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第三章 肝臓ガン再発の不安な日々

二千五年正月元旦 母九十一歳

 除夜の鐘を聞きながら、神棚仏壇の水を替えた。それからお屠蘇を飲み近所の神社に初詣に出た。溶け残った雪が氷結しているので慎重に歩いた。
初詣の人は少なく、殆ど並ぶことなくお参りが出来た。
帰宅しても直ぐに寝る気になれず、テレビを点けたが、つまらない番組ばかりだったので止めた。

 元旦早朝、住まい下へ降りて雪の凍り具合を確かめた。まだ堅く凍ったままなので、母の車椅子散歩は昼過ぎに変更した。

昼食後、車椅子散歩の準備をしていると姉が文明堂のカステラを持って年始に来た。姉は母と少し雑談してから、私が作ったガメ煮を小分けして持ち帰った。

日向の雪は消えていたが、日影は堅く凍っていた。凸凹の雪道は車椅子を後ろ向きにグイグイ引いて進めた。
午後の自然公園へ母を連れていくのは始めてだ。午後二時に陽は早くも沈み始め、カラスが鳴きながら飛んで行くのが侘びしかった。

一月六日

 正月は一瞬で過ぎた。
赤羽自然観察公園に着くと、鳩たちが集まって来て餌をねだった。来園者が少ない正月の鳩たちは、餌の貰いが少なくて可哀想だ。

数日前の公園で、母は持参した緩下剤を飲もうとピルケースを取り出した。容器の蓋が固くて開けづらそうだ。無理に開けると、その勢いで中身のビーズ状の緩下剤をばらまいてしまった。

回りには、鳩たちが物欲しげにうろついた。しまった、と思ったが後の祭りで、鳩たちはこぼれた緩下剤を目ざとく見つけてついばみ始めた。緩下剤の成分はインドのオオバコ科の草の実とセンナのエキスなので飲んでも害はない。公園の鳩は太り気味なので、緩下剤が効いて、少しスリムになるかもしれない。

それから毎日、鳩たちを観察していたが大過なく安堵した。
公園で出会った知人にそのことを話すと、飼っていたインコの話をしてくれた。彼女が朝、高血圧の薬を飲もうとテーブルに錠剤を置いたら、飼っていたインコが目ざとく見つけて、くわえて飛んでいった。直ぐに追いかけたが取りかえせない。インコの血圧が下がったらどうしようと心配していたが、何事もなかった。

そんなのんびりした話しを、日溜まりで母は楽しそうに聞いていた。がん手術の後遺症もなく、ようやく母に穏やかな日常が戻った。

一月九日

 ベストセラー「負け犬の遠吠え」は巧い題名の付け方だ。
昨夜は仕事をしながらこのドラマの音声だけを聞いていた。昔ならともかく、今も女性にとって結婚がそこまで重大とは意外だった。

結婚は愛し合った結果であって、人生の目的ではない。なのに才能溢れる女性たちが最終目標にしているのが意外だった。男には新撰組や義経のように敗北の美学があるが、女性にとっての敗北はただの落伍者のようだ。

私は独り身だが独身主義ではない。
私の家系は家庭を持つのに不向きで、姪を含め全員が離婚を経験している。それでも結婚が穏やかな生活のための素晴らしいシステムなのはよく分かっている。

幸せな結婚を占いに頼る人は多いが、占い師に言われて止めるくらいならやらない方が良い。

私が絵描きへの転進を決意した時、占いをしている知人は最悪の年回りだから上手く行かないと断言した。しかし、私は野垂れ死に覚悟で絵描きに転職した。

占い通り、現在は大変に厳しい生活だが、この占いが当たるのは当たり前だ。絵描き、役者、音楽家、小説家、と芸術に関係する仕事が厳しいのは当たり前だが、それでも挑戦する者がいるから、世の中に潤いが生まれる。皆が安全な生活だけを望んでいたら、つまらない世の中になってしまう。結果など考えず、やりたいと思ったら、恋でも仕事でも結婚でも、果敢に挑戦すれば良い、と思っている。

一月十六日

 今日は私の60歳の誕生日。パソコンを入れるとハッピーバースデイの表示。メールを開くとグリーティングカードが届いていた。グリーティングカードには「幸せは経験するものではなくて、あとで思い出してそれと気づくものだ」とあった。

十年前の今日は絵本「父は空母は大地」の総仕上げの最中だった。徹夜で仕上げていると、翌十七日朝、大震災の速報が入った。地震のニュースを気にしながらパロル舎へ出かけ原画を納品した。

その本が完成したのは三月のオームサリン事件の日だった。
出版社に完成した絵本を受け取りに出かけ、本郷三丁目駅で下車すると、サリンを洗い流した水が通路に溜まっていた。

今、ようやく神戸は復興したが、被災者の心の傷は今も癒えていない。高校まで神戸で過ごした知人は震災前の風景を思い出すと悲しくなると話していた。

 母は昨夜下痢が続き一睡もしていない。
流行のノロウイルスではないようだが、大事を取って散歩は休んだ。散歩に連れて行くようになって体調不良を理由に休むのは二度目だ。椅子に腰掛けている母の足元に電気あんかを入れて暖かくした。母は寝不足で半分居眠りしながらテレビを見ていた。体調は落ち着いているので安堵した。

 午前中、母の散歩がないので一人で買い物へ出た。玄関を開くと冷たい風雨だ。雲は激しく流れ、大気に早春の気配を感じた。遠く、荒川土手の濡れた草地が美しい。ふいに、正月のメッセージの「幸せは経験するものではなくて、あとで思い出してそれと気づくものだ」を思い出した。

一月十八日

 快晴、風に春の気配がある。富士、雪景色の秩父連山、奥白根と関東一円の山々が見渡せた。今日は母の通所リハビリ。その時間を利用して国民年金の前倒し請求の書類を提出に十条の社会保険事務所へ出かけた。

出かけるついでに、デイサービスの先月分代金の支払があったので、施設へ直接母を送り届けた。施設庭の沈丁花はすでに蕾が膨らんでいた。先月まで紅葉の秋景色だったのに、春は直ぐそこに来ていた。

母と別れてから、久しぶりに通勤時間の電車に乗った。
長く夜型生活を続けていたので、この時間帯の電車には殆ど乗らない。朝の光の中を急ぐ通勤の人波が懐かしかった。

京浜東北線の東十条で下車した。大衆演劇の総本山、篠原演芸所のある演芸通り商店街を十条駅へ向かった。狭い路の両側にびっしりと店が並ぶ。朝早いので殆どの店はシャッターが降りていたが、モーニングサービスの喫茶店からコーヒーの香りが漂って来た。

商店街には篠原演芸所のポスターがそこかしこに貼られていた。主演は長谷川一夫とある。「エッ、」と目を凝らすと長谷川一天だった。
付け睫毛白塗り厚化粧の股旅姿でポーズを取っていた。おばちゃん達が嬌声を上げるのは理解できる。

十条で十年近く生活したので隅々まで知っている。十条駅ホーム裏の道を抜けて大通りに出るとすぐに目的の社会保険事務所があった。

事務所の年金相談申請の待合所は四人待ちだった。長時間待たされると覚悟していたので肩すかしを受けた。しかし、直ぐに人が続々とやって来て、あっというまに待合所は一杯になった。

私の待ち時間は三十分程。必要書類は昨日までに揃えていたので、申請は問題なく進み直ぐに終わった。後は四月の支給日を待つだけだ。

ちなみに、七十七歳以上長生きするのなら六十五歳から満額を貰うのが得だ。しかし、それ以前に死ぬのなら、六十歳に前倒して貰うのが得である。さらに、将来年金が破綻するリスクを考えると前倒しが得策だ。

一月二十日

 先日の母の下痢はノロウイルスだったようだ。私も少し遅れて感染したが軽い下痢は直ぐに収まった。しかし、胃の不快感は残っている。年末からの寝不足がたたっているようだ。今日は、散歩は休んで一日休んだ。

昨日は食欲がまったくなく、テレビで料理の画像を見ただけでオエッと吐き気がした。殊に甘いものがダメだった。それが一転して最中を美味しく食べた。この分では明日は正常に戻りそうだ。

午後、気分が良くなったので、一階へ郵便を取りに行った。
エレベーターをおりると、知らない女性が訳のわからない悲鳴のような声を発しながら駆けよって来た。

落ち着かせて聞くと、誰かがこの建物から駐車場へ落ちたらしい。ビックリして行くと、駐車場の屋根がへこみ、男性の頭が見え血が滴り落ちていた。慌てて携帯で119番をかけた。
場所は地上三メートル程の屋根で近づくことは難しい。駐車場の屋根がクッションになって命は助かったようで体は動いていた。
「すぐに救急がきますから、頑張って下さい」
大声で声をかけ続けていると、五分程で、消防車と救急車がやって来た。足場の悪い事故では消防車も一緒に来ることになっているようだ。

警察に事情を話していると、七十代半ばの母親が下りて来た。親子は九階の住人で、落ちた男性は四十八歳無職。精神病院に通院中のようだ。同居している母親が大きな物音で子息が落ちたことを知り、私より早く通報していた。男性は重症だが、命は取りとめるように思えた。正月早々、辛いものを見てしまった。

一月二十三日

 年末から蓄積していた疲労がようやく和らいだ。
しかし、健康感はない。私は元来胃腸は丈夫だったが、最近、 胸焼けや上腹部に圧迫感を感じたりする。もしかして、重大な病気、たとえばガンの予兆ではと心配になる。多分、胃液が逆流して食道に炎症を起こす逆流 性食道炎だ。
対策として前かがみになって仕事するのを避け、寝る時は上半身を少し高くしている。いずれにしても、私も老年に入ったようだ。

 母の深夜の咳はカリン酒がよく効いていて軽くなった。しかし、風邪気味なのはなかなか治らない。その所為か自然公園で歩く距離が短くなった。
考えてみれば、老人は日に日に弱って行くのが当たり前だ。いつまでも元気でいてくれると錯覚していた私が甘かった。

寒空の中、母の車椅子散歩から帰ると、姉が来て掃除をしていた。
急いで昼の支度をしていると、母と姉が話す快活な声が聞こえた。一瞬、母が昔のように元気になってくれたと錯覚したが、姉が帰った後、ベットへ向かう母の後ろ姿は一段と小さく見えた。そのように、人は年を重ねる毎に小さくなって、ある日スーッと消えて行くものなのかもしれない。

一月二十四日

 母は散歩から帰るとすぐにベットに横になった。疲れがひどく吐き気もある。午後四時からユニバーサルデザインの会社からピンセットのモニターを頼まれていた。
「私は大丈夫だから、行って来なさい」
心配している私を母は送り出してくれた。

三番町にある会社へでかけた。場所は日テレ脇をお堀へ向かったあたりだ。渋いグリーンの煉瓦の新築ビルの二階全フロアーを会社は占めている。この会社はデザイン界では勝組だ。

ピンセットのモニターは、町工場の親父になった気分でビシビシ問題点を指摘した。モニターの謝礼五千円は今年初めての収入で目出たい。

五時前に急いで帰宅した。母は留守中に軽く吐いて枕元を汚していた。すぐに、寝間着などの汚れ物を洗った。熱はなく、咳と鼻水だけなので、明日、耳鼻科に連れて行くことにした。

帰りにスーパーで長崎産の新ジャガを買って来た。冷蔵庫にあるのは豚細切れと安物のパルメザンチーズ。新ジャガはすぐに茹で、豚細切れは中華鍋でオリーブ油で炒めニョクマムと粗挽き胡椒で味付けした。
茹で上がったジャガイモは荒く割り、パルメザンチーズと炒めた豚細切れで和えた。シンプルな料理だがとても美味い。更にマヨネーズを加えてサラダにしてみると、箸が止まらない。昨日、胃腸の調子を案じていたが、食い物が美味ければ案ずることはない。美味く食える間は病気は軽いし、口から食える間は人は死なない。

一月二十五日

 お昼前に東京北社会保険病院耳鼻科へ母を連れて行った。待ち時間なしですぐに診察を受けられた。結果は急性の副鼻腔炎。慢性化すると厄介だが、初期なので二、三日で簡単に治ると医師は説明した。

金曜日に家庭医が鼻炎治療のため処方してくれた抗アレルギー剤を服用してから母の疲労感が強くなった。そのことを耳鼻科の医師に話すと、即刻止めるように言われた。

 帰宅してその薬をネットで検索してみた。そこには眠気だけでなく倦怠感が生じるとあった。内心、母の疲労感は肝臓ガン再発の所為ではと気になっていたので安堵した。明日は母の体調は快復しそうな気がした。

一月二十六日

 車椅子を押していると、色んな人が母に声をかけてくれる。
道路工事の交通整理の人。スーパーの警備員。犬を散歩させている人。母が車椅子生活になってから、人との繋がりがいつの間にかできあがっていた。

帰りは赤羽台団地の商店街を通った。団地の小学校は去年の新入学が三名だけで、今年限りで廃校になる。この団地も老齢化が進み、商店街の殆どはシャッターが降りたままだ。

昔、商店街に若い者を使って繁盛していた魚屋があった。秋の頃、私が店の前を通りかかると目の前で店の二代目が地面に音をたてて倒れた。体格は頑強な人で病気とは無縁に見えたが、脳出血で即死に近かった。

二代目には弟が二人いて、兄に代わって店を継いで切り盛りしていた。しかし、その弟二人も数年の内に同じように急死してしまった。その後は、引退していた老夫婦が復帰したが、その主人もすぐに死んだ。

残されたお婆さんはとても強い人で一人で店を切り盛りしていた。
しかし母には本音を漏らしていたようだ。
「どうして、こんなに不幸が続くのか・・」
深く嘆いたお婆さんもいつの間にか店を閉めた。

シャッター通りを行きながら、母はその頃を想い出して「虚しい」と呟いた。
しかし、商店街で旧知の老人に会うとはじけるように元気になった。センチメンタルな感情は母たちには持続しないようだ。

一月二十七日

 今朝、仏壇の水を取り替えていた母はグラリと倒れかけた。その後、少し動くだけで身の置き所がないように疲れると訴えた。肝臓ガンの再発や脳梗 塞が頭を過ぎった。

すぐに東京北社会保険病院内科へ連れて行った。最初に総合内科の診察を受けた。母の病歴を話した後、血液検査と頭のCTを撮った。結果が出るまで一時間かかる。病院庭で時間をつぶして総合内科に戻ると結果が出ていた。

「立派な脳です。九十一歳にしては萎縮がなく、脳梗塞もありません」
医師は母をほめた。安堵したが、明日から神棚と仏壇の水は私が取り替えることにした。それを伝えると、母は寂しそうだった。そうやって、母の仕事は一つづつ消えて行く。

一月二十九日

 赤羽自然観察公園で母は気力を奮い立たせ、いつもの距離を歩いた。しかし、ひどく疲れたようで帰宅するとすぐにベットに横になった。

母は声が大きく、電話をしていると仕事部屋まで話の内容が分かるくらいだ。その母の声は、今は小さくて聞き取りにくくなった。
そんな母でも、顔馴染みに会うと、元気な頃のようにしっかり大きく喋る。今はその気力が救いだが、やがて無理になるだろう。

母の頭はしっかりしているが、最近、居眠りの時間が長くなった。ぼんやりと夢うつつに過ごすことが、迫った死期への恐怖心を和らげているのかもしれない。これは自然の巧みな采配で長命の恵みでもある。

 自然公園の移築中の古民家は敷地の整備が始まった。敷地の前には田圃や自然の木立があり、小さな田舎が再現されている。完成したら暑い真夏に縁側で涼むのが今から楽しみだ。
一昨年に移築工事が始まった頃、母がその完成を見ることはないと思っていたが、なんとか間に合ってくれて嬉しい。

二月二日

 散歩途中に東京北社会保険病院へ寄って、眼科処方を変えて貰った。母は緑内障だが複数の点眼薬のおかげで眼圧も安定し、視野の欠損も進行していない。
担当医師に駒込病院で処方されていた新薬の追加を頼むと快諾してもらえた。同じ事を先日までかかっていた駒込病院ですると1日がかりだった。年寄の病院は近いほど良いと思った。

赤羽自然観察公園に移築した古民家は敷地の整備中だ。民家のすぐ下の水場にはカワセミがやって来るので、その見物客が大勢やって来る。

民家の茅葺きは、風雪に晒されて落ち着いた色合いになった。茅葺きは適度にいぶさないと虫や野ネズミにやられてボロボロになってしまう。それで、トラックの荷台に炉を積んで来て、木材の煙をダクトを使って屋根裏をいぶす業者がいる。費用は一日二十万程らしい。珍しい商売があるものだ。

二月三日

 今日は節分で初午。午前中、母を王子稲荷へ連れて行った。南北線の赤羽岩渕駅は久しぶりだ。

地上からエレベーター。その次は駅員にエスカレーターを操作して貰って改札へ。更にエレベーターへ乗ってホームへ。一見複雑な行程だが、実際はスムースに車椅子はホームへ降りることが出来る。
三つ目の王子駅では駅員の介助なしでエレベーターを乗り継いで地上へ出た。

 風もなく良い天気で初午の人出は多かった。小さな子どもたちが出店に、はしゃいでいるのが可愛い。神社脇の急坂を車椅子を押し上げて本殿へ直行した。車椅子の母を日溜まりに置いて、私だけお参りした。母は楽しそうに参詣客の人波を眺めながら待っていた。

 帰路、今年も無事にお参りできて本当に嬉しいと母は何度も言った。お昼過ぎに赤羽に着いた。商店街で昼食用の食材を買って、緑道公園で休み、持参して来た熱いお茶を飲んだ。目の前で三毛猫がのんびり昼寝をしていた。日射しに照らされた木々に春の気配を感じた。

昼食後、出版社から詩につけた絵の初校が届いた。色校をした画像をメールに添付して送った。昔なら、半日がかりで出向いて色校をしていたが、今はメールで済むので介護をしている身にはとても助かる。

仕事をしていると、ピンボーンと呼び鈴が鳴った。テレビ番組の音なのか、本物なのか判然としないまま玄関を開くと誰もいず、静かな美しい夕景が広がってた。

日が暮れる前に、形ばかりの豆まきをした。それから、太巻きの海苔巻きを、母と吉方の西南西を向いて丸かじりした。その後、ヒイラギに鰯の頭を刺した魔除けをあちこちに下げて、厄よけの豆殻を大鍋の中で燃した。
明かりを消した夕暮れ、赤い炎を上げながらパチパチとはぜる音が懐かしい。このような年中行事は、私一人になっても続けようと思っている。老後は日常を変えないことがとても大切だ。

二月六日

 御諏訪神社脇の宮の坂は急で車椅子の難所だ。殆ど体を水平にしないと押し上げることはできない。押し始めの三年前までは登り切ると息切れがしたが今は平気だ。坂は舗装され手摺りがついているが、昔は凸凹の砂利道で難所だった。近所の年寄りの話では、終戦後間もなくまで坂の下に車押しの人がいて、荷を満載した大八車が来るとわずかな賃銭で車押しを手伝った。これは手っ取り早い失業者の仕事で、昔は貧しかったが、失業者はそのように直ぐに日銭を稼ぐことができた。

今は貧乏人に厳しい社会だ。昨夜、番組でフリーターを特集していたが、時給九百円では家族を養うことはできない。しかも、社会保険等皆無でいつ首を切られるか分からない。そのような劣悪な仕事でも中高年は門前払いで、労働人口は相当に余っている。それでも政府は更に失業者を増やす人口増を図っている。そのような政治に不安を感じる。

散歩から帰宅するとすぐに姉が訪ねて来て、母に近況を喋ると直ぐに帰った。新しい職場は原宿の食堂で、相当に忙しいようだ。しかし、姉は十一時間労働を厭わず喜々として働いている。姉同様に私も仕事好きで長時間労働を厭わない。だから若い人が忙しいと愚痴るとついつい叱ってしまう。

二月十日

 夕暮れ、近所で火災が起きた。消防車がうるさいので外に出ると川向こうから炎が上がっていた。母に知らせると見たいと言うので手を引いて玄関へ出た。
「気の毒だけど、大きな炎は綺麗だね」
母は見とれていた。

昼の暖かさから一転して冷たい強風が吹き荒れていた。直ぐに部屋へ戻るとテレビニュースで火事のことを何度も報道していた。温泉用に千五百メートル掘り進んだ井戸から天然ガスが吹き出て引火したようだ。そう言えば、炎の大きさの割には煙はなかった。その後は大変で、次々と報道のヘリが飛んできて、六機が上空を旋回していた。火事より、空中衝突しないか心配したくらいだ。

火を消すとガスが充満して危険なので、類焼しないように放水が続けられ、20時間後、泥水で封をして鎮火した。被害は広い工事現場の一部で、けが人は出なかった。

二月十四日

 母は元気になり、それまで止めていた編み物を再開した。
一昨年、肝臓ガン手術で駒込病院に入院する前、母は柳行李一杯の毛糸を田舎の知人へ送ってしまった。今考えると、生還できないと覚悟していたようだ。そんな訳で、毛糸が残り少なく、先日、赤羽駅高架下の手芸材料店へ行った。冬の終わりの今は毛糸は値下がりして、十玉入りが四百五十円だった。

生活にゆとりがあるころは、高い手芸材料でも大量に買った。今も二十年前に買った高価な鹿革が丸めて天袋にしまってある。母が最近手芸に使っているビーズも、昔、問屋で箱で買ったものだ。革細工用のカシメも箱で揃っている。紐類は浅草橋の問屋で全色を揃えた。以前は小さな手芸材料店をやれるくらいの品ぞろいがあったが、今の住まいに引っ越す時、殆ど捨てた。

私の夢は機能的な工房を作ることだ。木材から金属素材まで大量に揃えて、旋盤、溶接、鍛冶の道具で色々なものを作りたい。車の運転には興味はないが、コンパクトな和室を備えた車は作ってみたい。和室には畳を敷いて掘り炬燵を作り、その車で冬の北国を旅したら楽しいだろうと想像している。

大木の樹上の家もいい。真夏の午後、梯子で上って寝ころび、鳥たちと同じ目線で昼寝をしたら気持ちよさそうだ。地下室もいい。入り口は何気ない公園の大木の根元で、秘密のボタンを押すと丸い穴がパッと開いて、階段で下りると気持ちの良い地下室がある。ドーモ君とウサ爺の家のような隠れ家だ。

子どもの頃は友だちと山の斜面に穴を掘り、ロウソクを立て、むしろを敷いて隠れ家を造った。今考えると湿気が多く快適ではなかったが、木の根や土の匂いを懐かしく思い出す。それは東京の子も同じで、近所の山の斜面に子どもたちが穴を掘って隠れ家を造って遊んでいた。彼等も私と同じようにドーモ君とウサ爺の家を作りたいと思っていたのだろう。

二月十九日

 母の月二度の定期往診に来た若い黒須医師はとても元気な人だった。
黒須医師は五年前に馴染みの床屋さんの向かいに開業した。

彼を知ったのは郵便受けに往診しますの小さなビラが入っていたからだ。床屋さんに聞くと、親切で患者離れも良いと評判は良かった。それから間もなく、母が風邪を引いたので往診を頼んだ。

迎えに行くと、黒須さんは自転車に往診カバンを積んで、私と一緒に家まで歩いた。母の風邪は大したことはなかったが、高齢で体力が弱っているので点滴したが良いだろうと、彼は診療所に戻って点滴セットを持ってきた。そして、点滴が終わる夜十時過ぎまで付き添ってくれた。患者が少なかった所為もあるが、間違いなく好人物だった。それ以来、診療所前を通る時、入り口に患者の履き物があると、何とか医院をやって行けそうだと安堵した。

 今日の往診日、黒須さんは嬉しそうに入って来た。
「インフルエンザが流行っていまして、忙しくて忙しくて・・・」
とても正直な人だ。
彼の話では、先日のガス噴出の火災を見物に行って風邪をひいた人が多いとのことだった。あの夜は寒い強風が吹いていて、私たちは直ぐに部屋へ逃げ込んだくらいだった。

二月二十一日

 深夜、定期的に母の様子を見に行く。母は寝相が悪く、肩や手を出しているのでその都度掛け布団を直す。目覚めたら「有り難う」と母は礼を言う。寝付けないでいる時は、明日の予定などを話したりする。

眠るにはエネルギーがいる。若い頃は疲れていると二十時間でも眠ることができた。しかし今は無理で、寝入って5,6時間もすれば小用を催して目覚めてしまう。

母の様子を見に行くと呼吸が浅く死んでいるように見えることがある。しばらく枕元で見守って、肩が少し動くと安心する。
自分だけかと思っていたら、父親の介護をして看取った知人も同じ事を話していた。そのように少しづつ死をシュミレーションして慣れて行き、やがて本物の死を受け入れるのだろう。

母は北朝鮮関係のニュースが大好きで欠かさず見ている。昨夕の報道に出ていた脱北した要人御用達の占い師は、二千八年に金正日の命運が尽きると話していた。母はそれは当たりそうだと感心していた。しかし、その時は母は九十五歳で、金正日の死を見ることはできないだろう。

昨夜、母の寝息を確かめてから仕事に戻った時、ふいに郷里での昔の葬式を思い出した。
出棺の時、家族は故人が使っていたお茶碗を玄関で地面に叩き付けて割った。故人への思いを断ち切る意味がある。それと似ているが、一昨年母が入院した時、私は母の身の回りの品の大半を処分した。

不思議なもので、生還できないと覚悟したら母は元気になって帰宅できた。逆に、まだ長生き出来ると思っていると、あっけなく死ぬのかもしれない。世の中、予測通りはいかないものだ。

三月三日

 寒い中、緑道公園でドラネコが死んでいた。近所の人が用意したのだろう、傍らにお棺代わりの段ボールが置いてあった。太った可愛い黒キジのドラネコで外傷も毒物を飲まされた形跡もない。表情は安らかで気持ち良く眠っているように見えた。車椅子の母には、通り過ぎてから教えた。

以前の住まいの庭はネコの死に場所で、幾度も臨終に立ち会い、区役所に引き取って貰った。当時は道路で死んでいるネコはゴミ扱いで、清掃局が無料で引き取りに来た。私の場合は毎度敷地内なので、二千円負担した。清掃局に連絡すると、すぐに緑色のヘルメットと作業服の担当が二人で来て、ネコを綺麗なバスタオルでくるんで両手で抱きかかえ丁重に引き取ってくれた。

人と比べると動物の最期は立派である。誰にも助けを求めず、静かに眠るように死ぬ。もしかすると、人は医学の進歩で却って不幸になっているのかもしれない。母がよく話してくれる昔の人の死に方はどれもとても静かだった。

帰り、緑道公園を通ると、ドラネコは片づけてあった。先日は蕎麦屋の植え込みでカラスが逆さまになって地面に転がっていた。てっきり死んでいると思ったら、声をかけると目が瞬いた。その後、カラスがどうなったのか気になって仕方がない。

予報では、明日は雪が積もると言っている。去年の日記を見ると、雪柳が芽吹き、自然公園のオオイヌノフグリは咲いていた。桜も三月十五日に開花している。この寒さでは、桜の開花は遅れるかもしれない。

三月十一日

 春の雨に洗われた冷たい空気が心地よい。散歩道の濡れた草木を見ると、昔愛用していた"ぺんてる"のクレパスを思い出した。箱のデザインは広い空と大地の風景画だった。

十五歳の春、高校野球の地方大会を見に行った。スタンドの一番高い所に座ると、遠く菜の花やレンゲが咲く風景が見えた。空には雲が流れていて、時折雨が落ちた。その風景は"ぺんてる"の風景画にそっくりだった。野球の試合を忘れ風景を見入っていると、突然、雷が落ち、レンゲと菜の花が広がる畑に巨大な稲妻の柱が立った。

 赤羽自然観察公園の石垣では冬眠から目覚めたメスの青トカゲが日向ぼっこをしていた。丸っこい体に小さな手が可愛い。いつもの日溜まりに腰を下ろし、風の音を聞きながらお茶を飲んでいると、母がお彼岸のお布施のことを言い始めた。昨日、博多の菩提寺から封書が来ていた。内容はお彼岸のお布施の通知だった。

金がある頃は何も考えず振り込んでいた。生活が大変になっても、母の為と思って無理をして振り込んでいた。しかし、最近は腹立たしさが募る。これが病院の払いとか薬代なら、無理してでも都合する。裕福な寺へ貧乏人が無理をして支払う構図はやりきれない

三月二十一日

 昨日の北九州の地震には驚いた。博多には菩提寺があり法事で何度も訪れている。昨日からの報道でも、よく知っている場所が幾つも出た。報道に登場したお彼岸法要をしていたお寺も菩提寺に似ていた。

幸いなことに、寺は一方的に墓地を取り払い納骨堂を建設してしまった。その時は先祖代々の墓を壊されて腹立たしかったが、あの取り壊しがなく墓石が残っていたら地震で倒れた墓の修理費を要求されていただろう。

天神の近くで兄は小さな店をやっている。心配している母に混んでいるから電話をしてはいけないと言ったが、心配なようで何度もかけていた。しかし、総て留守番電話だった。

兄家族は連休を利用して旅行に出かけていたようだ。
今日の昼、帰宅した兄から電話があり、店も自宅も被害は無かったと話していた。旅先から電話をくれれば良かったのに、兄は母が心配していることを想像できなかったようだ。

あの地域は地震空白地域で昔から地震はないと聞いていた。日本に安全地域は無いようだ。奥尻、神戸、新潟、北九州と大陸プレート内の震源は関連があるかもしれない。大地震のレッドゾーンに住む身としては、南関東の活断層にどう影響があるかが気になる。今回で更にストレスが軽減され、発生が遅れれば良いが、そう巧くはいかないだろう。いずれにせよ、地震は思わない場所で起こるものだ。

三月二十四日

 辛夷が桜に先駆けて開き始めた。青空をバックに咲く辛夷は清楚で心が洗われる。
赤羽自然観察公園には新年長組の幼稚園児が大勢来ていた。母が歩いている間、いつものように私は母の車椅子に乗って追いかけた。年長組の子どもたちが車椅子の私に「どうしたの」と心配そうに聞いた。「足が痛いんだ」と答えると心底気の毒そうな顔をした。その無邪気な表情がとても可愛い。

最近母は大変元気だが、食事の量は減った。三年前の手術前と比べると半分に近い。
昔、即身仏になった坊さんは、五穀断ち、十穀断ち、断食と進んで往生した。断食すると死への苦痛が薄れるらしい。母は断食している訳ではないが、自然の摂理で食事量が減って行くのだろう。

三月三十日

 桐ヶ丘の日溜まりの桜が数輪開花した。天気は良くても風は冷たい。それでも、冬服では汗をかくし、薄着では風邪を引く。これからは着るものに頭を悩ます。

母は一月に風邪を引いてから回復に手間取ったが、ようやく元気になった。
深夜、母が呼んだような気がして目覚めることがある。殆どは錯覚だが、希にベッテ脇で倒れていることがあるから気を抜けない。母が車椅子になってからはや三年。悩み多い生活を続けていたら、すっかり、平穏な生活を忘れてしまった。もし、平穏な生活が戻ったら、次は私に様々な問題が起きるのだろう。平穏を願わず、変化を恐れないことが大切なようだ。

四月十日

 桜の花弁がサラサラと舞っていた。今年の桜はメリハリがありいつになく美しい。桜の吹き溜まりでは、子ども達が転がって遊んでいた。

緑道公園では、ホームレスが仲間たちと酒盛りをしていた。六十歳近い彼等に輝かしい老後が待っているとは思えない。そのように、飲んで酔っぱらい、死が訪れれるのを待っているように見える。

 赤羽自然観察公園の青トカゲたちは餌採りに出かけていて、石垣には留守番の数匹が顔を出していただけだった。公園隣りに関東財務局の官舎が完成したこともあり、最近は公園の人出が多く、落ち着かない。

芝生に腰を下ろすと、スミレ、タンポポが花盛りだった。傍らの林の中には炊事棟で使う薪が積んである。その向こうの溜め池からは涼しい風が吹き渡ってくる。悩み多い生活の中、この一瞬だけに開放感を感じる。

最近、仕事がうまくいかず、ちょっとしたことで苛つき、母にあたることが増えた。あと何年も生きることのない母に対して、大人げないが、気持ちとは違う行動をしてしまう。母の世話には苦痛はない。しかし、仕事が減るのは本当に辛い。日に日に真綿で首を絞められていくようだ。

日曜の今日は病院下の空き地で花見客が盛り上がっていた。客が連れて来たミニチュアダックスフンドが花弁の吹き溜まりに鼻を突っ込み、花弁を鼻に付けているのが可愛かった。

四月十一日

 朝から雨で、気温の変動が激しい。夜来の雨で桜は散り、地面をピンク色に染めていた。赤羽自然観察公園へ着くころは、雨はさらに強くなった。公園に人影はない。このところの人出の多さにうんざりしていたので、この静けさは心地良い。

 母は緑内障のために視野欠損がある。母の体質を受け継いだ私も眼圧は高めだ。自覚症状はないが、先日、ゴールドマン視野検査を受けた。異常はなかった。
しかし、去年は歯を一本失った。少し食べ過ぎると胸焼けがする。他にも老いの兆候は多くあるが、母の介護をしていると、調べる気になれない。もしも悪かったら介護に響くので考えないようにしている。合理的ではないが、それが介護する者の心理だ。

四月十四日

 新聞に周恩来のことが載っていた。
若い彼が留学の為、来日した頃、日本は襤褸の国と中国では言われていた。しかし、実際に見た日本は襤褸の国ではなく国民も親切で優しかった。先日、現代の留学生も周恩来と同じ事を話していた。中国は今も昔も同じだったのかと、興味深い。

最近、絵の市場とは距離を置いている。旧知の画廊へも足を運ばなくなった。元々、画商の世界は嫌いなので、距離を置くことに何も感じない。

世界の作品は面白い。特にニューヨーク市場は活気があり納得出来る。
対して日本の市場は停滞そのもので、専門家が推する新人作品も何故か一様に虚無とか倦怠がテーマで楽しめない。虚無とか倦怠がいけないのではない。作家に追いつめられた状況がないのに、流行のようにそのテーマを選ぶことに嘘を感じる。生きることの壮絶な闘いの上で良い作品は生まれると私は信じている。

四月二十三日

 今の新緑は美しい。しばしば、車椅子を押すの止め眺め入ってしまう。しかし昨日、この美しい季節にポール牧は自室から飛び降り自殺してしまった。彼にはこの美しい自然は届かなかったのだろう。

本当に滅入っている時は、美しい風景が平板の味気ないプリントに見える。これは鬱患者や分裂症患者にもある感覚で、医学書によると回りと自分の間を板が隔てているように見えるようだ。逆に、自然を美しいと感じられる時は、人は自殺したりしないのかもしれない。

それにしても、一度でも脚光を浴びた芸人には、仕事が無くなるのは辛いことだ。現実は、大御所のサンマとかタケシを除けば、大半の芸人さんの老後は寂しい。そう言う私だって食うや食わずで大変であるが、幸か不幸か脚光を浴びたことがないので落差は感じない。自殺について触れたが、実際は、生活できなくて自殺する者より、作品が出来なかったり、芸が拙くなって、悲観して死ぬ者が多い。

今日のような天気の良い日は自然公園の田圃脇の土手でお茶を飲む。爽やかな日溜まりで、草の上に腰を下ろした感覚は子どもの頃を思い出させる。
田起こしが終わり水を入れた田圃ではツバメの夫婦が巣作りの為に泥を集めていた。背中の黒い羽が青く光って美しい。
私達に気づいた田圃作りの指導をしている松下さんが、古民家の軒下に巣作りしてくれたらいいな、とツバメたちを目を細めて眺めていた。古民家にツバメの巣は絵に描いたように似合っている。

五月一日

 祖母の命日だ。
自然公園のウグイスカグラの実が赤く熟した。この実は長い期間次々と熟していくので、これから夏まで楽しめる。母に数粒食べさせると甘いと喜んでいた。去年、母は癌病棟からの生還して感慨深く食べていた。これからも毎年、食べる都度、これが最後かもしれないと思うのだろう。

連休の間は遠出する人が多く、近場の自然公園はひっそりしていた。十才ほどの男の子がバケツを片手に「ザリガニをいっぱい捕まえて、バケツに入れたいな・・」と楽しそうに唄いながら歩いて行った。バケツは空だけど、頭の中はザリガニで一杯のようだ。

古民家の座敷では子ども達が年寄りにお手玉など昔の遊びを教わっていた。私は庇の下に母の車椅子を止めて、人のいない縁側に大の字に寝て休んだ。爽やかな風が吹き抜け、一瞬だが、生活のことを忘れられた。このような静けさを毎日味わっていると、たまに繁華街に出ると、とても疲れる。

五月七日

 最近、二時過ぎまで絵を描いているので、寝不足で気だるい。今朝は御諏訪さんの急坂を車椅子を押し上げていると、左ふくらはぎが痙攣するように痛んだ。

散歩途中、母の薬の処方箋を薬局に出した。処方が済むまで、いつもなら立って待つのに、気だるくてソファーに腰掛けて待った。薬の陳列棚を見ると、うんこの匂いが消える薬一回分二百円とあった。腸内細菌を乳酸菌を使って調整するものだろう。以前、海外で評判になっていると、ニュース・トピックスで紹介していた。どうせなら、うんこがカレーの匂いに代わる薬を作ったらいいのに、とぼんやり考えていた。そんなことを考えるのは、寝不足で頭が変になっているからだ。車椅子を押しながら母にそのアイデアを話すと、間違えて食べそうだ、と文句を言った。

自然公園の帰り、駅前に出て、薬屋でハンドクリームを買った。母は化粧用ではなく顔にもハンドクリームを使っている。しかし時々、間違えて私のポマードを顔に塗ってしまう。容器のデザインが似ているからで、今日は間違えないようにアロエ入りのグリーンのハンドクリームを買った。

その後、プルーンの葡萄酒漬けに使う赤ワイン、一・八リットル八百五十円を買った。
酒屋近くの八百八で、群馬の取れたてほうれん草二束二百円も買った。朝露を含んで美味しそうなほうれん草である。

帰宅するとすぐに姉が訪ねてきた。母は「明日は母の日だけど」と、しきりにアピールしていたが、姉は馬耳東風、気付かないふりをして帰った。

五月十二日

 昔の床屋さんは整髪が終わると竹の耳掻きで掃除をしてくれた。
最後の羽毛のポンポンでの仕上げは殊に心地良かった。ある時、理髪学校を出たての床屋さんの娘が整髪してくれた。しかし、耳掃除は慣れていないようで、掃除の後、外耳道に違和感が残った。それから二、三日して痒くなったので耳鼻科に行った。

医師は、外耳道の皮膚はデリケートだから強くいじってはいけない、違和感があっても何もせず放っておけば自然に治る、と教えてくれた。その通り、何もせず放っておいたら数日で炎症は治まった。

それ以来、耳掃除は強く擦らないように気を付けていたが、最近、何となく強く潔癖に掃除するようになった。それで外耳道に炎症が起き痒くなった。

痒みはすぐに治まったが、あの十条の床屋さんの娘を思い出した。美人ではないが、色白でグラマーな子だった。ひげ剃りの時、緊張するのか胸の膨らみが私の二の腕に触れた。だから、調髪が娘にあたるととても嬉しかった。

床屋の親父さんはその頃売れていた噺家の円鏡にとても似ていた。面白い人で、深夜、最後の客を送り出すと、素っ裸になって手ぬぐいを腰に巻き「あらよーっ」と隣の銭湯へ駆け込んだ。今なら問題だが、当時は誰も当たり前と思っていた。私が、それを変だと思い始めたのも、つい最近のことだ。それから間もなく、親父さんは五十そこそこで急死した。

娘は同業の婿を貰った。繁盛している店で、近所の者達は、「店と可愛い娘を手に入れやがった」と話していた。それから間もなく私は赤羽へ引っ越し、その床屋さんとは縁遠くなった。

ビートルズの影響で、その頃から長髪が流行り始め床屋さんは客が激減した。
数年して店の前を通ると、床屋さんは閉まっていた。噂では、婿さんが競馬に入れあげ、サラ金に追われ夜逃げしたと聞いた。それから間もなく隣の風呂屋も廃業してマンションに建て代わった。

五月二十一日

 自然公園の入り口に広場がある。傍らにクワの巨木が大きく枝を広げ、風が抜け、気持の良い場所だ。その広場中央の東屋にはいつも老人がたむろしている。
自然公園へ着くと、一人で休んでいた老人が自然公園にやって来た三十代の夫婦に「今日は暑いね」と声をかけていた。夫婦者は、無言で老人を無視して去って行った。私たちはいつものように老人に挨拶した。老人は嬉しそうに「今日は暑くなりそうだね」と同じことを言った。

公園内で、先程の若い夫婦を追い抜いた。その時、「変な年寄り」と二人が話しているのが聞こえた。世代間の断絶が話題になるが、これがそうなのかと思った。

ヒヨドリの雛の巣立ちの季節で、公園の手摺りには丸く膨らんだ雛が数羽とまっていた。まだ警戒心が無く、私達が近づいても逃げない。それでは危険なので、ちょっと追い払う仕草をすると、不器用に飛んで奥のクヌギにとまった。幼い動物は邪気が無くて可愛い。一説では、幼獣の可愛さは外敵から身を守る唯一の手段のようだ。

緑道公園の墓地近くに羽の折れたカラスが冬から住み着いている。近所の人が哀れに思い餌をやっているようで、まだ元気だ。その近くのお婆さんは「あら、カラスさんは元気だったのね」と声をかける。カラスは目をクルクルさせて小さく鳴く。この関係を見るとホッとする。

五月二十三日

 爽やかな日射しだ。白シャツに白のジーンズと夏姿に変えた。
「白づくめだね」
母は言ったので「死に装束だ」と言いかけて「巡礼姿だ」と言い直した。

緑道公園では、いつも出合うホームレスたちが酒盛りしていた。
「あの時、先々の事を考えていたら、こうはならなかったのに」
一人が愚痴り始めた。すると、他の一人が「今更言って何になる」と説教を始めた。
これは毎度聞く同じパターンだ。彼等の会話はいつも一点を中心としてグルグル回っているばかりで、外へ広がらない。彼らはそうやって老いて、一生が終わるのを待っている。

 自然公園では、ネコとカラスに雛を奪われたカルガモが鳴いていた。危険を学習して、来年から安全に子育てしてくれることを願った。

古民家には小さな女の子を連れた若い父親が来ていた。私はいつものように母を土間に置いて、座敷で寝ころび、爽やかな新緑の風景を眺めていた。
背後の縁側から親子の会話が聞こえる。親子は濡れ縁の拭き掃除を始めた様子だ。
「雑巾がけをすると、まっくろくろすけが引っ越すんだよね」
女の子は雑巾がけをしながら"となりのトトロ"のことを話していた。
「そんなに頑張ると、体が痛くなっちゃうよ」
父親は優しくたしなめた。
「平気だよ」
女の子はかいがいしく土間の台所へ水くみに行った。
「トトロ」の小さな女の子メイと「千と千尋の神隠し」の千尋に自分を重ねているようだ。
縁側からのそよ風に吹かれ、親子の会話を心地よく聞きながら、私は一瞬、眠ってしまった。

六月六日

 緑道公園を通ると、いつものように、スズメ達が餌をねだった。集まって来たのは七、八羽で、遅れて来た一羽が母の目の前をかすめて飛んでいった。母は一瞬、木の葉が舞ったと錯覚していた。
「スズメは小さくて、大きな蛾くらいしかないね」
私が言うと、母は昔のことを話し始めた。
田舎暮らしの頃、夕暮れになると明かりを求めて裏の畑から蛾たちが飛んできてバタンバタンと音をたてて障子にぶつかった。スズメ蛾はその名の通りスズメ程の大きさがあった。私たちは食卓に蛾の鱗粉が舞わないように、大騒ぎして捕まえていた。母はそんな夕暮れの大騒ぎを懐かしく話した。

 いつものように、古民家で休んでいると、老人の先客がいた。
いつの間にか話しかけられて、昔の話になった。話の内容から、私より少し上のようだ。赤羽の在の人で、昔の赤羽の様子を聞けて面白かった。
赤羽台団地が出来る前は米軍の用地で、子どもだったその人は鉄条網をくぐり抜けて、鉄クズや薬莢を拾って、お小遣いにした。時々、米兵に見つかるが、彼等は子どもには優しかったようだ。それは、金へん景気の朝鮮動乱の昭和二十五年〜二十八年の頃だ。

私はその頃、南九州日南市大堂津にいた。私もその人と同様に鉄クズや銅線を集めては小遣いにしていた。当時は砲弾等に使う非鉄金属の高騰は凄まじく、銅線を夏みかんほどに纏めたものを三十円程で買い取ってくれた。日雇い日当が二百五十四円の頃で、子どもには大金だった。

その頃、海岸の沖合の岩礁に帝国海軍のイ号潜水艦が赤錆びて座礁していた。そこに朝鮮特需が起きて、子どもも大人も潜水艦に砂糖にたかる蟻のように群がって、あっという間に、潜水艦は消えてしまった。

六月十二日

 今日は蒸し暑い。自然公園で母は元気に歩いていたが、帰ってくると疲れたと横になってしまった。最近元気だったので心配だ。しかし、お昼は普通に食べてくれた。食べられるなら心配するほどのことはない。
これから本格的な夏を思うと、無事に乗り越えてくれるか心配だ。医師はクーラーを薦めるが、経済的な理由だけでなく、空調は一気に弱らせてしまう恐れがあるので避けている。
去年の猛暑に自然公園行きを止めてクーラーの部屋で過ごした老人の殆どは、二度と来なくなった。彼らは、ただ、死を待つだけの生活に変わった。

 今日は同窓会である。九州からの夫婦での参加が多く、そのまま団体でアメリカへ行き、二次会はロスでやるらしい。それで、二百人程の盛会になりそうだ。だが、私は出席しない。友人達は参加費はいらないから、東京の同窓会だけでも出席しろと言ってきたが、人の情けにすがっていては楽しくない。

そんなことを考えていると、昔の同窓会での出来事を思い出した。それは絵描きに転向して間もない頃で、作品カードを持参して同窓生に配った。そして会が終わり、私は忘れ物があり会場に戻り、テーブルの下を探していると、私の配ったカードが破り捨ててあった。にこやかに受け取り、頑張れよと言った中に、内心、反感を持っていた者がいたようだ。

六月十九日

 散歩道で車椅子を押す婦人によく会う。乗っているのは交通事故で重度の障害を負った息子である。ご子息は大柄で彼女が押すのは大変そうだ。

今日は生協で、一人で来ていた彼女と出会った。訪問入浴の日で散歩はないらしい。私が買い物している間、彼女は母と話し込んでいた。子息は三十代後半、頭半分を縦断する大きな傷跡があった。彼女の話では、十年前の交通事故の跡だ。彼女は今も、事故のあった午後3時になると胸がドキッとすると話していた。それは、若く将来豊かな青年の交通事故を知らせる電話があった時間だ。その一瞬から、彼女の人生は激変し、平和で静かな生活、息子夫婦と孫達に囲まれた穏やかな老後、それらの夢が一瞬に失われてしまった。

経緯は違うが、脳障害を持つ四十代の子息の手を引いて自然公園に散歩に来る、老夫婦とも出会う。障害を持つ息子を残して、先に逝かねばならない心境はさぞ辛いだろう。
それでも、家族はかけがえのないものだ。厄介で手が掛かる存在であっても、生きて行く心の支えになる。それは、母の介護を始めて分かったことだ。

六月二十四日

 今日は三十一度を超えた。紫外線に弱いので、Tシャツの上に長袖のシャツを羽織る。しかし、長袖で炎天下を車椅子を押すのはとても暑い。帰宅するとすぐに水シャワーで汗を流す。その後、雑用を終わる頃に耐え難い睡魔に襲われる。それで三十分程午睡を取る。しかし、目覚めると体がだるく気力が湧かない。最近はその対策として大掃除をすることにした。不思議なことだが、大掃除を始めると体がピリッと引き締まる。不要なものをゴミ袋へ放り込むのは快感に近い。

 今日は、カセットテープを大きなゴミ袋一杯捨てた。他にテレホンカードも大量にあった。殆どは少し使っただけのカードだ。全くの未使用なら換金できるが、捨てることにした。
昔、知人に法人向けのテレホンカードの会社を経営していた者がいた。羽振りが良くて、会うと仕事なら幾らでも出すと豪語していた。当時は私も羽振りが良かったので、仕事を貰うことはなかった。その彼は今、行方不明になっている。
街頭で貰ったティッシュも山のように出てきた。これは全部中味だけを大きな箱に入れた。箱入りティッシュに換算すると三箱分はあった。

 昔、大変世話になった方の形見の腕時計も出てきた。命日は二日前の六月二十二日だった。去年は色々あって墓参りはできなかったが、今年は、母の通所リハビリの間に墓参りすることにした。
合理主義だけでは、ささくれ立って疲れる。自然公園の古民家を訪ねる老人達も、忘れていた死者達のことを懐かしく思い返している。古びた柱や天井に篭もった死者達の記憶を思い返すことは心地よいことだ。

この夏は、古民家に小学生が体験宿泊をするらしい。その時、使用する蚊帳が中二階に用意してあった。子供達にはさぞや楽しい経験になることだろう。想像していると、子供の頃の寝る前の蚊帳吊りが蘇った。ふいに蚊帳の麻の香りがして、快活で底抜けに楽しい時代を次々と想い出した。

七月六日

 昨夜は涼しく、全開の窓から冷たい風が容赦なく吹き過ぎた。それでも、夏の思い込みで、気温二十二度なのにバスタオル一枚で寝入ってしまった。
その所為か、変な夢ばかり見ていた。夢の中で鍋物をつついてくれたが、鍋物はちっとも熱くない。外を見ると雪景色。いつもなら目覚めて、夏布団を取り出すのだが、朝まで寒い夢を見続けていた。連日、ホームページの手入れを続けていたので、疲れていたのだろう。お陰で散歩に出ると鼻がグスグス始めた。

外は冷たい雨だ。暑いと雨コートは蒸れて閉口する。しかし、冷たい雨は車椅子を押すには助かる。公園に着く頃に雨は止み、薄日が射した。そうなると暑いが、鼻風邪に良い。いつの間にか鼻のグズグズは消えていた。

 アスベスト被害を連日報道しているが今更遅い。私も昔、彫金をやっている頃にアスベストを扱っていた。アスベストを石灰で固めた板に細工物を置いて熱した。これは断熱性に優れ、とても使いやすく雑貨屋でも売っていた。家庭ではちぎって水で練り、竃やストーブの煙突の目張りに使った。学校でも、理科の実験でビーカーを熱する時、ガスバーナーとの間にアスベスト金網を置いた。金網の中央に貼付けてある白い円板の部分がアスベストである。屋根のスレート瓦もコンクリートにアスベストを加えたもので、軽くて丈夫だった。他に、石膏ボード、ヒューム管、水道のパッキンと、大量に使用されていた。

その中で一番目についたのは、断熱用に建物の梁柱天井に吹き付けたアスベストだ。十年前まで、池袋東急ハンズはアスベストが吹き付けられた天井がむき出しになっていた。私はそれが厭で、池袋の東急ハンズへ行かないようにしていた。

昔の鉄筋コンクリート建物なら総てアスベスト断熱材が使ってあると考えて間違いない。今、散歩道沿いの保健所を壊しているが、工事過程で近隣民家に相当量のアスベストが飛散したはずだ。

アスベスト肺の怖さはは戦前から知られていた。昔、私が出入りしていた、池袋の石綿屋さんは石綿の保管場所と事務室はガラス窓でしっかり隔ててあった。それでも、従業員は大量に粉塵を吸ったはずだ。これから、様々な職種から中皮腫が多発しそうだ。

七月十一日

深夜、母からのブザーがけたたましく鳴った。この電子音は嫌いだ。慌てて母の部屋へ行くと、咳が出て眠れないと言う。咳は仕事部屋まで聞こえるはずなのに聞こえていない。しかし、母は気管支辺りが苦しいと訴える。母は精神的に脆いところがある。気のせいだと思ったが、ムコダインを二錠飲ませた。これは痰の排出を容易にする作用があり、副作用も少ない。

後で見に行くと母は死んだように寝ていた。いつものことだが、本当に死んだのではと暫く眺めていると、腹の辺りがかすかに動いた。更に三十分後に見に行くと手の位置が変わっていた。

母の咳は最近増えた。時折、肺か気管支にガン転移かと、厭なことが頭に浮かぶ。しかし、悪くなっても何もしないことにしている。母に長生きして欲しいが、もうすぐ九十二歳の母を思うと無理な願いだ。だが、唯一の家族を失う寂しさは大きく深い。

教育テレビの日曜美術館のテーマは「家族」だった。登場した昔の作品は心温まる作品が多かったが、現代作家の作品は頭でっかちで、素直でなく魅力がなかった。
私は独り身なので家族の良さがしみじみと分かる。

七月十四日

 昨日は盆の入りで、絹張り提灯を出した。
「一年が過ぎるのは早いね」
ベットの母がつぶやいた。遠くに遠雷が聞こえた。暗くなっても、開け放った窓からセミの声が聞こえた。今年の夏の暑さは過酷だ。医師からクーラー設置を薦められているが、涼しさに慣れると暑い散歩に耐えられなくなる。だから、母が耐えられるかぎりクーラーなしで過ごそうと思っている。

 出がけ、車椅子にクモが巣を張っていた。一晩がかりで苦労して巣を張ったのだろう。可哀想だが取り除いて母を乗せた。母の腎臓の精密検査に東京北社会保険病院に行った。予約時間にピッタリに検査が始まった。造影剤を点滴しながらレントゲン撮影をして、腎臓から膀胱への経路の画像を調べた。結果は尿路系に腫瘍はなし。腎機能も年相応。尿中の癌細胞検出なし。良い結果に心底ホッとした。来月の、母の九十二歳の誕生日は無事に迎えられそうだ。

八月六日

 昨夜、寝付けないまま朝を迎えた。暑さの所為ではない。何となく違和感があるので体温を測ると三十八,五度。しかし、脱力感はない。ただ、体の節々が痛む。他に下痢気味。何か食べ物が悪かったようだ。母の世話があるので早く治す必要がある。色々迷った末、融通が利く家庭医の黒須さんにかかることにした。

医院まで二キロちょっと、炎天下を歩いていけたから大した病ではない。黒須さんの診断はウイルス性の腸炎。抗菌剤が出たので、医院ですぐに飲んだ。
幸いにも今まで大過なく過ごしてきたが、母を私一人で世話をしているとこんな時、とても困る。しかし、抗菌剤のおかげで午後には微熱まで下がった。洗濯をして、台所を片づけた。昨夜寝ていないので、横になるとすぐに寝入った。体温が高いので、猛暑なのに暑さは感じない。風邪の熱と違い、疲労感が無いのが幸いだ。

八月七日

 熱は下がったが、疲労感が強い。暑さと体熱が合わさって頭の芯までボーっとしている。しかし、母の世話は休めない。お昼前に買い物へ行き、昼食を作る。それから洗濯、雑用と気力を振り絞ってこなしている。つくづく健康は大切だ。今まで、介護生活を維持できたのは私が丈夫だったからだ。

体調が悪くなれば休める。このごく普通のことが私にはできない。姉に手助けしてもらえば楽だが実際には簡単ではない。災害対策の訓練と同じで、事前にシュミレーションし、訓練しないと、突然には何も出来ないのである。母を介護施設に預けることも可能だが、事前に申請しないといけない。結局は健康に注意を払い、そのようなことにならないようにするほかない。

八月八日

 ようやく、朝の体温が平熱になった。しかし、抗菌剤の副作用で全身に発疹が出た。途中で止めるのは冒険だが、思い切って服用を止めた。悪くすると耐性菌が生じ厄介になる。夕刻まで様子を見ていたが、悪化の気配はなく安堵。

午後から再び体温は微熱になった。しかし、休むわけにはいかない。締め切りの仕事もある。仕事と母の介助をしながら、いつものように、買い物、料理、洗濯と雑用をこなした。

八月九日

 今日は通所リハビリで母を預ける日なので、久しぶりに楽ができる。体温も平熱に戻った。施設の車が迎えに来る前、川沿いの道を、体慣らしに車椅子の母を押した。涼しくて良い朝だが、後遺症の足の薬疹がひどく、ズボンで擦れて猛烈に痒い。そのまま川向こうの商店街へ行き、開いていた薬屋で抗ヒスタミン軟膏を買った。私の経験ではこの薬は殆ど効かず、ただの気休めだ。母は先週の金曜以来の車椅子なので気分がいいと喜んでいた。

送迎車に母を乗せ、急いで帰宅してシャワーを浴びた。痛痒い足の発疹を冷たい水で冷やすと気持ちがいい。シャワーの後、湿り気が残っている内に買ってきた抗ヒスタミン軟膏をたっぷり塗った。この手の湿疹は湿度を保つことで治りが早い。

八月十二日

 母の散歩を休んで、昼前に東京北社会保険病院の皮膚科へ行った。
待合室には私の前に六人程。十二時前に私の診察。医師にこれまでの経過を話す。診断も治療も私の予想通り。原因は先日飲んだ抗菌剤のクラビット。この副作用に日光皮膚炎がある。私は元々日光過敏症だったので、それが過剰に出てしまった。発疹が出てすぐに診察を受けていたら簡単に直ったが、仕事のおかげで悪化させてしまった。これで、仕事がうまく行かなかったら、泣きっ面に蜂である。

アレルギー反応は、免疫システムが暴走した結果だ。不愉快な反面、ガンにかかりにくいという説もある。人体は面白いものだ。赤い発疹に、ステロイド軟膏を擦り込みながら、私の皮下で仮想の敵に戦いを挑もうとヒスタミンを大量に放出続けている肥厚細胞のことを考えた。

 三十代の頃、肥厚細胞には随分ひどい目にあった。そのきっかけは夏、浅間へ行ってからだ。帰って来ると腕にポツポツが出ていたので、市販の軟膏を塗った。すると翌日には腕が腫れ上がるほど蕁麻疹がひどくなってしまった。皮膚科に行ったが、全く改善せず、結局何もせず放っておいたら、秋口に綺麗に直ってしまった。以来、夏は恐怖の季節になってしまった。あれから、上手く管理し続けて、発疹とは無縁になっていたのだが、今回は悪条件が重なっていた。

医師の処方したのは最強のステロイド軟膏。医師は不安があるようで、血液と尿検査の指示の後、酷くなったら拙いので、土曜に来て下さいと言った。血液で体内のアレルギーの状態を知りたいようだ。今回のクラビットの日光皮膚炎は典型的なものだ。医師は隣室の若い女医さんをよんで説明した。女医さんは興味深げに私の発疹を観察していた。

土曜に行った時、血液と尿検査の結果が分かる。どこか悪いところが見つかるかもしれない。そうなるとすぐに病人の気分になってしまう。だから私は病院が嫌いである。

八月十四日

 最強のステロイド剤のおかげで薬疹は見事に引き始めた。
今日は一週間ぶりに母の車椅子を押した。涼しいので散歩再開には良い日だ。行く途中、東京北病院の皮膚科に寄った。九時前、待っているのは三人だけ。二十分程で再診。発疹はかなり改善しているので診察は一瞬終わった。気になっていた血液、尿検査では腎臓も肝臓も異常なし。検査結果はコピーしてもらった。

無理はせず、自然公園へまで行かないで手前の緑道公園で母を散歩させた。昨夜の雷雨に洗われた、深緑の静かな歩道は気持ちよい。母は久しぶりに爽快な表情をしていた。
帰りは生協で買い物。回り道はせずまっすぐ帰宅した。お昼の支度や雑用をしていると姉が来たので三人で昼食を摂った。

八月二十六日 母九十二歳

 台風一過、予報は外れ雨はない。富士から奥秩父、浅間、奥日光とくっきりと見えた。今日は母の整形外科でのペインクリニック。お昼まで大荒れの天気予想を信じ、昨日ヘルパーを断ったので私が連れて行くことにした。

川向こうの整形外科は近い。大気は南の湿潤な風が吹き込み蒸し暑く、十分ほど車椅子を押しただけで汗が吹き出た。
老人たちは病院行きを躊躇したようで、待合室は空いていてすぐに母の順番が来た。神経ブロックの治療は時間がかかる。処置室のベットに母を寝かせ、私は一旦帰宅した。

昨夜はあまり寝ていない。自室で少し仮眠を取るとすぐに終わったと電話が入った。急いで病院へ戻る。前回の血液検査の結果が良かったと母は上機嫌だった。
「正喜も、先生に聞いておきなさい」
母は言うが、待っている他の患者さんに悪いので、先生には会わずすぐに連れて帰った。

途中、橋の下でホームレスが寝ていた。昨夜はそこで雨風を避けたようだ。今時の身綺麗なホームレスではなく、伝統的な垢まみれ、髪も髭も伸ばし放題のホームレスだ。精神に異常をきたしているようで、坂道の下りへ頭を向けて平気で寝ている。蒸し暑いのに真っ黒く汚れた毛布にくるまっているのも変だった。

川の水量はさして増えていない。台風の都度、荒川河川敷に設置してある私の彫刻「雲おやじ」が無事か気になる。風圧を逃がすように金網で作り、構造の骨格も頑丈にしてあるので風には強いが、増水して水圧が本体に当たると厳しい。しかし、幸いにも水量の増加は少なかった。

九月四日

 日中は蒸し暑かったが、午後、埼玉に降った驟雨のおかげで涼風が吹き始めた。夜になった今は、赤羽も激しい雷雨に見舞われ、風は一段と心地よい。

今日は自然公園の帰り駅前に出た。小泉さんが応援演説に来るらしく、物々しい警備と雑踏である。苦労して駅前広場の雑踏を抜け、ダイエーでアガリスクを買った。帰りは駅前広場を避け、裏道を通ったが、駅前へ向かう人波は絶えず、裏路裏まで警官が警備している。さすが、一国の宰相の警備は厳しい。ミーハー的に小泉さんを見てみたかったが、母は小泉さんよりペットショップのハムスターが見たいと言った。

ペットショップでは豆みたいに小さなハムスターたちがゲージの一角に集まり押しくらまんじゅうをしていた。彼等は狭い場所が大好きだ。騒然とした世相に比して、ゲージの中のハムスター達の平和な姿に和んだ。暫く眺めて、帰りは緑道公園へ出た。

途中、緑道公園の石垣を蛇が登っていくのを見つけた。母は怖がるが私は好きである。蛇はじむぐりのようだ。じむぐりは優しく平和的な蛇である。主食はネズミで人の役に立つ。
ジムグリは石垣の躑躅の植え込みの中へ隠れたので、覗くと私に見つかるまいと微動だにしない。その慎重さのおかげで大都会の密集地でも生き延びて来られたのだろう。健気な姿に胸がジーンとして「がんばって生き抜けよ」と声をかけた。

以前住んでいた我が家の物置には二メートル以上の青大将が住み着いていた。その抜け殻は今も大切に桐箱に樟脳と一緒にしまってある。
炎天の路上で、その青大将が脱皮を始めているのを見つけた。人に見つかったら大騒ぎされるので、脱皮を手伝った。そのおかげて、尻尾の先から頭まで、欠損なしに手に入れた。その青大将も私達が引っ越した後、解体業者によって物置ごと壊され、犠牲になってしまった。東京の蛇たちは本当に可哀想だ。

九月十八日

 仕事が入って平和な毎日を過ごしている。節約すれば来年三月まで生活できそうだ。サラリーマンから見れば不安定だが、フリーの私には希な安定した状態だ。おかげで、毎日の散歩も心地よい。今日は緑道公園を歩いていると祭囃子の音が聞こえた。静かな散歩道に響く笛や太鼓の音が懐かしい。

 自然公園の古民家は親子連れが多かった。座敷では小さな子供たちがおはじきなどの昔の玩具で遊んでいた。子供達はシンプルな昔の遊びがとても楽しいらしく、座敷から帰りたがらない。お母さんがせかせると「お留守番しているから、行ってもいいよ」と可愛く応えていた。何もない畳と古い木材で出来た空間が子供たちには心地よいらしい。縁側には月見団子とススキが飾ってあった。今日は十五夜だ。好天なのですっきりした月見ができそうだ。

 先日、絵描き仲間が電話してきた。相変わらず生活は大変な様子。しかし、色々雑談している内に最後は絵描きは精神的にタフだと言った話に落ち着いた。私達は作品は極めて繊細に制作するが、生活者としては大雑把でタフだ。好きな仕事の為なら少々世間体の悪いことでも出来る。それは物書きも同じで、知人の小説家は仕事で絡んだ企業を脅して金をせしめていた。アーティストと言うと品の良い仕事に見えるが、実はやくざな仕事だ。何しろ役に立たないものをお金にするのだから、やっていることは詐欺師と大差ない。

とは言えアートは文化の根幹を成すものだ。その国の文化はその国の工業製品に付加価値を生み出す。たとえばトヨタがベンツやフェラーリにいくら技術的に追いついても、ユーザは本心から敬意は示さない。それは車文化の蓄積の差だ。

九月二十二日

 今日の涼しさはひさしぶりで、懐かしさを感じる。最近の夏は、三十年前と比べると二ヶ月は長く、かって経験したことがない猛暑だ。落ち着いていた石油が反騰し始め一バレル七十ドル超しは時間の問題だろう。おかげで日本の貿易収支は近々赤字になりそうだ。しかし、石油が際限なく高騰することはできない。いずれ代替え燃料の割安感が起きて、下がり始めるはずだ。問題なのは最大消費地のアメリカ国民の省エネ意識だ。巨大な家を隅から隅まで冷暖房するやり方はもう許されない。たとえば、日本のような小さな家で炬燵を使うやり方は大変合理的だ。

 知人のドイツ人は炬燵が好きで、ドイツの家でも炬燵を使っている。彼女は一人暮らしで洗濯機と冷蔵庫も日本製を愛用している。容量の大きなドイツ製は単身者には向かない。加えて日本製の静音設計も気に入っているようだ。日本は枕元に冷蔵庫を置くことがあるので、静音設計が進んでいる。
炬燵の暖かさは外国人にも心地よいものらしい。先日町中で、貰い物らしい炬燵を意気揚々と持って帰る外国人一家に出会った。

九月二十三日

 休日の自然公園には隣の団地から若い親子が沢山遊びに来ていた。自然公園に来ている人達は伸びやかで楽しそうだ。両親と歩いていた四歳程の女の子が「こんにちわ」と母と挨拶して、嬉しそうに駆け寄って来た。彼女は母が腕にしている自作のビーズ細工に触れて「まあーステキ」と誉めた。「この子はビーズ細工が大好きなのですよ」と母親が嬉しそうに話した。女の子は「どうしてこれに乗っているの」と車椅子のことを聞いた。「腰が痛いの」と母が答えると気の毒そうな顔をした。

公園の流れでは子供達がザリガニ釣りをしていた。傍らでは老人達があれこれ釣り方を教えていた。古民家の座敷でも子供達が遊んでいた。寝転んでいる私の耳元を子供が行き来するので、いつものようにのんびり出来ないが、子供達の声が楽しい。

古民家下の田圃はすっかり実って、穂の重みで倒れそうだ。
「早く、稲刈りしないと倒れちまうな」
公園に来ている農家出身の老人たちは気が気でない様子だ。来週あたり、近隣の小学生の稲刈りがある。

九月二十四日

 午前中、時折、大粒の雨が落ちた。車椅子押しは暑いが、今日は涼しくビニールコートが蒸れないで助かった。濡れた自然公園は秋色が冴えて美しい。黄色みががった草むらの各所に彼岸花の紅が鮮やかに映えた。近づく台風を予感しているのか、スズメ達はいつもより熱心に餌をねだった。足元まで近づいて私たちを見上げながら餌をねだる幼鳥たちが可愛い。

帰る頃、雨は強くなった。早く帰りたいので、住宅地の中を近道した。近道の風景は少し見ない内に空き地が増えていた。その一つは以前は古いアパートだった。二階の角部屋に髪も髭もぼうぼうの異様な風体の若者が住んでいて、昼夜なく大音量で音楽をならしていた。あれは住人を追い出す為に雇われた者だった。しかし、無理に更地にしても良い値では売れない。駐車場に変えても借り手は少ない。バブルの頃、このような土地余りの時代が来るとは誰も予想していなかった。統計では現在日本の住宅の一割は空き家である。空き家率は年々高まり、10年後は二割を越すと予測されている。私は人が少なくなって、街が静かになるのは好きだ。

 昨夕、テレビで定年後、田舎で暮らす定年退職の熟年たちを取り上げていた。しかし、東京が静かになって行く現実を見ていると、田舎へ行く必要はなさそうだ。私は雑然とした都会風景が好きなのでなおさら離れたくない。都会の人間関係に疲れて田舎に行くのは誤りだ。田舎の人情味に幻想を抱いて脱都会をして、再び東京へ戻ってくる人は多い。田舎は人同士が助け合う反面、義務も多く人間関係は煩雑である。

 帰宅すると鍵が開いていて姉が来ていた。姉は原宿の店を辞め、池袋に再就職したことを報告した。今の店は悪くはないが、重い什器を持つことが多く腱鞘炎をおこしてしまったようだ。幸いにも景気が好転して、姉の転職も直ぐに決まった。年金が殆ど無い我々は死ぬまで働き続ける他ない。

十月一日

 日射しが強く汗をかいた。九州では三十二度になった。十月にこの暑さは異常だ。途中、緑道公園の木影で休んで冷たいお茶を飲んだ。貰い物の玉露を抹茶にして冷水に溶いたもので、とても美味しい。
休んでいる目の前の地面にオレンジと黒の縞の大スズメバチがいた。大きなカマキリを軽々と押さえつけ肉団子を作っている。強いカマキリでも、大スズメバチから見ると子羊みたいだ。しかし、その凶暴な大スズメバチを小さな日本ミツバチはやつけてしまうのだから自然はすごい。

 散歩から帰宅すると姉が来ていて、玄関を開けて掃除をしていた。私は三人分の昼食を手早く作った。最近よく食べる一つに、ブナシメジとシラスを入れた大根下ろしがある。ブナシメジは電子レンジで加熱する。シラスは九州から送って来た堅く干し上げたものを使う。他にカボチャの甘辛煮付け、鱈と昆布の煮付け、人参とレンコンの金平。メインのうどんにはカニかまと精進揚げととろろ昆布と茹でほうれん草。母も姉も美味しそうに食べていた。このような伝統食のおかげで母は元気である。

十月九日

 外は肌寒い雨、母のカーデガンを出すと脇が綻びていた。
「さんどがんのかくさん、死なさった、あー忙し、あー忙し」
母は小声でつぶやきながらつくろった。出がけに針を持つと縁起が悪い。母の郷里久留米では、そのまじないを三度唱えると厄よけになると信じられている。かくさんは奥さんの意味だが、さんどがんの意味は母にも分からない。もしかすると、母の記憶違いかもしれない。

 雨の中、母に雨具をかぶせて散歩へ出た。御諏訪神社横の急坂は濡れると滑りやすいので気をつけて登った。車椅子を全身の力でそろそろと押し上げていると、足音が近づいてきた。
「お手伝いしましょうか」
若い女性の声だ。顔を上げると、清楚な女性の顔がそばにあった。
「ありがとう。でも慣れていますので大丈夫です」
即座に答えたが、女性の手はすでにハンドルをつかんで押していた。私はどぎまぎしてしまった。坂上まで押し上げ、母がお礼を言うと女性はうれしそうに去って行った。

 雨の赤羽自然観察公園の古民家には誰もいなかった。板の間をトントンと歩く自分の足音が大きく聞こえた。座敷で横になると軒先から落ちる雨だれの音が心地よく聞こえた。天井のシミを見上げながら、ぼんやりと行きがけの女性のことを考えた。もしかすると一人で休日を過ごしているのかもしれない。あの時、立ち止まって、色々話したら名前を聞けたかもしれない。そのような妄想をめぐらせていると、いつの間にか雨が止んで青空が見えた。出かけの母のまじないが効いたようだ。

十月十六日

 朝、玄関前で母の車椅子の用意をしていると、新河岸川対岸から救急車のサイレンが聞こえた。見ると、パトカーが停車していて、警官が住人達に質問をしている。場所は古い低層の公団団地である。やがて、団地から担架が運ばれて来た。掛けられた薄緑の布の膨らみは薄く老人の様子。担架は収容されたが救急車は発車しない。どうやら既に亡くなっていたようだ。住人たちへの警官の聞き込みは十分程続き、ようやく救急車は出ていった。一連の動きから見ると変死である。もしかすると孤独死かもしれない。母を車椅子に乗せ出発する頃には、何もなかったように団地の路上から人影は消えた。

人はいずれ死ぬが、死に方は様々だ。アフガニスタン地震では四万人近く亡くなった。生き埋めでの死は閉所恐怖症の人には想像するだけで息苦しいだろう。極限状態では人の知恵は逆に苦痛を増すように働く。野生動物のように、目の前の現実だけに耐えているのなら楽だが、凡人はそうはいかない。

入定という生き仏になにる究極の修行がある。自らの意思で生き埋めにして貰い、静かに仏の世界へ旅立つのである。これは壮絶な苦行を重ねた者だけに出来ることだ。昔読んだ文献に、苦行を重ねる内に恍惚感を覚えるようになる、とあった。入定する僧はそれに近い感覚だったのだろう。そんなことを考えながら、冷たい雨の中自然公園へ向かった。公園は静かだった。この雨に濡れた初秋の自然を見ると心が洗われ、重く心を占めていた死が消え去った。

車椅子を押していると、母の杖につけた鐘の音に誘われて、今年生まれの若いスズメ達が餌を貰いに来た。初めて冬を越す準備なのだろう。成鳥になると現れる胸毛の黒いネクタイがまだなく、白いふっくらとしたマシュマロのようなお腹が可愛い。彼等の寿命は二、三年である。それでも、スズメ達は生き生きと生きている。彼らを見ていると、生きていることが本当に素晴らしく思える。

十一月六日

 昨夜、仕事をしていると母の咳き込みが聞こえた。なかなか止まらないので、急いで駆けつけ、背中をさすった。母の寝間着の肩に自分でしたつくろいがあった。昔と比べると針目は粗くて大ざっぱだ。仕事は粗くなったが、母の手芸好きは変わらない。今はビーズ細工の腕輪を一日二本のペースで作っている。粗製濫造なので、半年で三百本は溜まった。母の元気な頃は、人形作り、仏像彫刻、編み物と熱中していた。今の住まいに引っ越す時、大量の人形は持って行けないので大半を私が庭で燃した。灰の中に人形に塗った胡粉が骨のように燃え残り、胸が痛んだ。

自室へ戻ってから、寝室の母の様子が分かるようにテレビを止めた。静かになると微かに雨音が聞こえた。

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 今朝早く、母はベットから起きる時に畳で足を滑らせて転んだ。私を呼ぶ声に気付いて目覚め駆けつけたので、大事には至らなかった。すぐに滑り止めの小さなカーペットを畳にしっかりと固定した。

 午後、雨が止んだので母を散歩に連れ出した。午後の光の中、色づいたイチョウが美しい。緑道公園の明るい木漏れ日の中、桜の落ち葉を踏みしめて歩くと、さわやかな芳香が漂った。

十一月十七日

 今朝は八度まで下がった。先日、カーテンの裾を伸ばして床面との隙間をなくした効果で、室内は二十度を保っている。おかげで、母はストーブなしで過ごしている。

先日兵庫で、ど根性大根のことが話題になっていた。車道脇のアスファルト路面を押し広げ、逞しく成長していく大根を近隣の人たちは大切に見守っていた。しかし、心ない者に折られてしまった。見守っていた人たちの落胆は気の毒なくらいだった。

この気持ちはよくわかる。自然公園のビロードモウズイカが、月曜日、先端から五十センチ程の位置で折られていた。ちょうど先端のミトンの形をしていた部分に花が咲きはじめていたので、持ち帰ろうとした者がいたようだ。しかし、この茎はかなり繊維が丈夫で、ねじ切ることは出来ず、犯人は諦めたようだ。
ビロードモウズイカは折れたままブラブラ風に揺れていた。花が咲くのを楽しみにしていた人たちは一様に立ち止まり、可哀想なことをすると怒っていた。

それから三十分程公園で過ごしての帰り、奇跡が起きていた。折られた茎が真っすぐに戻っていたのである。それは夢のようで母も私も我が目を疑ってしまった。どうやら、わずかな間に自力で茎を持ち上げ直立させてしまったようだ。咲き始めた先端のつぼみをどうしても開花させたいビロードモウズイカの意地だろう。帰り道、母は逆境を跳ね返す逞しさが素晴らしいと、繰り返し話していた。そして今日も、ビロードモウズイカは元気に花を咲かせていた。

十二月十三日

 いつものように自然公園の歩道を車椅子を押していると、顔見知りの公園管理人が声をかけてきた。
「先月、菊池さんが亡くなったよ」
突然のことで、母も私も驚いた。菊池さんは秋口まで管理室に詰めていた人だ。年は六十九歳、八年前に肺がんの手術から生還していて、同じように肝臓ガンから生還した母とは気が合っていた。彼は私たちが管理室前を通ると、すぐに気づいて窓を開け、嬉しそうに話しかけた。それで母は管理室前を通るのを楽しみにしていた。
しかし、今年春あたりから風邪っ気が抜けず、夏に体調を壊したまま秋口に退職した。私たちはそのうち再会できるだろうと思っていた。

「人は死ぬものだから、しかたがないね」
母が寂しそうにつぶやいた。私は曖昧に返しながら空を見上げた。青空には、葉を落としたミズキが端正な枝を広げていた。今年生まれた雀達はすっかり成長して、コロコロ転がるように足元に来て餌をねだった。その平和な光景の中で餌を撒きながら、新たに生まれる者たちのために、死ぬ人がいるのだと思った。

 帰り、公園の日だまりでひなたぼっこをした。古民家で休むようになってから、その日だまりで休むのは久しぶりだ。母がガンから生還してすぐの去年の初頭、よくその日だまりで休み風の音を聞いていた。すすきの原の向こうのに炊事棟の屋根が見えた。
「炊事棟の屋根は古澤焼酎の屋根に似ているね」
母が話しかけた。古澤焼酎とは少年時代を過ごした南九州の大堂津にある焼酎醸造所だ。今は現当主が商売上手で東京でも知られるようになった。当時は古い土蔵のある、軒の深い昔の建物だった。最近、昭和を思い出すことが増えた。記憶の中の風景は、古い映画のようにセピア色がかって懐かしい。やがて、それらの記憶に母が加わると思うと寂しい。

十二月二十七日

 朝から小雨まじりの風が吹いていた。母が肝臓がん手術から生還してから三年目に入った。母の通所リハビリの送迎バスを一階エントランスで待っていると、突風が広場のケヤキの枯れ葉を盛大に散らした。
午後四時、送迎バスが着いて係員から車椅子の母を受け継いだ。遠くで眺めていた小学生の男の子が、エレベーターへ駆けて行って、ドアを開けて待っていてくれた。一緒に乗り込むと、彼は私たちの階を聞いてボタンを押した。
「あなたは偉くなるよ」
母が彼をほめた。
「でも、学校の成績はだめなんで。」
彼は恥ずかしそうに答えた。
「成績なんかより、やさしい思いやりが大切だよ」
私がはげますと、うれしそうに一礼して九階で降りて行った。

 深夜、母がブザーで呼んだ。飛んで行くと、「あったよ」と母は部屋の一角を指差した。見ると椅子の下でブローチが赤く点滅していた。発光ダイオードが点滅する星形のブローチで、三日前に赤羽駅前商店街で買った。母の服に付けていたが、着替える時落として探しても見つからなかった。
「可哀想だから消してあげて」
母はブローチの電池を切るように頼んだ。仕事部屋へもどってから、赤羽自然観察公園でもらったワラを太くなって正月飾りを作った。ワラをなうのは五十年ぶりだが、独りでに手が動いた。正月飾りを作っていると、新年を迎える厳粛な気分になった

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