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第七章 ショートステイと姉の死で、母の老いは一気に進んだ。

 2008年9月2日 母95歳

 三月に、突然銀座での個展が決まった。以来、慌ただしく制作してきて、昨日の個展初日を迎えた。

午前中。銀座へ出かける前に母をショートスティさせいる介護施設に行った。
施設は新河岸川沿いの道を上流へ2キロほど行った工場地帯にある。

母は簡易トイレの臭気のする部屋で電気も付けずに暗い顔で寝ていた。
「散歩へ行こう」
誘うと無気力に「疲れた」を繰り返した。肌はかさつき、声はかすれて消え入りそうだ。たった二日でいつもの快活さが消え、別人のように見えた。
「寝てばかりいると、一気に寝たっきりになるよ」
励ますと母は渋々起き上がった。車椅子で川沿いの遊歩道を散歩させたが、蒸し暑い殺風景な散歩道に母は更に疲れてしまった。すぐに引き返し、母の体調を案じながら銀座の画廊へ向かった。

 午後二時に個展会場に着いた。初日と違い来客は少ない。退屈していると若い外国人のアベックが入って来た。
「ファンタスティク。ビューティフル」
盛んにほめるので、お茶を出して貰い物の栗落雁を二人に勧めた。
国を聞くとコロンビアだと言う。落雁が美味しいと言っているのは分かるが、他は皆目分からない。困っていると、私たちから離れて絵を見ていた中年男性が二人の言葉にうなづいていた。
「言葉、分かりますか」
聞いてみると、その人は笑顔でうなづいた。早速、通訳をお願いすると流暢なスペイン語で二人に話しかけた。

二人は歌舞伎座の帰りにふらりと入ったようだ。若く美人の彼女はお洒落なダイヤのペンダントを下げていて裕福な感じだ。彼の方はウエストサイド物語に出て来そうな小粋な若者だった。もしかすると、コロンビアマフィアの令嬢と子息かもしれない。二人は握手を求め、楽しかったと言って帰って行った。

「自分は長くスペインに赴任していまた。懐かしい言葉が聞こえたので思わず入ってしまいました」
通訳してくれた男性がいきさつを話してくれた。
そのような非日常なことが銀座では起きる。

母の今後の対策のために早めに帰宅した。明日に母を前倒しで退所させることにして、世話をしてもらうヘルパーを手配した。

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 ショートステイをした介護施設。入所者が歩き回らないように、入り口近くの手摺が外してあった。見かけはきれいだが、トイレ掃除は行き届いていず、我が家と比べると不潔に感じた。職員が入所者と会話している光景もなく、入所者は放って置かれていると感じた。

 2008年9月3日

 午前中、母を施設から連れて帰った。母はすっかり気弱になって、昼食は食べたくないと言った。施設の食事は母の好みに合わず、それで食欲をなくしたようだ。僅か2泊3日で、介護施設の限界を見せつけられた気がした。

「寂しくて、二度と行きたくない」
施設の印象を聞くと、母は強く拒絶した。

 昼食後、銀座へ向かった。三時間後に母と親しいヘルパーの江藤さんが来ることになっていた。
会場には姉が来ていた。客がいないので、しばらく母のことを話した。

姉が帰った後、劇団七曜日の宣伝美術をしていたころの女優さんが来た。今は結婚して二人の子持ちだが昔と変わらず可愛い。彼女と昔話をしているうちに次第に客は増えた。

 2008年9月4日

 ショートステイで鬱になった母の回復がはかばかしくなかった。私が出かけてからヘルパーの江藤さんが来るまでの三時間に、母を一人にするのが不安だった。
案じていたように、会場に着くとすぐに母から携帯に電話がかかった。
「隣室で物音がする」
「のどが渇いて気分が悪い」
幻覚と幻聴に体の不調を繰り返し訴えたが、個展が終わるのを待ってもらう他ない。個展が終わり日常生活が戻れば母は回復すると思っている。

 今日、初めて作品が二点売れた。来客は昨日より増えたが、雨がちらつき始めると来客は激減した。
「タダで見ても良いのでしょうか」
終わり近くに来た若い女性客が消え入りそうな声で聞いた。招き入れると、彼女は怖ず怖ずと会場を一周して帰った。住所を見ると向島とある。下町にはまだ、そのような浮世離れした人がいるようだ。

帰宅すると、「迷惑ばかりかけて、ごめんね」と、母は昼間の電話のことを可哀想なくらい謝っていた。そんな気弱な母を見るていると辛くなった。

 2008年9月7日

 午前一時、ベットから落ちそうな母を中央に押し戻していると体が熱かった。熱を測ると三十八度。もしかすると布団で熱がこもったのかもしれない。薄いタオルケットに変えて様子を見た。

午前三時、体温は三分下がった。

午前六時、体温は三十七度に下がったが身体がだるいと訴えた。
更にアイスノンと濡れタオルで頭を冷やした。

午前七時、措置が正しかったのか平熱に戻っていた。
朝食後、生協浮間診療所へ母を連れて行った。診察では肺炎の症状はない。推測したように高齢で体温調整がうまくいかなかったからだった。脱水症気味なので点滴が施された。

三時間だけ一人にさせて大丈夫かと医師に聞くと、まったく心配はないと太鼓判を押された。最悪、個展行き中止を考えていたので安堵した。

 夕暮れ、客で混み合う個展会場に四十代後半の男性が入って来た。身なりはラフで金持ちそうには見えない。
「この絵を譲ってもらえますか」
彼は女性像の前で立ち止まって聞いた。値段はいくらでもかまわないと言う。値づけは今の不景気を考え格安に設定してあった。こんなことなら、通常の値段にしておけば良かった。後悔しながら事務室へ案内すると、彼はその場でカードで支払った。

 八時に帰宅すると、母は気持ち良さそうに寝ていた。
「今日はとても快活にお話されていました」
留守番を頼んでいたヘルパーの江藤さんのメモが置いてあった。医師の診断は正しかったようだ。

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 売れた絵。後で先方の事情で買い戻した。だから「出戻りの絵」と呼んでいる。

 2008年9月28日

 個展は無事に終わった。日常が戻って母は元気になった。
母の腰痛のペインクリニックが終了した。今年始めから腰痛が消えたので、治療間隔を少しずつ延ばしながら様子を見ていたが再発しなかった。それで、医師と相談し、治療を終了することにした。

六年前、川向こうに開院したばかりの北赤羽整形外科を必死の思いで見つけた。
「先生は色白の美少年だったのに、今はおじさんになった」
口の悪い母はそう言っているが、患者が増え過ぎて過労気味なだけだ。
治療終了には開放感があった。これまで起きた副作用は治療後の失禁が一度だけだ。それは薬の量を調整して二度と起きなかった。この治療法のおかげで、母は楽しい老後を過ごすことができた。これからは骨粗鬆症の薬は生協浮間診療所で処方してもらうことにした。

 2008年10月3日

 母の内科診察から帰宅して車椅子から下ろす準備をしていると、家の電話が鳴った。母を車椅子に残し、慌てて家に入って受話器を取ると上の裕子姉の夫からだった。彼と姉は別居中で、現在、離婚協議中だ。

「突然の電話で悪い知らせと感じていると思うけど、あれが今朝、病院で急死した。」
彼は沈痛な声で姉が急死したと告げた。裕子姉は夏前から入院中で、弱っていることは知っていたが、これほど急とは考えもしなかった。葬儀については、姪たちと相談すると伝えて電話を切った。姉夫婦には四人の娘がいて東京近郊で暮らしている。

 すぐに、裕子姉の世話をしていた姪に電話して死に至る経緯を聞いた。
姉は、親しい看護師長が勤務する上福岡の病院に入院していた。中程度の糖尿があったが生死に関わるほどではなかった。ただ、夫との別居などの心労で摂食障害を起こしていた。体力は落ちていたが、死の前夜まで普通に会話していた。急死は生きる気力をなくしたからだろう。享年六十九歳。再起するには遅過ぎる年齢だった。姉が危篤だと伝えたが、母はすぐに真実を察した。

「仕方がないね。」
母は動揺することはなくつぶやいた。火葬は五日。それまで遺体は上福岡の小さな葬儀社にある。明日は下の姉に母を任せて、私一人で対面に出かけることにした。

 2008年10月4日

 爽やかな快晴のもと、母を赤羽自然観察公園へ連れて行った。三日間、散歩を休んだので母の体力は落ちていた。だから、姉の訃報を聞いても散歩を休む訳にはいかなかった。
「繁の次は裕子が死ぬと思っていたけど、自分より先に逝くとは思っていなかった」
どうしても実感がわかない、と母は話していた。

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                   赤羽自然観察公園での母。

 お昼に帰宅すると下の晃子姉が待っていた。午後二時、喪服に着替え、母を姉に任せて出かけた。東武急行でふじみ野下車。タクシーで十五分ほどで葬儀社に着いた。それは看板がなければ気がつかない普通の民家だった。プレハブ作りの簡素な安置所に、遠くで暮らしていた姪が姉に付き添っていた。姪は私の顔を見るなり泣きそうになった。
「バカヤロー。今更泣くな」
叱るつもりはなかったが、姪はすぐに嗚咽を押し殺した。姪は車で待っているからと、外へ出て行った。棺の蓋を開けて携帯で死に顔を撮った。裕子姉は今まで見たことがない優しい表情をしていた。

「やっと、楽になったね」
姉の額に触れると冷たかった。自分勝手な姉とは気持ちのすれ違いが多かったが、冷たくなってしまうと万感迫り、悲しみがこみ上げた。線香が燃え尽きるまで付き添い、外へ出ると姪が車で駅まで送ると言った。
「俺はいい。少しでも長く、お母さんに付き添っていな」
そう言うと、姪は再び泣きそうになった。葬儀社の前に荒れ寺があった。畑とクヌギ林が点在する住宅地を午後の陽が照らしていた。姉の一生は贅沢と挫折を行き交うジェットコースターみたいだった。うら寂しい郊外の祖末な霊安室で終わった人生は姉にふさわしいと思った。

 上福岡駅へ車を拾うつもりだったが、田舎道でタクシーは走ってなかった。歩き慣れない短靴で、ケヤキの並木道を二十分ほど歩いて東武線上福岡駅に着いた。隣のふじみ野駅で下車して、駅近くの友人宅を訪ねた。友人も去年から今年へかけて身内を四人なくしている。
「この歳になると、見送るばかりだ」
下戸の友とチーズケーキを食べながら、しんみりと話した。

 七時過ぎに帰宅すると、待っていた晃子姉はすぐに帰った。裕子姉の死に顔をプリントして母に見せた。
「私もすぐに会いに行くからね」
母は写真をいつまでもなで続けていた。明日の荼毘には晃子姉が列席し、私と母はいつものように散歩へ出かける。

Kami

                       上福岡への道。

 2008年10月5日

 日曜日午前中、裕子姉は埼玉の斎場で荼毘に付される。
「私も参列して、さよならをしたい」
母は言った。
私もそうさせたいと思っていて、訃報を聞くとすぐに介護タクシーの手配をした。しかし、前もっての予約が必要で確保できなかった。
参列を諦めた母を散歩へ連れ出した。住まいから斎場方角に第一硝子の工場が見える。エレベーターを待つ間、白く流れる硝子工場を火葬場の煙の代わりだと母は手を合わせていた。そう言われると、見慣れた煙りが火葬の煙りのように見えた。

 裕子姉の死を知ってから母は気落ちしていた。早く回復させようと、散歩道で知人に会う都度、娘を亡くして母は気落ちしている、と話した。みんなは優しくなぐさめてくれ、母は少しずつ元気を取り戻した。

 赤羽自然観察公園からの帰り、晃子姉から電話があった。火葬が終わって姪たちとは別れ、東上線みずほ台駅のホームにいると話した。様子を聞こうと思ったが、すぐに電車が到着して電話は切れた。

ふいに、祖母や父の葬儀の時、死んだ裕子姉と下の晃子姉が喪服を自慢し合っている姿を思い出した。二人は歳が近く、何かにつけ張り合っていた。
三年前、母が東京北社会保険病院に緊急入院した時、見舞いに来て再会した二人は楽しそうにおしゃべりしていた。
「仲が悪そうでも、やっぱり姉妹だね」
母は嬉しそうにそんな二人を眺めていた。結局それが姉妹の和やかな最後の光景になった。

 死んだ裕子姉からは時折電話があった。
「何もしてやれなくて、ごめんね」
母を任せっきりにしていることを、いつも詫びていた。
最後の電話は六月、病院からだった。ひどく弱々しくて別人のように聞こえた。姪は重い病気ではないのでそのうち回復すると話していた。しかし、姉は死を覚悟して入院していた。

死後、姪たちがアパートに遺品整理に行くと、タンスも布団もカーテンも総て処分してあった。ただ部屋の真ん中に、捨てられなかった娘たちのアルバムとおもちゃの指輪が紙袋一つにまとめて残されていた。

姉の死で、母の終わりも近いと感じた。晃子姉は急に寂しさを感じたのか、沖縄に住む娘と孫を訪ねると話していた。

 2008年10月15日

 散歩道に鳩の羽が散っていた。弱った土鳩が野良猫にやられたのだろう。自然界では殆どの動物が、天寿を全うせずに補食されて死ぬ。寿命が尽きて死ぬのは、人とペットくらいだ。

 姪たちは先日死んだ母親の墓を、墓参のしやすい東京近辺に決めた。散歩の道々、母に話すと、「東京の近くなら、私も入りたいね」と言った。博多の菩提寺の霊廟に父や姑たちを祭ってあるが、母と姑は確執が多く、そちらはいやだと以前から話していた。

 赤羽自然観察公園では山ブドウが実り始めた。山ブドウは霜が降りると甘くなる。
山ブドウを見ると四十年前の秋の尾瀬を思い出す。九月半ば、尾瀬ケ原から奥只見湖方面へ下山していると、山ブドウが熟していた。山ブドウはクマの大好物だ。出て来ないかと心配しながら夢中で頬張っていると、突然かたわらのヤブがガサガサと大きな音を立てた。
「出た。」と蒼白になって身構えていると、可愛い白犬が顔を出した。安堵して声をかけると、うれしそうについてきた。

途中、地元の人に聞くと、尾瀬の山小屋の犬だった。普段、登山者を送り迎えしているので、私にも着いて来たようだ。しかし、私の歩く距離はいつもの登山者より長かった。奥只見湖を見下ろす峠にさしかかった時、白犬は立ち止まって寂しそうに見送った。そこが彼のテリトリーの限界だったようだ。

随分遠くまで来て、心細かったのだろう。いつまでも遠吠えが聞こえた。それから、私は奥只見湖の定期船に乗り、銀山平でバスに乗り換え、上越線小出駅から帰京した。白犬ははすでに影も形もないだろうが、今も無事に帰ったかどうか気になる。

 2008年11月11日

 今年三月まで、母は洗面所で顔を洗っていたが、今はテレビの前で、椅子に座って私が用意した蒸しタオルで拭いている。歯磨きは私が洗面器を顎の下にあてがい自分でさせている。母の歳になると、現状維持がむつかしい。ほんの少し気を抜くだけで際限なく弱って行く。

 やもう得ず寝たっきりになった人は仕方がないが、努力で寝たっきりにならずに済むなら、その方が本人は楽しい。母が毎日、自然公園まで行けるのも、寝たっきりではないからだ。

 2008年11月26日

 最近、母は寝てから咳に伴って透明な水状のタンを吐くようになつた。原因は心臓が弱ったせいだ。先月は肺のむくみが減って安堵していたが、老いは甘くはなかった。
食欲が極度に落ちているので、総合栄養剤エンシュア・リキッドで補っている。おかげで顔色は良く、みんなに元気だと誤解されている。

 毎日、母は散歩を渋るが無理に散歩へ連れ出すと元気になる。今日も、病院下の桜並木で冷たい空気が美味しいと生き生きしていた。緑道公園の陸橋から昔住んでいた家の辺りに向かって母は手を合わせた。その家で祖母と父を在宅で看取ったからだ。

「裕子は本当に死んだんだね」
手を合わせた後、母は寂しそうにつぶやいた。

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                   東京北社会保険病院の待合室。

 2008年12月29日

 夕暮れから深夜にかけて、母は幻覚を起こしやすくなった。
「腕に嵌めておいた輪ゴムを落したから探して」
昨夜、様子を見に行くと母が聞いた。昔、母は食品などにかけられていた輪ゴムを腕にはめて台所仕事をしていた。どうやら、そのころの記憶がよみがえったようだ。

他にも、目薬をさしていない、薬を飲んでいない、日めくりが間違っている、時計が止まっている、と次々と錯覚を起こす。酸素飽和度が低く、脳が酸素不足を起こしているのが原因だ。
しかし、午前中はしっかりしている。
「長いこと、車椅子を押してくれてありがとう」
散歩中、母はしおらしいことを言っていた。「まあね」と答えたが、母は何度もお礼を繰り返した。

 2009年1月8日 母95歳

 正月も母の散歩をさせた。七草粥もいつものように母と食べた。午後は上野上野歯科医院へ行った。歯科衛生士が、残りの歯列を時間をかけてクリーニングしてくれた。歯茎への刺激が気持ち良くて、いつの間にか眠ってしまった。
「とても良好な状態ですので、今回で終わりです」
歯科衛生士の声で目覚めた。十一月は、親知らずの歯周ポケットが深くなっていると指摘された。電動ブラシに手磨きを加え、丁寧に手入れしたら歯茎の状態は良くなった。

 帰宅するとベットに寝ていた母が疲労を訴えた。寝過ぎで身体が目覚めていないのだろう。すぐに強壮ドリンク剤を飲ませると、成分のカフェインが効いてすぐに元気になった。その後すぐに母に呼ばれた。行くと母は片手に目覚まし時計を持っている。聞くと、母は目覚まし時計の頭を押しながら、テレビのリモコンが効かない、と文句を言った。
「それはリモコンじゃなくて、目覚まし時計だよ」
笑いを我慢しながらと言うと、母はやっと気づいた。
「あら本当だ。リモコンと目覚まし時計をどうして間違えたかのでしょう」
母は笑い転げていた。

 2009年1月14日

 久しぶりの好天で、緑道公園で近所のネコたちが遊んでいた。若いお母さんと小さな男の子が日溜まりにしゃがんで、野良の姉妹ネコを撫でていた。
「ネコが二匹いるから、ニャンコ」
母は駄洒落を言った。
昔、一軒家に住んでいるころは、毎日、近所のネコが遊びに来た。
母はネコ語が得意で、「ニャー、ニャー、」と、よくネコたちと話していた。

 散歩から帰ると、ボタンを押さないのに無人のエレベーターが降りて来た。
母は開いたドアーに軽く会釈した。
「誰ものっていなかったよ」
そう言ったが母は意に介さなかった。
「上の階に住んでいた人の魂が降りて来たの」と、すましていた。
「魂は飛べるから、エレベーターなんか使わないよ」と言ったが、
「きっと、飛ぶのが面倒な年寄りの魂なんでしょ」と、母は楽しそうだった。
そう言えば、音もなくフワフワただよう人の魂とネコたちは似ている。だから母はネコが好きなのかもしれない。

 2009年2月11日

 母の足腰は今年に入ってから急速に弱った。色々考えた末、「よっこいしょ」と声を出すように言った。このかけ声は意外に効果があった。今まで、ベットの寝起きは私が力で手伝っていたが、今は母の肩に軽く手を当て、「ほら、よっこいしょ」と励ます。すると母は「よっこいしょ」と自分で何とか起き上がってくれた。テーブルに着く時も、「よっこいしょ。よっこいしょ」と、一人でゆっくり歩いて行った。

 かけ声は別の効果もあった。食事準備などで私が傍にいなくても、かけ声の調子で様子が分かるようになった。更に良いのは、暗い顔で「疲れた。疲れた」とぼやいていたのが、陽気なかけ声で明るくなったことだ。

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                       赤羽台団地にて。

 2009年2月13日

 赤羽自然観察公園に保育園の小ちゃな子供たちが大勢来ていた。
「こんにちわ」
可愛い行列に挨拶すると、子供たちが質問した。どうやら、母がなぜ車椅子に乗っているか知りたいようだ。
「まだ赤ちゃんだから、歩けないんだ」
と答えると、女の子が「どうして赤ちゃんなの」と言った。
「赤いから、赤ちゃんだよ」
母の赤いダウンコートを摘んで言った。
子供たちは「赤ちゃんにしては大き過ぎる」とか「可愛くない」とか、勝手なことを言い合っていた。子供たちは可愛いばかりだが、大きくなったら派遣切りや介護で苦労するのだろう。

 夜9時、ベットの母を見に行った。母は呼吸の動きが小さく、死んでいるように見えた。しばらく眺めていても動く気配がないので、試しに布団を直すと母は目覚めた。何でもないと分かっているが、つい万が一を思ってしまう。

「私、寝る前に飲む薬、飲んだかしら」
母は睡眠薬と緩下剤のことを聞いた。それらは1回分づつプラスチックケースに入れてある。
「飲んだよ。ほら、空でしょう」
空のケースを見せると、「うん、飲んだみたいね。ありがとう」と母は礼を言って寝入った。
母が死んだら、そんな何でもない感謝の言葉を思い出すのだろう。立派な言葉より、日常のささやかな言葉が深く心に残るのかもしれない。

 2009年3月10日

 母に毎日、風邪予防に葛根湯を一包飲ませている。その思わぬ効果で、肺の水が取れ咳が治まり体力と食欲が回復した。しかし、良いことがあれば悪いことがある。それは、私の収入がとだえたまま、日に日に生活費が減っていることだ。

先日、生活の先行きを晃子姉と相談していたら、傍らで聞いていた母の表情が暗くなった。
「今までと同じに暮らせるように考えているのだから、心配しなくて良いよ」
二人で母を安心させようとした。
「私が長生きしたばっかりに、みんなに苦労かけるね。早く死んでしまいたい」
母は柄にもなく弱気だった。
「バカバカしい。今は死ぬにも金がかかるんだよ。死ぬのは景気が良くなってからにして」
姉が怒ると、母はすぐに思い直した。
「そうだね。今死んだら迷惑かけるね。止めた止めた」
母すぐに明るくなった。
人は簡単には死なない。危篤になってから二三ヶ月生き延びるのは普通のことだ。

 2009年3月16日

 毎日、ものを捨てている。ものが多いと保守的になる。明日が分からない時代なだけに、できる限り身軽でいたい。今日はアルミと鉄製の折りたたみ椅子を捨てた。元気なころの母が、その椅子に腰かけて玄関前からの花火を見物していたことを思い出した。

折りたたみ椅子でも大型ゴミ扱いになる。鉄切りノコで小さく切断し、不燃ゴミとして捨てた。先日は本をたくさん捨てた。その中のバートン版千夜一夜物語は今も心残りだ。明日は段ボールを捨てる。売れた絵の梱包に使うので大量に置いてあったが、この不景気では当分不要だ。

 2009年3月31日

 東京北社会保険病院眼科へ母を連れていった。受付で手続きを待っていると、七十代のおばあさんが手押し車を押してやって来た。おばあさんはでっぷりと太り息が苦しそうだ。

「さっさと、すましなさいよ」
おばあさんが突然、私たちに文句を言った。そう言われても、事務手続きは待つ他はない。
「こちらなら、すぐに提出できますよ」
誰も並んでいない隣の受付をおばあさんに教えた。
「余計なお世話だ。あんたたちは元気だからそんなことが言える。息が苦しい病人の身で、後ろにならんでいる私のことを考えなさい」
おばあさんは、顔を真っ赤にしてまくしたてた。
「手を伸ばせば、すぐ済みますよ」
聞こえなかったと思い言い直したが、おばあさんは更に悪口雑言をまくしたてた。それくらいの元気があるなら、大丈夫なようだ。
「よほど、こちらの受付が好きみたいだね」
母にぼやいていると、経緯を眺めていた受付の女性が笑いをこらえていた。

「あの性格では、一緒に暮らしている家族は苦労するね」
母が言った。家族がいれば、そんな偏屈な性格にはならない。多分、一人暮らしなのだろう。性格が良いか悪いかで、老後の快適さはかなり変わる。穏やかな年寄りは大切にされるが、偏屈だと粗末に扱われる。

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                    赤羽自然観察公園にて。

 2009年4月14日

 散歩道のソメイヨシノは跡形もなく消えて新緑に変わった。母の体調は弱ったなりに落ち着いてきた。会話はしっかりしているが、日に何度も、「今日は何日」と聞くようになった。

 ベットや椅子から立ち上がる時も私を呼ぶ。身体を支えながら少し前へ重心を移動させると、母は自力で立つことができる。公園での歩行は十五メートルで下げ止まっている。十四メートルあたりでいつも、疲れたと言うので、あと50センチ頑張らせる。そのわずかな頑張りで母の体力は維持されている。

 2009年4月18日

 朝五時に母のブザーに起こされた。母は時計を見誤り、私が寝過ごしていると思ったようだ。寝床に戻ったが二度寝ができず、朝刊を読んでいたら七時になった。

母を起こしてテレビ前の椅子に座らせ、洗面器と蒸しタオルと口内洗浄剤を用意した。洗面前に母は自分で髪を整えるので、その間、私は流しの後片付けをした。片付け終えて行くと、母は一人で洗面を終えていた。時間を間違えたことがショックでプライドがよみがえったようだ。
「全部、済ませたよ」
母は自慢げに言った。
「一人でできて偉いね」
ほめると、母は笑顔になった。これをきっかけに、一人で洗面してくれると助かる。

 2009年4月26日

 素晴らしい朝だ。玄関を開くと、雨に洗われた大気の向こうに奥秩父の山塊が青々と見えた。四日間、病院行きと雨で休んでいたが、公園に着くと、母はいつもより長く二十メートル歩いた。
帰り、桐ヶ丘生協に寄って宇治金アイスを買って、緑道公園で母と食べた。持参した抹茶をかけると、とても美味しくなった。

 離れたベンチに、三十歳半ばの男性がぼんやり座っていた。彼は散歩の行きがけも、同じベンチに腰かけていた。傍らにに大きな荷物があるので、新人ホームレスのようだ。
「可愛そうね」
母はしきりに同情していた。
大手企業に勤める知人に、安定した収入が羨ましいと言ったことがある。
「サラリーマンの給料は、いやなことの我慢代だよ」
知人は自嘲的に答えていた。その若いホームレスも正社員で神経をすり減らすのが辛かったのかもしれない。

 2009年4月27日

 先日、シェーバーの外刃が壊れたので有楽町の電器店へ行くことにした。母には銀座行きは伝えず、いつものように散歩へ連れ出した。
「電車に乗って電器屋へ行くよ」
赤羽駅で母に話した。
母を京浜東北線に乗せるのは、六年前の駒込病院への通院以来だ。
「何処まで行くの」
上中里を過ぎた辺りで母が聞いた。銀座と答えると、母は黙り込んだ。いやなのかと思って聞くと
「うれしくて声も出ない」と笑顔になった。
昔、母は芝居や買い物に銀座へよく出かけていたが、車椅子になってから諦めていたようだ。

 有楽町ビックカメラはバリアフリーが行き届いていて、楽に売り場へ行けた。外刃を買った後、和光手前を左折して、去年個展をしたギャラリーへ行った。入り口に段差があるので、ギャラリーの川口さんに手伝ってもらって車椅子を抱え上げて入れた。
「もうすぐ、こんな世界へ行くんだよ」
臨死体験をイメージした作品の前で母に言うと、「また、そんなことを言って」と川口さんにたしなめられた。

その後、マリオンへ向かった。母が最後に行ったころに日劇の解体が始まったので、その跡に建設されたマリオンを見るのは始めてだ。着くとすぐに十二時の時報が鳴って人形カラクリが動き出した。母は楽しそうに見上げていた。

 元気な頃、母は日劇近くのドイツ料理店へ黒パンを買いに出かけていた。四十五年前、私が始めてハンバーガーを食べたのもその店だ。そのころは、ザワークラウトとビーツの輪切りを添えたハンバーガーをナイフとフォークで食べていた。そのドイツ料理店は十年前に大手薬局チエーン店に変わった。

 帰りの電車で、母は昔のことを楽しそうに話していた。二時過ぎに帰宅した。私はクタクタに疲れていたが、母はとても元気だった。こんなに喜ぶなら、次は母の思い出が多いお台場に連れて連れて行こうと思った。

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                  銀座、マリオンのカラクリ時計。

 2009年5月2日

 母は朝の連続ドラマ「つばさ」を見ていた。今日のストーリーはラジオポテトの試験放送だった。主人公のつばさは喋りが上手く行かず、ひどい自己嫌悪に落ち込んでいた。私も十四年前、彼女と同じ経験をした。

FM東京の一時間番組で私は自然を語った。収録の後、ひどい自己嫌悪に陥り、局から送られて来たテープを聞く気になれなかった。それから四、五年過ぎたころ、引き出しの奥からテープを取り出して再生してみた。喋りに嫌みがなく、素朴で良かったと思った。

 午後は母の写真を整理した。その中には見たことがない写真を見つけた。一瞬、葬儀の写真かと思ったが、すぐに晃子姉の最初の結婚式だと分かった。

 それは私二十歳、母五十一歳の写真だった。場所は東京近郊、嫁ぎ先自宅での結婚式だった。私と母は田舎風の宴席に馴染めず、抜け出して、裏の空き地に出た。それを義兄が望遠で撮った。
晃子姉は裕福な土地持ちの息子と見合い結婚した。しかし、その一ヶ月後、姉は運送屋を手配して家財を積み込みさっさと家を出てしまった。

「金目当てに嫁に来たのだろう」
姑たちの度重なる嫌みが原因だった。私は嫁ぎ先の姑たちと婚礼の日に始めて会った。挨拶すると、「ふん」と尊大な態度をした。その時、姉の破局を予感した。姑たちは、嫁に取ったら煮ようと焼こうとこっちの勝手と、言いたい放題だったようだ。どうやら、九州女の思い切りの良さを見誤ったようだ。

今、その辺りは東京のベットタウンとして発展し、マンションが建ち並んでいる。後年、家を出る時、別れた相手がおろおろしていて可哀想だったと、姉はポツリと話した。

 当時、私は芸大に落ちて彫金の修行をしていた。彫金は大変景気の良い時代で、収入は同世代の三倍以上あった。土木技師の資格を持っていた父は、高度成長期の大手ゼネコンに再就職し、安定した収入を得ていた。
調理師免許を持つ母は、馬喰町のレース問屋の寮に勤めた。ビル最上階の明るくて広い部屋に住み込み、破格の高給で二十人ほどの若者の食事を作っていた。だから、嫁ぎ先の姑たちが思っていたより、私たちは豊かだった。

 結婚前、晃子姉は母のツテでその問屋に勤め、母と同居していた。嫁ぎ先での経緯を聞いた問屋の社長は会社へすぐ戻るように言った。姉は嫁ぎ先から問屋ビルへ出戻って来た。それから四、五年、平穏な生活が続き、姉は再婚し母も問屋を辞めた。

今も母と姉は、豊かだったその頃を懐かしむ。馬喰町から銀座や歌舞伎座は近く、二人は頻繁に遊びに行っていた。当時は時代も我が家も勢いがあり、少々のつまずきは簡単に乗り越えていた。

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 2009年6月5日

 劇団四季のポスターの絵を受注した。デザイン会社にラフ提出が終わったが疲れが抜けない。
「睡眠薬飲んだかしら」
夜、テレビを見ていたら、隣室から母が声をかけた。
「十時過ぎだよ。飲ませない訳がないだろう」
面倒くさそうに答えた。
「ごめんね。信用しているんだけど、飲んだか飲まないか分からなくて聞いちゃった」
母はしきりに謝った。仕事に戻るとすぐに、またブザーが鳴った。
「私のメガネ、何処へ行ったかしら」
母は半身を起こして、探していた。メガネをそこらに置いたままだと、壊してしまうからだ。探すとベット傍らの箱にメガネはあった。
「こんなことは気にせず、早く寝な」
優しく言うと、母は眠れないとぼやいた。

ふいに、昼間、赤羽自然観察公園で会った女性が話していたことが頭を過った。
「十年前まで母親の介護をしていました。心身共に疲れはて、逝ってくれた時は正直ほっとしました。でも、その後が辛かった。心にぽっかり穴が空いて、今も寂しさが埋まりません。大変でも、親は生きていてくれるだけでありがたいです」
その気持ちはとてもよく分かる。母は間違いなく数年内に逝ってしまう。年の順に命が終わるのは幸せなことだ。しかし、母がいなくなれば寂しくなりそうだ。

 2009年6月9日

 緑道公園を車椅子を押していると、保育園児が芝生に丸く座って昼食をとっていた。
「正喜はみんなと一緒は、絶対にダメだったね」
母は私が大堂津小学校一年のころの授業参観を話した。ダンスの授業授業参観に母が行くと、私はダンスの輪の真ん中で地面に絵を描いていた。
「ダンスがいやなら、一人でお絵描きをしていなさい」
先生に叱られた私は喜んでそうしていた。

私は好きなことしかしない問題児だった。しかし、先生たちは優しく、私がどんな絵を描いても満点をくれた。それで絵に対してゆるぎない自信をつけることができた。 もし、都会の小学校だったら先生はえこひいきしていると非難され、そのような自信は生まれなかったと思っている。

 2009年7月26日

 久しぶりに好天。朝から気温が上がり、母は気怠そうだった。
「疲れたから、今日はこのまま寝ていたい」
散歩に連れ出そうと行くと、消え入りそうな小声で言った。
いつものことなので無視しソロソロと玄関へ連れて行った。

外は風が強かった。今日のような乾いた風は霧吹きの効きがよい。熱中症予防に、母の帽子と首筋にたっぷりと霧吹きした。いつものように、御諏訪神社の階段下へ車椅子を止め母の日傘を広げていると、青年が声をかけた。
「お手伝いしましょうか」
青年は母を境内まで連れて行くのを手伝うと言った。丁重に断ると、青年は会釈して階段を上って行った。

青年の後に私もお詣りをしてから母の元へ戻った。
「さっきの方が通ったから、丁寧にお礼を言ったら、うれしそうにしていたよ」
母は笑顔で言った
「無理してでも出かけると、良いことがあるでろう」
青年に声をかけられたことを言うと母は笑顔になった。

 赤羽自然観察公園は強い夏日射しだった。暑い中、母は自分から、ウグイスカグラからハナイカダまで二十メートルほどを歩いた。今日は歩けなくても良いと思っていたが、青年との出会いのおかげで母は元気になったようだ。

 2009年7月28日

 母はテレビ前に腰かけ、丹念に頭皮をマッサージしいた。家事の合間に様子を見に行くと、母の頭がホルスタイン模様になっていた。ヘアトニックと部分白髪染めを間違えたようだ。

「どうして、こんな分かりやすいことを間違えるんだろう」
文句を言いながら、水無しシャンプーをたっぷりかけ、丹念にタオルで拭き取った。タオルは真っ黒に汚れたが、白髪染めは綺麗に落ちた。
その後、母は無口になり、ボーッと座っていた。いつもなら次々と呼びつけるのに何も言わない。ショックで一気に惚けたのではと心配になった。

「お化粧しないの」
朝食準備が終わったので声をかけた。母はハッと我に帰って化粧を始めた。するとすぐに頭がしっかりして、いつもの母に戻った。女性の化粧はリハビリ効果抜群のようだ。
朝食後、いつもより早く散歩へ連れ出した。母は桜並木で大型犬の小次郎くんに会って、更にはじけるように元気になった。

 2009年8月8日

 今日の散歩中の母はしっかりしていた。
しかし、帰宅後に母は強い疲労を訴えて頭が混乱し、意味もなく何度もブザーで呼びつけた。
「風が冷たいから、窓を閉めて」
「暑くなったから、窓を開けて」
母は次々と呼びつけた。
「老いたら子に従ったが良いよ」
困り果てて言うと、母はすぐに正気に戻った。

 それから夕食まで静かだったが、八時過ぎにブザーが鳴った。またかとうんざりしながら行くと、灯りを消した部屋で母は外を見ていた。
「稲光がとてもきれい」
母は夜空を指差した。遠く、稲光に黒雲のシルエットが美しく浮かび上がった。テレビニュースで、お台場辺りが猛烈な雷雨と言っていた。しばらく母と一緒に眺めてから仕事部屋へ戻った。どんなに手がかかっても母は生きていてほしいと心から願った。

 2009年10月3日 母96歳

 朝、散歩の準備をしていると姉が来たので、ベットの母を起こし、連れて来るように頼んだ。
「今日は疲れたから出ないと言っているよ」
困惑顔で姉が戻って来た。

「仕方がない」
私はベットへ行き、強引に母を起こして抱えるように連れ出した。
「疲れて動けない、と言っているのに」
ヨタヨタと歩かされながら、母は駄々っ子のように文句を言った。
車椅子に母を座らせ荷物を出していると、お隣の吉田さんが出て来て声をかけた。
「お出かけですか。今日もお元気そうですね」
吉田さんに声をかけられた母は明るく挨拶を返した。
「何をおっしゃいます。もうすっかり弱ってしまってヨタヨタです」
それから、母と吉田さんは雑談をしていた。
その様子を姉は驚いたように見ていた。年寄りに慣れていない姉に、この短い間の母の変化は理解できない。姉は少し安堵したように散歩へ出る私たちを見送った。

「苦労をかけている上に、勝手なことばかり言ってごめんね」
道々、母はしんみりと謝った。
「どんなに疲れている様子でも、大丈夫と判断したら外へ連れ出すからね」
私はきっぱりと言った。部屋でベットに寝ているだけなら、生きていると言えない。外気を吸い、自然を眺め、色々な人と声を交わしてこそ生きている意味がある。たとえ、3年の余命が半年に短くなっても外へ連れ出すと母に話した。

 帰り、桐ヶ丘生協に寄って仏壇の供物に林檎を買った。今日は去年死んだ姉の命日である。
「あの子とはあまり話したことがない。縁が薄かったのかな」
母がポツリと言った。家族兄弟でもそれぞれに会話の量は大きく違う。姉がこの住まいを訪ねたのは三度程で、その間に会話した時間の総計は20分ほどだ。

 今夜の母は静かだと安心していたら、咳の刺激で吐いてしまった。ベットには専用の防水シートが敷いてあるので、敷き布団は汚れていない。しかし、寝間着などが汚れたので、すぐに洗濯した。夜、ベランダに洗濯物を干していると、雲の切れ間に満月が見えた。ぼんやり見上げながら、忙殺されている内に、母はテレビのスイッチを切るように逝くのだろう、と思った。

 2009年10月17日

 昨夜は一時間おきに母にブザーで起こされた。殆ど眠れないまま朝を迎えると母が粗相をしていた。粗相の処理は大変とは思っていないが、今朝の私の体調はいつもと違っていた。母の清拭と汚れ物の洗濯を終えた時、今まで経験したことがないめまいを感じた。それでも、母に朝食を食べさせた。しかし、めまいと疲労感はひどくなる一方で立っていられず、自室に戻って横になった。

血圧も体温も正常だった。家庭の医学で調べたが「過労」は病名にない。めまいの項目にも、私の症状はどれも当てはまらない。横になったがまったく眠れず、めまいは治まらない。加えて、ひどい頭痛と吐き気がある。母のナウゼリンを飲むとすぐに治まったが、立つとふらつき、トイレへ行く間に何度も倒れそうになった。それでもお昼食を用意した。母は私をとても心配し、食べようとしない。
「食べてくれないと、かえって気になって具合は良くならないよ」と頼むと、
「一緒に食べてくれるなら食べる」と母は言った。

久しぶりに母とテーブルに並んで食事をした。いつもは母の給仕に追われ一緒に食べることはない。私はナウゼリンを飲んだおかげでなんとか昼食はのどを通った。母は私が食べるのを見て食べてくれた。

 食事が終わったころに晃子姉が来たので母を任せた。
困ったことに姉は黙っているのが苦手だ。まるで放送局のように母に話しかけ続けていた。母が疲れるからと注意すると、姉は話しかけるのをやめて、編み物を始めた。

横になっていると、少しずつ疲れが取れめまいも治まって来た。姉には夕食まで居てもらった。時折、母の様子を見に行くと、傍らで姉が編み物をしていた。このような家族らしい光景は長い間、見ていない。しかし、すぐに消えてしまう光景でもある。まず母が消え、多分、姉は私より先に逝くだろう。

 2009年10月21日

 朝、母は起き上がるのは無理だと言った。背を押して起こしたが、足が震えて立っていられない。
「今、立たないとこのまま寝たっきりになって死んじゃうよ」
きびしく言うと、このまま死んでもいいと母は弱気だ。
「希望通り、すぐに死ねれば良いけど、死ぬまで半年くらいはかかる。それだけでなく、介護に追いまくれて仕事ができず、生活も破綻するよ」
可哀想だが、現実を話した。すると、母は一瞬で足がしっかりして一人で椅子へ歩いた。今日はきびしい言葉でふるい立ってくれたが、いつまでも通用する方法ではない。

 散歩へはいつものように出た。弱っていた母が三時間の車椅子に耐え、自然公園では伝い歩きをした。この経緯を見ていると、母の本当の体力の判断に迷ってしまう。

 夜、様子を見に行くと、母は流れ星が見たいからベランダのカーテンを開けてくれと頼んだ。
十一時からオリオン座大流星群が最大になる。
「流れ星が見えたら仕事が上手く行くように、しっかりお願いしておくよ」
仕事に戻ろうとする私に母が言った。今夜の母の頭はしっかりしている。一時間後、様子を見に行くと母は気持ち良さそうに眠っていた。ベランダに出てオリオン座流星群を待ったが、夜空が明る過ぎて見えなかった。

 2009年10月24日

 昨夜、呼ばれて行くと、痰つぼがないと母は言った。今時、痰つぼなどお目にかかったことはない。始めからそんなものはないと説明したが納得しなかった。

昔は、映画館、床屋、駅などの公共の場所には必ず痰つほが置いてあった。円筒形の白い陶器で、ふたを取るとロート状の中ぶたがあって、そこにタンを吐くと下の石炭酸の消毒液に落ちるしくみだ。石炭酸は、私たちの世代は保健室の臭いとして記憶している。

「私が自分の子供も分からないほど、惚けていると思っているでしょう。お前が正喜だとよく分かっているよ」
痰つぼなどないと言う私に、母は自分は惚けていないことを回りくどく説明した。それからあれこれ、へんてこなやり取りを続けているうちに、母はベットの端に転がっていたテレビリモコンを見つけた。
「ほら、痰つぼはここにあったじゃない。このふたを取って使うの」
母はしばらくリモコンの裏ぶたを取ろうとして、やっとまちがいに気づいた。
「あら、痰つぼではなくて、リモコンを探していたみたい」
どうやら、リモコンを痰つぼと言いまちがえただけだった。それにしても、奇妙な言いまちがえだ。母は自分がおかしいといつまでも笑っていた。

 2009年11月10日

 テレビ画面に森繁久彌死去のテロップが入った。彼は母と同じ大正2年生まれだ。母も私も彼の映画を数限りなく見ている。直ぐに思い出すのは駅前シリーズと社長シリーズだ。

駅前シリーズでは赤羽駅前商店街が舞台になったことがあった。当時、賑わっていたその商店街は人の流れが変わり、今は見る影もなく、空き地だらけの寂しい商店街に変わってしまった。
訃報を聞き、渥美清死去の時と同じくらいの寂しさを感じた。共に昭和を代表する役者で、代わる者はいない。森繁が死んだと母に話すと同じ歳なだけに気落ちしていた。その母も先は長くなく、かろうじて踏ん張っているだけだ。

母が漫然と服用していた利尿剤ラシックスを止めた。先日、私のミスで母の1週間分のピルボックスにラシックスを入れ忘れた。しかし、尿量減少も、浮腫みもなく、むしろ元気になっていた。

その経緯を主治医に話すと「さほど、影響はありませんので止めましょう」と承諾した。睡眠導入剤のレンドルミンは完全に止めたが、眠れない夜には4分の1錠を偽薬と一緒に飲ませている。この量なら、混乱、幻覚など、まったく起きない。脳がしっかりして来ると身体もしっかりして来る。その結果、深夜に起こされる回数が減り、私の体調も良くなった。

 今夏の終わりから肺に水が溜まり始め水様のタンが増えた。一昨年、同じ症状で一時的に著しく体力が低下したので厭な予感がした。しかし、頭がしっかりした母は呼吸をしっかりする事を自ら努力し、体力低下は緩やかになった。高齢になると吐ききれない汚れた空気が肺胞に溜まり酸素飽和度を悪くする。それで吐気をしっかりさせている。

食事は色の濃いものを少量出すとよく食べてくれるが、色の薄い食べ物は殆ど残す。固形物もだめで、水分の多いものを好む。
だから、白味魚を大根おろしであえたものなどよく食べてくれる。それでも、おかずを残すので、食後にプリンを食べさせて蛋白質不足を補っている。そのように小さな工夫を重ねた結果、最近、食事が美味しいと言うようになった。それもまた、母が踏みとどまっている理由の一つかもしれない。

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 紅葉が盛りになった。東京北社会保険病院下の公園で柿の紅葉した葉を拾って母に見せた。母は笑顔になったが、元気な頃と比べると何となく弱々い。そんな姿を見ると、母は終末期に入ったのでは、と寂しくなる。

 2009年12月5日

 せっかちだった母が、最近やっと年相応にのんびりして来た。これまで、私がどんなに夜更かししても朝六時にブザーで起こしていたが、先週あたりから起こさなくなった。おかげで、身体が少し楽になった。

しかし、惚けたことはよく言うようになった。先日、小用で簡易トイレを使うと、使い終えたトイレットペーパーを手渡して言った。
「ちょっと濡れているだけだから、とって置いておいて」
濡れたトイレットペーバーは乾かして、もう一回使うと言う。
「汚れの多少じゃないよ。使ったら汚れていなくても捨てな」
笑いをがまんしながらすぐに捨てさせた。老人介護は変なことだらけだ。すべてに真面目に対応せず、大ざっぱにならないと疲れ果ててしまう。

 2009年12月17日

 室温十六度。母には寒いのでストーブを入れた。年賀状のプリントに八時間費やしたが、まだ四十枚ほど刷り残しがある。刷り始めは動作は早かったが、十枚を過ぎるとスローダウンし、一枚に二分ほど費やしてしまう。私たち同様、プリンターも老いたようだ。

 毎日、ゆるやかに母から生気が失せて行く。血液検査ではLAPが異常値を示していた。この異常値の原因に肝臓周辺のガンが含まれている。

 昨日、緑道公園のベンチで若いホームレスが寝ていた。寒さが厳しくなると、夜間眠れないホームレスはそのように昼間寝ている。彼らを「気の毒に」と思う人はゆとりがある。生活に追いつめられている私には自分と重なって見えてしまう。

 今朝、母はベット傍らの簡易トイレに間に合わなくて粗相をした。いつものことなので、予め床に新聞紙が敷いてある。寝間着と汚れた新聞紙を手早く取り替え、母をベットに寝かせた。
「いつもすまないね」
ベットからあやまる母に「気にしなくてもいいよ」となぐさめた。
「あたしが死んだら、正喜をあの世から必ず幸せにしてあげる」
せめてそのくらいのことはしたいと母は言った。
本当にそうしてくれるならうれしい。

T091223

 カメラを向けると明るい笑顔になっていたのに、最近、それが少なくなった。

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