が長くなったように感じる。そうやって、すぐに春がやって来るのだろう。
昨夜は「高校教師」のリニューアルを見たが旧作には及ばない。旧作の真田広之--羽村先生の生真面目さ、桜井幸子--二宮繭の母性に似たひたむきさ、それらの設定は今の時代にはそぐわないのかもしれない。しかし、別の作品として見れば楽しめた。
今日は年賀状が二通届いた。これだけ遅れて届く年賀状はお義理ではない。その一通は、飼い猫が死んで年賀状を書く気力が湧かなかった、との詫び状。もう一通は身内の不幸による遅れだった。
最近、自然公園で母が歩く後ろから、私は車椅子に乗ってついて行く。母の車椅子は介護車なので自走できない。私は足で地面を引き寄せるように進む。平地はそれで楽に進むが、少しでも上りになると大変だ。
私が車椅子に乗って母の後ろをついて行くと、二歳程の赤ちゃんがよちよち近づいてきた。アブアブと、どうやら乗りたいと言っているようだ。お母さんは困り顔で赤ちゃんを引き離そうとしていた。
「いいですよ」と、私は車椅子に乗せて少し動かしてあげた。赤ちゃんは大喜びで、もう降りないと頑張っている。お母さんは無理に下ろして、待っていた母にしきりに謝っていた。
「こんなもは乗らない方が良いのよ」
母は笑いながら、お母さんと赤ちゃんに話した。
母親は、恐縮しながら去って行った。
子供には車椅子は大きな乳母車に見えるようだ。乳母車に乗った子供とすれ違う時、子供は決まって、どうして大人が乳母車に乗っているんだ、と母をにらむ。その表情がとても可笑しい。
一月十四日
今日も自然公園で母が歩く後ろを私は車椅子に乗ってついて行った。
「交通事後ですか」
すれ違った老人が気の毒そうに聞いた。老母が私を介護していると思ったらしい。ヨタヨタやっと歩いている母に車椅子を押せる訳がないのだが、そそっかしい人だ。もっとも、母はとても喜んで調子を合わせた。
「有り難うございます。この年で苦労ばかりさせられて・・・」
母が適当に答えると、その人は更に気の毒そうに「お大事に」と去って行った。
今日は暖かく、車椅子を押していると汗で背中が濡れた。梅が開花したとニュースで言っていた。明日は赤羽台団地の梅公園を回つてみようと思う。
一月十六日
パソコンをつけるとニフティーから「誕生日おめでとう」のメールが届いていた。
「今日は何の日だ」
母に聞いたが誕生日を忘れていた。
「天皇陛下の前立腺切除記念日でしょう」
母は見当違いのことを言った後、やっと私の誕生日に気づいた。
私
は敗色濃厚な昭和二十年、日田市で生まれた。当時、福岡県の役所で土木技師をしていた父は、日田市山中の女畑で食料増産のための用水路工事の監督をしてい
た。一月十六日は母の養父健太郎の命日である。臨月の母は二十五回忌の準備のために前日から日田市内へ下山していた。ついでに日田市豆田の産婦人科に寄る
と、産まれそうだからと、すぐに入院させられた。その夜から陣痛が始まり、翌十六日夕刻に私が生まれた。
八ヶ月後の終戦を迎えたころ、父は上司と喧嘩して辞職した。家族は私一歳の誕生日前に、旧知の漁師に誘われて、食糧事情が良い南九州の漁師町大堂
津へ引っ越した。大堂津は米がないだけで魚も野菜も安くふんだんにあった。しかし、世渡り下手な父のおかげで、それからの私たちの生活は激しく乱高下し続
けた。
「役所を辞めなかったら楽だったのに」
母は時折、死ぬまで借金を重ね続けた父をぼやいた。
ある時、父と一緒にならなかっ
たら、私はいなかった、と応えると、「そうだったね。ごめんごめん。」と、母は笑いながら死んだ父に謝っていた。もし、父が役人を続けて生活が安定してい
たら、私は絵描きにならずに平凡なサラリーマンになっていたはずだ。アートと平穏な生活は相性が悪い。作品は心の屈折から産まれるものだ。
一月十八日
母をペインクリニックに整形外科へ連れていった。治療は一時間程かかるので、私はその間、絵をメモ帳に描きながら待っていた。
患
者は殆ど老人だ。今日は六十代の裕福そうな女性が入って来て、いきなり「順天堂から来ました」と大声で言った。一瞬、病院関係者と思ったが新しい患者
だった。順天堂で紹介状を貰って来たようだ。彼女はそれが嬉しいらしく、受付とのやり取りの中に何度も「順天堂」を夾んだ。
やがて彼女の診察番が来た。受付はうっかり名前ではなく「順天堂さん」と呼んでしまった。彼女は間違えられたのを嬉しそうに診察室へ入っていった。
「私は忙しい人だから、先週に順天堂さんでレントゲンを沢山撮ってるの。だから、注射だけにして下さい」
診察室から、先生に無茶を言っている声が聞こえた。このように、面白い患者が現れると、待ち時間の退屈が紛れる。
更に治療に時間がかかる時は、一旦、誰もいない家に帰ることがある。独り身なので、誰もいない部屋は寂しい。
イソジンのCMで、一人暮らしの女の子が帰宅すると「お帰り」と河馬の親子が声をかけるのがある。迎えられて女の子が笑顔になる気持ちはとても良くわかる。たとえ河馬でも、誰かが家で待っていてくれると嬉しい。
近未来にはロボットがそのように出迎えるようになるかもしれない。そうなると、アーとかウーとかしか言わない夫とか、ろくに話も聞いてくれない妻よりも、ロボットが良くなるかもしれない。
一月二十日
今日は風に春の気配を感じた。寒風から下草を守っていた枯れ草が倒れ、地面まで陽光が届いていた。枯れ草は春間近に倒れて土地を肥沃にする。実に巧みな自然の摂理だ。
冬の木々の木肌の色は美しい。ミズキやニガイチゴの紅色。柳のオリーブグリーン。紅色は直射日光の紫外線から守っているのだろう。だから、初夏に葉が茂ると紅色は薄れしまう。
自然を人の損得で考えるのは間違っている気がする。
役
に立たないから湿原を開墾する。役に立たないから古い建物を取り壊しビルを建てる。その結果、人が幸せなったとは思えない。役に立たなくても良いものはあ
る。珍しい切手、古い陶器、眺めているだけで楽しい。私も役に立たない絵を描いている。役に立たない老人や身障者たちも、彼らがいることで、私たちは知ら
ず知らずの内に、生きる勇気を貰っている。
一月三十日
自然公園の日溜まりに母を休ませ、風の音聞いていた。
風の音を聞くと、子供の頃の裏山や海辺の松林を思い出す。やがて母が逝っても、ぼんやりと風の音を聞いているのかもしれない。そして、風の音に、杖をついてそろそろと歩く母の後ろ姿を思い出すのかもしれない。
午後から、神楽坂のラボへ絵の撮影に行った。二年間、行かなかった間に街の様子は変わっていた。いつも客が入っていなかったレストランは、エスニックの調
度品屋に商売替えをしていたが、相変わらず客は入っていなかった。主人はショウウインドウ越しに通りを暗い顔で見ていた。
江戸時代から続く古刹の木々の茂っていた境内は、霊園に変わっていた。
デジカメの影響で銀塩フイルムが減少し、ラボは縮小していた。近く新橋に移転すると、顔馴染みの社員がこっそり話した。昔は来客が引きも切らず、受付の女の子が7,8人いたのに、今は彼女一人だけになっていた。
二月一日
早朝、腰痛で寝込んでいる姉へ、母は心配して電話していた。
「腰の具合はどう?」
・・・大分良くなったみたい・・・
「それは良かった。でも声が変だよ。風邪でも引いたのじゃない?」
・・・風邪は大丈夫・・・
そのような会話がひとしきり続いたようだが、母は突然、電話口で謝り始め、丁寧に挨拶して電話を切った。
「本当にそそっかしく、どうかしてるんだから。喋り口調が晃子に似ていたものだから、間違えちゃった」
母は笑いを押さえながら言った。電話した相手は姉ではなく、知らない人だった。しかし、会話は巧く符合して、ごく自然に続いてしまった。母は大雑羽だけでなくそそっかしい。私は繊細だが、そそっかしい性格は母から受け継いでいる。
散歩から帰ってから、洗濯をした。洗濯機は十五年前から使っている二漕式。この機種は頑丈で、当分壊れそうにない。
洗濯槽にはいつも石鹸水を満たしてある。母はそれに片っ端から汚れ物を放り込む。母は若い頃から大雑把で、食器用布巾と雑巾を一緒に放り込んだりする。いくら言っても聞かないので、いつの間にかすすぎに時間差を設けて、食器用布巾と雑巾を分けてすすぐようにしている。
二月二日
今日は初午。母の散歩の帰りが遅れたので午後4時に王子稲荷へ出かけた。今日は初午にしては人出が少なかった。三の午まであるから、皆はお詣りを控えたのかもしれない。境内では祭囃子が流れていた。和風はやはり心和む。
本
殿奥の祠に願い石が置いてある。重さは二十キロ程で溶岩のようにざらざらしている。いつものように胸まで持ち上げてこの先一年の商売繁盛を願った。それか
ら、山肌の階段を上り狐穴に詣った。この、自然味溢れる山肌は、江戸時代から変わらない。小さな祠が幾つもあって、それぞれに小銭を上げて祈った。
その後、目白へ行った。目白に新しくオープンした目白オープンギャラリーで彫刻家の知人が作品展をしていた。氏は鍛金で巨大なキリンや河馬を作る。客は美大の学生が多かった。氏の夫人が彫刻で受賞したお祝いを言い少し彫刻の話をして別れた。
帰り、池袋キンカ堂で布と紐を買った。昔は全館素材売場であったが今は一フロアのみで布の種類は少なくなった。
それから東急ハンズで段ボールと木材、ビックバソコン館でプリント用紙を買った。
北赤羽で下車した時、明日の節分を思い出し、駅前のライフで魔よけに使う目刺しを買った。ベランダにヒイラギの鉢があるので、枝を切って目刺しの頭を刺し
て魔よけにした。昔、一軒家に暮らしていた頃は豆殻をくすべて、鬼を追い払った。今の高層の住まいは機密性が高く、豆殻をくすべると煙が抜けず大変だ。そ
れで、鬼くすべは止めている。
鬼くすべのパチパチと豆殻のはじける音と煙の香りは懐かしい。私が上京した昭和三十八年頃は節分の夕暮れになると町内のあちこちで「鬼は外、福は内」の大きな声が聞こえたが、今はまったく聞こえなくなった。
二月六日
今日も、自然公園の日溜まりに母の車椅子を止めて休んだ。日射しが心地良い。公園の池の底に炭酸同化作用による酸素の気泡が無数に出ていた。藻類が活動を始めたようだ。ネコ柳の新芽も大きく膨らんで、子猫みたいに可愛いく
なった。今の季節の変化を肌身に感じると、体も生き生きして来る。日溜まりの車椅子の母は、次は桜だねと嬉しそうにしていた。
毎年春になると走馬燈のように思い出すことがある。
四十年昔の郷里宮崎での二月、私は冬休みの惰性で受験勉強に身が入らず、学校をさぼっ
ては川の土手に寝そべって時間をつぶしていた。南九州の春は早い。土手は淡く芽吹き、畑には菜の花が咲き、遠くに春霞の山々が見えた。同級生達は二月にな
ると、次々と受験の為に上京して、教室は櫛の歯が抜けたように寂しくなった。卒業式は三月を待たず、慌ただしく終わった。
二月下旬、卒業
式を終えた私も意気揚々と上京した。一日に一本だけの特急みずほの寝台車に乗れたことが嬉しかった。東海道に入ると、平行して建設中の新幹線の高架が見え
た。ボックス席の相客は別府で乗車した老夫婦だった。東京駅が近づくと、「頑張って立派な偉い人になって下さい」と老夫婦は私を励ましてくれた。私は照
れもせず「頑張ります。」と答えた。まだ、日本人が熱い時代だった。
不勉強が祟り芸大受験は失敗した。浪人して再受験するか迷ったが、絵描きくらい、独学で簡単になれると過信した。現実は大変で、良い事と悪いことにジェットコースターのように振り回され、四十三歳でやっと絵描き転向できた。
二月十一日
雨の中、ポンチョの雨具を被せて母を車椅子で自然公園へ連れて行った。公園に着くと、スズメたちが飛んできた。私はいつもと違うフード付きの雨コートを着
ているのに、スズメ達には私と分かるようだ。餌を撒くと一斉に食べ始めた。石畳を小さなくちばしでプチプチとつつく音を聞いていると、母も私も幸せな気分
になった。
雨に濡れた自然公園は深い山のようだ。木の枝に水晶の首飾りのように雨しずくが綺羅めいているのが美しい。
「雨コートが暖かそうですね」
顔馴染みの老人が母に声をかけた。彼は私が親孝行で評判になっていると話した。この三ヶ月間、殆ど毎日車椅子を押してやって来るので、そう思われているようだ。
自然は様々なことを教えてくれる。
アマゾン、クリチカ族首長の次のような言葉がある。
「自然がそこにあって、鳥が歌い、森がささやく。なんと素晴らしいことか。あなたたち白人は優れたテクノロジーを私達にもたらした。しかし、テクノロジーは私達を幸せにしない。私達の幸せは自然とともにあり、自然が消滅すれば、私達もほろびる」
二月十三日
冬はすぐに終わり、二月を迎えると時折暖かい日が訪れた。
車椅子散歩には意外な効果があった。振動で全身が揺らされて腎臓への血流が良くなり、赤羽自然観察公園に着くころに母は尿意を催した。母は腎機能が落ちていて、日中尿量が減るのを悩んでいた。だから、車椅子散歩を楽しみにしていた。
今日も公園へ着くとすぐに身障者用トイレへ入れた。外で待っていると、中年男性が通りかかった。
「女子トイレに入りやがって」
男は吐き捨てるように言った。
「母の介護だ。げすな勘ぐりをするな」
とっさに言い返したが、男は無視して去って行った。追いかけて文句を言いたかったが、母の世話があるので我慢した。
管理棟前のベンチで、母と昼食のおにぎりを食べた。先ほどの男は隣のグランドをぐるぐる歩き回っていた。運動が終われば私達の前を通るはずなので文句を言ってやろうと待ち構えていた。しかし、男はそんな私の気配に気づき、いつまでもグラウンドを回っていた。
車椅子は初めてのことが多い。今日は女子トイレを使う時は注意が必要だと学んだ。嫌な男だったが、それに気付かせてくれたことに感謝している。これからは車椅子を外に置いて、介護していることを明示することにした。
二月十六日
住まい下の新河岸川護岸で若者達が映画を撮っていた。ああだこうだとやり合いながら、熱っぽく撮影している姿が若々しい。そのような若者たちを見ていると、若さはいい、と思ってしまう。そう思うのは年を取ってしまったからだろう。
最近、夜中に小用で目覚めるようになった。以前はそんなことは一度もなく、朝までぐっすり眠っていた。昔は歯は丈夫なのが自慢で、堅い梅干しの種を
楽々砕いていたが、今では想像もできない。母は夜中、三、四回は小用で目覚める。逆に、昼間はぱたりと止まってしまう。だから、母との会話は小用と通じの
話が多い。最近、老いは病ではないと気づいた。
母にとって車椅子はタイムマシーンである。今日は自然公園の帰り、昔住んでいた辺りを通った。母には10年ぶりに懐かしい場所である。馴染みの八百屋の主人が白髪になったこと。明治屋のレジのおばさんがすっかり年寄りになってしまったこと、何もかも母には驚きだった。
さほど遠くない場所が、年寄りには外国のように遠くなってしまう。もし寝たっきりにでもなれば、町内の数メートル先でも、二度と見ることなく死んでいく。
三月十四日
お昼のワイドショーで郷里日南市を取り上げていた。私は知らなかったがあの地方は長寿が多いらしい。その理由は温暖な気候に、新鮮な魚介類とツワブキを食
べているから、と言っていた。ツワブキが長寿の元とは知らなかった。映像で年寄りが畑栽培のツワブキを採るシーンがあったが、昔は山に自生しているのを子
供が採ってくるものだった。
ツワブキのシーズンは今頃で、山の南斜面で産毛に覆われた若いのを選んで採った。しかし、映像のツワブキは大
きく成長したものばかりだった。私達はそれをオンジョ・じいさんの意味・と言って嫌っていた。先日、九州の兄が市販されているツワブキを送ってきたが堅く
て不味かった。それは畑で作ったものなのだろう。畑で作り始めたのは、子供が山へツワブキ採りへ行かないからだ。昔はツワブキとタケノコ採りは子供の仕事
だった。
子供の頃は、竹杖とわら縄一本を持って山へ行った。竹杖はマムシを追い払うために使う。ツワブキの多い斜面はマムシが多く、シーズン中に必ず誰かが噛まれた。私の友達もツワブキ採りの最中に噛まれ、皆で背負って、病院へ担ぎ込んだことがあった。
わら縄はツワブキを縛るのに使った。子供でも産毛の生えた若くて美味しいツワブキがすぐに一抱えは採れた。
帰ってから皆でツワブキの皮むきをした。ツワブキはあくが強く剥いていると指先が茶色に染まった。皮むきに飽きると、ツワブキを交互に折って首飾りを作ったりして遊んだ。ツワブキは母が鰹節と大鍋で煮込んだ。生醤油で煮詰めた佃煮も美味かった。
三月十七日
赤羽自然観察公園の北方系のイヌコリヤナギが新芽を出した。まだ全体は枯れていたが、その刷毛で引いたような淡い緑に春を感じた。
最
近、赤羽自然観察公園で言葉を交わし始めた車椅子の老夫婦がいる。老夫婦と母は気づいていないが、昔、私たちは彼の家の近くに住んでいた。その頃、飼って
いたオカメインコが逃げて、彼の庭に飛んで行ったことがあった。庭から鳴き声が聞こえたので玄関のブザーを押した。現れた彼に事情を話して庭へ入れてほし
いと頼んだが、彼はダメだと言った。押し問答をしているうちに、オカメインコは野良ネコに捕まって食べられてしまった。その一件以来、彼のことを思い出す
と腹が立った。
その彼が脳梗塞で倒れ、公園で老妻に支えられて松葉杖で必死に歩いていた。
「大丈夫ですよ。きっと歩けるようになります」
母が励ますと彼は優しい笑顔になった。母はオカメインコの件は知らない。私は温厚な老夫婦と親しくなっただけで十分と思った。今日も別れ際、老夫婦はいつまでも私たちに手を振っていた。苦労が優しく性格を変えたようだ。
四月に入ると日差しが強くなった。
帽子をかぶらなかったら耳の辺りがヒリヒリした。子供の頃から南九州の強烈な陽光を浴びて皮膚を痛めつけて来た報いだ。住まい下の新河岸川の川面が春めいてきた。川面の輝きを眺めると、半世紀前に暮らした大堂津の細田川を思い出した。
細田川河口は浅い汽水域で、水が温むと子供たちは入って遊んだ。魚が足にぶつかるほど魚影は濃く、足裏で砂中を探るとアサリがいくらでも取れた。そんな思い出を母と話しながら車椅子を押した。
「あのころは貧乏だったけど、子供たちが元気で、毎日が本当に楽しかった」
母は、大家族でのにぎやかな食事や、末っ子の私がご飯粒をこぼして困ったことなど、楽しそうに話した。
母とは二十八歳から一緒に暮らしているが、今ほど会話はしなかった。それが、車椅子になってから会話が増えたと、母は喜んでいた。
五月一日
今日は二十八年前、在宅で看取った母方の祖母千代の命日だった。当時、父は事業を失敗して収入がなかったので私が扶養していた。
祖
母千代は死の二年前まで、溺愛していた繁兄の家族と都城で暮らしていた。その祖母が急速に弱ったので、当時二十八歳だった私が東京へ引き取って、母と二人
で介護した。私は祖母が寝ている隣室で夜通し仕事をしていたので、祖母が呼べばすぐに世話ができた。だから、母が夜中に起こされたことは一度もなかった。
通夜の日、兄姉が集まり子供の頃のような大家族が再現され、祖母の死の寂しさより、大家族の暖かさが記憶に残った。
葬儀の日はツツジが満開の爽やかな日だった。遺骨は紅型染めの風呂敷に包み、上京して来た繁兄と母が九州の菩提寺へ運んだ。繁兄の姿を見たのはそれが最後だった。
新
緑の道を行く母と兄の後ろ姿が今も目に浮かぶ。翌年十月、都城で中学教師をしていた繁兄は学校で脳溢血を起こし四十二歳で急死した。私には父違いの兄が二
人いる。その上の兄が繁兄だった。他に母違いの姉が二人いる。両親が同じなのは姉二人と私三人だけで、末っ子の私が戸籍上の長男になっている。
祖母千代と母は血のつながりはない。母の実母は母を生むとすぐに早世した。赤ん坊を抱えて困っていた実父茂太郎は、子供がいない千代の元に母を養
女に出した。実父茂太郎の父親、母の実の祖父は久留米藩士で、維新後は花道と茶道の心得を生かして没落を免れた。その嫡男だった茂太郎は近衛師団に入営
し、数年後に除隊して帰郷した。久留米に戻った彼は突然、酒と女と放蕩を始めた。そのころ、茂太郎は母を養女にした千代の夫健太郎と遊びを通じて知り合っ
た。
親は彼の放蕩を若気のいたりと大目に見ていた。しかし、茂太郎が母の実母にあたる染物屋の娘と一緒に暮らし始めたことは許せなかっ
た。結局、長い軋轢の末に茂太郎は家を捨て、家は真面目な弟が継いだ。弟はよく家を守り、その子孫は今も繁栄している。早世した母の実母は染め物の名手で
遊び好きの茂太郎に代わって生活を支えた。
不思議なことに、私の父の実父も染め物職人だった。父の祖父は黒田藩の下級武士だったが、明治維新で勤王側について巧く立ち回り、屋敷を構えるほ
どに出世した。しかし、その娘だった祖母は京都から流れてきた友禅染め職人とできて父を生み、一族から排除されてしまった。その友禅染め職人は父が生まれ
る前に祖母を捨てて逃げた。逃げた祖父が染めた着物は戦前まで、遠縁の家に残っていた。母の記憶では腕は確かだったようだ。彼が流れ職人になったのは、師
匠筋とトラブルを起こしたからだ。私は絵描きに転職する前、彫金職人をやっていたので、その事情は肌で分かる。
今、私が絵描きになれたのは両親に染め物職人の血が流れていたからだと思っている。だから、逃げた父方の祖父に対しても敬意を持っている。
祖母千代の夫健太郎はあちこちに女を作っていた。当時は盆暮れに本妻が夫の愛人に届け物をする習慣があった。それは本妻には腹立たしい習慣で、祖母は母が五歳になると自分の代理に立てた。
幼
い母は、毎年盆暮れに届け物を持って人力車で挨拶回りをした。挨拶先には遊郭の女がいた。遊郭では客の娘が挨拶に来たので、下にも置かず歓待した。遊郭は
現実を忘れさせるためにファンタジックに作られていた。たとえれば、ディズニーランドと歌舞伎町を合体させたような極彩色の妖しい場所だった。だから、母
は訪ねるのを楽しみにしていた。
時には母は長居して、父親の愛妾と遊郭の大きな風呂に一緒に入ったことがあった。その時、女が見たことも
ない美しい小さな下着を身につけて世話してくれたのを、母は鮮烈に記憶している。女が裸にならなかったのは素人娘への礼儀だったようだ。常々、母の趣味に
過激さを感じる。それはその原体験が影響しているかもしれない。それにしても、幼い女の子を遊郭へ行かせる祖母も破天荒だった。
写真は十歳の母。日傘を買ってもらったのが嬉しくて、一人で写真館へ行ってツケで撮ってもらった。母は久留米一円の食堂も芝居小屋もツケが効いた。代金は後で祖母が払っていたようだ。
六月十二日。
腰痛で緊急入院した板橋の病院の皮膚科に、母は腹部の小さな湿疹の治療のために一年前からかかっていた。今朝早く、母は晃子姉に連れられて皮膚科へ行き、お昼過ぎに帰って来た。
「皮膚科の先生に、進行したボーエンガンと言われた」
姉は医師のメモ書きを渡した。思ってもいない病名を目にして私は呆然とした。
「今の治療を続ければ、時間はかかりますが必ず治ります」
こ
れまで医師は、付き添いの姉に楽観的に話していた。母を姉に任せ切っていたことを深く後悔した。もし、私が同行していたら、詳しく質問して早く手を打って
いたはずだ。最近、母はとても元気で、風邪も引かず、公園でのリハビリ歩行の長さも延びていた。まだしばらくは元気でいてくれると喜んでいた矢先で、目の
前が真っ暗になった。
六月十三日
細胞診の結果を聞きに母を連れて病院へ行った。若い担当医はこともなげに、ボーエンガンは真皮まで進行していて転移の可能性があると告げた。そして、手術より放射線治療にリンパ節廓清が最適と付け加えた。
母は一年前に腹部に小さな異常を感じてから直ぐに診察を受けた。そして、医師の指示通り抗がん剤軟膏の塗布をまじめに続けていた。不信感がこみ上げ、厳しく医師に詰めよった。
「母は一年前から診察を受けています。それをなぜ進行するまで放置していたのですか。最悪を想定して対処するのが治療の基本でしょう」
「始めはただのボーエンでしたが、それが突然ガン化して進行することはよくありまして」
若い医師は上司の顔色を見ながらオロオロと答えた。
「急速に進行する可能性があるものをなぜ放置していたかと聞いています。なぜ九十歳近い老人に漫然と軟膏塗布を任せていたのですか」
更
に詰め寄っていると、母は厳しい詰問と飛び交う病名に困惑し切っていた。人生の終わりを無茶苦茶にされかけている母が可愛そうになった。今は争うより母の
治療が先だ。私は冷静になるように努めた。内心、ボーエンガンに関連してあるかもしれない内蔵ガンが心配だった。冷静になって聞くと、上司は待っていたよ
うに言った。
「肝臓ガンの可能性があります。これからすぐにCTスキャンを受けて下さい」
どうやら腫瘍マーカーが高値を示していたようだ。医師の言葉に不安がこみ上げた。
慌ただしくCTスキャンを受けて帰路に着いた。帰りのタクシーの中で、先々の事を考えた。ボーエンガンの治療にともない鼠径リンパ節を廓清すれば、高齢の母は足がむくんで歩けなくなる。更に肝臓にガンが見つかれば、考えれば考えるほど滅入ってしまった。
「みんな、私のことを心配してくれてうれしい」
母は私を気遣うよに、明るくふるまっていた。去年の暮れに観音様で引いたおみくじの三連続凶は、この暗示だったのかと、際限なく落ち込んで行った。
三時過ぎに帰宅した。
「今日は先生たちに親切にしてもらえて、本当に良かった」
母はテレビを見ながら、のんびりと話した。
「そうだね。本当に良かったね」
私は努めて明るくふるまった。先日、デジカメを買い替えて、公園で歩く母を撮り始めた。それが母の遺影になるのではと思えてならなかった。
六月十六日
私は一人で母のCTスキャンの結果を聞きに行った。
「肝臓に三十ミリの腫瘍が見つかりました」
皮膚科の若い医師は安堵したように説明した。肝臓ガンが原発ならボーエンガンは二次で、責任は軽くなったと思っているようだ。予期していたが、宣告されるといたたまれなくなった。
胃腸内科の医師を交えて今後の治療方針を聞いた。
「九十歳の年齢では手術は無理です。血管を閉塞させたり、腫瘍にアルコール注入して壊死させる方法がありますが、それには腫瘍が大き過ぎます」
医師は治療方法を説明した。そして、いずれの方法も当院の技術水準では対応出来ないので、ガン治療が優れている駒込病院への転院を薦めた。すでにこの病院に母を任せる気持ちは失せていた。駒込病院へ早急に転院できるように医師たちに頼んだ。
七月二日
昨夜、母は激しく下痢をして、腹が張ると訴えた。いよいよ肝臓ガンの症状が現れたのかと滅入った。
今朝は下痢は止まっ
たので、赤羽自然観察公園に連れて行った。明日は駒込病院での初診なので、リハビリは短く切り上げた。帰りぎわ、顔馴染みのおばあさんに会った。彼女は、
花イカダが実を付けているからと案内してくれた。実物を見るのは初めてで、葉の中央に付いている濃紫の実が可愛いかった。
「私が退院するまで、元気でいてね」
母は花イカダをそっとなでていた。
七月三日
早朝、タクシーで母を駒込病院へ連れて行った。病院内で迷っていると、すぐにボランティアの案内係がやってきて案内してくれた。システムは合理的だったが、通路を兼ねた待合室は狭く車椅子を押すのに苦労した。
肝臓ガン手術は難題が多く、とりあえずボーエンガンの手術を先にすることになっていた。皮膚科では二時間ほど待たされ、やっと医長に会えた。医長 は紹介状とデーターに目を通して、若い医師を呼んで担当にした。私は考えが柔軟な若い医師が担当になって安堵した。それから五時間かけて次々と検査が行わ れた。帰宅すると母は疲労困憊して寝込んでしまった。
七月八日
明日の入院が決まったのでしばらく散歩を休むので、霧雨の中、赤羽自然観察公園へ母を連れて行った。公園の遊歩道に餌を撒くと、スズメが沢山集まって来た。ガン宣告を受けた母とは対照的に、自然は命にあふれていた。
「もう一度この自然を見たいね」
母はつぶやいた。母は八十歳を過ぎてから三度大きな手術をした。そのいずれにも不安はなかったが今回はまるで違う。心底、無事に退院できることを願った。
午後、入院用品を買いに出た。帰宅すると、母は肌着や寝間着を並べてバックに入れていた。大柄だった母の後ろ姿が小さく見えた。
「がんばれよ」
心の中で何度もはげました。
七月十五日
駒込病院に入院してから一週間が過ぎた。しかし、手術の予定は決まらなかった。
病院に行くと、「車椅子を歩行器代わりにして歩くのが許可された」
母はとうれしそうに話した。今まで母のリハビリに毎日通っていたので、これで休むことができると安堵した。病室には若い女性患者が新しく入っていて、母親が心配そうに付き添っていた。
帰りは母が車椅子を押しながらエレベーターまで見送りに来た。
「お母さんよりお見舞いの娘さんが老けていてお気の毒」
新しく入った患者の付き添いの母親を母は患者の娘だと言った。
「娘さんじゃないよ。どう見てもお母さんだ。」と言ったが母は娘だと言い張った。
昔から、母は思い込むとゆずらない頑固なところがあった。
昔、母が鱒寿司を買ってきた時のことだ。
「添えてある黒ゴマをかけると美味いよ」
母
は小さな袋を添えて食卓に出した。袋を見ると、「脱酸素剤につき食べるな」とある。注意書きを教えたが、それは黒ゴマでとても美味かったと言い張った。
すでに母は脱酸素剤を鱒寿司にかけて食べたようだ。しかも、それを美味いと言うのだから、相当に思い込みは強い。脱酸素剤を食べた母が心配だったので、数
日見守っていたが腹痛も下痢も起こさなかった。それから十年は過ぎたが、今も思い込みの強さは変わらない。
母はエレベーターのドアが閉まるまで、私を見送っていた。
「お見送りはお母さんですか」
エレベーターに一緒に乗った見舞客が聞いた。「そうです」と答えると、「やさしそうなお母さんですね」とほめた。頑固で気が強い母だが、他人からはやさしく見えるようだ。
七月二十一日
二十三日にボーエンガンの手術が決まった。その前々日の今日、駒込病院へ母の手術同意書のサインへ行った。若い執
刀医は、手術時に鼠径リンパ節を郭清をするかどうかの同意を求めた。明確なリンパ節転移はないが、顕微鏡レベルの転移の可能性は二十パーセントだ。しか
し、それだけの情報では即答できない。同意書へのサインは明日に延ばしてもらった。
九十歳の老人と壮年ではリンパ節廓清の意味は大きく違う。廓清した後の不具合と、取らずにガンを転移させた不具合を冷静に比較しなければならな い。はっきり転移が認められているなら、リンパ節郭清は必要だ。しかし、健康なリンパ節を予防的に取って、老いた母を苦しめたくない。母は腰痛を克服し、 今は元気に歩いている。もし、リンパ節廓清をすれば足がむくみ、歩行ができなくなる。加えて、むくみ防止のきつい靴下をつけ、毎日、リンパ液還流マッサー ジをしなければならない。
帰宅してすぐに関連サイトを検索した。その中に母と同じケースがあり、廓清してもしなくても予後は同じだと数値で示していた。私は母の命を八十パーセントのリンパ節転移なしに賭けた。しかし、その決断は大変な不安を残してしまった。
七月二十二日
母の手術承諾書へのサインに駒込病院へ行った。明日の手術でのリンパ節郭清は見送って欲しいと申し入れると、若い医師は転移を心配した。
「まだ、本命の肝臓ガン手術が残っています。今の段階での転移予防はあまり意味がないのではないでしようか」
言葉を選んで慎重に話すと、医師はすぐに納得してくれた。柔軟な考えの若い医師が担当で本当に良かった。医師は目の前で、手術計画書のリンパ節廓清の文字を赤ボールペンでしっかりと消した。
七月二十三日
午前中に母のガンの手術だった。縁起をかついで、今まで通り付き添いを晃子姉に頼んだ。不安の中、連絡を待ってい
ると、輸血なしで無事に済んだと姉から電話が入った。八十歳を過ぎてから大小十回目の手術だった。内蔵は傷つけてないので、明日から歩かせると医師は話し
ていた。
七月二十四日
駒込病院に行くと、母は集中治療室から一般病棟へもどっていた。点滴、排尿、脊髄への鎮痛剤の注入チューブとまさにスパゲッティ状態だったが、とても元気だった。
母は来るのが遅いと憎まれ口をたたいた。この様子なら回復は早い。歩きたいと言うので手を貸すと、チューブだらけのまま廊下を十メートルほど歩いた。まるでタコ足配線のソケットが動いているようで、みんなが振り返っていた。
看護師は驚異的な快復だと驚いていた。しかし、次の肝臓ガンは容易ではない。執刀医は肝臓上部の表面近くにガンがあるので開腹して取りたい意向だった。しか
し、度重なる手術後遺症で腹壁瘢痕ヘルニアを起こし、その治療のために広くメッシュが入っている。メッシュは組織と一体化し、それをわずかでも傷つけると
感染症を起こす。本当の苦労はこれからだと気持ちを引き締めた。
朗報もあった。肝臓内科の医師にC型肝炎ウイルスが消失していると告げられた。C型肝炎は過去の手術で感染させられ、肝臓ガンの原因になった。長い間、キャリアだから気を付けるようにと言われていたのに、狐につままれた思いがした。
七月二十八日
昨夜は遅くまで、川向こうの小学校で盆踊りをしていた。玄関を開くと校庭の飾り提灯の下から、都はるみの「好きに
なった人」のフレーズが延々と聞こえた。暗い中、仕事部屋の日よけの御簾を取り替えた。生活の手を抜くと、生きる力まで弱まってしまう。模様替えを済ませ
ると気分が軽くなった。
早朝の驟雨で涼しくなったが、すぐに暑くなった。ベランダ際にちゃぶ台を置いて、蝉の声を聞きながら冷や麦を食べた。これでいつもの夏気分が戻って来た。
八月二十二日
朝から猛暑で、京浜東北線の冷房が心地よかった。駒込駅で下車し、駒込病院へ一キロの道を歩いた。途中、広大な切
り通しを上ると、右の脇道に赤紙仁王堂がある。江戸時代の古いお堂が忽然と出現する様は劇的だった。お堂前の三メートルほどの阿吽の仁王石像は病快癒の願
いを込めた赤紙が全身に貼られ、巨大な赤い蓑虫のように見えた。私も仁王堂に、母の快癒を祈った。
近所の平井さんが引っ越しの挨拶来たと母に伝えた。平井さんは母の整形外科での患者仲間で母より年上の九十三歳。娘夫婦と暮らしていたが折り合い
が悪く、川崎の息子夫婦の所へ引き取られて行く。母はガンで入院中と答えると、彼女は気の毒そうな顔をした。しかし、すぐに笑顔に戻り、母にくれぐれもよ
ろしくと言って帰った。
老人は別離や生き死に対して驚くほど淡白だ。それは母も同じで、平井さんの引っ越しを聞いても、「あらそう」と平
気だった。二人の年齢では永遠の別れになるのに、我々の感傷は老人には通用しないようだ。しかし、動物たちに対する気持ちはまるで違っていた。今日、散歩
コースのネコやイヌの写真を持って行くと、母はうれしそうにいつまでも写真をなでていた。
九月六日
先日、母は90歳の誕生日を迎えた。駒込病院で肝臓内科の医師と外科医から治療方針を聞いた。内科医は体力の回復を優先していたが、外科医は速やかな手術を望んでいた。
「当院での肝臓ガン手術の高齢記録は八十三歳です。お母さまが受ければ一気に九十歳に記録が伸びます」
外科医から最高記録と聞くと、母の表情が明るくなった。
「先生、ズバッと切って下さい」
母は気楽に頼んでいた。しかし、外科医は母の積極的な反応に困惑していた。
「もし、少しでも不安がありましたら、たとえ手術台に上がってからでも嫌だと言ってかまいません。ご高齢ですので、絶対に無理は避けたいと思っています」
外科医はメッシュを傷付けないで手術する難しさを話したが、母はまったく意に介せず、手術を是非にと頼み込んでいた。その場で、体力をつけるための一時退院が決まった。
九月十一日
母は晃子姉に連れられて退院して来た。
「我が家はいいね」
母はうれしそうに自分の椅子に腰かけた。昼食を用意すると完食し、ベットに気持ち良さそうに横になった。
しかし、夕刻に小水が出ないと訴えた。車椅子で揺らせば出るかもしれない。日が陰り涼しくなったので外へ連れ出した。御諏訪神社下から旧雪印工場下まで三十分ほど、車椅子で体を揺らして帰宅すると、母はすぐに小用をもよおした。
九月十五日
久しぶりに赤羽自然観察公園に連れて行った。母の足取りは重くすぐに疲れて車椅子に戻った。駒込病院へ入院するまでは一日中椅子に座っている体力があったのに、今は殆どベットで過ごしている。今日も母は散歩から帰宅するとすぐにベットに横になった。
しばらくして様子を見に行くと、母は衣装ケースの整理をしていた。
「後はオレがやるから、休んでな」
私が代わって整理を始めると「ありがとう」と、母はソロソロとベットに戻った。若い頃は親は煩わしくて、早く親を亡くした友人が自由に思え、うらやましくさえあった。しかし今は違う。いつまでも元気でいて欲しいと心から願っていた。
十月二十八日
自宅での食事と公園でのリハビリが功を奏し、母の体力は手術に耐えられるまでに回復した。母は再入院のため、晃子
姉とタクシーで駒込病院に向かった。見送った後、介護保険で借りていた車椅子を返す手配をした。介護保険では、入院中の貸与はできない。必要な場合は自費
で借りることになる。
お昼前に姉からの病室番号の連絡を受けた。見舞いへ行くついでに池袋に出て画材を買った。
画材を下げて駒込病院へ回ると、二度目の入院の母は我が家のように病室でくつろいでいた。池袋のデパートで買った佃煮を渡すととても喜んだ。帰宅して夕食後、仕事を始めたが心身共に疲労していてはかどらず十二時前に寝た。
十月二十九日
目覚めたのは午前十時。連日、四時間睡眠が続いていたので、久しぶりにたっぷりと眠った。病院へ行くと肝臓の血管
造影とCTスキャンの結果が出ていた。六月に三十ミリだったガン腫瘍が三十八ミリに肥大していた。しかし、周りへの浸潤がないので、手術は計画通り行われ
る。次に肝臓へカテーテルを入れる検査が予定されていて、血管を傷付けないように母の体は器具で固定されていた。我慢強い母が、それがとても苦しいと訴え
ていた。
十一月六日
暖かいので母を病室から庭へ連れ出した。母は色づき始めた樹々を見上げながら、今回の手術は私が付き添ってくれるように頼んだ。母は手術の厳しさを覚悟しているようだ。
食
事が不味いと文句を言いながら母は病院生活に馴染んでいた。深夜でも、トイレに立つと看護師が直ぐに飛んできて付き添ってくれる。同室の若い患者たちも、
高齢の母に親切にしてくれていた。昔、私はアキレス腱断裂で入院したことがあるが、三食昼寝付きの生活に馴染んでしまい、退院がいやになった。母の気分は
それに似ているようだ。
自宅ベランダの植木鉢のヒイラギが枯れ始めた。母の手術を控えて、不吉な気がした。万一を考え、台所の大掃除をした。水屋を開けると使わない食器が山のように出てきたので処分した。結局、不要品はごみ袋六個になった。
十一月二十八日
本命の肝臓ガンの手術日だった。早朝五時に起きて手術の立ち会いに行った。手術前の母は処置室のベットに寝ていた。
「おや、寝過ごさないで来てくれたの」
母は満面の笑みを浮かべた。その笑顔を最後になるかもしれないと思いながら何枚も撮った。
執刀医は手術方法は開腹してから決めると言っていた。手術が失敗して母が逝けば、たった一人の家族を失うことになる。昔、父や祖母が死んだ時とは、まるで違う重圧を感じた。
母
の肝臓は右肺を深く押し上げるように肋骨の中に食い込んでいた。しかもガンは肝臓上方にあるので、大きく切らないと患部を目視できない。さらに過去の手術
による癒着も多く、それらを剥がしながら遠い肝臓を引きずり出してガン腫瘍を切除する。切除が無理なら手探りでラジオ波で焼き切る。どちらかの方法も九十
歳の母には過酷だった。
手術の控え室は早朝にもかかわらず十組ほどの家族が不安げに待っていた。難しい手術を受ける私たちともう一組の家族にPHSが渡され、問題があった時に手術室から電話がかかることになっていた。
二時間ほど過ぎたころ、もう一組の家族に電話がかかり手術変更の承諾を求められていた。家族は二、三分ほど小声で相談して了承した。もれ聞こえる言葉からとても厳しいガン手術のようだった。
三時間後、執刀医が手術着のまま駆け足でやって来て成功を告げた。
「なんとか肝臓を目視出来るところまで引き出して、ラジオ波で完全にガンを焼き殺すことができました。」
医師の声は明るくはずんでいた。母の肝機能は正常なのでメスによる切除がベストだったが、手探りでは止血ができず、無理だったと付け加えた。
「これで、しばらくは再発しません」
医師は心底うれしそうだった。九十歳の年齢を考えると、再発の前に寿命が尽きるはずだ。私は胸をなで下ろし、医師に深く感謝した。手術室から運ばれて来た母は麻酔から覚めていて、顔色も良かった。
「大成功だったよ」
告げると、酸素マスクでしゃべれない母は手を伸ばし、私と晃子姉の手を驚くほどに強くにぎりしめた。
十二月三日
午後遅く駒込病院へ行った。母の手術は成功したが体力の回復ははかばかしくなかった。通常の肝臓ガン手術では腹部中央をカギの字に切る。しかし、
母の場合はメッシュを傷付けないように脇腹から切開した。不自然な位置を切ったので、かなり痛む。その上、吐き気が止まらず、お粥を一口飲み込むのも苦し
そうだった。こっそり持って来た漢方胃腸薬を飲ませると、吐き気はすぐに治まり食欲は回復した。
母が若ければ病院の規則は守る。しかし、高齢の母の体力回復に食事は必須だ。高度医療でガン手術が成功したのに、食事の不味さで体力を損なうことに大きな矛盾を感じていた。
母は術後すぐに歩くように言われた。歩かないと筋肉がやせて寝たっきりになってしまう。廊下を十メートルほど歩かせ、その後、車椅子で庭へ連れ出した。、母は外の空気は酸素が濃くて気持ちがいいと深呼吸していた。母の表情に生還できた喜びがあふれていた。
夕暮れ、帰路についた。エレベーターで中年女性患者と内科医の二人連れと乗り合わせた。
「明日が手術です。もし生きていたらまた診て下さいね」
患者は医師に話していた。言葉のはしばしに切なさがこもっていて、聞いていて辛くなった。
途
中で降りた二人と入れ替わりに、若い女性と女の子の二人連れが乗って来た。八歳ほどの女の子は涙を浮かべ必死に嗚咽をこらえていた。玄関を出ると女の子は
こらえきれなくなって泣きじゃくり始めた。二人の会話から、女の子が見舞った相手は母親で、若い女性は母親の妹だと分かった。母親の病状は深刻な様子だっ
た。若い叔母さんは姪に小学校のことなど聞いて気を紛らそうとしていたが、慰めにはならなかった。子供を帰す母親も、母親のいない家に帰る子供も、共に辛
いことだろう。
十二月八日
術後、母の肺に影が出て肺炎を心配していたが、ようやく影が消えた。酸素吸入は外され、腹から出ていた二本のチューブも抜かれた。見舞いに行くたび母の顔色は良くなった。
今日はシャワーを浴びてすっきりしていた。担当医からはいつ退院しても良いとに言われた。退院に備え、母を庭に連れ出して冬の外気に慣れさせた。
病院ドラマで、庭で看護師に車椅子を押してもらったり、肩を借りて歩く松葉杖の患者さんが登場する。しかし、今までそのような光景は見たことがない。この近代的な駒込病院でさえ庭はバリアフリーではなく、段差だらけで病人も車椅子も危険だ。
夏のころ病院の庭で、若い看護師が押していた車椅子が段差を乗り越えられず困りはてていた。私は彼女に代わって病棟入り口まで押して行った。彼女はドラマで見た病院風景をイメージして、患者を連れ出したのだろう。もし、看護師長に知られたら大目玉を食らうところだ。
十二月十一日
寒い雨の中を母は晃子姉とタクシーで退院して来た。母は疲れ果て、部屋へ入るとすぐにベットで休んだ。
暖房は昨夜から効かせておいたが、布団が冷たいと母は訴えた。大急ぎでお湯を沸かして湯たんぽを足元に押し込んだ。それからお昼の食材を買い出しに出た。一人だと食べものは簡単だが、食欲の落ちた母は簡単ではない。
帰
宅すると薬が足りない。病院で渡し忘れたようだ。再び外出して家庭医の黒木さんに処方してもらった。お昼はナメコ入りキツネうどん、甘エビの刺身、ほうれ
ん草のひたし、それにヨーグルトをつけた。病院食に閉口していた母はすべてを完食した。人は口から食べていれば必ず元気になる。
十二月十三日
快晴。暖かいので、久しぶりに赤羽自然観察公園まで母を連れて行った。途中、知人やイヌやネコと再会して母は喜んでいた。母は退院後すぐに食欲が回復し顔色が良くなった。術後、日に日にやつれていたのは栄養不足が原因だったようだ。
十二月十六日
昨夜、母は椅子から滑り落ちた。そのショックで気力がなくなったのか今朝は腹痛を訴えた。便通はあるので癒着による腸閉塞ではない。明日は肝臓外科の診察日なので、原因ははっきりするだろう。とりあえず鎮痛剤の座薬を使わせた。薬はすぐに効いて元気になった。
午後は木枯らしの中、赤羽自然観察公園へ連れて行った。
「もう一度、土筆が見たいね」
冬枯れの草原を眺めながら母は言った。今年の春、母は土筆を見つけて子供のように喜んでいた。春の訪れを待つ心が、さらに回復させてくれそうな気がした。
十二月十七日
駒込病院でCTスキャンを受けた後、外科医に会った。母の昨日の痛みは何も問題はなかった。医師の子息が絵が好きだ、と言った雑談をしただけで診察は終わった。
夕方帰宅した。
「もう病人ではないから、明日から普通の生活に戻すよ」
これからのリハビリの予定を話すと、母は神妙に聞いていた。次回は一月早々にCTスキャンの結果を聞きに行く。
「その結果が悪くても、追加手術も抗がん剤治療も何もしない」
母は自分からきっぱりと宣言した。
十二月十九日
朝、母は鮮血を下血した。直腸にガンが転移したのかと不安がよぎった。朝食後すぐに黒木医院へ連れて行った。診察してもらうと、母が自分で浣腸し
たした時、先端で直腸粘膜を傷つけたのが原因だった。医師は手早く処置し、念のために触診してくれた。直腸ガンの好発域は指の届く範囲にある。医師は慎重
に調べて何もないと言った。
帰宅すると母の腸は目覚めて粗相した。急いで熱いおしぼりで体を拭き、汚れものは塩素水で洗った。そう書くと大変だが、一度経験するとすぐに慣れる。年寄りの介護の大半は食べさせるのと排泄だ。今のところ母の粗相は頻繁ではないので負担ではない。
十二月二十二日
夕暮れ、友人が食事に誘ってくれた。母に夕食を食べさせてから、家を出た。池袋で友人と会い、イタリー料理を食べた。別れ際、母の見舞いにラ・フランスをもらった。心遣いが身に染みた。
十一時に帰宅すると、消したはずの母の部屋の明かりが点いていた。何かあったのではと急いで行くと、眠っていた母がすぐに目覚めた。
「正喜が帰った時、暗いと危ないから点けておいた」
母は寝ぼけ声で言った。
「オレのことは考えなくて良いから、ゆっくり寝てな」
布団をかけ直すと「ありがとう」と、母は寝入った。母は老いても、死ぬまで母親であり続けるようだ。
二千四年一月九日
ガン手術がうまく行き、新年をさわやかに迎えることができた。
CTスキャンの結果を駒込病院へ聞きに行った。相変わらず大混雑で満員電車のように患者が待っていた。外科医は画像のガンが壊死した箇所を示しながら、もう何も心配ないと話した。
外科の診察の後、採血室へ行った。
「ご一緒は息子さんですか」
採血の看護師が母に聞いた。
「分かりますか」
母が答えると「似ていますから」と看護師は言った。
「本当は拾ってきた子なんですけどね」
母は機嫌良く軽口をたたいた。
帰りは京浜東北線田端駅へ向かった。母はこのコースは始めてだ。田端駅前商店街のペットショップでチンチラネズミを見せると、頭が大きいくて可愛 いと喜んでいた。それから、私が病気快癒を願っていた赤紙仁王堂に寄った。母は巨大な蓑虫みたいに赤い紙で覆われた仁王像を見てびっくりしていた。母は仁 王様に手を合わせて深く感謝していた。
二月二十七日
散歩の行きがけ、御諏訪神社の階段から黒っぽい太った中型犬が私たちを見下ろしていた。一瞬、そう思ったのは見誤りで、よく見るとコロコロ太った タヌキだった。タヌキは目を丸くして私を見ていた。黒い長毛の地に明るいベージュのフサフサした下毛が密生している。母に見せようと急いで車椅子の方向を 変えたが、タヌキは逃げてしまった。タヌキが出没しているのは噂で聞いていた。急いで階段を登ると、境内の自然林へ向かって転がるように逃げて行くタヌキ が見えた。道々、母にタヌキのことを話したが、それは太ったネコか野良犬だと信じなかった。
赤羽自然観察公園の帰りに駅前のスーパーに寄った。魚コーナーで、母が欲しがっていたイイダコを探したが、なかった。帰りは緑道公園を抜けた。天気が良くて暖かく、母も私ものんびり散歩を楽しんだ。
「せせらぎの水音が聞こえる」
途中、母は耳を澄ましていた。しかし、その辺りにせせらぎはない。音がする茂みを見ると老人が立ち小便をしていた。
「まるで深い山の中みたいで、清々しい」
母は水音に聞き入りながら、気持ち良さそうに深呼吸した。どうやら、母は行きがけのタヌキにだまされたようだ。母がしきりに感動しているので、立ち小便のことは黙っておいた。
三月五日
駒込病院へ前回の血液検査の結果を聞きに母を連れて行った。待合室は風邪ウイルスが充満しているので、人のいない離れた通路に車椅子を止め、風邪
予防の緑茶を母にせっせと飲ませた。肝臓内科の外来患者は少なく、すぐに母の番が来た。結果はC型肝炎ウイルスはマイナス。アルブミン値、肝機能、いずれ
も正常。腫瘍マーカーも正常範囲だった。
「完全な健康体で百歳まで生きられます」
内科医が上機嫌で話すのを母は半信半疑で聞いていた。
帰り道の風は冷たかったが、母も私も晴れ晴れとしていた。ガンの再発は考えず、母が今の一瞬一瞬を享受できたらそれで良いと思った