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第六章 そして、母の老いは静かに進行した。

 2008年1月15日 母94歳

 朝、母は椅子に座ったまま居眠りしていた。
「出かけるよ」と、何度か声をかけると母はやっと目を覚ました。
「幽霊橋の夢を見ていた」
寝ぼけ顔の母は楽しそうに夢の話しをした。

 幽霊橋とは久留米の心霊スポットの一つで、画家青木繁が住んでいた荘島町の一角にある。幽霊橋と言っても橋ではなく、路傍の土に埋まった何の変哲もない三十センチほどの黒っぽい石だ。その直ぐ先の荘島小学校は刑場跡で、その石は刑場へかかっていた橋の礎石だった。

昔、その橋には幽霊のうわさが絶えず、そのような名がついた。今は整地され住宅地になり、橋も小川も礎石もない。
大正中期、荘島小学校に通学する子供たちは幽霊橋は祟るからと、大きく避けて通っていた。しかし、活発な母は平気だった。
「ゆうれいばし、ふんづけた」
母は毎日、石を踏んづけ荘島小学校へ通った。
「みんなは、恐ろしそうに見ていたけど、ちっとも怖くなかった」
母はいつも楽しそうに話していたが、その後の苦労を見ると、幽霊橋に祟られたように思えてならない。

最初は、頼まれればすぐに保証人の判子を押してしまう祖母のために、たえず借金取りの矢面に立たされた。それから何度かの結婚の失敗のあと、父と一緒になって、さらに長い苦労が始まった。父は甘言に乗せられやすく、がまんできない性格だった。

終戦直後、役所を辞職して会社を興したがすぐに倒産した。それからも失敗を続ける父に代わり、一時期、母はコロッケを作って行商して私たちを育てた。私が母の介護を続けられたのは、そのような苦労を見て育ったからだ。もし、母が普通の主婦だったら、晩年は施設に預けていたかもしれない。

 最近、九十年近く続いた幽霊橋の祟りは、母の肝臓ガン手術を最期に薄れて来たような気がする。祟っていた霊も老いて円くなり、もういいだろうと許してくれたのかもしれない。おかげで、術後二年で終わると思っていた命は今も消えず、今年夏の九十五歳の誕生日を何とか迎えられそうだ。

 夕食後、仕事を始めるとすぐに母が呼んだ。湯たんぽが冷たいと言う。昨夜から布団に入れっ放しだ。急いで湯たんぽを下げて台所に行くと、下げて行ったのは簡易トイレのバケツだった。最近、私も惚けたようだ。

「うっかり、バケツのおしっこを湧かすところだった」
母のベットに戻って、湯たんぽを取り出しながら言った。
「おしっこでも、お湯でも、温かければ同じよ」
母は楽しそうに笑っていた。

 2008年2月1日

 朝、北赤羽整形外科へ母を連れて行くと、看護師が貼り紙をしていた。
「エレベーターが故障したので二階まで階段をお使いください」とある。
「おんぶして上がろうか」
母に聞くと「絶対にいやだ」と拒否された。

仕方がない。理学療法士の男性二人を呼んで、私と三人で車椅子ごと抱えて階段を上った。
母をペインクリニック治療に置いて一旦帰宅し、雑用を片付けた。治療が終わったころ、北赤羽整形外科へ戻ると階段前は患者たちで大混乱していた。

患者は足腰の悪い人ばかりで、一人で階段を上れる人は殆どいない。平常時でもそのように混乱するのだから、これが大震災だったら想像するのもおそろしい。母を介護していて一番恐れているのは大震災だ。介護の必要な老人に避難施設は過酷過ぎる。

 2008年2月4日

 朝、昨夜までの雪が凸凹に堅く凍っていた。石ころだらけの山道を行く思いで、凍った道を車椅子を押して行くと汗だくになった。赤羽自然観察公園の遊歩道は更にひどいので入るのは諦めた。

帰りは下りばかりで楽だった。東京北社会保険病院にさしかかると、いつもより強く揺らされた効果で、母は便意を催した。
すぐに病院のトイレへ駆け込んだ。前日、通じがなかったので、母は腹がすっきりしたと喜んでいた。

 車椅子散歩で一番重要なのは、事前の車椅子用トイレの確認だ。
新設の東京北社会保険病院の車椅子用トイレは広くて暖かく、洗面所からゴミ箱まで揃っていてとても助かる。車椅子用の公衆トイレは各所にあるが、どれも寒い上、衛生的でない。スーパーや、駅の公衆トイレは、ホームレスが寝場所にしていたりする。

利用した中で、最高ランクのトイレは、北区立多目的ホール「北とぴあ」十階のトイレだ。車椅子用は一階にもあるが利用者が多くて汚い。
十階の車椅子用トイレは施設の事務室そばで、一般人は利用しにくいので清潔だ。広さは四畳半ほどで窓も広く、北方向の広大な風景を眺めながらトイレを利用できる。
概して、新しい施設や、介護関係のトイレは清潔で使いやすい。

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               赤羽自然観察公園管理棟のトイレ前にて。

 2008年2月5日

 歩道の雪が溶けた。赤羽自然観察公園の冬木立が清々しい。日溜まりで休んでいると、谷の向こうから知人が手を振った。母に教えると、大きな声で挨拶を返していた。百メートル程の距離だが、静かなので声がよく通る。大きな声を出して酸素飽和度が高くなったのか、母は元気になった。

帰り生協で節分の売れ残りの豆を買った。豆は酒で薄めたダシ醤油に漬け、一晩置くと柔らかくなって箸休めに重宝する。
部屋の隅で、昨夕まいた豆を踏みつぶした。砕ける音に春が近いと感じた。

 2008年2月8日

 シャワー介助が終わったので、食間の薬を持って行くと母は口を開けて待っていた。ヘルパーの小黒さんは優しい人で、こまごまと母の世話をしてくれる。それで、一過性に依頼心が強くなったようだ。

「子供じゃあるまいし。薬くらい自分で飲みなよ」
叱ると、母はしきりに照れていた。
老人施設に入った知人たちが急速に老いて行く。その一因に、施設の面倒見の良さがある。職員は、当然、入所者へは自立を促すように接している。しかし、忙しいと却って手伝ってしまい自立心を奪ってしまう。
私も、母がノロノロと服を着ていると、早く済ませたくて手伝いたくなる。しかし、手伝うと母の老いが進むので我慢している。

 2008年2月9日

 散歩に出ると、時折雪が舞った。寒くて緑道公園の霜柱が溶けていない。
「温泉の噴気みたいね」
遠く低く響く音が、昔、霧島のえびの高原で聞いた噴気の音に似ていると母は話した。音源は一キロほど離れた中山道の車の音だ。曇った日にはよく聞こえる。

 母が思い出したのは四十五年前の冬のことだ。高校生の私は四日間電気器具店の倉庫整理のアルバイトをして二千円もらった。うれしくて、母に何か買ってやると言うと、温泉へ連れて行ってくれと言った。私は千円を加えた三千円で、霧島のえびの高原日帰りバスツアーに申し込んだ。ツアーには温泉付きレストセンターの休憩が含まれていた。

早朝出発したバスは三時間弱でえびの高原に着いた。団体バスだったが乗客は私たちを含めて十人ほどだった。えびの高原は霧島韓国岳山腹に広がるススキを主体とした草原でミヤマキリシマツツジの群落で有名だ。自生する高山性ススキが雨に濡れると赤く海老の尻尾のように見えるのでその名がついた。

高原には雪が積もっていて、母の靴が雪で濡れた。高原の一角の温泉が噴出している場所へ連れて行くと、母は蒸気に温められた石に冷えた足をのせて温めた。その後、母はレストセンターで休んで温泉に入った。

私はその間に、韓国岳へ駆け登り、一時間で往復してレストセンターに戻った。母は暖房が効いた広い座敷でくつろいでいた。私も温泉に入って疲れを取り、夕暮れに団体バスで宮崎へ戻った。

「温泉で温まった石がとても気持ちがよかった」
母は目を細めて、遠い昔のことを思い出していた。当時、母は四十代後半、今の私より二回り若かった。

 2008年2月12日

 時折小雨が落ちる中、母を王子稲荷の初午へ連れて行った。地下鉄南北線で王子で下車し、王子稲荷下の通りに出ると露店が並んでいた。両側の食べ物屋から湯気がたなびく雑踏を、ゆっくりと車椅子を押した。

王子稲荷裏門への急坂を一気に車椅子を押し上げ、本殿脇に母を置いてお詣りした。その後、火災避けの凧を受けようと社務所の行列並んでいると百円玉が落ちていた。お金を拾うのは縁起がいい。拾ったお金は縁起物として貰っておいて、財布から出した百円を本殿の賽銭箱へ返しておいた。

「今年も初午にお詣りできて、本当によかった」
帰り道、母は何度も話していた。

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                    王子のお稲荷さんの初午。

 2008年3月7日

 緑道公園で久しぶりに顔馴染みの川崎さんに会った。川崎さんは七十歳代の資産家で、身なりの良い精悍な人だ。それが薄汚れ、顔色に生気がない。聞くと、奥さんが脳梗塞で倒れたと言う。幸いにも、血栓溶融剤が適用できる三時間以内に救急病院へ運び、後遺症は少なくて済んだ。しかし、右半身に麻痺が残り、今は必死でリハビリ中だと言う。

「食事と家事にはホトホト困っています」
突然に一人暮らしを強いられた川崎さんは、どうして良いか分からないと嘆いた。この先、奥さんが退院しても、後遺症が大きければ川崎さんの負担は増える。子供はいるが、財産処分のことでもめているので手助けを求めたくないと彼は話した。

「野菜を多く、バランスのよい食事をして下さい」
会話の後、そう言って別れた。奥さんの回復がはかばかしくなければ有料の施設に入れるだろう。家族がいても、川崎さんのように突然一人暮らしを強いられることがある。そんな時、家事能力があれば何でもなく対応できる。

 帰宅してから、自分の老後について考えた。死期が近くなってから、厄介なのは思い出の品の処分だ。殊にアルバムの処理には苦労しそうだ。

以前、モンゴルを舞台にした絵本を描くために資料を集めた。彼らは大平原に住みながら、住まいは実に小さくシンプルで最小限の家具しか持たない。しかし、思い出だけは大切にする。子馬が生まれたとか、羊が増えたとか、楽しい出来事があると記念写真を撮る。だから、昔からモンゴルには写真屋が多いと資料にあった。確かに、写真なら軽くて持ち運びは簡単だ。

しかし、今の日本では写真は余りにも膨大過ぎて、大切な写真を選ぶのは難しい。残された者たちも、身内の写真の取り扱いには苦労しそうだ。今のうちに最小限に絞って、アルバム一冊にまとめておくのが良いかもしれない。

 母の思い出の品はセンチ尺併記の竹の物差しだ。裏には昭和十二年と墨書してある。
もう一つ愛用している手芸材料の箱は机の引き出の転用だ。裏に昭和二十八年と裕子姉の署名がある。

不要なものの処分を進めたいが、それらの母の思い出は私が健在なかぎり残して、私の死が間近になったら処分しようと思っている。

 私の思い出の品は、いつも仕事机に置いてあるオタフク鎚だ。オタフク鎚とは彫金用のタガネを叩く小さな金槌で、一番大切な道具だ。
彫金職人として長く生活を支えてくれたそのオタフク鎚の古びた樫の柄は、手のひらと指で擦れて凹みができていて、辛い時、それを手にすると不思議に元気が出る。多分、私が最期に処分する思い出の品はこのオタフク鎚だ。母のアルバムは孫たちが引き受けてくれるが、このオタフク鎚だけは、だれも大切にしてくれそうにないからだ。

 2008年3月9日

 赤羽自然観察公園の石垣の青トカゲたちはまだ冬眠していた。しかしクヌギは、冬の間新芽を守っていた枯れ葉を落し芽吹き始め、ようやく春が訪れたようだ。

「おじさん。元気でいなよ」
桜広場のベンチで休んでいた老人が、先に帰る老人仲間に声をかけた。
「分かっているよ。でも、元気ばっかりはどうしようもない」
老人は片手を上げて、ゆっくり去って行った。
「体だけは、どうしようもないものね」
車椅子の母が去って行く老人を見ながら言った。老いはどうしようもないが、今年も母は土筆を味わえた。それだけでも、生きているのはすばらしい。

 2008年3月16日

 緑道公園の陸橋の下でお茶を飲んだ。母は突然、八十八年前の久留米荘島小学校の頃、実父に会ったことを話し始めた。母は記憶がしっかりしている内に、思い出を私に伝えたいと思っているようだ。

 母の小学校の授業中に、突然、養父健太郎が来て早引きさせた。二人は人力車で久留米第一銀行の官舎へ向かった。着くと玄関前で若い女性が待っていた。慌ただしく案内された奥の部屋に男の人が布団の上で正座して待っていた。
「千代しゃんか、大きくなったね」
その人は母を見てににこやかに声をかけた。それから、どのような会話をしたのか母の記憶にない。ただ、男の人の端正な顔立ちと、出迎えた女性が突然泣き崩れたことだけを、はっきりと覚えている。

 出会いは慌ただしく終わり、すぐに帰路に着いた。母は男の人が誰なのか健太郎に何も聞かなかった。
後年、正座して待っていたのは実の父親で、再会した直後に死んだことを知った。待っていた若い女性は後添えだった。母の実母は母を産むとすぐに死に、幼いは母は養女に出された。

実父の死は久留米第一銀行に職を得て、安定した生活を送り始めた矢先だった。放蕩の限りをした実父が、なぜ堅い銀行に勤められたのか、その経緯は母にも分からなかった。

「どうして死にかけた人が、正座して笑顔になれたのでしょうね」
母は長年疑問に思っていると話した。
「やもうえず、赤ん坊の娘を他人にやってしまい、自責の念が消えなかったからだ。それで、最後の力を振り絞って、やさしい父親像を記憶に残したかったのだろう」
父親の心情を話すと母は可哀想にとつぶやいた。
もし、やつれ果てた姿を見せていたら、母の実父のイメージはまったく違ったものになっていたはずだ。

 2008年3月20日

 今朝、母は粗相して、申し訳なさそうにしていた。ベット傍らの簡易トイレが間に合わなかったようだ。
「気にしないでいいよ」
私は素早く片付けた。
最近は習熟して、素早く片づけることができる。汚れた寝間着は浴槽の底に広げて熱いシャワーで洗い、洗濯機で仕上げ洗いをした。外は寒い雨だったので寝間着は部屋干した。それから雨の中、いつものように散歩へ連れ出した。外へ出ると母は空気が美味しいと、すぐに元気になった。

 緑道公園で若いメスカラスが小枝を集めていた。数日前から、同じ場所で彼女と出会う。しなやかな体に艶やかな羽色が美しい。

「巣を作っているの」
母が声をかけると、ちょっと首をかしげて私たちを見た。頭の良いカラスは声の調子で危険がないと理解する。彼女は小枝を吟味して選んでから桐ヶ丘体育館へ運んで行った。下からは見えないが、屋上に営巣しているようだ。

 雨の緑道公園を車椅子を押しながら、去年から取り組んでいた本の企画がうまく行っていないと母に話した。仕事は順調に仕上げていたが、先日、担当者から企画がつぶれたと伝えられた。私は生活が厳しくなった状況を手短かに話した。

「私は正喜の力を信じている。きっと、良い方向に変化するよ」
母はいつものように前向きに答えてくれた。
何時死んでもおかしくない母だが、いつも私の支えになってくれる。だから苦境を母に話したのかもしれない。

自然公園に着くと、遠く満開の辛夷が雨に霞んで見えた。白い辛夷の花を眺めていると、母の言葉通り良い方向へ変化するような気がした。

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                   赤羽自然観察公園の辛夷。

 2008年3月24日

 寒い雨の中、散歩へ出た。雨は強く、緑道公園の陸橋の下で雨宿りしながら母と熱いお茶を飲んだ。
「橋の下で休んでいると、浮浪者になった気分だね」
母に言うと、懐かしい言い回しだと笑った。最近、浮浪者はホームレスに変わった。私はホームレスより浮浪者の方が情があると思っている。

本の企画が潰れてから、どっと疲れが出て左外側の白目が出血した。
公園の木々の芽吹きが雨に濡れて美しい。どんなに疲れていても、この散歩のおかげで癒されている。

 お昼は、筍、ワカメ、ホタテ、を煮込み、仕上げに摘んで来た土筆を入れた。母は美味しそうに食べていたが、急に食べるのを止め吐きそうにした。直ぐに吐き気止めのナウゼリンを飲ませると五分ほどで収まり食欲は回復して完食した。

最近、母の吐き気への対応に慣れて、母を吐かせることがなくなった。レントゲンを撮ると肝臓の腫瘍が横隔膜を押し上げているのが分かる。それでも激変しないのは、高齢のため腫瘍の成長が緩慢だからだ。

先日、春物の上着を着せると、腹回りのボタンが留まらなかった。太ったのではなく、腹水が溜まっているからだ。一見平穏だが、ある日限界点を越えた時、激変しそうで不安だった。

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                    雨の自然公園での花見。

 2008年4月7日

 目覚めた母はとても気分が良いと笑顔だった。しかし、朝食を食べ終えると疲労を訴えた。それからは、テレビも点けずベットに死んだように横になっていた。生協浮間診療所の開く八時半を待って往診を頼んだ。

仕事をする気にはなれず、不安な気分で医師の到着を待った。何もしていないと様々なことが思い浮かぶ。いつもなら、自然公園で母を歩かせているころだ。帰りに駅前で買い物をして緑道公園で休憩し、桜並木を通って十一時半に帰宅する。ありふれた毎日のできごとが遠い昔のことのように思い返された。

 医師は昼前に訪れた。
「それほど悪いとは思えませんが」
医師が笑顔で説明すると母は不満そうだった。
しかし、それが正しい診断かもしれない。母は自己暗示にかかりやすく、小さな症状をきっかけに不安が増幅されたのだろう。夕刻、私は銀座のギャラリーで9月の個展の打ち合わせがあるので、回復してもらいたかった。

「まったくの健康体で、どこも悪くないよ」
医師が帰った後、繰り返し話すと、母は少しずつ元気になった。

 夕食後、母をベットに寝かせて銀座に行った。九月の個展の期間中、母の世話をどうしたら良いか頭が痛い。介護施設にショートステイさせる予定だが、施設を自由に選べず、利用者にとって今の制度は不自由だ。

 2008年4月14日

 曇り空で寒い一日だった。夜九時過ぎ、母が寒いと言うので電気あんかを布団に入れた。それから、私は隣室でテレビを見ていた。

「三島さんの上は気持ち良かったね」
母がベットから話しかけた。三島さんとは郷里大堂津にある神社の名だ。神社裏山にお神楽をするテニス場くらいの草原がある。母は毛布とゴザを持ってそこへ出かけ、よく昼寝をしていた。

「今頃は海がキラキラ光って綺麗だった」
母は広場から見える太平洋と沖の大島の光景を懐かしそうに話した。
その頃、父は事業に失敗し、毎日借金取りが押し寄せるので、母はその広場へ逃げていた。

「貧乏だったけど、子供たちがいたから、とても楽しかった」
母はしばらく昔話をしていたが、いつの間にか寝入った。

 2008年4月23日

 昨夜母は、ベットから起き上がるのが遅れて粗相してしまった。そろそろ電動の介護ベットを検討する段階になったようだ。食事の量は更に減り、声は小さく聞きづらくなった。

 赤羽自然観察公園の土筆が生えていた辺りはスギ菜に覆われていた。ミズキは若葉に変わり、すぐに花かんざしのような白い花が咲く。季節は一日も留まる事なく変化して行く。

赤羽自然観察公園の古民家の前庭で母に輪投げをさせてから古民家で休憩した。静かで、かまどの薪が弾ける音が土間に響いた。

「昔は朝早くから忙しかったけど、ちっとも辛くなかった」
母は食事時間に、おかずが大きいとか小さいとか、大騒ぎしていた私たちのことを楽しそうに話した。我が家は大家族の上に、時には知らない大人も交じって食事はいつもにぎやかだった。当時の日本は貧しかったが、振り返ると本当に楽しかった。

 散歩帰りに夏用の長手袋を買って渡すと母は子供みたいに喜んでいた。そのような小さな希望が母を元気づけてくれる。その後、久しぶりに都営桐ヶ丘団地を抜けた。石垣の上のツツジが三分咲きだった。

ツツジが咲くと祖母の命日が近い。祖母が死んだ日、九州から父親違いの兄二人が上京して来て、昔の大家族が再現された。その暖かさが祖母の死の喪失感より強く記憶に残っている。その翌年、上の繁兄は脳溢血で急死したので、大家族が集まったのは祖母の葬儀が最後になってしまった。

 2008年5月3日

 母のベットに厚ベニヤを十五度の角度で置いた。それで、母は起き上がるのが楽になった。しかし、今朝の母は足はふらつき、手は震えてお茶碗を落しそうになった。母はショックで表情が暗くなった。朝から雨だったが、朝食後、散歩に行こうと母を誘った。

「散歩は行きたいけど、こんなに疲れていては無理。外で具合が悪くなったら、みんなに迷惑かけるよ」
母は今日は寝て過ごすと言った。
「寝ていても疲労は治らないよ。散歩に出て車椅子の上で死ねたら本望だろう」
無茶なことを言った。
「車椅子で死ねたら良いね」
母は笑顔になった。

寝間着の上に半天を着せ毛布で包み、雨具をかぶせた。外へ出ると、細かい雨が顔に当たって気持ちいいと母は言った。公園で、集まって来たスズメたちに餌をまくと、楽しそうにプチプチとついばんでいた。それが可愛いと母は笑顔になった。

 お昼前に帰宅すると晃子姉が来ていたので母を任せた。姉は母の冬物の衣類の整理に来た。母はベットに横になったまま姉の作業を見ていた。
「さぼらないように私を見張とっとでしょ」
姉が母を笑った。母もつられて声を出して笑った。
「マーも晃子も、優しくてうれしいね」
母はベットでつぶやいた。マーとは私のことだ。
「そげんこと、言わんでも分かっと」
姉は久留米なまりで母に言った。姉は宮崎育ちだが、母との会話は久留米なまりになる。

 2008年5月16日

 母を生協浮間診療所へ連れて行った。医師に、強い疲労、食欲不振、吐き気などの症状を話すと、心臓が弱っているかもしれないと、胸のレントゲンを撮った。

写真を見ると両肺下部はもやもやして丸みを帯びていた。医師は心臓が弱って肺がむくんでいるからだと説明した。高齢の場合、肺がむくむと強い疲労感や食欲不振、吐き気などの症状が現れる。それら総ての症状が母と一致した。

先月、疲労を訴え始めた頃、母の咳に力なく息が漏れるようなのが気になっていた。今思えば、その頃に母の心臓は弱り始めたようだ。
利尿剤が処方された。母の心臓の弱りは治しようがないが、原因が分かっただけでホッとした。むくみが取れれば症状は緩和するはずだ。

 昼食後、母をベットに寝かせて上野上野歯科医院へ出かけた。歯のメンテナンスは今日で終わる。若い歯科衛生士はいつもより丁寧に手入れをしてくれた。
「今月一杯で辞めることになりました。長い間、ありがとうございます」
終わってから彼女が挨拶した。
「良いことで」
聞くと彼女は微笑んだ。
どうやら寿引退のようだ。長く担当してくれた人だったので、心に穴が空いたような気がした。帰りはさわやかな風の中、道の明るい日射しを選びながら帰った。

 2008年5月23日

 今日は北赤羽整形外科での神経ブロック治療。母が車椅子に座るまでは介添えするが、足乗せと安全ベルト装着は自分でセットさせている。
母は予約時間に遅れるから装着を手伝えと言った。十分にゆとりがあるから大丈夫、と説明したが、予約時間を間違えていると言って聞かない。言い合っていると、出勤する、お隣のご主人が挨拶した。
「少し惚けちゃいまして、バカなことばかり言っています」
私は言い訳をした。
「そのバカな親の子供はだれ」
母は言い返した。
「いつもお元気ですね」
お隣のご主人は笑いながら出かけて行った。

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                   病院帰りに赤羽駅前へ出た。

 2008年5月25日

 雨の中、赤羽自然観察公園へ散歩へ出た。以前は雨の中でも雨具をつけて歩かせたが、最近は疲れさせるので止めている。歩く代わり、母に大きな声を出させた。声を出せば呼吸が活発になり酸素飽和度が高まる。
「一・二・三・イ、ロ、ハ、ニ、」
母は大声を出していたが、時折退屈して「バ、カ、ま、さ、き、」と間に入れた。
他に誰もいないが、さすがに恥ずかしい。
母は私の悪口を言ってストレスが取れたようで元気になった。

 雨の静かな公園は安らぐ。
「卒業した人達が訪ねて来ているように感じるね」
母は遊水池を覆う深い樹木を眺めながら言った。公園では、常連が弱ったり死んだりして姿を見せなくなることを卒業と言う。

人の魂はきれいな水が好きだから遊水池の周りに集まっている、と母は信じていた。そう言われると、薄暗い水辺の木陰に死んだ知人たちの魂を感じた。

 ウグイスカグラが赤い実を付けていたので数粒を母の口へ放り込んだ。
「甘いね。命が伸びる気がする」
母はとても喜んでいた。私も食べながら体に力が沸き上がるような気がした。

 2008年6月6日

 昨夜は冬布団をかけたくなるほどの涼しさだった。一夜明けると好天で気温が上がった。診療所の定期検診に母を連れて行くと、診察は簡単に済んだ。酸素飽和度は八十二と相変わらず低い。

「お年ですし、まあ、こんなものでしょう」
医師は明るく言った。母はそう言われただけで気分が良くなった。
診療所から桜並木の薬局へ回り処方薬を受け取って帰った。帰宅すると少し汗をかいていたので、シャワーを浴びて仮眠を取った。目覚めると背中が痒い。痒み止めを塗りたいが手が届かない。ベットに寝ていた母を起こして、痒み止めを塗ってもらった。

 毎夜、寝る前の母の背中に、安眠できるように痒み止めを塗っている。
「塗ってくれる人がいて良いね。おれは年取って背中が痒くなった大変だよ」
塗りながら母に話すと、
「その時は、わたしが化けて出て、背中を掻いてあげる」
母は気楽なことを言った。
「お化けは指の力がないからから掻けないだろう」
言い返すと、母は楽しそうに笑っていた。

 2008年6月17日

 午前三時、母が起きた気配に目覚めた。様子を見に行くと母は簡易トイレを使っていた。最近、母は用を足した後、ベットに上がるのに苦労する。事故を起こさせたくないので、起きて手伝っている。

隣室で小用が終わるのを待って、ベットに寝かせた。体重のある母をベット中央に寝せるのは大変な作業だ。母の身体はあちこち痛んでいるので、力ずくで動かすことはできない。滑りの良いゴミ袋を体の下に敷いて、少しずつ移動させた。

自室に戻り、二度寝をしようとしたが眠れないので母の催眠剤を飲んだ。薬はよく効いて朝六時まで寝ていた。

 朝から好天で、洗濯物が乾くので助かった。最近、母は粗相が多く、寝間着やシーツの洗濯が増えた。専用シーツは防水加工がされ、汚れ落ちが良く、朝干せば散歩から帰宅する頃には乾いている。雨で乾かない時は、使い捨てのシーツを使う。

 散歩先の古民家でいつものように横になった。係の人達が立ち働く物音。母と知人との会話。我が家に帰ったような安らぎを感じる。縁側から吹き抜ける風は少し冷たかったが、すぐに寝入った。

誰かがバスタオルをかけてくれたような気配がして目覚めた。それは幻覚で、子供の頃、「風邪ひいちゃうよ」と母に布団をかけてもらっていたことを思い出した。今は母に何かしてもらうことは何もない。しかし、そのような思い出があるので母の世話ができる。

 2008年6月28日

 食事の時、私は母を後ろから支えてソロソロと歩いてテーブルに就かせた。テーブルへ就くと、決まって母は箸がないとか、ご飯がないと文句を言う。私は先回りされて言われると気分が悪い。それでついつい、分かってると強く言い返す。

「ただ、口にしただけなのに」
母はいつも不満げだ。母は自分でできないので、思っていることがすぐに言葉になる。それは重々分かってるが、つい文句を言ってしまう。

 散歩帰り、近所の袋小学校脇を通ると、プールから子供たちの歓声が聞こえた。
「正喜の小学校では、港にロープを張って水泳大会をしていたね」
母は昔の私の小学校行事を話した。

 昭和三十年初頭、漁師町の小学校の水泳大会は漁港内に四角くロープを張って行った。
当時、田舎の子供は水着など使わず、パンツか丸裸で泳いだ。パンツより赤フンの方が機能性は良いが、それを締めていた子供はいない。フンドシは軍国主義の遺物として進駐軍から禁止された、と聞いたことがある。私は白ベルト付きの紺の毛織物の水泳パンツをはいていた。

「ハイカラなパンツをはいているから、泳ぎは上手いだろう」
大人たちは私に注目した。しかし、私は泳ぎが下手だったので、とても恥ずかしかった。それ以来、私はみんなと同じようにパンツで泳ぐようになった。道々、そのことを母に話した。
「パンツを塩分でゴワゴワにして帰って来るので、学校帰りに海で泳いだことがすぐに分かった」
母は当時を思い出して笑っていた。

 2008年7月19日

 九月一日からの個展案内状に使う絵を描いているが、遅々として進まない。先日、ついにしびれを切らした画廊から催促メールが来た。折り返し電話すると、即座に二十二日と日限を切られてしまった。昔から、ギリギリまで仕事を抱え込んでしまう癖がある。だから、日限を決められると無理な日程でもこなしてしまう。

 朝の散歩の行きがけに、母が兄へ書いた葉書を投函した。葉書には毎回母の写真を入れてある。今日の写真は六月三十日に撮ったものだ。二十日前なのに今よりずっと元気に見える。母は僅かな間に急速に弱ってしまった。

 梅雨明けの日射しが強い。赤羽自然観察公園へ着くまで、母に何度も霧吹きした。母の麦わら帽子下の濡れおしぼりは氷水で冷やし直した。母はそれらの措置で熱中症にならないですんでいる。

公園に着くと「いつも、お元気ですね」と顔馴染みの老人が声をかけた。
「とんでもない。見かけばかりで中身はボロボロです」
母は笑顔で答えた。
「いやいや、それでも笑顔が出るのが良いです。お会いすると、自分も頑張れると元気が出ます」
自分が人のはげましになっていると知って母はうれしそうだった。
猛暑が始まってから、常連の老人の殆どは顔を見せなくなった。これから秋まで、老人たちの厳しい耐久レースが続く。

 2008年8月15日

 深夜、母に呼ばれたような気がして目を覚まし、様子を見に行くと母はベットからずり落ちていた。簡易トイレを使おうと起き上がり、腰かけた布団の縁から尻が落ちて私を呼んでいたようだ。そのまま放っておくと危険だった。

「よく起きてくれたね。苦しくて死ぬかと思った」
母は心から安堵していた。母を寝かせてから、ベットの縁に、安物のクッションをガンタッカで留め、滑り止めにした。作業は五分ほどで終わった。手作りの木製ベットはそのように自在に加工できるので便利だ。

ガンタッカとは大きなホチキスで、コの字形のステープルをバネの力で打ち込む大工道具だ。私はキャンバス張りに使っている。

 朝、母の足のむくみが消えていて、とても元気だった。猛暑だったが散歩へ連れ出した。桜並木のアオノリュウゼツランが開花し、暑い中、見物人でにぎわっていた。この花には人を惹きつける神々しさがある。今月末に総てが咲き終えたら寿命は終わる。その潔い生き方が人を惹きつけるのだろう。

強い日射しだが、今日も母は霧吹きで耐え、無事に散歩を終えることができた。

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 2008年8月19日

「先週より色が薄くなっているようですので、悪性のものとは考えられません。経過観察しますか。それとも今日切除しますか」
東京北社会保険病院皮膚科の女性医師は念を押した。私は躊躇なく切除を頼んだ。

 先週朝、母のまぶたのホクロが出血した。それは長い間、小さなシミだったが、今年四月あたりから急速に変化したので、切除を頼んでいた。

切除前に血圧が計られた。それから患部のある左上まぶたを消毒して、使い捨ての灰緑色のシートが母の顔にかけられた。シート裏は軽く肌に粘着して、中央の手術穴がずれない仕組みだ。

次に患部皮膚に局部麻酔の注射。くの字に曲げられた針はまぶた皮膚に薄く刺さり、注入された麻酔薬が患部を半球形に持ち上げた。膨らんだ風船と同じで、患部は固定され切除しやすくなった。

患部の皮膚は横方向紡錘形に使い捨てメスで切れ目が入れられ、ピンセットで持ち上げてすくうように切り離された。要した時間は十分ほどで出血はほとんどない。その間、母は気持ち良さそうに横になっていた。

生理的食塩水に漬けた切除した皮膚を看護師が「見てみますか」と私に渡した。それは赤い小さな破片で、形はよく分からなかった。医師は六ミリほどの傷口を丹念に十針縫った。紡錘形に切除したのは、傷跡がフラットに横一文字になるためだ。

「傷はしっかり塞がっていますから、明日の夕方から顔を洗っても大丈夫です」
医師は手術シートを剥がしながら言った。
「あら、もう終わったんですか。気持ちよくて、眠ってしまいました」
母は陽気だった。傷跡にはゲンタマイシンが塗られ絆創膏が貼られた。
「母は六年前、ボーエンガンを転移するまで経過観察されたことがあります。それで、切除をお願いしました」
急いだ訳を医師に話すと、「それは待ち過ぎですね」と何度も言った。手術跡はシワの方向と一致するので、まったく分からなくなる。 

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                手術が終わった母。まぶたに絆創膏。

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