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第二章 肝臓ガン手術は成功し穏やかな日々

2004年2月21日 母90歳

 今日はお昼に25度近くになった。小学生の頃、2月半ばに郷里の日南の海で泳いだことがある。波打ち際でズボンをまくって遊んでいるうちに、波をかぶり、濡れたついでに泳いでしまった。気温は低かったが日射しが強く、寒さに震えた記憶はない。その後、衣服を乾かすのに苦労し、肌が塩分でべたついて気持ちが悪かった。

 今日、母はデイサービスで留守だ。今年始めから週一回のデイサービスを受け始めた。足腰を痛めた母は浴槽が使えず、いつもシャワーで済ませていた。だから、入浴サービスは助かる。
1階の郵便受けを覗きに下りた。Yシャツ1枚でも寒くない。郵便物はなかったので、新河岸川の遊歩道行って、東京湾へ下って行く曳き船をぼんやり眺めていた。
母が回復基調なのは嬉しい。その反面、抗ガン作用や免疫力強化の効果があるサプリメントへの出費が多く生活のやりくりは大変だ。

午後は、志村二丁目の日曜大工店ドイトにテレピン油を買いに行った。ついで荒川土手の板橋運動公園へ回りたかったが、母の帰宅時間が近づいたので止めた。
板橋運動公園に行きたかったのは、高さ5mの私の彫刻が設置してあるからだ。野外彫刻は設置後のメンテナンスが重要で、時折、点検して異常があれば管理者に伝えることにしている。

2月22日

 赤羽自然観察公園で土筆を見つけた。地面から少し頭を出していただけだが、母はとても喜んでいた。ガン手術後、母は土筆を見ることはないと思っていたので、とても嬉しかったようだ。人の予想は良くも悪くも外れるものだ。

 母の体調は日替わりで上下して安定しない。昨日はよかったが、今日は帰宅すると疲労して寝てばかりだった。
夜九時、憂鬱さを晴らそうと玄関を開けて外を見た。夜空を灰色の雲が猛スピードで北東方向へ流れていた。雲間に 星空が見えるのに、時折、大きな雨粒が十三階の通路に打ち付けた。風は強いが寒くはない。季節は私の気分に無関係にぐんぐん春へ向かっているようだ。

二月二十六日

 母が倒れて以来、激動の毎日だったが、深刻に考えないように努めて来た。だがいつも頭上に暗雲がたちこめていた。それが最近、少しだけ晴れて来た。気持ちが強くなったのかかもしれない。強くなれたのは夢を絶やさなかったからと思っている。ネバーエンディングストーリーでは「夢見る心」を失うと暗黒の世界がやってくる。それは童話の世界だけではなく、現実の生活にもあてはまる。

 散歩道の桜の蕾が赤味を増してきた。去年の日記を開くと、三月十二日にテントウムシを見たとある。今年は二月初めから目撃しているので、桜は早いかもしれない。
日記は後で読むと役立つ。二年前の今頃は、絵描き仲間と横浜中華街へ行っている。生活の不安はなく、母も元気だった。しかし、今より幸せだったかどうかは確信がない。同じことでも、その見方で幸福にも不幸にも変化する。

三月五日

 駒込病院へ母を連れて行った。区から支給されたタクシー券が片道分残っていたので行きはタクシーを使った。運転手は話し好きで、景気から小泉政権の政策に及んだ。タクシー業は厳しいと話していたが、絵描きと比べると、努力の成果が得られるだけ恵まれている。

相変わらず駒込病院の待合室は満員電車のように混んでいた。風邪のウイルスが充満しているので、人の居ない通路に車椅子を止め、持参した風邪予防のお茶 をせっせと母に飲ませた。今日は肝臓内科の医師に血液検査の結果を聞くだけだ。外来患者は少なく、すぐに母の番が来た。

結果はC型肝炎ウイルスはマイナス。アルブミン値、肝機能、いずれも正常。腫瘍マーカーも正常値。医師は「完全な健康体で百歳まで生きられます」と上機嫌だった。
しかし、いつも疲労感があり、食欲も優れない母は半信半疑だった。

 帰りに再度採血した。看護婦が母の腕に「絆創膏の跡がありますね」と言った。「去年の採血の跡かな」と私が言うと、「落ちにくくて評判悪いんですよ」と九州訛りで頷いた。冗談のつもりだったが、本当に二、三ヶ月絆創膏の粘着跡が残ることがあるらしい。彼女の訛りに母が気づき出身地を聞くと、両親が九州出身だと嬉しそうに答えた。彼女も母の九州訛りに気づいていたようだ。

  帰りはJR田端駅へ向かった。途中、赤紙不動に病気快癒のお礼に詣った。風は冷たいが、明るい日射しの下、晴れ晴れとした気分になった。普通の人には普通の健康が、母には一年以上縁がなかった。この先にガン再発があったとしても、今の一瞬を享受出来ればそれで良いと思った。

三月十四日

 いつも緑道公園で出会う八十歳程のお婆さんがいた。
「お元気ですか」
母が声をかけるとニコっと笑っていた。無口な人で、声は一度も聞いたことがない。しかし、穏やかな表情から温かい家族に包まれている様子がよく分かった。
その彼女が去年の暮れから見かけなくなった。何かあったのかと案じていたら、先月、お嫁さんに連れられているのに出会った。転んで腕を骨折し、退院してからはデイサービスに通っているようだ。穏やかだった表情が暗くなっているのが気になった。

デイサービスは素晴らしい制度だが、それだけでは老人は回復しない。お婆さんは自然の中を歩くことで人間らしさを取り戻すはずだ。人は何百万年も自然の中を歩き回って生活してきた。木々や草原を目にし、季節の風を肌に感じることで体のシステムは整えられて来た。空調の整った部屋にいても体のシステムは正常に働かない。
赤羽自然観察公園で、暗い表情だった老人が明るく変化するのを何度も見ている。自然は役に立つから大切なのではなく、自然と人間は一体だから大切なのだ。

三月十五日

 去年の手術前、母は今年の桜を見ることはないと覚悟していた。しかし今日、母は開花した桜を見つけて感動していた。これからも毎年、母は桜を目にする都度、生き延びられたことに感謝するのだろう。

 深夜、母の薬をピルボックスに分けた。
「さっき、肩をつついたけど、どうしたの」
隣室で寝ていた母が目覚めて声をかけた。
「気のせいだよ」と言うと、母は再び寝入った。ふと、死んだ父か祖母が訪ねてきたのではと思った。老いた母と暮らしていると、死んだ人をとても身近に感じる。

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                   赤羽自然観察公園の桜。

三月十八日

 午前中に強い雨が降ると予報していたが、雲の間に青空が見えて降りそうにない。奥秩父から浅間まで、関東の山々がくっきりと見えた。
散歩道の桜は一晩で満開になっていた。病んだ古木を伐採して、その跡に植えた幼木も開花していた。母は「幼くて可愛いね」と喜んでいた。古木の花はピンクがかっているが、幼木の花は白く清楚だ。

赤羽自然観察公園は春らしくなっていた。時折、小さな雨が落ちたが寒くはなく母は気持ちよいと喜んでいた。ヒキガエルの卵は孵って湧水の流れにオタマジャクシが泳いでいた。遊びに来ていた幼稚園児たちに教えてあげると、歓声をあげて覗きこんでいた。

三月二十四日

 朝から夜まで、いかりや長介氏の葬儀を放映していた。
八時だよ全員集合は夢中で見ていたが。
インタビューされる芸人さんたちは大変そうだった。カメラが向けば習性で笑いを取りたくなるし、泣き崩れていたら調子がいいと思われる。その中で立川談志のコメントは良かった。
「いいところで死んじゃったよ。俺もああいうふうに死にたいね」
斜に構えて話せるのは彼もガンを患っているからだろう。
どんな有名人でも騒がれるのは死んだ当座で、一ヶ月も経てば忘れ去られてしまう。

 我が家の葬儀はどれも身内だけの密葬だった。大げさな葬儀は厭である。後ろで名刺交換などしている参列者を見ると不愉快になる。
私は葬式を幾度か仕切った。
葬儀は、葬儀屋の提示額を値切ることから始める。担当の社員にチップを弾んでおくと、値切っても立派な葬儀に仕立ててくれた。葬儀で一番金のかかるのは僧侶への支払だ。担当者に安いけど立派なお坊さんをと頼むと、本物の宗教家を見つけてくれた。金取り主義の大寺院の高僧と違い、本物の宗教家は一般人からの転向が多く、心のこもった供養をしてくれた。 

いかりや氏の葬儀は相当に高額な僧侶だっただろう。中継画面は、悲しみや悼みとは別の寂しい風景だった。

 四月八日 

 強風に満開のソメイヨシノが散り始めた。
桜吹雪を浴びながら、母は九十年近く昔の花見を話し始めた。

 母の郷里久留米では筑後川土手の桜並木で花見をした。
毎年、母は養父母に連れられて花見に出かた。みんなが飲めや歌えの大騒ぎをしていると、祖母と親しいおさきさんが、囃し立てられて踊り始めた。おさきさんは色白の気量良しだ。座は盛り上がったが、おさきさんの一人息子の健ちゃんは座から離れ、俯いて泣いていた。

「健しゃんが泣いとるよ」
母は踊り続けているおさきさんに言った。
「泣いとってもよかよか」
おさきさんは息子を無視して踊り続けた。

 その数年前、おさきさんは、亭主熊太郎の博打の借金のカタに遊郭に売られた。熊太郎は名とは逆の、色白の大変な二枚目だった。それを知った母の養母千代は激怒し、すぐに金を工面して、おさきさんを身請けした。
しかし、遊び人の熊太郎は実母をおさきさんに押し付けたまま、他の女に入り浸って死ぬまで帰って来なかった。おさきさんが踊り続けたのは、その切なさがあったからだろう。

 昭和初期、大陸での戦争が日々悪化する中、おさきさんは姑の世話をしながら、健ちゃんを立派に育て上げた。そして、太平洋戦争開戦間もなく、家庭を持った健ちゃんに男の子が生まれた。しかし新妻は産後の日建ちが悪く、間もなく死んでしまった。

妻の葬儀の日に健ちゃんに招集令状が来た。母は紋付袴の葬儀姿で招集されて行く健ちゃんの寂し気な姿を鮮明に記憶している。老母に幼い子供を託して戦地に向かう心境はいかばかりだっただろうか。

その半年後、南方へ向かう健ちゃんの乗る輸送船はバシー海峡で米潜水艦に撃沈され、あっけなく戦死してしまった。

おさきさんは六十を過ぎてから、戦中戦後の厳しい時代に孫を成人するまで育て上げ、やがて、ひ孫が生まれた。彼女の老後は家族に恵まれ、百歳近くまで長生きし、みんなに看取られて死んだ。

「こんなに苦労すると分かっていたら、身請けされない方が良かった」
後年、おさきさんは祖母に話していた。勿論、本心ではなく冗談だったが・・・

快活で大柄だった母は、当時、町内のガキ大将だった。
健ちゃんは母より年上だったが子分の一人だった。母は男の子たちに墓石に小便かけさせたり、筑後川で泳いだりしながら、楽しい子供時代を過ごした。

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                     当時、10歳の母。

 私が祖母と呼ぶ養母千代は、義侠心には厚かったが女の仕事はまったくできなかった。母に料理を教えたのは、千代の父親の甚兵衛で、手芸を教えたのは夫の健太郎だった。
料理や手芸が好きでも、二人は屈強な男たちだった。

甚兵衛は西南の役で西郷軍に従い、城山に立てこもったほど血の気は多かった。赤ん坊だった母の世話をしたのはその甚兵衛だ。荒々しい戦乱や世相の荒波をくぐり抜けて来た甚兵衛に母はようやく得た大切な安らぎだったのだろう。

 甚兵衛は、母が小遣いをねだると財布のまま渡した。
「ほら、一銭とっといたよ」
母は一銭銅貨と大きさが似た五十銭銀貨を選んで見せた。甚兵衛は「そうか、そうか」と、いつも楽しそうに笑っていた。
信頼されると、かえって罪の意識が生じる。余った小遣いで酒好きの甚兵衛へ酒を買って帰り、罪滅ぼしをしていた、と母はよく話していた。

母はやがて嘘がつけなくなり、財布から取り出した額を正直に話すようになった。今思うと甚兵衛は高度な道徳教育をしたようだ。甚兵衛が母を真っ正直に育てたのは、破天荒に育ってしまった娘千代への反省があったからだ。

 千代の母親は女の鏡と言われるほどきちんとした人だったが、千代が幼いころに早世した。千代は、子供の頃、軽い眼瞼下垂を患った。まぶたが落ちて来る神経の病気で、甚兵衛に病院に通うように言いつけられていた。しかし、千代は遊びに夢中で病院へは行かなかった。

「本当は目はぱっちりして大きかったけど、医者へ行かなかったから目が細くなった」
後年、祖母は残念がっていた。当時の治療費は暮れにまとめて支払った。年末、甚兵衛は千代に三十円渡して支払いを済ますように言った。当時 の三十円は一家が一ヶ月、裕福に生活できる額だった。千代は、その金で近所の駄菓子屋を買い占め、お菓子を長持ちに入れて家に運ばせた。そして、近所の子供を集めて配って顔を売った。祖母はそのころから顔を売るのが好きだったようだ。

 甚兵衛は大変強健で八十五歳まで歯は一本の欠損もなく、堅い肉を好んで食べていた。寝付いたのはわずかな期間で、十代の母が世話をして看取った。死んだ後、甚兵衛がいつも座っていた縁側を見ると、とても寂しかったと、後年、母はよく話していた。

 養父健太郎は大の手仕事好きで、小さな芝居小屋で小道具を作ったり、書き割りを描いたりしていた。しかし、道具方の薄給ではあちこちに女は囲えない。本業は他にあったようだ。健太郎の交友関係に九州一円の名だたる侠客が多くいた。母は話さなかったが、その関係が本業だったようだ。成人して、母は京都、東京にしばしば遊びに出かけた。その時、どこへ行っても土地のやくざが挨拶したと話していたので、ただ者ではなかったようだ。

母は退屈すると健太郎がいる芝居小屋へ遊びに行った。母が訪ねると健太郎は喜び、武骨な手で姉さま人形や花かごを作ってくれた。母が無類の手芸好きになったのは健太郎の影響だと思っている。

 健太郎は酒好きで、医師に「死ぬから飲むな。」と言われても飲み続け、四十歳で死んだ。その朝、「腹の辺りが重苦しい」と健太郎は寝ていた。家事が一切ダメだった養母千代は介護など到底できないので養父も母が看病した。往診した医師が今日辺り危ないと言って帰った午後、「何だか、すーっと楽になった」
健太郎はそう言って、かたわらの引き出しの取手をカタカタさせ始めた。その時、千代はのんびりお風呂に入っていた。母は健太郎が危ないから早くお風呂から出るよ うにせかした。
「死ぬのをちょっと待ってもらっといて」
千代は無茶なことを言った。健太郎の部屋が突然静かになったので、母が急いで行くと亡くなっていた。食道の血管が破裂しての出血死で、まさしく酔生夢死だった。

 千代は遊び人の夫には冷淡だったが、他人にはきわめて優しかった。物乞いが来ると家に上げ、ご飯を食べさせ、財布ごと渡して送り出した。更に、親しくない人でも、頼まれると借金でも保証人でも心良く引き受け、後年までその後始末で母は大変な苦労をさせられた。 

四月十三日

 赤羽自然観察公園の帰り、母のディサービスの費用を振り込みに信用金庫へ寄った。週一度だけなので月に1万円前後だ。信用金庫は都営桐ヶ丘団地の商店街の一角にある。振り込みを済ませた後、久しぶりに商店街から生協方面へ抜けた。

都営桐ヶ丘団地は殆どが老人世帯になった。数年ぶりに通る商店街の広場に人影はなく、廃墟のように寂れていた。私が赤羽に引っ越してきた昭和四十年後半頃は、その広場には子ども達の歓声で溢れていた。
古い色褪せた商品が雑然と並べられた薄暗い 寝具店。客待ち顔にぼんやりと外を見ている雑貨屋の老店主。商店街上の居住区域のベランダはペンキが剥げ赤錆びていた。この寂しい風景は、これから日本が辿り着く近未来を暗示しているように思えた。

  10年ほど前、その広場の片隅に老夫婦が屋台を出して、お好み焼きを子ども相手に売っていた。老人は剃り上げた頭に捻りはちまきでお好み焼きを焼いていた。傍らで老妻がかいがいしく手伝っていた。商売になっているように見えなかったが、人に頼らずに生きて行こうとする老夫婦の気概に惹かれた。

四月三十日

 母の体調は良い。次の駒込病院での検査は骨盤のCTスキャンとゴールドマン視野検査。前者の骨盤のCTスキャンはガンの転移のあるなしの検査だが、たとえガン転移が見つかったとしても、九十歳の年齢を思うと抗癌剤治療も放射線治療も何もしないことにしている。

後者のゴールドマン視野検査は緑内障の検査だ。以前から母は眼圧が高く、視野狭窄が起きている。気休めに毎日ブルーベリーを食べさせているが、楽しそうな母を見ていると、さほど心配はいらないかもしれない。母は眼圧の高いタイプの緑内障で、眼圧を正常に保てば進行は止められる。対して日本人に多い正常圧緑内障は厄介だ。眼圧は下げすぎると網膜の抑えが弱くなり網膜剥離を起こしやすくなる。

 母は混み合う駒込病院の眼科を嫌っている。最近やっと開院した近所の東京北社会保険病院に六月から眼科が開設される。手始めに眼科を受け、更に他の科もそちらへ変えようかと思っている。口には出さないが、母は自分の死に場所は東京北社会保険病院だと思っている。開院前の見学日に訪れると、病室は広々とした4人部屋のバストイレ付きで、母は気に入っていた。病院は社会保険庁の無駄遣いの遺産で、中規模公的総合病院では日本最高の施設だ。我が家から歩いてすぐの距離も助かる。

 母の死期を考えることに違和感はない。母が逝けば次は私の番である。今、私は毎日車椅子を十㎞以上押す体力があるが、何時までも保てる訳はない。体の中では老化が確実に進行しているはずだ。

五月二日  

  散歩時、紫外線よけの透明ポリカーボネート製の防護眼鏡を愛用している。紫外線は白内障の主因だ。父は七十過ぎに白内障の手術をした。体質の遺伝を考える と紫外線対策はやっておきたい。実際、防護眼鏡をかけると透明なのに強い日射しが眩しくない。色つきのサングラスは瞳孔が開き、レンズ脇から入ってくる紫外線の弊害を受けるので使用しない。

白内障を心配するようになったのも老いの第一歩だ。二年前に突然始まった左肩の激痛はまだ完治していない。駅の階段を駆け下りると、膝に違和感を感じる。寝付きも悪く、明け方に目覚めて小用に行ったりする。散歩の時、つえをつきそろそろと歩いている老人を見ると、10年後の自分が重なってしまう。

五月八日

 新緑が美しくなった。赤羽自然観察公園では、ニガイチゴが甘く香り高く熟し始めた。イチゴを摘んで手渡すと、「命が延びる気がする。」と、母はうれしそうに味わっていた。
いつものように、顔見知りのスズメたちが私たちを待っていて餌をねだった。石垣では蜥蜴たちがのんびりと日向ぼっこをしていた。

母はいつものように老人たちと挨拶を交わした。
朝日に照らされた古民家の茅葺き屋根が美しい。この穏やかな佇まいに日本の伝統美をしみじみと感じる。

 夕暮れ、玄関を開けると通路に羽蟻がいた。営巣場所を探している女王蟻だ。つまんで空中へ放ると、そのまま新河岸川の河岸まで飛んで行って見えなくなった。
私 はそのまま、夕暮れの風景を眺めた。広大な都会風景を目の前に、未来への不安が漠然とよぎった。これから先の生活を維持は、母のガン再発は、と次々と悪いことばかり想い浮かぶ。そんな私とは対照的に、広漠とした未来へ、恐れることなく飛び去った羽蟻の潔さがいつまでも心に残った。

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         赤羽自然観察公園の古民家入り口。母の左下に田圃がある。

五月十七日

 自然公園の茅葺き屋根は葺き終えてから一月以上、そのままで未完成だ。雨で濡れた屋根の重みで柱や土台が締まるのを 待っているらしい。そのように気長に作るので昔の建物は長持ちする。茅葺きは何度か雨に洗われて、色合いが落ち着いて来た。

 車椅子は乗り物の中で最高の乗り物だ。歩くスピードでエンジン音もなく、季節の大気や鳥の声を聞きながら移動できる。建物でも人が歩ける場所は殆ど行ける。
余談だが、最高の乗り物は戦車だ。どのような悪路でも砲台の水平を保つ為に、極めて乗り心地は良いらしい。

帰り道、桐ヶ丘区立体育館のツバメの巣が落とされていた。蕭然と飛び回るツバメ夫婦が哀れだった。糞の苦情を受けて職員が落としたようだ。去年は巣立ちまで楽しませてもらったので今年もと期待していた。いつまでも心が痛んだ。

五月十九日

 自然公園入り口の広場中央に東屋がある。東屋にはいつも朝早くから老人達が集まって談笑している。中にはカップ酒を飲んいる者もいる。酔生夢死と言うが、まさしくそれだ。自然公園を眺めながら終日酔って、青空を眺めながら死ねたら最高の人生だろう。

古いブラウン管テレビの調子が悪い。4チャンネルは、いつも同じ将棋解説の画面が映っている。棋士と女性アナウンサーの会話も同じ内容だ。他の放送が混線しているのだろうと思ったが、考えてみるとおかしい。昼夜関係なく、いつも同じ将棋解説の同じシーンだ。番組表を調べても将棋番組はどこにもない。どう考えても分からないミステリーだ。

生活は行き詰まっていたがなんとか切り抜けた。しかし、じきに次の危機がやって来る。困ったことに危機に慣れている。いつも、どうにかなると楽天的で緊迫感がまるでない。

五月三十一日

 散歩帰りの桜広場のベンチに老人が腰掛けていた。パナマ帽に糊のきいたワイシャツ。小綺麗にしているところが何となく父に似ている。日頃、父のことを思い出すことはまったくないが、明日六月一日は父の命日なので思いだしたのだろう。

母の食欲は回復し元気だ。しかし、この状態を維持することは難しく、やがて変化は訪れる。変わることを恐れなければ人生は素晴らしい。

 深夜一時、風の音が聞こえた。明日は朝から晴天の予報だ。外へ出ると星空だった。
三十年前、父が死んだ日も朝から晴天で風が強かった。
「お父様は今夜あたりが危ないです。もし、お亡くなりになったら、明日朝にお知らせください。」
往診に来た老いた女性医師はそう言って、脈の取り方を教えて帰った。
私はすぐに姉たちを呼び、みんなで父を見守った。夜十時、父は肺に溜まっていた生臭い血を大量に吐くと表情が穏やかになって脈が触れなくなった。

「さあ、みんなで合掌しましょう」
母は神妙な顔で言った。
すると、死んだはずの父が「ワァー」と声を出して両手を振り回した。
父はまだ生きていたようだ。
「かあちゃんは、そそかっしいんだから」
姉たちが言うと、母も私も不謹慎にも大笑いしてしまった。しかし、父はそれを最後に本当に死んだ。
「勝手なことを言うなって、文句言いにあの世から戻って来たんでしょう」
母はそう言って照れていた。

父はすぐに白菊会に献体することになっている。遺影が必要なので、私は枕元で父のデスマスクをスケッチしながら通夜をした。翌朝、医師に電話で知らせると、すぐに来て死亡診断書を書いてくれた。享年七十九歳だった。

 死の半年前、父は最後の仕事で共同経営者の保証人になり、闇金に追い込まれたショックで倒れた。闇金の取り立てはすさまじく、倒れた父の代わりに私は矢面に立たされた。何度も呼び出されて死ぬほど怖い目にあったが、支払いは拒否し続けた。

その内、その筋の二人連れが我が家まで押し掛けた。
険悪な状況で対応していると、母が出て来た。
母は戦前、日本各地の名だたる侠客と親交があった。だから、ヤクザの使い走りなど何とも思っていなかった。
「手を出したらどうなるか分かっていますね。指一本、私たちに触れても黙ってはいませんよ」
母がピシリと言うと、二人は勢いに押されるように黙って帰って行った。

 翌日、母は公安警察に相談に行った。事情を話すと担当官は深く同情し、目の前で闇金業者に電話を入れ、以後、取り立ては収まった。当時は警察が庶民の訴えを真面目に聞いてくれる良い時代だった。彼らが簡単に引き下がった真相は、その頃始まったバブルの地上げの方が楽に稼げたから、と思っている。

  戦後の高度成長期、一級土木建築士の資格を持つ父は大手ゼネコンに勤め、そのまま真面目に働けば生活に窮することはなかった。しかし、山っ気が多い父は金が貯まると退職し、会社を興して失敗した。その後も、数限りなく会社を作っては借金を重ねた。それらの後始末をしたのは母と私だった。

 父が闇金に取り立てられる原因になった最後の仕事は経営コンサルタントだ。仕事場は新橋駅前の安喫茶店だ。喫茶店と分かったのは、父が仕事仲間と電話で話している内容が聞こえたからだ。私の家族はみな声が大きく秘密を保つのが下手だった。

集まる仲間は、父のような役人崩れやサラリーマン落伍者たちだった。父が新橋に出かけると、煙草臭い喫茶店に鳩首して怪しい計画をめぐらす老人たちが想い浮かんだ。

 経営コンサルタントの立ち上げの時、ファイルするために数千枚の名刺に穴を明けてくれと父に頼まれた。また下らない計画を立ててと腹立たしかった私は、文字を傷つけるのもかまわずに乱暴に穴を明けて父に渡した。その時、父は名刺の束を寂しそうに受け取った。

  深夜1時、外へ出ると星空が見えた。最近、夜空を見上げると、死んだ父母や兄姉を思い出すようになった。どうしようもない自分勝手な父だったが、今になると、もう少し丁寧に穴をあけてやれば良かったと後悔している。そう思うようになったのは、私が父の年齢に近づいたからかもしれない。

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     三十七歳の私。父の債務は直ぐに相続放棄をしたので法的に消滅した。

六月六日

 整形外科とデイサービスが二日続いて母の散歩を休んだ。デイサービスは来週から東京北社会保険病院に併設の「さくらの杜」に代わるので、西が丘園は最後の日だ。理由は何であれ、終わりには一抹の寂しさがある。

 長年世話になった知人が住み慣れた都心を離れ、郊外の介護施設に入った。訪ねると、彼女は寂しさに耐えかねて「死にたい」と漏らしていた。この喪失感は深くて暗い。
若さの定義づけは難しいが、老いは簡単だ。肉体的能力、社会的地位、家族、友人知人、それらの喪失が老いを表す。

若い頃は喪失感は殆ど無かった。失ってもすぐに取り返せる自信があった。引っ越ししても、転居先での新しい出来事などに期待でわくわくした。十八で九州から上京する時も、郷里には何の未練も無く、東京生活への期待で爆発しそうだった。

 二十歳代の頃、三年暮らしたアパートを引き払った時、大家さんに迷惑をかけたので、菓子折を下げて挨拶に行った。彼女は今の私くらいの年頃で、空になった私の部屋で拭き掃除をしていた。
「お世話になりました」
照れながら菓子折を差し出すと、その人はいきなり泣き出した。それがとても不思議だった。しかし、彼女と同じ年頃になって、彼女の気持ちが分かるようになった。

  住まいのある十三階の数軒隣りに若夫婦が住んでいる。四歳程の男の子がいて通路で遊んでいたりする。子どもが少ない集合住宅なので、子どもの声が仕事部屋 へ聞こえるのは楽しい。しかし、それは数年で聞けなくなる。そして、肝臓ガンを抱えている母は死んでいる公算が大きい。そのように、年を取るとは次々と訪れる喪失感に耐えることだ。

 今日は雨の中、母の車椅子を押して赤羽自然観察公園へ行った。自然はいつ見ても素晴らしい。自然の中に、喪失感を乗り越えるための大きなキーが隠されているような気がしてならない。

六月十一日

 絵の具パレットを変えたらやりにくい。慣れようと努力したが気分が乗らず、結局元に戻した。小説家は万年筆が変わると 書けない。絵描きは小説家ほどこだわりはないが、私はボードにこだわる。高価だから良いということはなく、素材の色味、柔らかさ、手触り、その感覚は微妙 だ。キャンバスは布目が嫌いなので、徹底的に布目を地塗りで潰し平坦に仕上げて使う。

バレットは以前のように、絵の具溜めに同色をグラデーションに調合して並べた。そのパレットを10段重ねたのが二つで、調合した色数は総計160色。それで、描けるようになった。絵の具の調合のついでに仕事机を整理し、使わないものは思い切って捨てた。

整理していると和紙に包んだ母の髪の毛が見つかった。これは去年、母が肝臓ガン手術で駒込病院へ入院の時、髪が長すぎるので切った髪だ。手術に失敗して、遺髪になるかもしれないと思い捨てずにしまっておいた。

母は白菊会の会員で死んだらすぐに献体することになっている。だから葬儀は遺体なしで行う。その時、遺髪を遺体代わりに祭壇にまつろうと思っている。
父も白菊会会員で、死ぬとすぐに日本医科大の解剖学教室に電話を入れた。解剖は新鮮なほど有用で、すぐに教室から父を迎えに来た。だから葬儀は父の遺体無しで行った。その時、母が死んだ時は遺髪をまつろうと決めた。
父の遺骨は一年後に日医大の解剖教室から紅型の風呂敷に包んで持ち帰った。その後、博多の菩提寺で法事をして納骨した。

六月十七日

 玄関ドアは新幹線レールを切った鉄の塊をストッパーにして開いたままにしてある。十三階は風の抜けがよく、夜はTシャツ一枚では寒いくらいだ。レールは以前彫金をしていた頃、金敷代わりに使ったものだ。

寝る前いつも、玄関から夜景を眺める。ここへ引っ越してきた頃は、夜景を眺めていると寂しくなった。その頃は母は元気で、仕事は順調で僅かだが蓄え もあった。加えてガールフレンドもいて恵まれていたのに、何故か虚しかった。友人たちと馬鹿騒ぎしている時でも、心は醒めていた。その寂しさが何だったの かよく分からない。もしかすると、やっていたこと自体が空虚だったからかもしれない。

 上京したての昭和三十年代、東京には心の豊かさが 残っていた。下町では隣人は助け支え合っていたし、町には子ども達の楽しげな声が満ちていた。あの元気の良さはどこに消えてしまったのだろうか。少子化と言っても繁華街へ行けば若者で溢れている。しかし、彼らの表情はどこか空虚だ。幸せは個人に属しない社会的なもののようだ。社会が健康なら豊かな心が生ま れるはずだ。

今日も私たちは赤羽自然観察公園で老人たちと挨拶をし短い会話を交わした。今の生活は心地良い。私はいつの間にか、老人の世界に安らぎを覚えるようになった。それは老人たちの中に、昔の豊かな心が残っているからかもしれない。

六月二十一日

「リンパ節転移があるのかしら」
母がぽっりと言った。適当にごまかしたが、転移の可能性は消えていない。
それを駒込病院の若い担当医も心配していて、来月に精密検査がある。病状が分かったとしても、母も私も治療する気はない。若い頃は始まりばかりが気になっていたが、今は終わりばかりが気になる。

 デトロイトに住む元女優さんから、子供が産まれたと写真添付のメールが届いた。昔、劇団の宣伝美術をしていた頃からの付き合いだ。老人ばかりの生活をしていると、命の誕生に感動を覚える。

昔は誕生から死まで、一つの家の中で繰り広げられていた。今はそれは極めて希だ。先日見た在宅医療の番組で、末期ガンのおじいさんが子供と孫たちに囲まれて死ぬシーンがあった。祖父の死に小学生の孫は声を上げて泣いていた。その子はきっと、良い大人になるだろう。必ず訪れる死を教えれば子供は正しく 成長する。

七月三日

 蒸し暑いが厚手の長袖にした。両腕に日焼けどめを塗っているが、最近、発疹が出来た。紫外線吸収剤が体に合っていないようだ。それで厚手の長袖を着用している。さすがに長袖は暑く、母の車椅子を押していると、暑さで頭がクラクラした。

 仕事は厳しいが、その都度、乗り切っている。知人たちは悪運が強いと言うが、本当に悪運が強いのなら、危機に陥る前に避けているはずだ。

仕事が不調な時は順調な人が羨ましくなる。健康を損なっている時は、健康な人ばかり目に入る。失恋した時は、仲のいい男女が気になる。凡人はいつも何かを羨むようだ。

今、成功を願っているが、もし成功を手に入れたら、次は健康を悩み始めるはずだ。健康に問題がなければ、災害とか、孤独とか、次々と悩みを見いだす。そんなことをくだくだ考えていたら、子どもの頃可愛がってくれた隣家のお貞さんを思い出した。
彼女は当時六十代だった。家業は漁師で、家の裏で小さな畑を耕し、天秤棒で魚を担って農村部まで売りに行っていた。勤勉で寡黙で、母は彼女ほどに優しく強い人はいないと話していた。

その頃は敗戦直後の食糧難時代で、その小さな漁師町にも食料を求める人たちが町からやって来た。ある日、お貞さんが作っていたカボチャが盗られ、代わりにお金が結びつけられていた。お貞さんは、お金なんか気にしないで、黙って持って行けば良いのに、と持って行った人を同情していた。後年、お貞さんに体の不自由な孫が生まれた。しかし、愚痴一つ言わず、いつも背負って可愛がっていた。

思い返すと、お貞さんの運命を決然と受け止める姿が眩しく見える。当時はどの土地にも、そのような無名の老人がいた。

七月十日

 今日は風が吹いて凌ぎやすい。昨日まではシャツが重くなるほど汗をかいた。
暑くても、生命溢れる夏は好きだ。今日の赤羽自然観察公園には腰明トンボが飛んでいた。

五月始め、毎日、緑道公園のベンチに若者が腰かけていた。ホームレスになりたてのようで、身だしなみはこざっぱりしていた。その彼が、最近は日に焼けて、立派なホームレスの風貌に変わった。正社員は無理としても、アルバイトならいくらでもある。だから、若い彼に同情はしていない。

 母は暑さに負けずに歩いてくれるので助かる。医師は冷房を薦めるが、私は冷房なしで暑さに耐えるのが母の健康維持に大切だと考えている。

今日は土曜で、親子ずれに沢山出会った。中に道一杯に子どもと手を繋いで歩く親子がいた。私は道脇に車椅子を寄せて、彼らが通り過ぎるのを待った。親子は会釈もせずに通り過ぎた。次の家族連れは、私たちの車椅子を見て、子どもたちを道脇に寄せ、軽く会釈をして見送ってくれた。母はそれがとても嬉しかったよ うで、昔の思い出を話し始めた。

 昭和25年、博多で単身、仕事をしていた父を訪ねての帰りのことだ。日豊線門司近くで赤ちゃんを背負った母子が乗車してきた。敗戦後で列車は大変な混雑だった。
「あなたたちは、運賃を払っていないから立ちなさい。」
母は私と姉を座席から立たせた。私たちは元気な田舎の子だったので、立っていても平気だった。
母子は席を譲って貰ったことがよほど嬉しかったようで、私達にパンをくれた。食糧難時代の貴重な本物のパンである。当時はパンと言えば代用パンばかりで、糠や雑穀の粉末が増量剤として入れてあり、パサパサして堅く色も灰色に近かった。しかし、そのパンは真っ白でフワフワしていた。私と姉はすぐには食べず柔ら かいパンを頬に当てて「柔らかくて気持ち良い。」と喜んでいた。その人は進駐軍関係の人で、それは米軍の上質のパンだっだ。

 母は良いことをすれば良いことがあると話したかったようだ。今も、あの白パンの柔らかさと、美味しさを思い出す。あの白パンをもう一度食べたくなった。

七月十四日

 昨夜は風が冷たくて気持ちよく眠った。朝も昨夜の冷気が残っていてさほど暑くない。
赤羽自然観察公園に着く と、入り口で一柳さん夫妻が私達を待っていた。二人と立ち話をしていると、可愛いセーラー服の少女を交えた若者グループがドヤドヤとやって来た。 中にレフ板を持った青年がいる。すぐに、エッチビデオのゲリラ撮影だと分かった。人影が少ない真夏の自然公園とは良い所に目を付けたものだ。

入り口広場の東屋で相手の男とツーショットで撮影が始まった。
お年寄りの一柳さん夫婦は只の撮影会と思っている。グループはすぐに園内に入った。

私はついて行き、生撮影を見学したかったが、久しぶりに会ったご夫妻はつもる話しがあるようで、聞く他なかった。
「今のグループは、何の撮影をしているか分かりますか」
二人に聞いてみたが、皆目分からない様子だ。
「ピンク映画の撮影で、これから凄いことを撮影しますよ」
説明したが、真面目なご夫婦には、まったく理解出来ないようだ。しかし、母はすぐに分かって、「あら、それなら私も見学したいわ」と喜んでいた。
「後で、ご主人にお聞きになると分かりますよ」
分けれ際に一柳さんたちに言うと、「そんなことは・・・」と、ご主人は照れていた。

 園内にはいると、グループは素早く移動しながら撮影していた。湿地の橋ですれ違う時、母が笑顔で会釈すると主演のセーラー服の女の子は丁寧に挨拶を返した。
「がんばってね」
声をかけると女の子はニッコリ微笑んだ。化粧は濃いが近くで見ると二十歳前後の本当に可愛い子だった。

高台の桜並木下で休んでいると、谷向こうの斜面で撮影が始まっていた。それからしばらく彼等は園内の木々の間に見えたが、やがて撤退して行った。それは真夏の夢から醒める気分で、ちょっと切なくなった。

七月十八日

 駒込病院の肝臓内科へ精密検査の結果を聞くために母を連れていった。あいかわらず、待合室は混み合っていて、長時間待つのは辛かった。

診察結果は、腫瘍マーカーは概ね良好、若干気になる箇所もあるが、九十歳の歳を考慮すれば、さほど気にする必要はなかった。
別れ際、担当医師がその日を最後に定年退官で、九月から仲間と丸の内にクリニックを開設すると話した。木訥で優しい医師で母は大変気に入っていたので残念だ。
「いつまでも元気でいて下さいね」
母が医師に言った。
「いや、貴女より、私の方が先に逝きそうですよ」
医師は真顔で答えた。
今までの母のデーターのコピーを頼むと、医師は快くバソコンから出力してくれた。
駒込病院は更にコンピューター化が進み、八月からカルテの院内移動はなくなる。これで、待ち時間は相当短縮するらしい。しかし、駒込病院への通院は止めるので、その恩恵は受けられない。

帰宅すると、母は疲れ切って寝込んでしまった。病院は病気を治す所だが、同時にストレスを与えて病気にしてしまう側面がある。

赤羽自然観察公園への散歩は素晴らしい。ストレスが解消した上、免疫力を賦活させてくれる。「自然は大きなホスピタル」のコマシャールがあるが、これは正しい。ガンは外科的に除去するのがベストだが、その回復に近代医学は殆ど役に立たない。母は自然の中の散歩で回復したと信じている。

七月二十五日

 最近、母の下痢が始まった。肝臓ガン手術前に、頑固に続いていた下痢は術後に収まっていた。今回の下痢は日に1回なので、気にする程ではない。

雨が欲しい。赤羽自然観察公園のタマアジサイのが開花を目前に枯れ始めた。ヘクソカズラは炎天にも負けず可憐な薄紫の花を咲かせている。
母は暑さに負けず、いつものように炎天下を歩いてくれた。しかし、無理はさせない。体力を維持できるだけで上出来と思っている。

  夜間、母は尿取りパットを使っている。最初、少量用であったが、最近は大きいものに変えた。このままおむつに進行していくのは厭なので、頑張って、尿意 があれば起きるように言った。しかし、母は大型の尿取りパットを着用して安眠出来る方が良いと言った。それも一理あるので、好きなようにさせた。

私は母の介助はしているが、本格的な介護ではない。だから、尿取りパットの始末は母は自分でしている。家事、母の歩行介助、粗相の始末は私がする。母の終末期ぎりぎりまで今の状況を維持したいと思っている。

七月二十八日

 赤羽自然観察公園の上空に澄み切った夏空が広がっていた。真夏の青空を見上げていると、決まって子供時代を思い出す。昭和二十年代後半の南九州の漁師町の記憶だ。

 夏休みには、毎朝、神社へ出かけて掃除をした。と言ってもゴミは落ちていないので、適当に箒目をつけ、後はみんなでチャンバラをして遊んだ。それから、家に戻って水着に着替え、歩いて十分ほどの海水浴場へ出かけた。

朝なぎの海で泳ぐのは爽快だった。潜ると、日の光が水底の砂地に網目模様を描き、魚が猛スピードで泳いで行くのが見えた。お腹が空くと、腰の袋に入れた煎り空豆を食べた。空豆は潮水でふやけ、適度に塩味がついて美味かった。そうやって、お昼まで浜で過ごし昼食時に帰宅した。

午後は海に入ら ず、夕飯まで友だちと走り回って過ごした。夕暮れにはラジオの連続ドラマの、紅孔雀や笛吹童子を夢中で聞いた。夕食後はよく夜釣りに出かけた。港の突堤か ら港内に釣り糸を垂らすと小鰺が面白いように釣れた。しかし、子どもたちは八時過ぎると眠くなり、大人たちに抱えられるようにして帰宅していた。

思い返すと、夏休みの宿題をした記憶がない。宿題は八月最後の二、三日で大慌てで片づけていた。今も仕事は締め切り間際に頑張って仕上げている。その癖は子供時代に身についたようだ。

七月三十日

 駒込病院婦人科に骨盤CTの結果を聞きに行く日だ。朝七時に起床して、タクシーで9時に駒込病院へ着いた。

婦人科は空いていて、母は予約の九時半に診察して貰えた。骨盤CTも他の血液検査の結果もさして問題はない。去年の弱った状態を思うと嘘のようだ。二度のガン手術の予後が良いのは、赤羽自然観察公園での散歩と楽天的な母の性格が免疫力を高め、転移をくい止めているのかもしれない。

駒込病院へ一日がかりで連れて行くと母は疲労困憊するので、担当の若い医師に近所で見て貰うからと紹介状を頼んだ。医師は快諾したが、寂しそうだった。
初診の時、医長は面倒な病状の母を若いその医師へ任せた。結果的にそれが良く、若い医師に大変丁寧な外科治療をしてもらえた。
そんな経緯があって、母は愛着のある患者だったようだ。別れ際、医師は「具合が悪い時はいつでも来て下さい」と母へ繰り返し言っていた。

  これを最後に駒込病院に行くことはない。田端駅へ出る途中、赤紙仁王堂に参り、無事一年が過ぎたことを感謝した。仁王堂は白竜山東覚寺の一角にある。途中 のコンビニで買ったアイスクリームを仁王堂の日影で母と食べた。東覚寺はこぢんまりしているが古い瀟洒なお寺である。見上げると、本堂の屋根の上に真っ白 な積雲と澄み切った青空が見えて清々しかった。

 帰りの田端駅の若い駅員の対応も良かった。リフトで車椅子をホームへ下ろして、京浜東北線下りを待つ間、駅員は母に話しかけた。母がガン治療のことを話すと、彼は去年お爺さんをガンで亡くしたと話した。彼は何度も、母に元気でいて下さいと励ましていた。

赤羽駅前の赤羽市場で昼食用にアナゴ寿司を買って帰った。母は美味しそうに食べた。私は久しぶりに気持ちのよい夏だと思った。

八月一日

 今年の夏は厳しいが、既に散歩道の風に秋の気配を感じた。
すでに、ツクツクホーシが鳴いていた。この声を聞くと、私は子供時代に引き戻される。
いつも蘇るのは、遠くの友達の家へ遊びに行った帰りの風景だ。山の端を夕日が染め、ツクツクホーシが降るように鳴いていた。遠くまで来てしまって心細くなり、私は家まで駆けて帰った。家々からは夕餉の香りが漂っていた。家に駆け込むと、「どこまで行っていたの」と母が迎えてくれた。あの安堵感をいつも懐かしく思い出す。

 昨夜は隅田川の花火大会で、我が家のベランダからも遠く小さく花火が見えた。
ベランダで私は夜風に吹かれながら、かき氷を食べた。かき氷はイチゴ味が好きだ。しかし、コンビニの氷イチゴには本物のイチゴが使ってあり、私の好みではない。氷イチゴは、昔の赤い偽イチゴシロップの方がさっぱりしていて美味い。

昔はよしず張りの茶店で食べた。注文すると店の小母さんが木製冷蔵庫から氷を取り出して手回しでかき氷にした。硝子の鉢にアルミのぺらぺら薄いスプーンが付いていて、かき氷を赤い氷水の中へ少しづつ崩しながらの食べるのは至福の時間だった。

昔の食堂は夏になるとピカピカ光る捻ったアルミ板が何本も軒下にぶら下がっていた。それに風が当たると、クルクル回ってキラキラ光り、涼しげに見えた。上京してから四,五年は東京の食堂にも下がっていた記憶があるが、いつの間にか消えてしまった。

八月十八日

 猛暑が戻り、1時間前に洗ったタオルケットがすでにカラカラに乾いている。
午後は散髪に出かけた。先客がいて二十分程の待ちだったが冷房が気持ちよかった。

散髪の後、スーパーに回り、国際標準のバネ式体重計を買った。若い頃は体脂肪は少なく腹筋も見えていた。しかし今は、すっかり厚い皮下脂肪に覆われて腹筋は見えない。時折、思い切り体重を減らすが、すぐにリバウンドしてしまう。
若い頃は歯が強く梅干しの種を軽々と割り、ビールの王冠を歯で開けたりしていた。視力も狩猟民並みに良かったが、今は仕事中は乱視と老眼の入った眼鏡を使っている。他にも探すと老いは数限りなくある。母も以前と比べると著しく弱っているが、私程に気にしていない。その姿勢は、これから老いて行く私には参考になる。

八月二十八日 母九十一歳 

 先日の八月二十四日に母は九十一歳の誕生日を迎えた。
暑い夏にも負けず毎日の車椅子散歩にも耐えてくれた。

今日はいつも 持参するお茶を忘れた。暑い中、母も私も水分補給は重要なので、自然公園入り口の自販機に硬貨を投入した。しかし、ボトルは途中で引っかかって落ちてこな い。諦めて行こうとすると、公園入り口の東屋から経緯を眺めていた老人たちが集まって来た。自販機が壊れてボトルが取り出せないと話すと、老人たちは、自 販機を揺すり始めた。
「大した額ではないですから、いいですよ」
私は遠慮したが老人たちはもったいないと言い張った。一人が取り出し口 に手を入れて取り出そうとするが、奥まで手が届かない。すると別の老人が鉄棒を持ってきて、中をかき混ぜ始めた。そんな無茶なことをと思っていると、詰 まっていたプラスチック片と一緒にボトルが落ちてきた。

戦中戦後を生き抜いて来た老人たちは実にパワフルだ。礼を言うと老人たちは満足げ に、東屋へ戻って行った。今、少子高齢化の弊害ばかり言われている。しかし、そのように若者以上にパワフルな老人たちがいる。これからは、元気な老人二人 と若者二人が弱者一人を支えれば、少子高齢化問題は解決できると思った。

 好天なので公園には親子連れが多かった。管理棟前の広場で、知らない親子連れが母に挨拶した。五才ほどの男の子はスパンコールの星が着いた真新しい帽子をかぶっていた。
「格好いい帽子ね」
母がほめると、男の子はうれしそうに胸をはった。
「この子は、気に入るとそればっかりです」
若いお母さんが言った。
「うちのも、そうでしたよ。幼稚園生のころ、水兵さんの服が大好きで、汚れても着替えないので困りました」
私がいつも着ていた水兵さんのセーラー服を無理に脱がせて、洗濯した時のことを母は話した。私は、乾くまで幼稚園へ行かないと言い張り、物干し台の下で乾くのを待っていた。五十五年前の出来事を、母親は昨日のことのように覚えている。もし、母が死ねば、そのような過去を共有している者が一瞬で消えてしまう。

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九月八日

 母を通所リハビリへ送ってから部屋を片付けていると姉が訪ねてきた。
姉は死んだ父に似て潔癖症である。母の部屋の掃除が行き届いていないと文句を言った。それなら黙って掃除をしてくれれば有り難いが、言わずにはいられない性分である。
父や姉に反して、私と母は小さいことは気にせず、綿埃を見つけると、つまんで捨てるだけだ。ただし、トイレ・台所・風呂場などの水回りはこまめに掃除をする。

「掃除しなくても死ぬことはない」
そう言うと姉は呆れていた。介護は完璧を狙わず、手を抜くことが大事だ。そうすることで、心にゆとりができて長続きする。

 母の部屋の掃除を姉に任せ、母のタオルケットを洗濯した。ベランダに干し終えると、十八号台風余波の驟雨がやってきた。慌てて取り込むとすぐに日が射した。再び干すとまた驟雨。面倒になって母を姉に任せて散歩へ出た。

 夜九時過ぎ、神棚の榊が台風の風で落ちた。窓は閉めてあるのに小窓から吹き込んだ猛烈な風が五メートル離れた榊を倒した。その頃、大手町で風速三十三メートルを記録していた。ここは高層なのでもっと強かったのかもしれない。

九月十三日

 赤羽自然観察公園の椎の木陰で、車椅子の母は気持ちよさそうに居眠りしていた。そのように、椎の木陰で爽やかな風を感じながら、「ああ眠い・・・」と逝くことができたら、最高の最後だ。

そのような母を眺めながら、山梨の長寿村についての記述を思い出した。戦前のことだが、その村では九十代の長寿の老人は普通だった。しかも、老人たちはとても元気で、死の寸前まで野良に出て、最期は畑の傍らで「ああ、眠い・・・」と、眠ったままに逝った。

今、その村は長寿ではなくなった。粗食でよく体を動かしていた生活は、現代風の動物性脂肪の多い食事に変化し、農作業は機械化されて体を使わなくなった。その結果、若い者に成人病が急増し、倒れた息子を老親が世話をするのが、ありふれた光景になってしまった。

 母が休んでいる間、私は椎の枝を引き寄せて青い実を採った。緑の殻を割ると、艶やかな焦げ茶色に熟した実が入っていた。普通は自然に殻が割れ、地表に落ちたものを拾う。しかし、私が子供の頃は、未熟の実を生で食べていた。未熟の実は甘みがあってとても美味しかった。

九月二十五日

 緑道公園の花壇は植え替えの為、園芸種のスベリヒュが抜かれていた。花を残したまま雨に濡れている様は哀れだ。しかし、乾いた荒れ地で丈夫に育つスベリヒュの素質は受け継いでいるようで、路傍に積まれたまま生き生きしていた。

スベリヒュは湯引きしてお浸しにして食べられる。腎臓病の民間薬として使っている地方もある。子供の頃、母とメキシコ映画を見た時、映画のシーンのサボテン が肉厚の葉のスベリヒュに似ていると思った。以来、炎天下の地面に寝転んでは、スベリヒュを眺め、メキシコの砂漠を想像していた。

 一日腰かけていることが多い母は、尻の圧迫箇所に軽度の床ずれが時折できる。今は床ずれ防止の電動マットや良いクスリが開発されて重症例は少なくなった。

昔、母が老人センターに入院した時、隣のベットの老人が床ずれになった。ところが若い担当医師は床ずれを知らず、治療をしても治らないと頭を抱えていた。見かねた母が「それは床ずれですよ」と教えると医師は始めて気付き、すぐに治すことができた。

父が寝たっきりになった時、床ずれ防止の電動のエアマットを使った。しかし、揺れる感じが気分が悪いと嫌がるので、結局、使うのを止め床ずれができた。今のマットはその辺りは改善されているようだ。

九月二十七日

 激しい雨の中、散歩へ出た。母の車椅子は雨具で完全に覆っているが、フードの防水が弱り、頭に少し染みると母は気にしていた。帰宅すると、母は疲れたと、いつものシャワーを浴びずに横になった。

昼食後は少し元気になり椅子に腰かけてテレビを見ていた。しかし、夕刻になって熱っぽいのか自分から熱を測った。三十七度、母の平熱に近いが、老人の場合は甘く思ってはいけない。すぐに葛根湯を飲ませた。母は寝相が悪いので、寝冷えをしたのだろう。

明日は通所リハビリだが、施設へ休むと電話を入れた。葛根湯を飲ませたので、明日は元気を取り戻すと思う。老人は平穏に過ごすことは難しい。一難去って又一難。死なない限りこの連鎖から解放されることはない。

九月二十八日

 早めに手を打ったので、今朝の母は元気を回復していた。
通所リハビリがなくなり時間が空いた。それで、午前九時、駒込病院からの紹介状を持って東京北社会保険病院眼科へ行った。眼科は混んでいたが、小一時間で診 察を受けられた。母は緑内症で点眼薬を常用している。診察の結果では悪化はなく一安心だ。医師も優しく親切な人だった。

十月二日

 赤羽自然観察公園の椎の木陰にシートを敷き、蚊取り線香を焚いて親子連れが食事をしていた。その三、四歳の男の子が車椅子の母に「足がないの?」と聞いた。
「幽霊みたいでしょう」
母が冗談を言うと、男の子は目を丸くした。
そして「ボクはあるよ」と寝転がって自分の足を見せた。
母は「あら、何本あるのかしら」とからかった。
男の子は数えていたが「沢山ある」とごまかした。
「じゃー、一本ちょうだい」
母がお願いすると「大きくなったらあげるね」と、男の子は目をクルクルさせて答えた。

傍らで若い母親が幸せそうに母と子どものやり取りを聞いていた。
彼はあと何年母親に付き合ってくれるのだろうか。彼が小学校の高学年になった頃、小さい頃は何処でも一緒で楽しかったのに、と母親は嘆くのかもしれない。

十月四日

 寒い雨の中、キンモクセイが香っていた。赤羽はキンモクセイの古木が多く、突如として香り季節の変化を感じさせてくれる。

先日、三面記事の片隅で、作家森村桂が病苦により自殺と報じていた。私より五歳下。平安時代の女官みたいな風貌や、少女趣味の言動には抵抗があったが、作家の自殺は気になる。

物書きは自殺が多い。旧知の物書きにリストカットを繰り返す者がいる。その都度、担当編集者が右往左往させられ、ぼやきの電話が入る。まだ起きていないことを先回りして悩んだり、内省的だったりする物書きの性癖が災いするのだろう。その点、画家はしぶとく、殆ど自殺はしない。

 先日、隣家のネコのモモちゃんは網膜剥離で失明した。それでも外へ遊びに出て、通路の壁にぶつかりながら歩き回っている。私が名前を呼ぶと見えない目でこちらを見る。不便だろうが、悩んでいるようには見えない。もし、彼が人だったら、失明は自殺を考えるほどの重大事で平常心ではいられない。

モモちゃんはすぐに慣れて器用に歩き回っていた。彼のように現実をストレートに受け入れられたら素晴らしいが、人には難しい。人は万物の長と思い込んでいるが、本当は最悪の動物だ。

十月十二日

 母を通所リハビリに十時前に送り出した。久しぶりに薄日が射しているので、急いで、溜まっていた洗濯を済ませた。部屋干しできるものは毎日洗濯するが、大物は好天に合わせている。

赤羽に暮らし始めて三十二年になる。その間殆ど家仕事だったので散歩は日中にした。おかげで、顔見知りが増えた。それは八百屋さん、床屋さん、本屋さんと 数え切れない。その彼らも私同様に年取ってしまった。彼等の殆どに二代目はいないので、時期が来たら順次閉店していくことになるのだろう。

母は最近、元気になった。散歩をしていると、知り合いが顔色が良くなったと誉めてくれる。お世辞ではなく、本当に顔色は良く、百歳まで行きそうな勢いがある。しかし、ガン細胞が消滅した訳ではない。見えないところで火山のマグマのように噴出を待っている。その不安はいつも心の底に淀んでいる。

十月二十一日

 母のペインクリニックとさくらの杜でのリハビリに台風が重なって散歩を三日間休んだ。
久しぶりに散歩に出ると、秋色が深くなっていた。
 
最近、老いたら反省する必要はないと思っている。長く生きていると、経験から非常識なことはやらない。どのような行動も、それをベストと判断したからで、結果が悪くても反省する必要はない。たとえ、失敗したところで、その殆どは残りの人生で取り戻す事はできない事柄だ。それよりも、更に良い事に全力を傾注する方が前向 きだ。

車椅子を押しながら、そんなことを話すと、
「当たり前よ。私は反省したことなんか一度もない」と母は威張っていた。話した意味は違うのだが、そのような誤解が母の元気の元だ。その点私は、若い頃から内省的で、すぐに反省してしまう。だから、失敗しても反省する必要はない、と自分に言い聞かせている訳だ。

  夏の頃は赤羽自然観察公園の椎の下で休んでいたが、涼しくなってからは炊事棟のベンチに腰掛けて休憩する。その一角は軒端まで木々の枝が茂り、山荘の雰囲 気がある。今日も炊事棟のベンチに腰かけて紅葉の始まった桜や樫を見上げた。枝の間から雨に洗われた清浄な空が見えホッとした。

先日、友人から電話がかかってきた。
「最近、自分の人生はそんなに悪くないと思うようになった」と話すと、
「お前らしくない。もっと、とんがっている方がいいよ。」と友は答えた。
しかし、とんがり続けるのは疲れる。今日のようにボーっと青空を眺めていた方が楽しい。

十月三十一日

 昔の彫金仲間の山本さんが遊びに来た。山本さんは私より五歳年上の飾り職で、若い頃はよく一緒に飲みに行った。
飾り職とは、金属を叩いて伸ばしヤスリで仕上げ、ロー付けで接合して組み立て、装飾品を作る仕事だ。今は主に指輪やブローチを作っているが、本来は御輿や家具の飾り金具等を作る仕事だった。

貴金属装身具制作では、鏨で地金を削り宝石をセッティングする仕事がある。私はその工程の職人だった。私が絵描きに転職した頃から、職人の世界はすっかり 変わり、安物は海外生産にシフトし、高級品は海外有名ブランドに蚕食されてしまった。今は直しの仕事ばかりだと、山本さんはぼやいていた。

山本さんと母と三人で話していると、昔の活気のある職人の世界がよみがえり、懐かしかった。
「今度は家に遊びに来てよ」
見送る私に、山本さんは何度も言った。

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 雨の日も散歩は休まなかった。母は雨に打たれる感触が心地良いと話していた。

十一月八日

 昨日日曜は快晴で日射しが強く、夏服で歩いている人が多かった。
十一月に夏服とは異常だ。おかげで、ノープラ・ティシャツの女の子に見とれてしまい、車椅子を段差に引っかけてしまった。
車椅子を押していると視線が低くなるので、短いスカートが気になる。特に、御諏訪さん脇の急斜面を押し上げる時、一層視線の位置が低くなって、坂上に先を行く短いスカートが気になる。

 先月から住まい下の公園に三十代のホームレスが住み着いている。最近は中年の仲間が加わり二人で生活している。中年はベテランで、公園の水道を使い、こまめに洗濯し、植木の上に広げて干している。
日中は二人とも、彼等特有の気配を消した視線でボーっとベンチに腰かけている。二人が会話を交わしている姿は見たことがない。共にきれい好きで、若い方が公園を掃除をする係のようだ。二人とも、ドロップアウトしていることを除けば、極めて健全な人達だ。

段ボールハウスは、バブルの頃、新宿西口広場辺りに出現した。それより以前、アメリカに路上生活者が多いと聞いた時は、遠い国の出来事と思っていた。それが、日本に出現した時はショックだった。それがいつの間にか違和感を感じなくなった。

彼らの生活は、都心にトランクルームを月一万程で借りて身の回りの品を預け、携帯電話を持ち、週二回のペースで銭湯に行き、頭は三ヶ月に一回理髪店で整え、 郵便局に私書箱を設け、月三万程で慎ましく生活をする。そして、就職面接がある時はトランクルームから背広一式を取りだして、ごく普通に出かけていく。
しかし、冬場はとても厳しい生活だ。私の知っている老ホームレスは体調が悪くなると急患で入院して体力を回復させている。

ホームレスが生まれる程に安価な住宅が払底しているのに、空き地は加速度で増えている。最近も散歩コースの無人の住宅が取り壊され駐車場に変わった。最近は至る所空き地ばかりで、急速に社会のバランスが壊れ始めているようだ。

 ガン検診について、ガンセンターニュースに面白いものがあった。検診料、男、十八万九千円 女、二十二万五千七百五十円で全身の微細な初期ガンまで発見が可能とあった。但し、微細な初期ガンは見つけても何もせず、観察するのが望ましいとあった。
しかし、微細な初期ガンを何もせずに平然としていられる人は少ない。殆どの人は気になり、中にはノイローゼになる人もいるだろう。ガンを知ってノイローゼになったり、ガン手術 をしたりすると免疫機構がバランスを失い、一気にガンが増大し転移が始まることがある。だから、その検診を受ける意味が分からない。

健康でもガンは出たり消えたりしている。何かの原因で免疫システムに異常が生じた時、ガンは一気に病気へ発展する。皮膚ガンのように目視できるなら観察は簡単だが、体の中を観察するとなると負担は重い。できることなら動物のようにその一瞬一瞬に生きていたい。悩みを再生産する人の英知は煩わしい。

十一月十五日

 冷たい雨の中、自然公園へ行った。静かで、濡れた紅葉が美しい。母が拾ってくれと言うので、ニシキギの深紅の落ち葉を集めた。今年の九州の紅葉は台風で痛めつけられて良くない、と兄から手紙に書いてあった。母は東京の美しいニシキギの葉を押し葉にして兄に見せたいようだ。

  竹野君に絵本英訳を頼んであった。彼から英訳ができたと連絡があったので、夕刻に池袋で会った。彼は医師の家庭で育ち裕福で、私が困ると何かと助けてくれる。去年、母ががん手術で入院した時、私の窮状を察して、過分の額で絵を買ってくれた。絵描きは大変な仕事だが、そのような世間の暖かさで何とか生きて行ける。

池袋西口でトンカツを肴に二人で生ビールを飲んだ。久しぶりなので、アルコールの回りが早い。割り勘でと言ったが竹野君は奢ってくれた。私は母の世話があるので、十時に別れた。

 北赤羽駅前のスーパーライフは十二時まで開いている。帰りに寄って、明日の食材を買った。スーパーの深夜営業で近隣の二十四時間営業のコンビニが影響を受けているようだ。よく利用していたセブンイレブンは繁盛していたが、夏に突然閉店してしまった。

十一月十九日

 母の散歩と雑用を午前中に済ませ、雨の中、銀座へ出かけた。石川の山中温泉で挽物作りをしている作家の作品展初日である。ギャラリーは泰明小学校先の高速道高架の近く。彼は親子二代の挽物師である。木訥で加賀山中の雰囲気をそのまま東京へ持って来たような人だ。作品を前にして、仕事の話は楽しかったが三時に辞した。

その後、知人の高田氏が銀座に最近事務所を開いたので、挨拶に行った。寒い雨が降っていて銀座は風情が増していた。銀座は女性が美しい。大きな絵を小脇に抱えた画家の卵らしい女性が急ぎ足で通り過ぎた。

昭和通近くの事務所に着くと、遅い私を高田氏は待ちかねていた。
彼は電通の要職を早期退社してキャラクター管理の仕事を始めた。できれば絵本などの出版まで事業の枠を広げたいと計画している。六時頃まで、ビールを飲みな がら、今の出版事情を話した。帰ろうとすると、良い曲があるから聞いてみないかと引き止められた。イタリー製のスピーカーだ。高音の切れがよく透明感があ る。さすがに、我が家の六千円のパソコン用とは違うと思った。

それから、暫く音楽の話をして別れた。帰宅は七時十分。教育テレビ七時からの絶滅動物シリーズ、サーベルタイガーを見たかったが間に合わなかった。
母はベットに寝ないで待っていた。九州の兄からクール便で海産物が送ってきていて、自分では開けられないので気になっていたようだ。急いで開けると、蒲鉾、 薩摩揚げと甘鯛のみそ漬けが入っていた。甘鯛は長崎産を散歩帰りに多めに買ったばかりだ。好物は重なるものだと母は笑っていた。

十一月二十一日

 昼食の後、絵を描いていたらすぐに夕食の時間になった。
夕食後、四チャンネルの鉄腕ダッシュの粟ヒエ作りを見た。粟ヒエは縄文弥生時代から連綿と日本人の食生活を支えていた・・・のナレーションを聞いているうちに、私は寝入ってしまった。

短い眠りの間、夢の中に父が出てきた。父は二十三年前に七十九歳で死んでいる。目覚めた後、日頃、父のことはまったく思い出さないのに夢に出て来たのことが不思議だった。

夢の中で、父は山あいの日溜まりで、美しい秋景色を眺めていた。
「なんだ、生きていたのか」と父に話しかけると、父は照れくさそうに笑った。
目覚めてから、母に父の夢を見たと話すと、
「父ちゃんは元気だったの」と、母は馬鹿なことを聞いた。

父は郷里九州の方言でへこたれだった。死への恐怖心は人一倍強く、風邪で三十八度の熱が出ただけで、入院させろと大騒ぎしていた。その父が最期の三ヶ月近く黙って寝込み、あっさり死んでしまった。治療は懇意にしている近所の女医さんに往診してもらっていた。
「入院させれば数ヶ月は命が延びますが、薦められません」
女医さんの言葉に従った。

へこたれの父が死の覚悟など出来るわけがない、と思っていたので、静かな父の姿が不思議だった。寝込んでから二ヶ月を過ぎた辺りから父は昏睡状態になり、意識が戻ることなく死んだ。最期の脈を取ったのは私である。深夜、脈が途絶えた後、朝を待ち、女医さんを呼んで死亡診断書を書いて貰った。

死んだ六月一日の朝は晴天で風が強かった。葬儀屋がこんな天気の日はよく人が死ぬと話していたのを印象深く覚えている。

十一月二十五日

 私と同年輩の詩人が雑誌に、父親と会話した記憶がないと書いていた。
私はやはりそうかと思った。我々以上の世代では父親は煩い存在で、男の子は出来る限り避けていた。父が何か話す時は、説教するか、命じるか、いつも一方的で、会話にはほど遠かった。だから、私たちは出張等で父が長期間留守になると飛び上がって喜んでいた。

ドラマで父親が忙しくて遊んでくれないとか、学校参観に来てくれないと男の子が拗ねてぐれたりする設定がある。私はそれは良いことなのに、何故すねたり腹を立てたりするのか今も理解できない。私の世代の子供の頃は、父親が担任教師と会わないように工夫したものだった。

 その小うるさい父は六十代にヘルニアの手術をした。場所はへその近くで化繊のメッシュで蓋をした。体質は似るものなので私は鼠径あたりが弱い。シャワーの時に眺めると、右鼠径部が盛り上がっている。統計では右側が多いとある。それで、気休めに腹筋を始めた。

もし母の存命中にヘルニアが悪化して、手術が必要になるのはまずい。手術は簡単だが、一ヶ月は車椅子を押すのを禁じられる。母の体調は毎日のリハビリで維持している。それを思うと、おいそれと手術は出来ない。
今年は知人が多く死んだ。母は肝臓ガン手術から生き残ったが、時折微熱を出す。もしかするとガン再発の兆候かもしれない。

十一月三十日

 母が通所リハビリに行っている間、画材を買いに池袋へ出かけた。買い物のレシートで福引きのガラポンをしたが総て外れだった。

帰りの埼京線で隣の女の子がしきりに回りを見回していた。埼京線は痴漢のワーストワンの路線だ。痴漢が出たかと見回したがそれらしき者はいない。そんな私に気づいた彼女が声をかけた。
「すみません。横浜へ行くには、この電車で良いのですか」
どうやら、山手線と間違えたようだ。
「赤羽から京浜東北線へ乗り換えれば行けるよ」
教えると、彼女は笑顔になった。赤羽に着くまで十分ほど彼女と話した。秋田から上京したばかりで、横浜で友だちと待ち合わせていると話した。色白で目の大きな子だ。彼女は赤羽駅でお礼を言って、京浜東北線へ駆けていった。

福引きは外れたが、電車は当たりだった。昔はよく横浜で遊んだ。無性に横浜へ行きたくなった。ささやかな出来事だが、介護生活の中で爽やかな風のように感じた。

十二月四日

 冬景色になってきた。公園に再建中の古民家の茅葺き屋根の丸みが暖かく見える。茅葺き屋根を見ると囲炉裏の火を思い出 す。昔は頻繁に登山に出かけた。宿は山里の民宿で、囲炉裏ばたで山菜やキノコ料理を振る舞って貰った。その時の、ランプの光や囲炉裏の暖かさを懐かしく思い出す。

電柱程の太い丸太をそのまま囲炉裏で燃している宿もあった。丸太の端は部屋をはみ出す程長かったが、主人は上手に、丸太の先端だけをチョロチョロと燃していた。それ程の丸太は1週間は燃せるらしい。
囲炉裏は暖を取る為だけではなく茅葺きに虫が付かないように薫蒸の意味もある。だから茅葺きの家では、夏でも火は絶やさない。不思議なことに囲炉裏の火は夏でも熱くないと主人は話していた。

  焚き火は好きだ。火を囲んでいると安らぐ。以前住んでいた庭付きの家では、庭に石積みをして落ち葉や枯れ枝を集め、毎日焚き火をした。木の燃える煙は甘い香りがして、ゴミの煙とはまったく違っていた。ことに今日のような寒い日の焚き火はとても楽しかった。究極の贅沢は、都心に山里を再現して、茅葺き屋根の 家を建て囲炉裏で火を燃すことだと思っている。

十二月七日

 母が目覚ましを壊したので、駅前のホームセンターで時計を買った。帰りに商店街の八百八に寄るとカリンが安かったので六個買った。それで母のせき止めのカリン酒を漬ける。

カリン酒は三年物の四リットル入り瓶二本の在庫がある。母が咳止めに飲むだけなので暫くはこれで何とか間に合う。しかし、来年のカリンの時期までとなると微妙だ。親の死期を考えて買い物するのは厭なものだ。

そんなことを考えていたら、ある随筆を思い出した。
それは作家が父親のことを書いたものだ。粗筋は次のようなものだった。
・・・ 半年の余命を宣告された母親が自宅で寝ている。季節は鮨を漬け込む時期である。鮨と言ってもお寿司ではなく、長期貯蔵できる鮒鮨のたぐいだ。母親はその鮨 を作るのが得意だった。父親は鮨の材料を買ってきて、寝ている母親を起こして作るように命じた。彼女はふらつきながら台所に立ち鮨作りを始めた。作家は父 親の態度を怒り、母親に、すぐに止めて寝ているように言った。しかし、母親は「いいのよ」と作り続けた。
それから数ヶ月後に母親は死んだ。そして、母親の作った鮨が熟成して食べ頃になった。
ある日作家は、父親が独りその鮨をしみじみと食べている姿を目撃した。その時、作家は気がつかなかった両親の間の愛情を理解した。

私のカリン酒漬けとは意味が違うが、ふいにその話を思い出した。

十二月十四日

 花屋でサンキライのクリスマスリースを売っていた。冬の野山でこの赤い実を見つけると童話の一シーンのように楽しかった。西日本ではこの丸い若葉をガメノハと呼び、五月の節句には、それで包んだ餅を食べた。柏餅と違い、独特の甘い香りがして私は好物だった。

 子どもの頃はクリスマス、大晦日、正月と続くこの時期は、一年で一番楽しかったが、今は、ただ慌ただしいだけだ。
散歩道は静かだった。人声も車の音もなく風の音だけが聞こえた。去年の今頃は、肝臓ガン手術から退院したばかりの母は弱っていた。大好きなテレビ番組も見ないで、椅子に座ったまま居眠りしていた。今、元気になった母にその頃のことを聞いても何も覚えていない。

 昼食後大掃除をすると壁際に黒いゴミが落ちていた。拾おうとするとピョンと逃げた。小さな蠅取りクモだ。最近、小さな生き物が一生懸命生きている姿に感動する。傷つけないように手のひらで包んで、安全な場所に逃がした。

十二月十九日

 朝から気持ちよく晴れ渡って静かな日曜だった。しかし、赤羽自然観察公園に着く頃にはすじ雲が流れていた。この雲は雨雲の前触れだ。
公園は休日で人出が多かった。炊事棟では大勢の子ども達が焼き芋をやっていた。枯れ葉や薪を燃す煙が甘くたちこめ懐かしかった。

  いつもの休憩場所の遊歩道の日溜まりに腰を下ろしてボーっとしていると眠気が襲ってきた。サラサラと枯れ葉を揺らす風の音が心地よい。枯れたススキの原の向こうに木の葉の落ちた木々の梢が見えた。それは子どもの頃に眺めた風景に似ていた。平和とは、こんな風景を言うのかもしれない。

休んでいる私たちの前を、四歳程の男の子を連れた若い母親が目の前を過ぎた。
「ここはね、昔、しゅん君もベビーカーに乗って来たことがあるのよ。」
少し前のことを母親は遠い昔のように話していた。母や私にはその若い母親が生まれる前のことですら昨日のようだ。

公園を出てすぐに、車椅子の車輪が犬の糞を轢いてしまった。途中の水飲み場でいつも車椅子に下げているブラシで丁寧に洗い落とした。その時、車輪の留めネジ が緩んで落ちかけていることに気づき、スパナでしっかりと締めた。ネジを落して車輪が外れれば大変なことになっていた。

「"運"が付いていて良かったね」
母は笑いながら言った。本当に運が良かったかもしれない。それにしても、犬の糞は車椅子にとって厄介だ。

午後三時過ぎ、思った通り雲が空を覆い始めた。明日は雨のようだ。

十二月二十八日

 午後、正月用品の買い物に出た。午後の光は午前中の散歩と逆方向で、見馴れた風景が違って見えた。
正月用品の買い物は疲れる。欲しくもないものを高い値段で買わされるからかもしれない。毎年、正月は家族揃って温泉で過ごす知人がいるが、最近、彼等の気持ちが分かるようになった。正月は何もせずにぼんやり過ごしたい。

カレンダーは貰い物で間に合うが、日めくりは買う。文具屋の店頭に小さなものが七百五十円で並んでいた。買い求め、背景の俗っぽい博多人形の写真を切り取って下げた。
日めくりをめくるのは母の仕事である。去年は母が入院している間、破られない日めくりが数ヶ月分残った。

 インド洋の大津波災害の報道を見た。若い日本人家族が撮っていたビデオが写し出された。突然、潮が引いていくのを撮しながら、「珍しい、異常気象です」と小さな子どもを連れた若い父親はのんびり解説していた。その映像を見ながら私は背筋が寒くなった。

私は南九州の漁師町大堂津で育った。私たちは潮が急に引いたり井戸の水が急に減った時は津波の前触れだからすぐに山へ逃げろ、と繰り返し教わった。映像を撮影した若 い家族を見ていると、今の子どもはそのような教育は受けていないようだ。教育の最小限の基本は命を守る方法を学ぶことだ。
大災害が増えたような気がする。来年の安泰を切に願った。

夕食後、仏壇と神棚の花と榊を正月用の松と千両の赤い実入りに変えた。最近、注連飾りは買わない。プラスチックを多用して値段も高いからだ。代わりに、形の良い松の一枝を玄関に飾った。松だけの飾りはすっきりして清々しい。眺めながら、少し正月気分になった。

十二月三十日

 昨日までの雪は止み、今日は打って変わって好天。散歩に出ると、雪は道端に堅く凍って残っていた。雪道は車椅子に厳 しい。緑道公園へ入ると更に厳しく、前車輪が凍った雪の凹凸に取られて前進できず、後ろ向きに進んだ。自然公園の歩道は更に雪が多く、途中で諦めて引き返 し、一般道を遠回りして正門から入った。

 公園では子どもたちが歓声をあげてはしゃいでいた。その中、三つ程の女の子が道端の汚れた雪を拾って口に入れた。
「食べちゃダメダメ」
母が慌てて声をかけたが後の祭りだった。若いお父さんも気づいたが間に合わなかった。多分、彼女には生まれて始めての雪だろう。お腹が痛くならなければ良いが。しかし、父親は気にせず、親子で母にバイバイと手を振りながら公園奥へ入って行った。
私たちは管理棟付近で雪景色を楽しみ、早々に公園を出た。
 
 帰りは買い残した正月用品を板橋区に新しく開店したスーパーに寄って買い物した。北区の境界を越え板橋に入った途端に緑地が消え、工場ばかりで殺伐とした光景に変わった。

スーパー店内は放送がうるさく落ち着かなかった。急いで必要なものを揃え、静かな北区内へ戻った。新河岸川沿いの遊歩道をカモメを見ながら車椅子を押していると、冷たい川風が心地よかった。

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