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第九章 母の死の深い喪失感から 安らぎへ

 2010年7月5日

 今日も午後六時に、近くの公園から「夕焼け小焼け」の曲が聞こえた。
母が死んだ日、その曲とともに容態が急変し、三十分後に息を引き取った。以来、「夕焼け小焼け」が聞こえると、抑えようもなく哀しみが噴出する。

「お母さんには長生きしてもらいな。死なれると、いつまでも辛いぞ」
母を散歩に連れて行っているころ八十歳近い老人に言われた。今、その意味が心底理解できる。

買い物へは毎日出かけている。母の車椅子を押していた頃、赤羽駅高架下のペットショップには必ず寄っていた。今日はお休み中の子ネコや子イヌの可愛い寝顔を眺めながら、母の笑顔を思い出した。

 母の遺体は献体したので、遺骨が戻って来るのは二年後になる。今は遺髪を母愛用の備前の湯のみに入れ、母が縫った赤い絞りの袋に入れて仏壇に飾ってある。私は遺体に対してこだわりはない。それは母も同じで、世の役に立つのならと、自ら進んで30年前に献体に申し込んだ。しかし、検体先の解剖学教授が待ちくたびれる程に長生きしてしまった。

 七月六日

 絵の締め切りが近づいている。イメージは固まっているので描き始めるだけだ。しかし、出来上がった絵を喜んでくれる母がいないのが寂しい。
母が逝ってしまった時、外は真っ暗だったと思っていたが、今日、まだ明るかったと気づいた。今日も六時に「夕焼け小焼け」が流れ始めると哀しくなった。

散歩へは毎日出かけている。どのコースを通っても母のことを思い出す。最後に散歩に連れ出した六月二十一日、母は緑道公園でネコに会って、「ニャ、ニャ」と話しかけていた。その場所を通ると、母の声がよみがえり辛くなる。 

 母のことは何でも分かっていると思っていたが、それは過信だった。死が迫った頃、母は一度だけ涙を浮かべた。気丈な母でも、迫り来る死の恐怖で涙を浮か べて耐えていると勝手に思っていた。今、それは違うと気づいた。話しかける私の声に母は寂しさを感じ、惜別の涙を浮かべていたのだと思っている。

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 七月十日
 母には年金も、財産と言えるものも何もなかった。それでも、独り身で貧乏しながら介護し続ける私が母は不憫でならなかったようだ。
「あの世に行ったら、正喜を必ず幸せにしてあげる。いつも、見守っているから信じてね」
車椅子を押す私に、何度も話していた。
「それなら、死んだらすぐに宝くじを買うから、当たりにして」
私は現実的なことを母に頼んだ。
「宝くじなら当てられるかもしれない。幽霊になって抽選の矢をグイッとつかんで当ててあげる」
母はうれしそうに話していた。

 後かたづけに忙殺されている内に、初七日が過ぎた。イトーヨーカ堂へ行く途中、赤羽駅前の宝くじ売り場が目にとまり、スピードクジを千円分買った。係が十枚の束を二つに分け、選べと言うので上を選んだ。結果は五枚中、三百円一枚、百円二枚と大当たりだった。額の多少ではない。母が約束を果たしてくれたような気がして、とてもうれしかった。当たり券は換金はしないで、大切にしまっておいた。

 2010年7月13日

 今日はのどが痛い。昨夜、夜風が涼し過ぎて夏風邪を引いたようだ。誰にも母の死を知らせなかったが、噂で広まった。死後半月近く経つが、毎日、弔問客が訪れる。みんな親しい人ばかりなので、その場で香典返しをすることにした。生前母は、抹香臭くない粋な扇子をお返しに希望していた。扇子なら小さくて軽くじゃまにならない。風邪を押して銀座の老舗扇子屋へ出かけた。

最近、ふいに悲しくなるので、外出にハンカチは欠かせない。しかし、今日はハンカチもティッシュも忘れてしまった。銀座に着くとすぐデパートに寄って、一階の女性ハンカチ売り場でハート模様のタオルハンカチを買った。紳士用は四階で上るのが面倒だったからだ。

扇子は多めに買った。午後五時、和光前の交差点を渡っていると、突然呼び止められた。昔、世話になった出版社嘱託の弘田さんだ。
「お母さんはお元気」
いつもと同じ第一声だった。彼女も老親の介護をしているので気になるのだろう。母の死を伝えると彼女の顔はみるみる曇った。近くの喫茶店に入って経緯を話した。しかし、悲しみが押さえきれず言葉は何度も中断した。

いつも悲歎にくれているわけではない。大部分の時間はいつもと変わらず、冗談も言い仕事もこなしている。しかし、母のことを語り始めると絶句してしまう。女性を前に、ビンクのハート模様のハンカチで涙を拭っている姿は、オカマの愁嘆場みたいで恥ずかしかった。母からと言って扇子を渡し、逃げるように別れた。

有楽町駅へ向かっていると、雑踏の中から鐘の音が聞こえた。母が杖に下げていた鐘の音にとても似ていた。惹かれるように雑踏をかき分けて行くと、雲水が鐘を鳴らしながら読経していた。私は反射的にお金を僧の鉢へ入れた。雲水も先程の彼女も、出会いは母が導いてくれたような気がした。最近、不思議なことが次々と起こる。出かける時、いつも無人のエレベーターが待っている。それは、母が先回りして、ボタンを押してくれたのだと思っている。

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自分用に使っている扇子。鎌倉で撮った。

 2010年7月15日

 散歩中、ホウセンカが咲いているのを見つけた。
「ホウセンカが咲いたら摘んでね」
死ぬ前、母が咲くのを待っていたことを思い出した。母は毎年、ホウセンカで小指の爪を染めるのを楽しみにしていた。花弁を明礬で練って爪に塗り、乾かないようにラップで包み一晩おくと、美しいオレンジ色に染まった。

韓国の風習が、ホウセンカと一緒に九州に伝わったものだ。母は祖父甚兵衛から染め方を教わり、毎年、小指の爪を染めていた。しかし、最後に散歩に出た六月二十一日にはホウセンカは咲いていなかった。路傍のホウセンカを見ながら、小指を染めて旅立たせてあげれば良かったと哀しくなった。

 時間は私の中で止まったままだ。それでも月日は容赦なく過ぎて行く。今日は夕暮れにカナカナが鳴いていた。母の介護について後悔ばかりしている。寝たっきりにならないように、母に厳しい要求をしたこと。疲れてゆとりを失い、優しく話しかけられなかったこと。思い出すと後悔で一杯になる。

 2010年7月19日

 三十年前に買った扇風機が、異常音をたてるようになった。古い扇風機からの発火事故は多い。即刻、使うのを止めて新しい扇風機を買いに出た。

赤羽駅高架下のビバホームで四十センチの大型を買った。六千九百円と格安だ。台座が鋳鉄製で重いので、折りたたみ式二輪キャリーを買って積んだ。人にぶつけないように、車椅子のように前に押して進んだ。何となく母の車椅子を押している感覚を思い出して懐かしくなった。

 御諏訪神社前で信号待ちをしていると、キャリーが邪魔だと、自転車の中年男が言い放って過ぎた。
「邪魔なのは歩道を行くお前だろう」
言いかけて止めた。母の生前はみな優しく、暴言を吐く者はいなかった。母を散歩へ連れ出せば、多くの人が話しかけねぎらってくれた。母の死で突然世間が冷たくなったように感じた。

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                東京北社会保険病院下の公園にて。

 2010年7月21日

 床屋さんは敬虔なクリスチャンだ。今日、頭を刈ってもらいに行くと、「神は人へ、乗り越えられない試練は与えない」と、聖書の言葉を教えてくれた。最近で一番心に響いた言葉だ。確かに、どんなに辛いことでも、努力すれば必ず救われる。努力しても救われないと思っている人は、救われていることに気づかないだけだ。

 母が死んでから、桐ヶ丘生協へ行かなくなった。行けば必ず母の知り合いに出会い、「お母さんは」と聞かれるからだ。今日は必要なものがあったので、客の少ない暑い午後に買い物へ行った。途中、緑道公園を通ると母が好きだった百日紅が満開だった。

 夕食にリンゴを食べた。生前、母に毎日、リンゴをおろして絞りジュースを飲ませていた。今は丸ごとかじっている。簡単になったことが、かえって寂しい。

 母の写真は百枚前後を一つのフォルダーに入れてハードディスクに保管してある。フォルダーはナンバー三十五で終わった。それがパソコン上での母の死だ。

 2010年8月8日

 昨夜は戸田の花火大会だった。その方向に高層マンションができてから眺望が半減し、この建物からの見物客は減った。花火見物はすぐに止め仕事へ戻った。遠い花火の音が、いつもより乾いて聞こえた。

十三年前に引っ越して来たころは玄関前通路に浴衣姿の見物客が大勢集まった。玄関を開けっ放しで宴会をやっている家も多く、前を通ると飲んで行けと誘われた。子供や若者も多く長屋の祭りみたいで和気あいあいと楽しかった。
「玄関前で焼き鳥屋を開けば儲かるね」
元気だった母が、冗談を言っていたのを懐かしく思い出した。

 午後の母の部屋は三十三度だった。この暑さでは、元気なころの母でも耐えられなかっただろう。だから、まだ涼しい七月一日に逝ってくれて良かったと思った。そのように、少しずつ母の死を受け入れている。

仏壇の花が枯れたので昼食後買い物へ出た。緑道公園で空を見上げると、雲間に澄み切った青空がのぞいていた。「秋は近いな」とか「風が涼しい」と、独り言をつぶやきながら歩いた。以前、老人が独り言をつぶやいているのを滑稽に思っていたが、その滑稽な老人に私は近づいているようだ。

 夕暮れ、旧友が弔問に来た。人と話す機会が減っているので来客はうれしかった。彼は去年末、見舞いに訪ねて、ベット脇わきで母としばらく話していた。その時の母のうれしそうな顔が今も眼裏に焼きついている。
「逝ってしまったね」
彼がポツリとつぶやいた。思わず涙が落ちそうになったので、「お茶を入れる」と、台所へ行った。

 十時半、彼を北赤羽駅まで見送った。
彼は道々、二年前に亡くした母親のことを話した。
「仕事で大きな成果を出すと母がとても喜んでくれて嬉しかった。でも、伝える相手が妻や子供だと母ほどの喜びがない。それがとても寂しい」
私は彼に自分もまったく同じだと答えた。別れた後、駅前のライフで豆腐とハムを買って帰った。

 2010年8月12日

 生協浮間診療所の若い医師と看護師が弔問に来た。もらった百合の花束を飾ると仏壇が華やかになった。母が寝ていた辺りから、「まーきれい」と声が聞こえたような気がした。

「私が一人で看取って、母に苦痛を与えたのではと悩んでいます」
帰り際、医師に聞いた。
「そんなことはありません。とても立派に看取られたと思っています」
彼女はそう言ってから、医師でも人の死に対しては十分なことはできない、となぐさめてくれた。

 2010年8月18日

 猛暑は続いているが、秋は確実に近づいている。先日、東京北社会保険病院の庭を抜けると母が大好きだったパンパスススキが穂を出していた。
今日は母の四十九日。知人に母の法要をお願いした。私と二人だけの法要は、午前十一時から始まった。朗々とした読経を聞いていると、母を思い出して万感迫った。死者は死後七日ごとに閻魔大王によって裁かれる。最後の四十九日目は殊に重要で、極楽浄土に行けるかどうか判定が下される。知人の心のこもった法要のおかげで、我が家に留まっていた母の魂が極楽真浄土へ旅立ったように感じた。その安堵感とともに、なぜか一抹の寂しさを覚えた。

 その後、二人で赤羽駅前に出て、ウナギの「まるます家」で生ビールを飲んだ。特上ウナギが千五百円。二人で食べて飲んで三千八百円と格安だった。カウンター席は、昼間から飲んでいる老人たちで一杯だった。母の介護を始める前は、買い物ついでに寄って飲んでいた。だから、八年ぶりで懐かしかった。赤羽駅で知人と別れてから、地鶏の胸肉と供物用のナシを買った。

 2010年8月20日

 忌が明けたので御諏訪神社にお詣りした。境内から階段を下りると、いつも車椅子を待たせていた場所で、「あの世から、ちょっと帰って来たの」と、母が笑顔で振り返ったような気がした。

 毎日、母の死と必ず迎える自分の死を複雑なパズルを解くように考えている。しかし、その仕組みは意外にシンプルな気がする。家族に囲まれての安らかな死。落盤や海難での絶望的な死。安アパートでの孤独な死。それらの死へ至る過程はまったく違うが、死の瞬間はどれも同じだと思っている。

 2010年8月22日

 やっと、止まっていた時間が動きはじめた。午後六時に流れる「夕焼け小焼け」から母が死んだ六時半までの哀しみは相変わらずだが、引きずることはなくなった。

 先日まで、医師の薦めに従わず母を病院に入れなかったのは誤りでは、と悩んでいた。今は、在宅で母を逝かせたことは正しかったと思っている。それは、母と死別して孤独の辛さを味わったからだ。けんか相手でもいて欲しいと願うのが本当の孤独だ。もし、入院させていたら母は孤独に耐えられず、必ず家に帰りたいと訴えたはずだ。

不十分な介護でも在宅なら母は最期まで孤独ではない。私は昼夜いつでも母のかたわらに駆けつけることができた。知人たちも毎日見舞いに来て、母のベット脇で過ごしてくれた。入院させなかったことで母の死期は早まったが、自宅で終える安らぎは病院では得られないものだ。

 朝から御諏訪神社の祭り囃子が聞こえた。去年の夏祭りは母の誕生日の八月二十四日だった。日記を読み返すと、その日は子供の頃の夏祭りの思い出を母と話しながら車椅子を押していた。

 私が育った大堂津には三島神社と秋葉神社の二つがあった。秋葉神社は無人だったが三島神社の方には宮司がいて、大きなムクロジュの木があった。ムクロジュの実の皮はサポニンを含みよく泡立つので、年寄りたちは石鹸代わりに使っていた。黒い種は羽子板の羽根の頭に使った。

夏祭りの間は社殿で氏子たちが神楽を舞った。古い面をかぶり、衣装をつけて単調な踊りを延々と続けた。子供たちはドラマチックな変化を期待していたのですぐに飽きた。

三島神社の裏山にはテニスコートほどの草原があった。草原では数年に一度、しめ縄を張って神楽が舞われた。母はその草原が好きで、よくゴザを持って昼寝に出かけていた。草原からは太平洋と七ツバエ(七つの岩礁)と大島が一望できた。山裾には鈍色の屋根瓦と、軒の低い町並みが広がっていた。

以前も書いたが、母がその草原が好きだったのは、当時、父が事業に失敗し、家に借金取りが押し掛けていたからだ。母は日中はそこで過ごしていたので、私は小学校から帰ると、お小遣いを貰いに草原まで駆け上っていた。

当地の借金取りに暗い記憶はない。親の借金と子供は別と考える土地柄で、厭な思いをしたことは一度もなかった。それは漁師町の特性かもしれない。漁師は浮き沈みが激しく、住民に明日は我が身の思いがあったからだろう。

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                     環八を行く神輿の列。

 2010年8月26日

 午後は母の遺品を整理した。アルバムを整理していて、二十代前半に大連で撮ったチャイナドレスの母の写真が見つけた。その写真に至るまでのできごとは、母の車椅子を押しながら断片的に聞いていた。

 母は子供の頃から身体が大きく、近所の男の子を引き連れて遊んでいた。墓場に行って、男の子に命じて墓石に小便をかけさせたり、夏は男の子たちと筑後川で泳いだりと、活発にのびのびと過ごしていた。

    

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                       二十歳の母。           

 二十歳前後のころ、母はたびたび上京していた。成人しても水泳好きは変わらず、東京の近郊のほとんどの海水浴場へ行った。都内ではお台場でよく泳いだ。昭和初期のお台場の海はきれいで、海水浴客のための渡し船が出ていた。

梅雨明け前の肌寒い雨の日に母はお台場で泳いだことがあった。その後、母は風邪をこじらせて肋膜炎を発症した。肋膜炎は結核の一種で当時は死病と言われていた。病名が知らされた日、これで自分の一生も終わりだと、泣けて泣けて仕方がなかったと、後年話していた。

 母は稲毛のサナトリウムで療養した。当時の治療は、十分な栄養をとり、オゾンの多い清浄な大気の中で過ごすだけだった。だから、冬でも病室の窓は開け放ってあった。体力があった母は10ヶ月の療養で生還した。
退院する日、同年代の女性患者が羨ましそうに見送っていたと母は話していた。おそらく、その人は亡くなっただろう。当時の結核患者たちの多くは母のように生還できなかった。

 その後、東京でのんびりしながら、横浜根岸で競馬があると出かけていた。幕末外国人居留地に作られた日本最古の競馬場で、英国風の社交場の雰囲気が残っていた。母はそこで若い中国領事館員と知りあった。

彼は中国の大財閥の息子で、仕事のため外交官身分で横浜に滞在していた。山の手の邸宅には料理人や使用人が大勢いて、何度も豪華な中華料理に招待された。
そのころ、母は彼から大きく立派な名刺を貰った。名刺裏には「この人に最大限の便宜を図るように」と墨書されていた。その名刺を見せれば、中国のどこでも生活は保証されると彼は話していた。

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                   東京でのモガ時代の母。

 間もなく、母は祖母千代に久留米へ呼びもどされた。帰ってみると、祖母は次々と人の保証人になって、今の金で三億ほどの債務を負わされていた。母は奔走して債務の一割の金を作り、債務者全員を一室に集めた。
「一割の金で承服していただきたい。もし、承服できなければ今後一円も払いません」
母はみんなの前で言い渡して債務を帳消しにさせてしまった。

債権者には高利貸しもいて、若い娘の無茶な要求をやすやすと承服するはずがない。それでも承服したのには裏があった。養父健太郎は早世したが、母と祖母は九州各地の侠客たちと交友を続けていた。債権者たちはそのつながりを恐れて、泣く泣く承服したのだと私は思っている。

 債務は解決したが、人の借金を引き受けてばかりいる祖母がつくづく嫌になっていた。ある日母は「銭湯へ行く」と言って家を出た。母は広い風呂が大好きだった。それは幼時期に遊郭で大きな風呂へ入った体験が影響しているのかもしれない。
私が小学生の頃、母は列車に乗って隣町油津の銭湯へよく連れて行ってくれた。今の赤羽に引っ越してからも、元気な頃は近所の銭湯へよく行っていた。

遅くなっても帰宅しない母を、祖母は足を伸ばして二日市温泉にでも行っているのだろうと、少しも心配しなかった。
その頃、母は洗面器にタオルだけで門司港から大陸行きの連絡船に乗っていた。玄界灘の寒風に吹かれて冷静になると、まだ洗面器を抱えている自分が可笑しくなった。母はセルドイドの洗面器を厳冬の玄界灘に投げ捨てた。

母は上海へ行きたかったが手持ちの金が足りず大連で下船した。大連港は氷結していて、船は何度も接岸を試みてやっと下船できた。その時、やっと大陸へ来たと、感動が沸々と沸き上がったと、後年、母は楽しそうに話していた。

母はいつも名刺を大切に持ち歩き、いつか満州へ行きたいと思っていた。銭湯へ行くと家を出た時、母は迷っていたが、その名刺が家出を決意させたようだ。
泊まった和式の旅館はガラス窓も障子も二重になっていて暖房がよく効いていた。落ち着いてから宿の中国人従業員に横浜でもらった名刺を見せると、財閥の支社に案内された。

名刺の威力は絶大で、すぐに住まいと仕事を世話してもらえた。最初の仕事は高級クラブの奥の席に座って客と雑談するだけで高給がもらえた。財閥の御曹司の後ろ盾のおかげで、母は上海でも満州でも、自由で豊かな生活が保障されていた。落ち着いてから祖母千代に大連にいると伝えたが心配はしていなかった。祖母は母の自由奔放な性格をよく心得ていた。

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                     満州で撮った写真

 母は大連、上海から満州のハルピンまで、日本にはない自由を楽しんだ。子供の頃、白系露人の少女の美しさや、合唱の素晴らしさを、母から何度も聞かされた。母の 好物のロシアケーキやボルシチはそのころに覚えた味だ。母は日本の狭苦しさから解放されていたが、同時に、日本人の横暴さにも嫌悪を感じていた。

帰国を決 定的にしたのは、日本人商社員たちとの夜のドライブだった。当時の夜道には中国人ホームレスが沢山寝ていた。彼らは面白がってハンドルを切っては彼らの足 を弾いた。
「どうして、そんなひどいことをするの」
母は怒ったが、彼らは平然としていた。母はすぐに帰国を決意して荷物をまとめ、数日後には満州から朝鮮半島経由で帰った。母は他にも酷い行状を見聞きしていたようだが、同じ日本人として恥ずかしいと、ドライブのこと以外は話さなかった。

  母は上海で買った宝石類を持っていた。列車が鴨緑江を渡る時、鉄橋の日満国境で列車は停止し税関検査があった。当時、朝鮮半島は日本の一部で、満州国は独 立国家だった。日本が満州国を独立国だと主張していた手前、形式的に税関審査はされていたようだ。母は宝石類の処置が心配になり、向かいの席の紳士に相談 すると、心良く預かってくれた。やって来た税関官吏は彼に直立不動で敬礼して去って行った。後で聞くと彼は満州国の高官だった。

 京城で祖母への土産に真鶴の味噌漬けを買った。今では天然記念物だが、当時は普通の野鳥だった。祖母千代は長生きできると喜んで食べた。帰国した頃から大陸での戦火は急拡大し、日本は戦争の泥沼に落ち込んで行った。

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               若い母のイメージでレトロな雰囲気を描いた。

 2010年8月31日

 昨夜、舌の先の皮がむけ赤くなっているのに気づいた。下前歯の角が当たっているのが原因のようだ。放っておくと舌ガンに変異するので、悩まず上野 歯科医院へ行った。予約なしだったが、運良く空きがあり、待ち時間なしで歯の角を丸くしてもらえた。昔、私のガンノイローゼは有名でアエラから取材を受 け、ガン特集で掲載されたことがあったくらいだ。しかし、母と死別してから病を恐れなくなり、処置への行動も迅速になった。

 歯科医院は赤羽自然観察公園の近くにある。治療の後、母が死んでから始めて公園に寄った。しかし、さらに野趣が失われていて、懐かしさはなかっ た。すぐに帰ろうと裏門へ急いでいると、田圃の係だった松下さんと会った。彼と私は同じ床屋さん使っていたので、母の死を伝え聞いていた。丁重にお悔やみ を言われると、胸が詰まって言葉が出ない。挨拶をプリントした死亡報告をいつもバックに入れていたので、それを渡し、何度も頭を下げて別れた。

 2010年9月3日

 誰とも話さない日が増えた。狭い住まいなのに使わない部屋ができた。生前、母が元気なころは、その部屋の椅子に腰かけテレビを見ながら手芸を楽し んでいた。テレビの上には五十号の私の絵が掛かっている。母は疲れると、絵の世界に入り想像して楽しんでいた。絵の題名は「夏の終わりに」絵描きに転身し た四十三歳に賞を取った作品で、買い取りの打診も多く、絵描きへ転身の自信を深めた作品だ。以来二十二年、母は毎日この絵を見て過ごしていた。

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 久しぶりに母の椅子に腰かけた。絵の右壁に六月からめくられていないカレンダーを見つけた。母のカレンダーは総て処分したつもりだったが、見落としていたようだ。すぐに八月までめくっておいた。

 2010年9月4日

 気温は三十七度まで上昇したが湿度が低く過ごしやすかった。散歩は夕暮れに出かけた。外出に音楽プレイヤーを欠かさなくなった。母の車椅子を押し ている頃は安全を考え、音楽は聞かなかった。耳栓型イアホーンなので外の音はほとんど聞こえない。夕暮れの緑道公園でイアホーンを外すと、ツクツクホーシ が降るように鳴いていた。

子供のころ、遠くへ遊びに行っての帰り道、夕日に照らされた山からツクツクホーシの声を聞くと心細くなった。息せき切って駆けて帰ると、「どこまで遊びに行っていたの」と、母が優しく迎えてくれた。その安堵感や暖かい夕餉を懐かしく思い出した。

 2010年9月8日

 涼風で目覚めた。玄関前通路の手摺に雨が打ちつけている。室温は二十八度と涼しかった。今も、介護中のクセが抜けず、二時間おきに目覚める。今日 は日中もウトウトと眠っていて、総計すると十時間は眠った。開け放った窓から雨音が聞こえ、涼風が吹き抜けた。毎日、生きている充実感を取り戻そうと懸命 になっている。

 2010年9月17日

 新しくジーパンを買った。二十年は保つので、はきつぶす前に私の寿命は終わりそうだ。
母は多くの衣服を残して逝った。昔なら無駄にせずに、誰かが使い回してくれたが、今はそうはいかず、ほとんどは捨ててしまった。

 午前中、近所のおばあさんが弔問に来た。母より一回り下の八十七歳。
「良い人は若死にしますね」
彼女はさめざめと泣いた。彼女より年上の母が若死にとは変だと思いながら、神妙にうなづいていた。この話しを母にしたら、楽しそうに笑っただろう。

 最近、年齢の近い絵描き仲間が次々と逝く。話し相手が減るのは寂しいので、努めて若い友達を作るようにしている。それでも、年と共に話し相手は確実に減って行きそうだ。ものが減るのは快適だが、友人知人が減るのは寂しい。

 2010年9月19日

 深夜、背中が痒くなったが孫の手が見つからなかった。母の部屋まで行って探したが見つからない。生前、母は背中が痒くなると、深夜でも私を呼んで痒み止めを塗らせていた。
私は年取っても自分で工夫するほかないと嘆くと、「その時は、わたしが化けて出て、背中を掻いてあげる」と、母が気楽なことを言っていたことを思い出した。

「約束したのに、出てくれないね」
私は暗い部屋で仏壇に話しかけた。それから仕事部屋に戻ると、孫の手は仕事机の前に落ちていた。何度も探して見つからなかった場所なので不思議な気がした。もしかすると、母がそこに置いてくれたのかもしれない。

 2010年9月20日

 画家の遺作展に鎌倉の大船を訪ねた。画家は私より少し上の六十八歳。まだ活躍できる歳なのに肝臓ガンで八月に逝ってしまった。湘南は七年ぶりだ。早く着いたので、会場のある大船は通り過ぎて北鎌倉で下車して円覚寺を訪ねた。

北 鎌倉駅裏の円覚寺は、休日にもかかわらず静かだった。本堂にお詣りを済ませた後、木陰の茶席で休んだ。客は私一人で、点ててもらったお茶が美味しかった。 抹茶が大好きだった母を連れて来たら喜んだだろう。涼風がサラサラと木の葉を揺らすのをぼんやりと見上げていると、止まっていた時間がゆっくり流れ始める のを感じた。

 お茶を済ませ蝉の声を聞いていると、点ててくれた女性が話しかけた。最近亡くなった知人の法要に来たと話すと、気の毒そうな顔をした。その憂いを 帯びた表情に、ほのかな色気を感じた。今年は訃報が多く、死についてばかり考えていた。ふと、生きていることを享受しなければと思った。

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 大船へ引き返し、知人と合流して画家の遺作展を拝見した。遺作はすばらしく、多くの可能性を残して逝かなければならなかった作家の無念さが伝わっ た。残されたご主人と故人の思い出を話した。彼は私より十歳年上。故人は世話好きだったので、彼は家事はまったくできない人だった。そんな彼が一人で老後 を過ごすのは大変に思えた。

 2010年9月30日

 母が元気なころは、銀座や浅草に外出すると、必ずお土産を買って帰った。帰宅すると「楽しかった」と、ベットから母が聞いた。土産を見せると子供のように喜んでくれた。しかし、母のいない住まいに帰宅しても以前のような安らぎがなくなった。
死別以来、人生に旅を重ねるようになった。様々な人と出会っては別れ、最期に総てに別れを告げ、生まれたままの無に帰る。

 2010年10月2日

 桐ヶ丘生協からの買物帰り、とぼとぼと歩いているおばあさんに会った。追い抜いて振り返ると知っている人だった。声をかけると、「どなた様でしたか」と彼女は聞いた。
「母の車椅子を押していた私ですよ」
説明したが思い出せない。今年の春に母と会った時、
「しばらくお会いしなかったので、どうされているのか心配していました」
彼 女は母の手を取ってさめざめと泣いていた。それから半年足らずなのに、何も覚えていない。

彼女は八十五歳のご主人と二人暮らしだ。子供は遠くに住んでい て、ほとんど出入りしていない。老夫婦の先行きを思うと気持ちが沈んだ。母の死は伝えず、「お体を大切に」と、ねぎらって別れた。

 その後、赤羽台団地商店街の昔馴染みの文房具店に寄った。団地は老人ばかりになって、商店街はシャッター通りになった。一人ぽつんと座っていた女 店主に声をかけると笑顔になった。手に取ったメモ帳は必要なかったが買った。支払いを済ませた後、七月一日に母が死んだと伝えた。

母の死を聞くと、彼女の 顔は曇り涙声になった。私たちは四十年前に彼女が嫁に来た頃からの知り合いだ。それから生まれた子供たちは成人し、今は小学生の孫がいる。死の二ヶ月前に 会った時、母と彼女は懐かしそうに昔話をしていた。昔の団地は子供が多く活気があった。そして、私たちもとても元気だった。その後の変遷を振り返ると夢の ようだ。

 2010年10月5日

 毎日、東京北社会保険病院の庭で椎の実を拾っている。この数日は数分で両手一杯に拾えるほど落ちている。椎の実は煎ると香ばしくてほの甘く、食べ 始めると止まらない。母も、数粒なら喜んで食べていた。椎の実を拾い終えて腰を伸ばすと、風に揺れる梢の音が母が話しかけているよう に聞こえた。

 昨夜、死んだ母と裕子姉の夢を見た。
「やっと着いた、着いた」
母は陽気に姉と喋りながら帰って来た。母の持ち物をぜんぶ処分していたので、私は慌てた。
「正喜が使いやすいようにしたら良いの」
言い訳する私を母は笑っていた。夢はそこで終わって目覚めた。深夜二時近くで外は真っ暗だった。哀しくはないのに涙がいつまでも流れ落ちて止まらなかった。母の夢を見たのは、私の体調がすぐれないからかもしれない。

 2010年11月13日

 昨夜の雨で濡れた紅葉が一段と鮮やかになった。毎日、枯れ葉の積もった道を選んで散歩している。知人たちの作品展のオープニングが続く。連日、介 護生活中の不義理を埋めるように銀座へ出かけている。飲むとサービスしてしまう性格で、バカ騒ぎしては自己嫌悪におちいってしまう。飲んでしゃべっている 私はふだんと落差が大きいらしい。だから、飲んだら人前ではしゃべるなと友人たちに釘をさされている。

 2010年11月21日

 十五日、右左両側の鼠径ヘルニアの手術を一度にした。一週間過ぎて、痛みは残っているが普通に歩き回っている。術後、なぜかワインが美味くなった。鼠径管を塞いだポリプロピレンのメッシュの影響でもないだろうが、人の生理は変なものだ。

 先日、晃子姉が来た。
「早いね、死んでから五ヶ月も過ぎた」
姉は少しなげいてから、そそくさと帰って行った。母が元気な頃、姉 は何か良いことがあると訪ねて来て、自慢話をして帰っていた。二人が楽しそうに話していた声が今も耳に残っている。

姉は何も言わないが、話しを聞いてくれ る相手がいなくなり、張り合いがなくなったようだ。心から耳を傾けてくれる親は他では替えられない。私も、絵を見せる相手がいなくなって張り合いがなく なった。

 いつも寂しさがあるせいか、ささやかな幸せに敏感になった。仲の良い家族連れや、楽しそうに遊んでいる子供たち。そのような何気ない光景を眺めるだけで胸が一杯になる。

散歩に行こうとエレベーターホールへ行くと、ボタンを押していないのに無人のエレベーターが下りて来て止まった。
「雲までエレベーターで昇れたら楽しいでしょうね」
生前、母がよく話していた。もしかすると、雲の上から母がエレベーターで下りて来たのかもしれない、と思った。

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                   東京北社会保険病院の庭。

 2010年11月30日

 母が死んで直ぐのころの喪失感は、暴風にさらされているようだった。今は、しんしんと深まる厳冬の冷気のようだ。すぐに終わる苦しみはどんなに激しくても耐えられるが、いつ終わるとも分からない辛さは耐えがたい。

先 日、両側の鼠径ヘルニア手術を受けた時、左側の脊椎麻酔が弱くてメスの痛みを感じた。しかし、若い執刀医の集中をじゃましないように、だまって激痛に耐え た。それができたのは、すぐに終わると分かっていたからだ。

しかし、その後の首の寝違いは耐えがたかった。一日中、痛みが続き、吐き気を覚えるほどだっ た。それはいつ終わるとも分からない終末期の苦しみに似ていた。すぐに終わる死の苦しみは手術の痛みのようなものだ。だから、死の苦しみは耐えられると 思っている。

 買い物帰り、東京北社会保険病院庭のベンチで休んだ。飛行船が上空を過ぎて行くのを、ぼんやりと見上げていた。そんなことが自由にできるは、母の介護が終わったからだ。

 2010年12月30日

 正月を迎えるために、台所と神棚と仏壇の大掃除をした。ゴキブリたちが気持ち良く食事をしてくれるように「ゴキブリレストラン」のホコリもきれ いに拭いた。

父は博多、母は久留米の出身なので、おせち料理にガメ煮は欠かさなかった。ガメ煮とは、鶏肉、ゴボウ、人参、蓮、クワイ、里芋、コンニャクな どを煮込んだものだ。クワイの皮むきは母の仕事で、去年の暮れ、テーブルで皮むきをしていた後ろ姿を思い出した。一人なのでガメ煮作りは止めた。

それでも 屠蘇を漬け、雑煮の材料に、数の子、黒豆などをそろえた。博多の雑煮はブリ、エビ、伊達巻き、青菜、椎茸と具沢山だ。料理を減らしたが、今日一日、買い物 に駆け回っていた。

 今年ほど喪失感について考えたことはない。かっての大家族では老人を頂点にしたピラミット型に子供、孫と裾野が広がっていた。頂点の老人が死ね ば、順繰りに下位の家族が出世するように入れ替わった。そのシステムのおかげて年を取るほど尊敬を受け、喪失感は軽かった。

失ったものの代わりがあれば辛 さは薄められる。しかし、見つからないと長く引きずる。老いが受け入れやすいのは徐々に進行するからだろう。対して、突然の大切な人との死別や、事故によ る運動能力の喪失、末期がんの宣告、いずれも深い喪失感をもたらす。

去年から今年にかけて私は収入が途絶え、家賃を滞納し、母を抱えたままホームレスになると本気で恐れていた。しかし、知人たちの尽力で奇跡的に危機を回避し、今も生活を続けている。そのように金が原因なら新たな収入で、失恋なら新しい恋人ですぐに解決する。

 午後、買い物へ出る時、エレベーターでマサキ君兄弟とお母さんの三人連れと一緒になった。マサキ君は私と同じ名なので、赤ちゃんのころからよく知っている。
「よおっ、いい車だね」
マサキ君の補助輪付きの自転車をほめた。
「車じゃないよ。自転車だからエンジンはないんだ。でも、ビューンと走るよ」
マサキ君は無邪気に説明した。子供たちの笑顔はとても可愛い。久しぶりにほのぼのとした。

 2011年1月13日

 散歩に音楽プレーヤーを持って出るのを忘れた。音楽がないと、回りの物音が良く聞こえた。風の音、小鳥の声、日溜まりで子供をあやす母親の唄声、 どれも優しく心に染み入った。

見上げればいつも青空は見えたのに、長い間、その美しさを忘れていたようだ。母と死別してから半年。ようやく、明るい現実へ 一歩踏み出せたようだ。

母の記憶も変化して来た。去年までは死ぬ前の弱った母の姿ばかり思い出していた。今は元気な頃の姿が目に浮かび、懐かしい気持ちで一杯になる。

 2011年1月16日

 六十六回目の誕生日だった。今年は私とパソコンだけが覚えていた。朝、ニフティからメッセージが届いたが、自動送信なので、さほど嬉しくなかった。

「尾頭付きを用意しなくてはね」
母が生きていれば、必ずそう言っていた。しかし、料理するのは私なので、いつもメザシやチリメンジャコの尾頭付きを食べていた。そんな私を母は楽しそうに眺めていた。今日も、郷里大堂津から送って来たメザシを焼いて祝った。私はタイより、メザシの方が好きだ。

 先日、東京北社会保険病院でコレステロールと動脈硬化の検査受けた。父の家系は脳梗塞が多いので、何としても避けたい。結果を聞きに病院へ急いで いると、道路の向こう側を顔見知りのコーギーが散歩していた。
見つかると厄介なので、隠れて行き過ぎようとしたら、「こっちにいるよ」と吠えられてし まった。仕方がない、道を横切って可愛がっていたら遅刻してしまった。診察結果は動脈硬化はなかったが、総ステロール値は三百と、とんでもなく高かった。

 病院帰りに、知らないトイプードルと目が合った。ワンコは立ち上がって尻尾を振り、おいでおいでをしていた。飼い主はきれいな人なので、よしよしと相手をしてあげた。
「この子はとても臆病で、知らない人は怖がるんです」
飼い主は目を細めていた。
「私のことをワンコだと思っているだけですよ」
謙 遜したが、どうして好かれるのか不思議だ。母と死別してから、イヌやネコに好かれるようになった。今日は東京北社会保険病院の庭で、警戒心の強いツグミが 近づいて来た。動物たちだけでなく、年寄りや子供たちからもよく声をかけられる。
今日も買い物先で、「寒いですね。」と、知らない年寄りから親し気に声を かけられた。昔、子供や動物たちには死んだ人の魂が見えると聞いたことがある。もしかすると、私のかたわらいつも母がいて、動物や子供たちを呼び寄せてい るのかもしれない。

 2011年1月18日

 寒さの所為でケフィアヨーグルトの発酵が遅くなった。母がいないので暖房を抑えているせいだ。ヨーグルトは食べ終えたら一割の種に新しい牛乳を加える。夕食にヨーグルトを食べ、新しく仕込もうと思ったら牛乳がない。慌てて、川向こうのライフへ買いに行った。

帰り道、満月を見上げながら新河岸川河畔をのんびり歩いた。遊歩道には街灯がなく、地面に私の影が映っていた。ふいに、子供の頃、満月の夜に影踏みをして遊んだことを懐かしく思い出した。

 昭和二十九年ころ、郷里大堂津隣の港町目井津で、短い期間、父は小さな映画館を経営していた。当時は映画全盛期で、父は一発当てようと畑違いの仕 事を引き受けたのだろう。母は毎日出かけて切符売りを手伝っていた。時折、私たちは映画を見に訪ね、

帰りは母と一緒に大堂津まで歩いて帰った。子供心に深 夜だと思っていたが、九時くらいだったと思う。その時間は汽車もバスも終わって、一里程の海岸沿いの夜道を母たちと歩いた。父の姿がなかつたのは自転車で 先に帰っていたからだ。

満月の夜は母とすぐ上の姉と影踏みをしながら歩いた。月に照らされた白く光る道を、母たちと遊びながら帰ったことを夢のように思い出す。映画好きの母は毎日楽しそうに手伝っていた。殊に大入りの帰りは、十円玉で膨らんだ袋を「重い重い。」とうれしそうに下げて歩いていた。映画狂の母は映画館の仕事は楽しかったようだ。

 父は大阪まで新作を借り入れに行き、日本で二番目のカラー作品「夏子の冒険」を南九州で最初に上映した。父は晩年までそのことを自慢していた。宮 崎の少女歌劇団や、三つの歌や、東京の奇術師や、父は手当り次第に興業を打ったが、どれも入りははかばかしくなかつた。結局経営は行き詰まりすぐに経営か ら手を引いてしまった。

しかし、私には楽しい記憶が残った。映写技師からもらったカーボンや映画フイルムの切れ端を友達に自慢して羨望を集めた。 カーボンとは銅の被覆で覆われた黒鉛の丸棒で、鉛筆のように落書きに使えた。当時の映写機はカーボン先端をショートさせたアーク光を光源にしていた。アー ク光は高熱を発し、たびたびセルドイドのフイルムは焼き切れた。フイルムが切れると「早くしろ」と館内は大騒ぎで、映写技師は汗をかきかきハサミでフイ ルムの画像を削り取り接着剤で繋いでいた。 

 2011年2月3日

 私は無宗教だが、先に逝った父母や兄姉の魂は信じられる。それは母も同じで、死んだら溺愛してくれた祖父甚兵衛に会えると楽しみにしていた。母は呼吸困難に苦しんでいても、心の中では先に逝った死者たちに囲まれ、楽しかったのかもしれない。

魂は現実にはないものだが、ひたすら信じれば心の中で共に生きてくれる。医学が死に対して無力である以上、神や魂を信じるのはきわめて合理的なことだ。

 死別から八ヶ月過ぎた。八年間の母の介護に対して、今は次のように思っている。母を在宅で看取った直後、失うばかりで、これほど報われない行為はないと思っ ていた。今は介護をしたことが無駄ではないと思っている。最大の収穫は、誰にでも訪れる老いや病や死を恐れなくなったことだ。

 母の介護については不十分なことが数多くあり、そのことを悩んでいた。しかし、今は違う。先にも書いたが、本当の孤独を知ったからだ。孤独とは、た とえ喧嘩相手でも傍にいて欲しいと願う程の辛さだ。まして、私は母の子供だ。介護が不十分で腹立たしいことがあったとしても、私が最期まで傍らにいたことに、大きな救いを感じていたはずだ。

母の死の1ヶ月ほど前、私が疲れて自室で寝ていた時のことだ。母が不自由な体で私の部屋までやって来た。
「どこか悪いんじゃないの。あまり静かなんで、心配になって・・・」
部屋の入り口に、やっと立っている母が言った。
「ちょっ と昼寝していただけだから、心配いらないよ」と、母をベットまで連れて行った。母は孤独に弱い。人の何倍も苦労はしたが、本当の一人暮らしは経験してい ない。いつも傍らか、直ぐ近くに家族がいた。
そのような母が、もし、病院の危篤患者用の病室にいたとしたら、私は24時間母に付き添う訳にはいかず、母は 最期の大切な時間を地獄のような孤独の中で過ごすことになった。しかも、現代医学なら命を2,3ヶ月延ばすことは容易だ。おそらく、骨と皮になるまで苦し みながら生き続けただろう。しかし、私は母の死の瞬間まで手を握り、頭を撫で続けた。そして、母はやつれることなく、ふくよかな顔で逝くことができた。

 2011年6月27日

 生協で買い物をすると、入り口脇にゴールデンが繋がれていた。飼い主は買い物中で寂しそうだ。声をかけると情けない顔で私を見た。以前は、そのような出来事を母に話すと、とても喜んでいた。今、そのような平凡な日々がとても懐かしい。

テレビで3月11日の3時以前に戻りたいと三陸の被災者が話していた。
今日も公園で頸椎損傷の後遺症のため必死にリハビリをしている熟年男性に会った。彼もまた、頸椎損傷する前の健康な自分を思い出しては否定する毎日なのだろう。

そして今の私は、喪失感に加え体の節々が痛み悲鳴をあげている。平凡でも平和な生活のすばらしさを嫌と言うほど思い知らされている。

  命日の7月1日が近づくにつれ、母のことを思い出す。今日も、買い物帰りの13階への長い階段を上りながら母の死を考えた。上りきった13階の明るい空を 見上げた時、死の直前、母が遠い視線をしていた意味が分かった。母は息絶え絶えの苦しい時間を過ごした末に、明るい空が見えて安堵したのだろう。だから母 は、空を見上げるような遠い視線をしたのだと思う。生きているとは終わりのない階段を上り続けることだ。死は、疲れはててもう一歩も上れないと立ち止まった時に訪れる。だから、階段を上る苦しみの中に生きていることを実感している。

 2011年7月5日

 上野歯科医院に、3ヶ月に一度の歯石クリーニングに行った。たまたま昨夜、奥歯に詰めていた紫外線硬化樹脂が外れたので、ついでに治してもらった。治療は手早く、樹脂を詰めて擦り合わせもすぐに終わった。歯肉も歯も健康を保ち気分がいい。

歯科医院からの帰り道、母が生きている頃は、「治療が終わったからすぐに帰る」と家に電話を入れていた。それを思い出して、何となく家に電話を入れてみた。誰もいない家で呼び出し音が鳴り続けるのを聞いて、「だれも出る訳がないのに・・・」と、つぶやいて切った。

  最近、母のクセが自分に移っていることに気づいた。母は料理に被せるラップを一度で捨てられず、何度か使い回していた。「安いものだから、捨てなよ」と 言っても、もったいないからと聞いてくれなかった。しかし今、私が同じことをしている。もったいないからではなく、そうすることで、母が私の中に生き続けているような気がするからだ。母もそんな気持ちで使い回していたのかもしれない。

 2011年8月28日

 去年の夏は1度しか赤羽自然観察公園に行かなかった。行くと母の記憶が蘇り辛かったからだ。しかし、今年の夏は3日に1度は行っている。
公園に行くと管理棟前の椎の木陰で休む。母を車椅子散歩に連れて来ていた夏、私はいつも木陰の四角い石に腰かけて休んだ。その場所は、いつも涼風が吹き抜けて心地良かった。

私はその石を母の墓石だと思っている。とは言っても、拝んだりはしない。
今日もいつものように石に腰かけて休んだ。
「疲れたでしょう。ゆっくり、休みなさい」
休んでいると、と母の声が聞こえたような気がした。
車椅子を押して炎天下を行く私を、母はいつも気遣っていた。最近、終末期の母の笑顔をよく思い出す。あれは死を覚悟して潔くなれたから笑顔が多かったのだと思っている。
もうすぐ夏休みが終わる。近くのテーブルに水鉄砲を置いて、子供たちが駆け回っていた。

 2011年9月3日

 母が死んでから、独り言をつぶやくようになった。回りを見渡して誰もいないことを確認してからつぶやく。そ うしないと、変な人に思われてしまう。先日、散歩しながら「あー、嫌だね」と昔の失敗を思い出してつぶやいたら、直ぐ横を歩いていた若い女性がビック リして見た。彼女に言ったのではないと、再度、自分の頭を叩きながら「嫌だ嫌だ」と繰り返すと彼女は安堵していた。

家で絵を描いているの で人と会うことは少ない。おまけに一人暮らしなので、その気にならないと本当に人と話す機会がない。定期的に友人に電話をするが、相手によっては長電話になるので、毎日は無理だ。一番良いのは散歩コースで出会う顔馴染みたちとの数分の立ち話しだ。しかし、毎日都合良く知人に会うわけではなく、勢い独り言が 増える。

最近、つぶやくのは次のようなことだ。
「色々苦労したけど、悪い一生じゃなかったな」
そして、「かあちゃんも、悪い一生じゃなかったね」と続ける。
私は母を「かあちゃん」と呼んでいた。高校生になった頃、それを恥ずかしいと思い「かあさん」と呼んだことがある。すると「バカ、何言ってるの」と母に一蹴され、二度と使わなかった。

可愛いペットに会ったり、旧知の人の近況を聞いた時など、心の中の母に語りかけている。当然だが母の返事は聞こえず、少し寂しくなる。
先日、そのことを知人の未亡人に話した。
「私の場合は、話しかけると、彼があの世から返事してくれる」
彼女はそう話していたが、その境地に私は達しそうにない。

 2011年9月8日

  朝食後、少し眠った。夜、十分に眠れず、5時間ほどで目覚めるので、眠くなったら少しだけ昼寝をすることにしている。眠ったのは30分ほどで、久しぶりに 母の夢を見た。私は車椅子の母と喫茶店でコーヒーを飲んでいた。それから帰途につくと、突然、石ころだらけの海辺の道に変わり、車椅子を押せなくなった。 それから先はどうしても思い出せない。

ほの暗い眠りの中で、私を呼ぶ母の声が聞こえて飛び起きた。すぐに、「また、幻聴か」と、つぶやきながら虚しさがこみ上げた。しかし、母の声がとても明るかったことに救われた。

ふ いに、長年介護していた父親を亡くし、喪失感に苦しんでいた知人を思い出した。彼女が父親と死別から4年過ぎた頃、父親の夢を見たと手紙が来た。それには 夢の中で父親と話したとあり、目覚めた後、喪失感が薄れていたと書かれていた。どんな会話なのかの説明はなかったが、今、彼女の気持ちが何となく分かっ た。

 2011年10月2日

「1日が終わるのが早くて、嫌になっちゃう」
母が元気な頃、夕暮れになるとそう言っていた。
そして、97才と長命だった最期も
「一生が終わるのが早くて、嫌になっちゃう」
と、思いながら逝ってしまったのだろう。

 97歳で死んだ母ですら、一生は瞬時で終わった。自分の一生を確認するには、日記のページをめくるにように時間を遡る他ない。

総ての過去は今の一 瞬に集約されている。だから、私が死ぬ時、記憶にある総ての人は、60年前に死んだ父方の祖母も、36年前に死んだ母方の祖母も、30年前の父も、去年死 んだ母も、共に死ぬことになる。幸せな時間も辛い時間も一瞬で過ぎ去る。だから、思い出はとても大切なものだ。

八年間で私が母の車椅子を押した距離は二万 キロを越えていた。その記憶は、私のかけがえのない大切な思い出になった。
そして、もう一つ大切なものは母の残した言葉だ。
「私は世界一幸せだった」
死が近づいた頃、母はよくそう言っていた。何と大仰なと思ったが、今はその言葉が救いになっている。母は、残された私が後悔しないようにそう言ってくれたのだと思っている。

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そして、最期の吐息と心音を記憶できたのも、母の心遣いだと思っている。

2012年11月10日

日医大講堂での献体の白菊会合同返骨式に姉と出席した。
母を献体した日、来訪された解剖学の助教授に母の両膝のチタン合金製人工関節を貰えないかと話した。そのことは主任教授にも伝わっていて、保管瓶に入れたチタン製の関節を会場で手渡された。教授の誠実さがとても嬉しかった。

左右の人工関節はそれぞれ標本を入れる密封瓶の防腐剤水溶液に入れてある。関節は乾燥させ、母の組織が付着した接続面に樹脂を含浸させた上で石膏で固めてオブジェを作る予定だ。
空になった瓶は果実酒を漬けるのに最適だから、姉にやると言うと「いらない」と拒否された。

帰りは姉と千代田線千駄木駅まで歩いた。
道々、姉は母の墓をどうするのかと聞いた。私は墓などどうでも良いと思っているが姉にはそれは出来ない。それで、樹木葬について話すとすぐに賛同した。
姉とは京浜東北線西日暮里駅で別れた。

赤羽駅からは母の車椅子散歩の道を辿った。母が親しくしていた床屋さんを覗くと主人は散髪中だった。ガラス越しに手を振ると、彼はすぐに友禅染の風呂敷に包んだ四角い箱に気づいた。
「お帰りになったの」
外に出て来た彼は遺骨に手を合わせた。
突然に、それまで押さえていた哀しみがこみ上げてきたので、挨拶もそこそこに辞した。

住まいの1階エントランスには、母が白菊会に向かう時に乗ったエレベーターが止まっていた。エレベータは三つあるが、それだけが遺体を載せられるように奥行きを広くできるように作られている。白菊会へ向かったあの日のことが走馬灯のように想い浮かんだ。

「本当に久しぶり。やっぱり家は良いわね」
帰宅して母の部屋に遺骨を置くと、母の明るい声が聞こえたような気がした。
仏壇の前の台を片付け遺骨を置く場所を空けた。その時、母が好きだったオルゴールに触れて、飾りのグラスファイバーが七色に光り「星に願いを」のメロディーが流れた。長く動かしていなかったので、電池はすぐに切れメロディーだけを奏で続けていた。

死別から2年4ヶ月のフワフワとした存在感のない日々から現実の重みが戻って来た気がした。現実の重さには煩わしさが伴うが、それは嫌なことではない。

その日から1ヶ月かけて、遺骨を乳鉢で微粉末にして、母のゆかりの公園に撒いた。
一番多く撒いたのは、最後に連れて行っていた公園の、古墳のように優しい草原の丘だ。毎日の散歩途中に立ち寄って眺めていると、とても安らぐ。遺骨の主成分リン酸カルシウムは花の肥料と言われている。その所為か、母が生まれ変わったように色鮮やかな花が咲いた。 

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母の人工関節を石膏で固め、生前、母が作ったビーズのブレスレットで飾った。

2013年11月

今も思い出したように自然公園へ行く。
すっかり早くなった秋の夕暮れ、歩道の手摺に寄りかかっていると、母をリハビリさせている若い私を、タイムマシンから眺めるように想い出した。

思い出の中で、
若い私はソロソロと手摺を伝い歩きしている母の後ろを追っていた。
伝い歩きしている母の足元を、鳩たちが馬鹿にするように追い抜いて行った。
「鳩は足が短いのに、歩くの早いね」
想い出の中で、若い私は母に話しかけた。
「笑わせないでよ、転んじゃうから」
母は立ち止まって、楽しそうに笑っていた。
やがて、若い私は母の車椅子を押しながら去って行ていった。

秋の夕暮れに一時の追憶は消え、老いた私が取り残された。
若い頃の私は行く末を様々に予測していたが、老いの陰翳までは考えていなかった。
「秋が過ぎ冬が過ぎて春が来て、夏が過ぎ1年が終わる。再び季節が巡り、それを何度か繰り返している内に季節が止まり人生は終わるのだろう」
人生が舞台なら、そのような台詞をつぶやいて舞台からフェードアウトする。

御諏訪神社下の道で、よく会っていたおじいさんを最近見かけない。彼はいつも境内から舞い落ちる落ち葉を掃除していた。
「いつも綺麗にしていただいて、ありがとうございます」
生前、車椅子の母が礼を言うと、彼は嬉しそうだった。
その頃、彼は80歳くらいだったから、健在なら80代後半だ。
寝込んでいるのか、それとも亡くなったのか、老人の年月はあっという間に過ぎてしまう。

老いてからの年月は荒馬のようだ。しっかりとしがみついていても、やがて振り落とされる。我々にできることは心の準備くらいで、どんなに周到な準備をしても、最後は意味をなさなくなる。

そう言えば、父母の世代は子供たちに最期まで面倒を見てもらえた。だから、老後を心配しなかった。祖母も父もいい加減に生きて来たが、それでも家族に看取られて旅立って行った。
・・・・・

2017年、まだ私の人生は終わらない。
寂しさには慣れたが、母との会話は続いている。



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