« 第五章 母の老いは穏やかに安定するよに思えたが、現実は厳しかった。 | トップページ | 第三章 肝臓ガン再発の不安な日々 »

第四章 安定はつかの間で、母は吐血し緊急入院した。

二千六年一月四日 母九十二歳

 元旦から仕事をしようと思ったがその気分が乗らず、三が日は映画を見て過ごした。昨日は「レジェンド・オブ・ホール」の録画を見た。ブラッド・ピットとアンソニー・ホプキンの競演でモンタナの雄大な風景を背景に、家族愛を描いていた。
正月に家族愛のドラマは一人者の私の胸にぐさりと刺さる。何故家族は大切なのか、私には痛い程分かる。

元旦と二日は肌寒い曇天で、母を連れて行った自然公園は閑散としていた。昨日三日は穏やかな好天で、顔馴染みが多く、何度も年始の挨拶を交わした。園内崖下のジャブジャブ池ではカワセミが放流された小魚を狙っていた。母と二人、ぼんやりカワセミを眺めて終わる正月も悪くはない。月日を濃密に使おうと、軽く使おうと、人生への意味は殆ど変わらない。

だから正月は一瞬で終わった。
「もしものことがあったら、タンスの一番下に死に装束がしまってあるから使ってね」
昨夜、母の様子を見に行くと、死んだ時にやって欲しいことを頼まれた。十年前から定期的に、母は私が忘れないように同じことを言う。

一月七日

 朝は七草粥を作った。母は珍しく美味しと完食した。朝食後、お屠蘇セットを洗って陰干しした。松飾りは明日朝に外す。同じことを数日前にしたような気がする。歳を取ると、1年はあっという間に過ぎてしまう。

散歩に出ると、道でスズメ達が楽しそうに餌をついばんでいた。明日のことを悩まず今を生きている彼らが羨ましい。完全な幸せは難しいが、完全な不幸も難しい。不幸でも、小鳥たちや青空や自然の草花が癒してくれる。

一月二十日

 今日は家庭医の黒木さんの往診日だった。しかし、予定時間を過ぎても往診に訪れない。黒木医院へ電話をしても繋がらない。不審に思って、医院前の床屋さんに電話で聞いてみた。
「黒木さんは一月八日に亡くなりましたよ」
床屋さんは沈痛な声で話した。思ってもいないことに私は驚いた。四十代前半の黒木さんは太り気味なだけで、突然亡くなるようには見えなかった。
往診の予定日は一月十三日だったが、彼は一週間早い六日に往診に来た。
「風邪がはやっていますので、くれぐれも気をつけてください」
黒木さんは帰りがけに何度も念を押していた。予定日を間違えたのは自分の死を予感していたからかもしれない。

 黒木さんは五年前、老人医療を目ざして当地に開業した。私が彼を知ったのは、二千一年晩秋、郵便受けに「往診します」の小さなビラが入っていたか らだ。それから間もなく、母が下痢で寝込んだので、医院まで出向いて往診を頼んだ。自転車を押す黒木さんと並んで、緑道公園を家へ向かっているとおばあさ んが挨拶した。
「先日は難うございます。おかげで、すっかり元気になりました」
その信頼して切っている姿に、黒木さんに頼んで良かったと思った。

母は脱水症を起こしているからと、黒木さんは深夜まで母に付き添って点滴をしてくれた。それ以来、月に二度の定期往診を頼んでいた。

 熱心なお医者さんだったが経営は大変だった。黒木医院の前を通る時、玄関に患者さんの履物が並んでいるのを見ると母はとても喜んでいた。

最近は患者も増え介護施設の嘱託医にもなった。やっとこれからの時の突然死は気の毒でならない。後日、彼の死の少し前に彼の奥さんはガン死していると聞いた。両親の死により、小学生の男の子が一人残されてしまった。

夕暮れ、医院前を通ると、ビル屋上の病院看板が虚しく点灯し ていた。ビルの持ち主が長期入院中で、自動点灯装置を切る者がいないようだ。孤独な老いと働き盛りの医師の死と母親も亡くした幼い孤児。それらは寒々とした光景だった。 

四月二十八日 

 一月に黒木医師が急死してから、あっという間に春が来て、咲き誇った桜は葉桜になった。
新緑の緑道公園を、老人三人が歩いていた。
「二十年前にもどりてぇな」
「そうだ、そうだ。あの頃は元気で、疲れ知らずだった」
老人たちの会話は後ろを行く私たちに聞こえた。
「あたしは、そんなことはどうでもいい。今日が良ければそれだけでいいの」
母が小声で茶々を入れていた。それは私も同じだ。今が良ければそれでいい。

 黒木医師が死んでから、往診してくれる医院を探し続け、やっと川向こうの生協浮間診療所に決めた。最近、母は極度の疲労と食欲不振を訴えることが増えた。早速、往診を頼むと三十分後に若い医師が来た。医師は色々と訴える母に優しく受け答えしていた。もしガンが再発していても、治療する気はないと医師に伝えた。母は往診してもらえると知っただけで元気になった。

 2006年5月1日

 母の食事量は去年と比べると三割以上減った。それでも体力を保っているのは、プリンやアイスクリームで補っているからだ。

 母は東京北社会保険病院で胃カメラ検査を受けた。検査室へ着くとすぐに母の喉に麻酔がされ胃カメラ検査が始まった。医師はモニターを見ながら、老人性の胃壁の萎縮、食道の軽い炎症、緊急性の無い平らなポーリープ、と症状を説明してくれた。

 その後、内科の診察を受けた。内科医は肝臓ガン再発を示す腫瘍マーカーを示しながら、今まで放っておいたことを非難した。医師の立場としては正論だが、九十三歳の母の年齢を考慮すべきだ。壮年と余命幾ばくもない老人とは治療のやり方は大きく違う。母と私が望んでいるのは、ガンを完治させることではなく、症状を取って楽にする緩和医療だ。

そのようなことを話すと、医師は面倒になったのか、母を外科へ回した。しかし、外科には何も期待できない。すぐに外科をキャンセルして病院を出た。すぐに行けば生協浮間診療所の午前の診察に間に合う。初夏のような暑い日差しの中、川向こうへ向かった。
「絶対に、死ぬまで気分良く暮らせるようにするからね」
道々母に話すと「信じているよ」と、母はうなづいていた。

 診療所に着くとすぐに診てもらえた。医師に経過を話し、緩和医療を希望していると話した。
「お気持ちはとても分かります。お母様の症状に応じて緩和治療をいたします」
彼女は丁寧に対応してくれた。気休めに少量の点滴をすると、母は体が楽になったと喜んでいた。ガンは治らなくても、共存して穏やかに生きることはできる。そのように、気休めの治療をしてもらうのが母の望みだった。

 病院から帰るとお隣の吉田さんが来た。彼女は検査の後そのまま入院するのではと心配していた。
「入院なんて二度といやですよ。ご飯は不味いしお金はかかるし、悪くなっても家で過ごすつもり。それで死んだら、あの世でモモちゃんを可愛がってあげる」
母は陽気に答えていた。モモちゃんとは先日死んだ吉田さんの飼いネコだ。母はモモちゃんをとても可愛がっていた。

 2006年5月6日

 散歩の出がけ、エレベーターホールに一匹の蛾がじっとしていた。二センチほどの枯れ葉色で微動だにしない。眼が青くかがやき、まるで異星から来た三角翼の宇宙船のように見えた。近づいても反応しないところを見ると、死期が近いのかもしれない。

 赤羽自然観察公園で知人に会うと母は快活に話していたが、私と二人だけになると無口になった。疲れて声を出すのも辛いようだ。最近の母の声はかすれ消え入りそうだ。
「もう少しで仕事はうまく行くから、それまでは元気でいてね」
帰り道、母に話した。
「もう、十分に良くしてもらったから、良くしてもらえなくてもいいよ」
母はすっかり良い人になっていた。仕事がうまく行くと知ったら、いつもの母なら高価な食べ物を並べてあれも欲しいこれも欲しいと並べる。そんな俗物の母が良い人に変わったのを見るのは寂しかった。

帰ると、エレベーターホールに行きがけの蛾が転がっていた。指先でつつくと、枯れ葉のように揺れた。どうやら命が尽きたようだ。数時間前まで足を踏ん張って生きていたのに、小さな生き物でも死は寂しい。

 2006年5月9日

 母は朝から口も効けないほど疲労困憊していた。いつもなら、母が始末している簡易トイレを私が代わって始末した。自分のトイレだけは最後まで自分で始末するとがんばって来たのに、その気力も失せたようだ。
私が始末するのを、母はベットから寂しそうに見ていた。
母は朝食は口にせず、診療所に往診を頼んでくれと言った。すぐに若い医師と看護師がやって来た。母は急に元気になって、詳細に体の具合を話し始めた。医師が採血して帰ると、母は再び元気がなくなり、テレビを消したまま暗い顔で寝ていた。

 2006年5月10日

 散歩から帰宅すると、診療所から血液検査の結果の電話があった。
「悪い箇所はありますが、重要な部分は正常の範囲内で、何も心配ありません」
医師の声は明るかった。うれしくて、すぐに母に伝えた。母は一応納得したが「体の不調は続いているのに。」と不満をもらした。

 2006年5月12日

 昨日、整形外科でペインクリニックをして腰が軽くなり、母は元気になった。公園へ連れて行くと、以前と同じ距離を歩いた。
帰りに赤羽駅近くのケアマネージャーを訪ね、新しい車椅子を受け取った。隣の空き地でバックミラーと安全ベルトを付け替えた。
「新しいのは乗り心地が良いね」
母はとても喜んでいた。

 車椅子は二センチの段差でも見落とすと、つまずいて前のめりになり母を放り出してしまう。それで、登山用ベルトとカラビナで安全ベルトを作って装着している。バックミラーは、歩道を無謀運転する自転車が多いので必要だ。車線を変える時、後ろを確認しないと追突されてしまうからだ。この二つのおかげで事故は起こしていない。

駅前に出ると、母はお金があるならコーヒーを飲みたいと言った。母が色々要求するのは元気になった証拠だ。高架下のスターバックスでカプチーノを頼み、シナモンとナツメグをたっぷりかけた。母は飲み干すとプラスチックサジをポケットへしまった。母は物が捨てられない世代で、台所の引き出しには持ち帰ったサジが大量にしまってある。

 商店街の「八百八」でイチゴを買い「まるます家」でウナギを買った。帰り道、床屋さんのゴールデンのラッキーに母が声をかけると、いつものように尻尾を振りながら吠えた。
「元気だよって、吠えてくれるのね。良かった良かった」
母と彼は老いたもの同士、通じ合うものがあるようだ。
緑道公園でお茶を飲んだ。新緑が美しい。つい先日まで桜が咲いていたのが夢のようだ。

 2006年7月16日

 曇天で小さな雨が舞っていた。雨具は持って散歩に出たが、着けるほどではなかった。公園の古民家で休んでいると、小母さんの一団がにぎやかにやって来て話し始めた。
「この前、大きなカメが団地の下の道を歩いていたね。何て名だったけ、あの緑ガメの大きくなったやつ」
彼女たち話しているのは、先日、私が助けた赤耳ガメのことだった。

 先日、公園からの帰り、団地下の炎天下の道を大きな赤耳ガメが歩いていた。可哀想なので、捕まえて近くの亀池弁天の池に放った。
「カメを助けたから、乙姫様がお礼に来てくれるよ」
母は浦島太郎みたいなことを話した。
「乙姫様は可愛いけど、お嬢様だから家のことは何もしてくれないよ。これ以上、料理を作ったり洗濯したりするのはいやだ」
「それなら、乙姫様のタイやタコの腰元たちならいいでしょう」
母は腰元たちなら働き者で優しいと言った。しかし、ウロコやイボがいやだ。手がかかっても可愛い乙姫様がいいと答えた。

 公園からの帰り、雲が晴れ日射しが照りつけた。どこからか精霊トンボが飛んで来て、母の帽子にとまった。オレンジ色がかった地味なトンボで、郷里ではお盆に大発生するので精霊トンボと呼んでいた。

トンボがとまっていると教えると、母は帽子を動かさないように気をつけた。車椅子と一緒に帽子も揺れたが精霊トンボは逃げなかった。環八の信号を渡り、エレベーターに乗っても逃げなかった。しかし、住まいのある十三階に着くと明るい空へ向かって飛び去って行った。

「甚兵衛さんが家を見に来たのかもしれないね」
大好きだった母の祖父が、精霊トンボに乗って訪ねて来たのだと母は話した。養母千代の父親甚兵衛とは血のつながりはないが、本当の祖父以上に母は慕っていた。

今日はお盆の送り火だ。夕刻、盆提灯を片づけた。この作業をしていると、いつも月日が止まったように感じる。

 2006年7月29日

 テレビで隅田川花火大会を中継していた。ベランダへ出てその方向を見ると、ビルの間に小さく花火が見えた。
「隅田川の花火が見えるよ」
ベットで布団を直していた母に教えた。
「きれいでしょうね」
母は手を止めずに答えた。ベットを直すのは私が手伝えば早いが、自分でできることは手伝わないことにしている。
「頭にのせる冷たいの、持って来てくれた」
ベットに横になった母が冷湿布のことを聞いた。
「さっき、そこへ置いたでしょう」
傍らを示すと「あっ、そうだったね」と母は笑った。母は最近、直ぐ前のことを忘れるようになり体力も一段階落ちた。しかし、悪いなりに平穏な日が続いている。

T_6

 散歩道で仲良くなった小次郎くん。ニコニコしている顔が可愛い。

 2006年8月24日 母93歳の誕生日。

 赤羽自然観察公園は静かだった。日射しが照りつける遊歩道の真ん中で、青トカゲが顔を赤くして日なたボッコをしていた。古民家の庭の砂地では、丸い小さな凹みでスズメたちが砂浴びをしていた。

遊水池からの流れにかかる橋で、中年男性二人が子供の頃のザリガニ釣りの思い出を話していた。すれ違う時、男のシャツの袖から彫りものがちらりと見えた。ヤクザ者がしている伝統的な彫りものだ。彫りものをしていたと話すと、母は養父健太郎の話を始めた。

 健太郎は片腕に小さな桃の彫りものを入れていた。
「父しゃん。梅干し入れとっと」
幼い母は養父をよくからかった。
「モモだ」
健太郎が恥ずかしそうに腕を隠すのが、母は楽しかったと話した。それは小さいが、美しい彫りものだったようだ。

 いつものように椎の木陰で休んだ。隣の炎天のグラウンドでは若者たちがサッカーの練習をしていた。遠くで、先ほどの二人連れが木陰に腰を下ろし見学していた。汗を流す若者達と中年やくざ二人。似合わない取り合わせだと思った。

 2006年9月5日

 今日は通所リハビリの日だが、母は休むと言った。明け方まで咳が続いて疲れてしまったようだ。朝食後、施設に休むと電話を入れ、母の様子を見に行くと椅子で居眠りしていた。

 九時半、居眠りしている母を起こして外の空気を吸おうと誘った。赤羽自然観察公園に連れて行くと、母はいつもの半分だけ歩いてくれた。帰り、再び母が無口になったので遠回りは止め、生協で食材を買った。

店内で旧知の高木さんに声をかけられた。母は高木さんの娘時代から親しくしている。高木さんは、最近視力が落ちてきたからと、買い物カゴのブルーベリーを見せた。それから互いの病気の話になって、母は生き生きして来た。
「貴女と話していたら、急に元気が出てきました」
別れぎわ母は彼女の手をしっかりにぎった。帰り道、母は外へ出ると良いことがあると喜んでいた。

 2006年10月7日

 夜、ベランダに出ると月が出ていたので、ベットの母におしえた。
「あら、月が出ているの」
母は返事をしたが、体を起こしてまで眺める気力はなかった。午前中の散歩までは元気だったが、夕暮れから腹が張ると苦しんでいた。ガスを吸収するガスコンを飲ませたり、腹をさすったりしたが良くならない。火曜まで病院は連休。朝までに回復してくれることを願いながら仕事に戻った。

 仕事をしていると、子供の頃の十五夜を思い出した。十五夜前には母に頼まれてススキの穂を採りに行った。母は縁側にススキを飾り、茹でた栗と里芋をザルに盛って月に供えた。子供たちは外に出て、月明かりの道路で綱引きをしたり、影踏みをしたりして遊んだ。それから、お供えを取りに行った。子供は自由に取るのが許されていたが、イモや栗ばかりで月見団子を供えている家は少なかった。

 赤羽自然観察公園のススキの穂が出そろった。もし、公園で夜を過ごせるなら、子供の頃のようにススキの原で月見をしてみたいと思った。テレビを消すと、新河岸川河畔の虫の声が仕事部屋まで聞こえた。

 2006年10月13日

 午後、完成した百号の注文絵のキャンバスを木枠から外して、丸めて梱包した。作業が終わった頃にディサービスに行っていた母が帰って来た。いつもなら、母は快活に冗談を言いながら送迎車から降りて来るのに、今日は元気がなかった。部屋に戻るとすぐにベットに横になった。

母が寝ている間に、梱包した絵を郵便局へ持って行った。郵便局帰りに車椅子用の空気ポンプを買った。これまで使っていた中国製ポンプは、昨日、音を立てて壊れた。今度は、いつまでも使えるように堅牢な品を買った。

母は食欲がまったくなく、少し食べた夕食をすぐに吐いた。深夜、ブザーが鳴ったので急いで行くと、吐いて寝具と寝間着を汚していた。すぐに着替えさせ、汚れた寝具を取り替えた。小さな汚れものは洗濯機で洗い、大物は浴槽で洗ってベランダに干した。単純な病気なら回復するが、ガンの再発なら緩和医療に頼るほかない。今日郵送した絵は、来春までに完成させれば良かったが母の体調に不安があり、前倒しで描き上げた。

 2006年11月15日

 明け方まで母は嘔吐を繰り返し、最後は透明な粘液を絞り出すように吐いた。診療所は九時開院。八時半に電話して受付に母の病状を話した。
「往診は午後になりますので、何とか連れて来ていただければ、すぐに点滴ができるように対応いたしますが」
受付は申し訳なさそうに話した。

すぐに母に暖かい上着を着せて車椅子で出かけた。外は北風が強く、母は押し黙ったままだった。診療所に着くとすぐ、処置室のベットへ横にさせた。医師が腹の各所を押さえて痛みはないか聞いた。痛みはないが気分が悪いと母は答えていた。

ブドウ糖に吐き気止めを加えた点滴が始まった。母は青ざめた顔で横になっていた。そのような生気のない母を今まで一度も見たことがない。一昨日、母は公園で歩き、知人と快活に喋っていた。あの元気は、ロウソクが燃え尽きる前の一瞬の輝きだったのかもしれない。すぐに吐き気止めの効果が出て、母は軽い寝息を立て始めた。点滴は一時間で終わり、吐き気止めのナウゼリンが二日分処方された。
「二日分を飲み終える前に、嘔吐はなくなりますよ」
別れ際の医師の言葉がうれしかった。

 嘔吐はおさまったが、食欲はなく疲労感は治らなかった。お昼前、晃子姉が来たので、母を頼んで買い物へ出た。お昼には、ほうれん草のおひたし、湯豆腐、ヨーグルトとゼリーを出したが、その殆どを残した。

最近、終末期緩和ケアのサイトを調べている。それによると、死が近づくと味覚が変わり肉類を嫌い、大きな器に盛った食事を嫌うとある。母もその通りで、ママゴトのように小さな器に少量盛りつけ、空の食器は直ぐに片付け次の料理を出している。テーブルの上に食器を並べると、母は見ただけで食欲が失せる。サイトにあった例に母の症状がすべて一致しているのが不安だった。

 2006年11月16日

 今朝も、開院と同時に診療所へ母を連れて行った。母の疲労感は昨日よりひどい。わずか一日、ベットに横になっていただけで足腰は極度に弱った。簡易トイレへ母を移動させる時も、足はワナワナと震えて立っていることができない。このままでは寝たっきりになってしまいそうだ。

 レントゲンを撮ると結腸に便の滞留があった。すぐに、浣腸が施され、ほぼ排泄できた。まだ確定できないが、ノロウイルス感染が濃厚だと言われた。それには思い当たる。月曜に母が生ガキを欲しがったので食べさせた。潜伏期を計算すると、嘔吐が始まった日と一致する。清浄海域で養殖されたカキで汚染はないはずだが、老いて体力がなかったので発症したのかもしれない。医師はもう少し経過を見て、回復しなければ入院したが良いと言った。

帰宅後、母はすぐにベットに横になった。寝ていても疲労は強く、わずかに体を動かすにもブザーで私を呼んだ。夕暮れから深夜まで、何十回となく仕事部屋とベットを往復した。

 2006年11月17日

 疲労を訴える母を診療所へ連れて行った。今日の点滴は二種類に増えた。その間に私は医師に呼ばれた。
「昨日の血液検査で貧血が分かりました。出血箇所を見つけるために、検査入院されませんか」
医師は入院期間は長くなりそうだと話した。入院先は王子にある大きな関連病院だ。検査入院のことを点滴している母に話すと表情が暗くなった。気丈な母は、今までの十回以上の入院や手術に積極的に応じて来た。しかし、今回の入院は今までのどれとも違うと思っているようだ。

「本当はいやだけど、食欲不振や、疲労がとれるのなら、入院しても良いね」
母は自分に言い聞かせるように承諾した。二時間近い点滴で母は疲れてしまった。外は曇っていて肌寒い。母を冷やさないように急いで帰宅し、昼食を用意した。しかし、母は殆どを食べ残した。仕方がなく、食事代わりに乳酸飲料を飲ませた。

T_7

               診療所のベットに死んだように寝ている母。

 午後、母が寝ている間に、赤羽駅前まで買い物へ出た。途中、桜並木にある調剤薬局の薬剤師さんたちが見えた。その薬局には母も私も親しんで来たが、今月一杯で閉鎖される。今年に入ってから、親しい人やペットたちの訃報や別ればかりで、母は精神的に参っている。だから、閉店のことは母には伏せておいた。

買い物買帰り、疲れたので赤羽駅から埼京線に乗って北赤羽で下車した。浮間橋を渡り、新河岸川沿いの遊歩道を行くと少年がカモメに餌をやっていた。カモメの群れを見上げながら、アメリカ国歌が口をついて出た。滅入って行く気持ちを奮い立たせたかったのかもしれない。

「日曜あたりに公園まで行ってみようか」
ベットの母に話しかけると、母はうれしそうにうなづいた。今日、始めて母の笑顔を見た気がした。

 2006年11月18日

 早朝五時、ブザーが鳴った。すぐに母のベットへ駆けつけると、「起き上がれなくなった」と言って意識が遠くなった。それからは話しかけても身体を揺すっても反応がなく呼吸も浅い。ただごとではない。病院、姉兄たちへの連絡と、すべきことが次々と頭の中を駆け巡った。しかし、穏やかな表情の母を見ていると、このままそっと逝かせるのも良いかもしれない、とふと思った。

六時半、霜降橋の晃子姉に電話を入れた。
「今日は予定があるから、後で行く」
姉は寝惚けた声で答えた。
「今日はいつもと違う。すぐに来たがいい」
強く言うと、ようやく重大さに気付き、すぐに行くと答えた。

七時、吸い飲みを口元に持って行くと、母は意識が戻り二口だけ飲んだ。しかし、すぐに意識は遠くなった。

八時、姉が駆けつけて来たので、母に付き添ってもらった。母は古い白菊会会員で献体することになっている。万一を考えて、書類を用意した。

八時半、生協浮間診療所へ電話を入れ、入院の前倒しを頼んだ。すぐに診療所から病院にベットの空きはないと電話が入った。東京北社会保険病院に連れて行くと伝えると、紹介状を病院へファクスすると言って、役に立たなかったことを詫びた。

九時、姉と二人で抱えるように母を車椅子に乗せ、姉に留守番を頼んで病院へ向かった。御諏訪神社の階段下に車椅子を止めると、母は一瞬意識が戻り、神社へ手を合わせていた。

 東京北社会保険病院受付に診療所からの紹介状が届いていた。しかし、内科の受診は順番を待ってもらうのが規則だと担当看護師は言い張った。車椅子の母は青ざめて崩れ落ちそうで一刻の猶予もない。待つ間、せめてベットに横にさせて欲しいと頼むが、内科医の許可がないとできないの一点張りだった。

看護師は診察室に入ったまま、十五分以上出て来なかった。他所で救急措置をしてもらうから連れて帰ると受付に伝え、診察券を返してもらって玄関へ向かった。

「篠崎さん、先生がすぐに診るそうです。」
玄関を出たところで、看護師が追いかけて来た。診察室へ向かっていると、看護師が配慮が足りなかったと、しきりに詫びた。

十時、母を診た内科医は誠実な人だった。原因は脱水症で点滴をするとすぐに意識が戻った。医師は優しく母に話しかけながら診察した。安堵したのか、母の表情に生気が戻った。すぐに上部消化管の内視鏡検査に回された。

「綺麗な食道ですね。噴門から胃、幽門から十二指腸へ入ります」
内視鏡の医師はモニター画面をバスガイドのように説明してくれた。しかし、出血箇所は見つからない。しばらく、胃壁を往復しながら丹念に調べていると、褐色のえぐれが見つかった。
「ああ潰瘍がありました。出血は止まっていますが、止血剤を吹き付けておきます」
医師は潰瘍に白い泡を吹き付けた。処置室で点滴を受けていると内科医がやって来た。
「入院して絶食し、点滴で栄養補給をしてみましょう」
医師はすぐに入院手続きをしてくれた。

十二時半、母は四人部屋に入った。栄養の点滴が加わった効果で、母は次第に元気になった。年頭から続いていた母の食欲不振と疲労の原因は胃潰瘍による出血が原因だった。

午後一時、一旦帰宅して、留守番をしていた姉に入院に必要な品を病院へ持って行ってもらった。シャワーを浴び、朝食を兼ねた昼食を取ると、激しい眠気に襲われ三十分ほど眠った。

午後二時半、病院へ戻ると、母は必要な品を忘れていると文句を言った。文句が出るのは元気になった証拠だ。一階の売店で足りない品を買い、病室に届けて夕暮れに帰宅した。

 2006年11月19日

 早朝、四時に目覚めた。小刻みの睡眠の習慣は治らない。床に入ったまま先々のことを考えている内に再び寝入った。

七時に目覚めた。いつもなら、母がテレビを見ながら、シワ予防に顔をペタペタ掌で叩く音が聞こえる時間だ。母は洗顔後、肌を叩くとシワができないと信じている。

一人の朝は静かだった。ベランダへ出ると、寒い曇り空の下日曜の街が、遠い知らない街のように見えた。昨日の、母の緊急入院騒ぎで散らかったままの部屋を片付けた。冷蔵庫を開けると、昨日、母の朝食用に作ったおかゆが入っていた。それと一緒に、蓮根の金平を捨てた。蓮根の金平は母の好物だったが、一口も食べなかった。

流しに山積みになったままの汚れた食器を洗い、神棚と仏壇の水を替え、灯明を上げた。母が居なくても、することはいつもと同じだ。日常生活の変化がないから、私は平常心を保てる。一人になった時、女性の方が強いのは男女差ではなく、生活の恒常性にあるようだ。

病院の面会時間は十四時から二十一時の間と決められている。それまで時間があるので更に大掃除を続けた。病院は近く、日に何度でも往復できる。
夕暮れに行くと母は元気を取り戻していた。同室の患者さんたちがみんな惚けていて話し相手にならないと、いつもの口の悪さが復活していた。

 2006年11月20日

 一人暮らしは慣れているが、快活な母がいなくなると部屋が寒々しく見えた。帰って来るといつものように「ただいま」と母のいない部屋に声をかけ、仏壇に灯りを上げた。仏壇横に死んだ父や兄や祖父母たちの写真が飾ってある。母はその誰よりも長命になってしまった。今回の母は回復するが、次に倒れればそれが最後になりそうだ。

 午後、母の病室へ行った。
「晃子が、同室のおばあさんたちの惚けがうつるって、心配していたよ」
姉がそう言っていたと母に話すと、「あの子はバカだから」と楽しそうに笑った。母は十八日朝のことを覚えていて、今度こそ死んでしまうと思ったようだ。
「土曜で晃子は休みだし、死ぬには丁度いいと思ったよ」
そう話してから、もし、私が寝過ごしていたら、そのまま死んでいたと言った。

 2006年11月21日

 病院に上の裕子姉が見舞いに来た。下の晃子姉とは数年ぶりの再会だ。
「喧嘩ばっかりしているけど、やっぱり姉妹だね。久しぶりに会って、とても楽しそうに話していた」
母はうれしそうに話した。

母の洗濯物を持ち帰って遅い夕食を摂り、夕暮れまで休んだ。再度、病院へ戻ると担当医によばれた。出血の原因はほぼ潰瘍に間違いなく、今日の夕食が摂れるなら週末に退院できると告げられた。母は入院以来、始めて口にするお粥を美味しそうに食べていた。

 2006年11月22日

 病院に行くと母はベットに腰かけて暗い顔をしていた。いつもの鬱が始まったようだ。
「外に出てみようか」
誘うと渋々承知した。寝間着の上に膝掛けを巻き、ダウンのコートを着せて外へ連れ出した。病院の庭は自然豊かで、カエデの紅葉が美しかった。いつもなら楽しそうにおしゃべりするのに母は押し黙ったままだった。色づいた木の葉を拾って手に取らせても興味を示さなかった。
椎の木の下に車椅子を止め、持参した朝鮮人参末を飲ませた。それから、暖かい日溜まりで少し休み、病室へ戻った。

 ベットに戻ると、母は手鏡をなくしたので探してくれと言った。しばらく、ベットの回りを探したが見つからないのであきらめ、ベットわきのテレビで「ナースのお仕事」を見た。病院で病院ドラマを見るのは、レストランでインスタントラーメンを食べている気分だった。

ふいに、母が欝になったのは、お化粧ができなかったからだと気づいた。すぐに、手鏡を取りに家へ帰った。持ち帰った汚れ物を洗濯し、急いで夕飯を済ませ、夕暮れ、手鏡と佃煮を持つて病院へ戻った。

母は見違えるように顔色良く元気になっていた。どうやら、朝鮮人参末の効果が出たようだ。手鏡を渡してから、ふとテレビの台をみると側面の隙間から手鏡の柄が出ていた。偶然にその隙間に落ちたようだ。見つからなかった手鏡が見つかって、母は更に明るくなった。帰りがけ、母は明日も人参末を持ってくるように言った。

 2006年11月23日

 母が嘔吐して汚した敷き毛布を火曜日朝に洗った。搾り機に入らないので、濡れたまま竿に掛けて二日間おいた。それでも湿っぽいので布団乾燥機で乾かした。その間、ベランダのガラス戸を開け放っていた。仕事部屋まで冷たい外気が漂って来て心地良かった。

電子レンジで温めた牛乳を勢い良く取り出すと、カップの底がドアにぶつかり床にこぼれた。いつもならイライラするが、今日はのんびりと後片付けした。母が回復して、気持ちにゆとりができたようだ。

 2006年11月24日

 母の退院は、今日に前倒ししてもらった。このまま入院していると不味い病院食で母の体調が悪化しそうだからだ。病院は近いので退院は簡単だった。退院は晃子姉に手伝ってもらった。

病院では元気に見えた母だが、家に着くと衰弱しているのがよくわかった。明日は生協まで買い物へ連れ出し、それから早い段階で、赤羽自然観察公園に連れて行くことにする。

T_8

               東京北社会保険病院の庭にて、晃子姉と母。

 午後、北赤羽整形外科にペインクリニックへ連れて行った。医師は無事に退院した母を見て喜んでいた。開院時からの患者の母には思い入れが深いようだ。先週土曜、母の意識が混濁した時のことを医師に話すと、
「そんな時はすぐに救急車を呼ばないといけません」と言った。しかし、救急車を呼んで、質の悪い病院に入院させられたら、そのまま寝たっきりになる。それを恐れて私は救急車を呼ばなかった。

 2006年11月26日

 母が倒れた日、家の中にハエが入って来た。中型の家バエで、何時休んでいるだろう、と思うくらい元気に飛び回っていた。母が入院中、私が帰って来るとそのハエがいつも迎えてくれた。そうなると、家族のような親しみを感じた。

今朝、洗濯物を取り込もうとベランダのガラス戸を開くと、そのハエが明るさに惹かれて外へ飛び出した。外は曇天で寒い。ハエはベランダの壁にとまったが、すぐにポトリと床に落ちた。寒さで体が硬直したようだ。床を探したが見つからない。日射しが戻り、体が温まればまた飛び回るだろう。ハエのことを母に話すと、可哀想にと同情していた。

 今日は母を自然公園まで連れて行った。母は気持ち良さそうに深呼吸した。よほど気分が良かったのか、少し歩くと言うので好きにさせた。母は十メートルほど歩いた。そこまで回復するとは思っていなかったのでうれしかった。 

« 第五章 母の老いは穏やかに安定するよに思えたが、現実は厳しかった。 | トップページ | 第三章 肝臓ガン再発の不安な日々 »