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第八章 終末期、母の死を覚悟した。

 二千十年一月三日 母九十六歳

 元旦は人出が多かったので、今日に初詣を延ばした。八幡神社急坂を車椅子を押し上げて母と初詣をした。
「今年は死にそう」
帰り道、母がポツリと言った。
「毎日、死ぬと言っているよ」
またか、と思いながら応えると、
「あら、そうだったの」と、母はてれ笑いした。
最近、母は穏やかになった。
気休めを言ったが、母の言葉は本当になりそうな気がしてならなかった。

夕食後、仕事をしていると、母が鐘を鳴らした。
鐘は知人の彫刻家の作品でウサギ飾りの付いたステンレス鋳物だ。堅い素材なので、とても澄み切った音がする。ブザーでけたたましく呼ばれるのが嫌で、先日、ブザーを外してそれに代えた。

テレビの前に腰かけていた母はベットへ連れて行ってくれと言った。
母が逝けば、この鐘の音を思い出しそうだ。失うことを恐れるなと釈迦は説いたが、その境地はとても難しい。彼は多くの大切なものを失って、やっと、その境地に達したのだろう。

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                    八幡神社の境内にて。

 二月四日

 昨夜は四時まで絵を描いていたのに、朝六時に母に起こされてひどく眠い。今日は母のシャワー介助の日だ。九時半にヘルパーの小黒さんが来た。先週、母が元気がなかったのを心配して、チューリップを見舞いにもらった。母のシャワー介助が終わるまで五分ほど寝ようと自室で横になったら、そのまま寝過ごしてしまった。

介助が終わって帰る小黒さんの気配で目覚めた。
「ぐっすり、寝ていらしたので、黙って帰ろうと思いました」
彼女は、起こしてしまったことを詫びた。
見送ってから、母の様子を見に行くと、ベットでぐっすり寝ていた。自室に戻り、一時間ほど何もせずにぼんやりしていると、母が呼んだ。
「静すぎるので、誰もいなくなったのかと心配になったの。ところで、裕子はどうしているかしら」
母は上の姉が一昨年死んだことを忘れていた。
裕子姉は死んだと言うと、「ああ、そうだったね」と寂しそうにしていた。

 生活に追われている今は、生死へのこだわりが薄い。逆に、生活にゆとりがあるころは、生死への執着が強かった。幸せはバランスよく巧妙にできている。死に対する恐れはないが、死ぬまでの長い孤独は寂しそうだ。だから根拠もなく、老いても平気だと虚勢を張っている。虚勢でも孤独への対処法になる。覚悟ができていない孤独ほど辛いものはない。

 三月十日

 毎夜、午前二時まで仕事に熱中している。おかげで、頭がさえて寝付けない。眠れないまま先行きを考えていると、母が呼んだ。急いで行くと、電灯の笠の上で赤ん坊が遊んでいると言った。幻覚が始まったようだ。部屋を明るくすると、母はすぐに正気に戻った。
「夜中に起こして、ごめんね」
母は何度もあやまった。

一時間後、再度呼ばれた。今度は壁の写真から水かあふれ出ていると言う。母の幻覚は次第にシュールになって行くようだ。
「さっきは、赤ん坊がいると言っていたよ」
母に話すと「そんな、怖いこと言わないで」と、一時間前のことをすっかり忘れていた。
「早く寝な」
母の掛け布団を整えて仕事部屋にもどった。深夜になると酸素飽和度が極度に低くなり、幻覚を見るようだ。

 2010年3月15日

 最近、母の散歩の出発に手がかかるようになった。その上、車椅子まで連れて行くと、決まってトイレに行きたいと言う。今日もそれで出るのが一時間遅れてしまった。

母が用を足すあいだ、テレ朝の「ちい散歩」を見ていた。今日の散歩コースは相模原。古い通りの映画館に「君の名は」の看板がかかっていた。地井武男は、私とほぼ同時代の人間だ。彼は歩きながら「君の名は」の主題歌を口ずさみはじめた。

「君の名は」は、女湯が空になったと伝説がある大ヒットのNHKラジオ連続ドラマだ。当時小学二年生の私はメロドラマには興味がなく、ラジオ放送の記憶はない。昭和二十八年に岸惠子と佐田啓二主演で映画化された「君の名は」は死んだ裕子姉と見た。

不良だった裕子姉がとなり町の油津へ映画を見に行くと言うと、母は見張り役に私をついて行かせた。その映画が「君の名は」の北海道編だ。印象に残っているのは後宮春樹・佐田啓二を慕うアイヌ娘の唄う黒百合の歌だ。アイヌの娘役は北原三枝で、唄っていたのは主題歌と同じく織井茂子。おどろおどろしい前奏から入るエキゾチックな歌は強烈に記憶している。

「どんな映画を見たの」
帰宅すると母が聞いた。
「川で、女の人が裸でカエル泳ぎしていた」
そのシーンを身振り手振りで一生懸命に説明すると、「子供にそんなものを見せて」と母は姉をしかった。
「君の名は」にそのようなシーンはない。摩周湖に娘が投身自殺するシーンを、私が勝手に空想したようだ。今の母同様、私も幻覚を見がちな子供だった。

 母は映画狂で、油津で話題の洋画が上演されると、必ず私を小学校から早引けさせて連れて行ってくれた。だから小さな漁師町に住みながら、戦後の名作洋画はすべて観ている。

母が学校をさぼらせてまで見せてくれたのは、田舎では名作洋画は人気がなく、四、五日で西部劇などの活劇に入れ替わっていたからだ。後年母は、名作映画は学校より勉強になると話していた。

 ようやく散歩へ出発してエレベーターに乗ると、途中の階で突っ張った風体の若者が乗りこんで来た。
「こんにちは」
意外にも、若者は礼儀正しく車椅子の母にあいさつした。
「足の悪いおばあちゃんが、一人暮らししているので、訪ねて帰る所です」
若者は母に話しかけた。
「優しいですね。暖かくなったから、車椅子で連れ出してあげると喜ばれますよ」
母が言うと「今度連れ出してあげよう」と若者は笑顔になった。
若者との出会いで、いつになく母は心地良さそうだった。

 以前行っていた赤羽自然観察公園は管理方針が変わり、自然の草は苅られ樹木は剪定されてしまった。野趣がなくなったので自然公園行きは止め、今は近くの東京北社会保険病院下の公園で母を歩かせている。私も母も体力が低下したので、その方が楽で良くなった。

 夕暮れ、旧知の羽生さんが私の窮状を知って、訪ねて来て絵を買ってくれた。家賃を滞納し契約解除通告を受け万事休すと思っていた。これで何とか苦境を乗り越えられそうだ。

「絵を買ってもらったから、生活は大丈夫だよ」
母に話すと、気丈な母がベットの中で声を出して泣いた。いつもは。ノー天気なことばかり言っていたが、内心、生活の行く末を案じていたようだ。先が長くない母に心配かけていたと思うと、すまなさで一杯になった。

 2010年4月8日

 午前中、母はシャワー介助を受けたので、散歩は午後おそく出た。好天だが冬のように冷たい。今朝は各地で遅霜が見られ、寒さのおかげで桜はほとんど散っていない。夕暮れの光に、花びらがキラキラ光りながら母に舞い落ちた。
「今年の桜は、いつもより美しいね」
帰り道、母は何度も言った。

 公園で親子連れが花見をしていた。その五六歳の男の子は玩具のブルーのサングラスをしていた。男の子はブルーの世界が気に入っているようで、体を回転させながら桜を見上げていた。
「よっ、かっこいいね」
声をかけると、男の子は反っくり返りながら照れていた。
「バカばっかりやって」
若い母親は笑った。去って行く男の子は振り返り振り返り私たちに手をふった。
そんな親子を母は目を細めて見送っていた。

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 住まい下の桜。 右は新河岸川。十四年前、この住まいに引っ越したころは幼木だったのに、今は花見ができるほどに成長した。

 2010年4月19日

 散歩帰り、住まい近くで信号待ちをしていると、片足スクーターに乗った五歳ほどの女の子が、私たちを見上げていた。青信号に変わると、女の子は片足スクーターを飛ばして先に行った。住まいに着くと、女の子がエレベーターのドアを開けて待っていた。

「いい子だね。ありがとう」
母が一緒に乗った女の子にお礼を言った。
「帽子のお花がきれいですね」
女の子が笑顔で母に話しかけた。母は楽しそうに受け答えしていた。
途中で、女の子はぺこりとお辞儀して下りて行った。
その時、その顔に見覚があると思った。数年前、エレベーターでよく一緒になる若い親子がいた。そのお母さんにだっこされていた赤ちゃんの面影が女の子に残っていた。それで女の子は、信号待ちをしている私たちをしげしげと見上げていたようだ。

「赤ちゃんのころのことを覚えているなんて、本当に利口な子ね」
母はしきりに感心していた。最近、疲れた顔ばかりだったので、母の明るい顔がうれしかった。

 2010年4月19日

 深夜、ブザーで呼ばれて行くと「時計が止まっている」と訴えた。壊れていないと説明しても
「針が動いていない」と納得しない。面倒なので、新しい時計を置いた。

 母はカレンダーの日付を毎日マーカーで消している。最近、消したことを忘れて何度も消すので、一日で四、五日過ぎてしまう。それで、次々と新しいカレンダーを増やした。おかげで母の部屋は時計とカレンダーだらけになった。余命を短く感じると、時間や日付が気になるようだ。

 2010年5月1日〜5日

 私は急性胆のう炎にかかり、五月一日に東京北社会保険病院で緊急切除手術をした。腹腔鏡での手術なので回復は早い。胆のう炎にかかったのは、一年前からの睡眠不足と過労とストレスによるものだった。この病気は極端に体力が弱った寝たっきり老人に多いと言われている。私は相当に衰弱していたようだ。

 入院の間、母の世話ができないので、緊急措置として母を同じ東京北社会保険病院に入院させた。しかし、母は病院食が口に合わず殆ど食べなかった。それに気づいたのは、私の術後三日目のことだ。訪ねると母はやつれて悄然と寝ていた。不安になって食事内容の変更を看護師に頼んだ。
「食べられなくても特別な対策はしません。次の食事で補えば済むことです」
彼女は平然と答えた。しかし、それは九十六歳の老人には通用しない。食べないと急速に体力は低下して回復は不可能になる。危惧したように、母は翌日も食べなかった。仕方なく、売店でヨーグルトやゼリーを買って来て食べさせた。

 2010年5月6日

 母を訪ねると、柵に囲まれたベットで意味不明のことをつぶやいていた。かたわらの簡易トイレを使った形跡はない。私は背筋が寒くなった。急いで柵を取り除き母を車椅子に座らせようとしたが、まったく立てなくなっていた。私は手術後の痛みに耐えながら抱え上げ車椅子に座らせた。外へ連れ出せば、回復すると思ったからだ。

病院の庭は五月の新緑だった。
「気持ちがいい」
始めて母にいつもの笑顔が戻った。外の刺激で頭が正常になれば、体力も戻るかもしれない。しかし、このまま入院させていては弱る一方だ。すぐに担当医師にたのんで、私の月曜退院を土曜に前倒しさせてもらった。

 2010年5月8日

 退院の朝、病室に晃子姉が手伝いに来た。姉に身の回りのものを持たせ、先に帰らせた。
「また元気になって、公園へ散歩へ行こうね」
帰路、車椅子の母に話すと、うれしそうにうなづいた。しかし、母の足は痩せ自立歩行はむつかしくなっていた。帰宅して、ベットまで母を連れて行こうとすると、何度も膝がガクリと落ちた。その都度、支える私の術後の傷がキリキリと痛んだ。

 その夜も、母の幻覚と尿意で一時間毎に起こされた。夜の小用はおしめにするように頼んだが、母はプライドからどうしてもできなかった。一晩に何度も、母は私を起こして手伝わせて簡易トイレを使った。私は疲労困憊した。

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               やっぱり家は良いと母は嬉しそうだった。

 2010年5月12日

 ひんぱんに母に起こされ、私は睡眠不足でめまいを覚えるほどに疲労した。しかし、目覚めた母に夜の記憶はなかった。毎夜、起こされていると話すと、「ごめんね。ごめんね」と可哀想なくらい謝っていた。

 朝食後、母の様子を見に行くと死んだように寝ていた。来訪したヘルパーの小黒さんは、げっそりと痩せた母を見て悄然としていた。小黒さんと協力して母の体を清拭した。
終わっても母は死んだように眠っていた。

一時間ほどして、目覚めた母が私を呼んだ。
「今日は死にそう。今まで本当にありがとう」
母は私に手を合わせた。
「バカバカしい、いつごろ死ぬと言うんだよ」
強く言うと、母はすぐに正気に戻った。
「あと、二、三日かかるかもしれない」
母はそう言ってから照れ笑いした。 

 2010年5月16日

 食欲が回復してきて、母のほおはふっくらしてきた。毎日来てくれるヘルパーの小黒さんも、見違えるように元気になったと喜んでいた。しかし、老人の体調は日替わりで上下する。過去、何度も驚異的に回復して来たが、今回はむつかしいと思った。

深夜、母が私を起こすのは迫って来る死の影に怯えていたからかもしれない。母の部屋を暗闇にしないように、隣室の明かりはいつも点けたままにしておいた。

 2010年5月17日

 日に日に、夜の母の幻覚がひどくなった。
「どなたか、いませんか」
昨夜は呼び続ける声で目覚めた。急いで行くと
「正喜がいてくれたの。ああ良かった」
母は笑顔になった。
「ここは病院じゃないよ。いつもそばにいるから安心して寝な」
頭を撫でながら話すと、母は次第に正気を取り戻した。
「起こしてしまってごめんね。さあ早く寝なさい」
母は何度も謝っていた。

 2010年5月18日

 朝から雨が降ったり止んだりしていた。お昼前、食材の買い出しから帰宅して母に声をかけたが、死んだように寝ていて目覚めなかった。以前なら玄関を開けると「お帰り」と声をかけてくれていた。

 今日も昼食はほとんど残した。夕食後、母はすぐにベットに横になった。暗闇と消えたテレビを嫌がっていたのに、今夜はテレビと電灯を消せと言った。闇や無音が気にならなくなったのは、死を受け入れ始めたからかもしれない。

 2010年5月19日

 東京北社会保険病院眼科の定期診察に母を連れて行った。母は待合室で昔なじみと会うと元気になった。そんな姿を目にすると、外出の大切さを痛感する。しかし、帰ると好きなテレビも見ずに、死んだように眠り続けていた。いずれ弱ると覚悟していたが、予想より早く進んでいると思った。室内の歩行がむつかしくなったので室内用車椅子を借りた。

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                 東京北社会保険病院の屋上庭園にて。

 2010年5月24日

 母は突然に元気になった。顔色も良く、言葉も表情も明るい。毎日、散歩へ連れ出した効果が出たようだ。しかし、元気になれば一人で簡易トイレを使い、ベットに戻れなくて深夜に私を起こす回数が増えた。

 絵が仕上がったので母に見せると絵を指先でうれしそうになでていた。母は老いても絵を見る感覚は確かだ。失敗した絵には興味を見せないが、上手く行くと心底喜んでくれる。

 午前中の母は冗談が出るほどに元気だったのに、昼食後は口数が減り、死んだように眠っていた。母が眠っている間に赤羽駅前へ出かけ、ガラス磨きワイパーを買って来た。早速、母の部屋のベランダのガラス窓をスプレーで湿し、汚れをすくい取ると面白いようにきれいになった。

 夜、様子を見に行くと母はすぐに目覚めた。
きれいになったガラス窓から満月が見えた。
「月がきれいね」
母はベットから、しばらく夜空を眺めていた。
「私の世話で疲れたでしょう。やさしくしてくれて本当にありがとう」
母は礼を言った。どうやら眠っている間に逝ってしまうと思っているようだ。
「大した世話じゃないよ。明日も散歩へ連れて行くから早く寝な」
そう言うと、母はまた「ありがとう」を言った。

 2010年5月31日

 朝、母の体調は極度に悪かった。
「とても疲れているから、このまま死ぬまで寝かせていてほしい」
母は起きようとしない。そうなった訳は思い当たる。母は午前三時に朝と勘違いして私を起こした。
「外は真っ暗だよ。朝か夜か分からないの」
二時に寝てすぐに起こされた私は機嫌が悪く、きびしく言ってしまった。
その後、私はすぐに二度寝したが、母は朝と間違えたことがショックで眠れなかったようだ。
「このまま寝ていても辛いだけだよ。ご飯を食べて散歩しよう」
やさしく説得すると母は渋々起き上がった。しかし、朝食を済ますとすぐにベットに戻してくれと頼み、死んだように眠っていた。もう無理はさせずそのまま寝かせておいた。

 2010年6月7日

 母の足元はふらつき、支えても何度も膝がくずれ落ちた。母の体重は五十五キロほどある。母を抱え上げると術後の傷が激しく痛んだ。母の筋力が弱ったのはベットに寝ている時間が長いからだ。それで、日中は椅子に座らせておいた。しかし、座ってばかりいると血流が悪くなるので三十分毎に立たせてマッサージをした。

 母の夏の寝間着が傷んで来た。
「明日、イトーヨーカ堂で新調しよう」
母に言うと、無駄になるから必要ないと言った。ほとんど着ることなく死ぬと思っているようだ。
「無駄になっても良いから買いに行こう」
さらに言うと、母はうれしそうにうなづいた。

 2010年6月9日

 午前三時に、母は朝と思って私を起こした。

 午前四時、一緒に寝ていた人形がなくなったから探してくれと起こした。
そのように眠らせてもらえない夜が続いていたので、早朝に母と口論してしまった。繰り返し説明していると、母はやっと幻覚に気づいた。しかし、そのあと母は自己嫌悪におちいってしまった。
「私は生きている価値がない、これから死ぬから起こさないで」
母は頑としてベットから起きようとしなかった。それを時間をかけて説得してやっと朝食を食べさせた。

 朝食後は室内用車椅子で玄関まで連れて行き、外用の車椅子に乗り換えさせて散歩へ連れ出した。
「お子さんは、いらっしゃいますか」
車椅子を押している私を母はヘルパーと間違えていた。
「正喜だよ。分からないの」
何度も聞くと、やっと、私だと気づいた。

 道々、母の頭をしっかりさせようと兄姉たちの名前を順に言わせた。しかし、姉たちの名だけが抜けた。それを晃子姉が知ったら怒るだろうと、おかしくなった。

東京北社会保険病院下の公園で母を歩かせた。先日の頭がしっかりしていた時は二メートルしか歩けなかったのに、頭がおぼろげな今日は八メートルも歩いた。体が弱っていることすら、忘れているのかもしれない。

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 東京北社会保険病院下の公園にて、元気そうに見えた母最後の写真。後ろはガクアジサイ。

 2010年6月14日

 早朝四時、母が呼んだような気がして目覚めた。様子を見に行くと、母は編み物をしているように手を動かしていた。
「大丈夫」と聞くと、
「さっきから、襟を探しているけど、見つからないの」
母は笑顔でタオルケットの端を見せた。どうやら、セーターを編んでいるつものようだ。
「それはタオルケットだよ」
教えると、やっと正気に戻った。行ったついでに簡易トイレで小用をさせ、テレビを点けた。教育テレビで落語をやっていたので点けたまま自室へもどった。

その後、母に二度起こされた。最初はテレビに裕子姉が出てると言った。
「二年前の秋に死んだだろう」と言うと、
「そうなの。死んだの」
母は悲しそうな顔をした。
次はマチ針を落したから探してくれと起こした。今度は裁縫しているつもりだった。

 2010年6月16日

 先日、新調した夏用の寝間着を改造した。母の体型を採寸し、新しい寝間着に帯を縫い付けた。タンスの古い傷んだ寝間着は捨てた。古ぼけた品ほど思い出がこもり、遺品になってからでは捨てられなくなる。

 昔、母が祖母の遺品を整理していると明治時代の古い痛んだ着物が出できた。他人には惜しげもなく金を使う人なのに、祖母は自分自身には無頓着だった。
「こんな粗末なものを東京まで持って来て」
母は寂しそうに古い着物を撫でていた。
寝間着を捨てながら、その時の母の姿が今の自分に重なった。

 2010年6月18日

 母は私が手伝っても、まったく立てなくなって、抱え上げて室内用車椅子に乗せるのは大変な作業になった。急に弱ったのは心臓が弱ったせいだ。先日の朝、母は大量に汗をかいていた。後日、それは心不全の発作だったと知った。

帰りの緑道公園でサクランボがたくさん実っていた。食べてみると甘い。十粒ほど食べると、アントシアニンで口の中が濃紫に染まった。
「どおだ」
紫に染まった口を開けて母に見せた。
「気色が悪い」
母は笑いながら顔を背けた。

 母は更に弱り、深夜に私を呼ぶ回数が減った。食欲も激減し、さかづき一杯のごはんを、やっと食べている。足りない栄養は、エンシュア・リキッドやプリンで補った。
母は残り時間が少ないと感じているのか、子供のころの思い出をしきりに話すようになった。

 2010年6月20日

 母は朝から殆ど喋らなかった。
母を抱えるのは腰を酷使する。ぎっくり腰に注意していたら、鼠径ヘルニアを悪化させてしまった。

朝食後、母は死んだように寝ていた。それでは弱る一方なので無理に起こし、何とか散歩へ連れ出した。家では何に対しても無反応だった母が、外で知人に会うと明るく挨拶していた。

 午後、注文していたミシンが届いた。新しいミシンは下糸のボビンが水平釜になり、糸通しが付いている。
「これなら糸通しに苦労しないよ」
ベットの母に見せると、嬉しそうに目を輝かせていた。
母は無類の手芸好きだったが、弱ってから止めていた。

ミシンを見て元気になった母は起きると言った。
椅子に座らせて夕食を作った。母は食事中も明るく、食欲も少し回復していた。しかし、それはつかの間で、夕食後は「龍馬伝」も見ないで死んだように眠っていた。そんな母を眺めながら、私が胆のう炎を起こさなかったら今も元気なのに、と後悔が募った。

 2010年6月21日

 母の散歩から帰ると車椅子のクッションにしている円座がパンクしていた。まるで、母を支えてきた役割を終えたように思えた。母をベットに寝かせて円座を買いに出た。

最初に行った大きな薬局にはなくて、昔ながらの小さな店にあった。円座は三年は保つ。今回は一度も使うことなく逝きそうな不吉な予感が頭をよぎった。
数日前に母の右踵が赤くなっていた。どこかにぶつけたのだろうと思っていたら、赤黒く変化していた。心臓が弱り、血行が悪くなって床ずれができたようだ。プロスタンディン軟膏を塗ってガーセで覆っておいた。

 2010年6月22日

 朝、生協浮間病院に往診を頼んだ。それから、ケアマネージャーに介護ベットの手配をしてもらった。
介護ベットを入れるには、ベット下に保管してある額やキャンバスの木枠が邪魔だ。それらは大宮の浜田氏に引き取ってもらうことにした。浜田氏は絵描きの知り合いが多いので、有効に使ってくれるだろう。
昼まで、ベット下や部屋を片付けていると、母が寝たまま粗相をした。以前なら母は体を動かしてくれるので手間はかからない。しかし、弱った母はピクリとも動けず、清拭は大変な作業になった。無我夢中でかたづけ、寝間着やシーツを洗濯し、シャワーを浴びた。それから、薬局へ防水シーツの予備を買いに行った。

 急いで帰宅すると、すぐに診療所から若い医師が往診に来た。酸素飽和度を測ると七十二と極端に低い。
医師は心不全から肺がむくみ酸素交換がうまく行っていないと話した。
「すぐに入院しなければならない状態です」
医師は深刻そうに話した。しかし、母はわずか一週間、病院にいただけで弱ってしまった。
「入院治療すれば心臓は一時的に回復すると思います。でも、入院すれば母は孤独に苦しみます。そして心臓もすぐに悪くなります。だから入院はさせません」
在宅で介護すると答えると、医師は困惑していた。しかし、私の考えは変わらなかった。母が元気な頃、もうダメと分かったら入院はさせないと、何度も約束を交わしている。だから、迷いはなかった。
「お考えはごもっともです。在宅で、できるだけのことをしましょう」
医師は納得して、すぐに在宅での酸素吸入設備の手続きをしてくれた。

 夕暮れに小型冷蔵庫ほどの酸素濃縮機が届いた。装着したままシャワーが使えるように、酸素供給ホースは八メートルまで伸ばせるようにした。ベットの母にカメラを構え「笑いな」と言うと、頬に当たる酸素チューブに引きつりながら笑ってくれた。

元気づけようと母が好きだった昔の絵を枕元に持って行った。メガネをかけさせて見せると、母はうれしそうに指で絵をなでていた。心不全のために肺がむくみ声は出せなかったが、母は精一杯の笑顔を見せた。

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 先日、知人からグルメ便のカタログが届いた。一年間、好きな食べ物を選ぶと毎月送って来る。冬の月、母が好きなカニを選らびながら、それまでは生きていない気がしてならなかった。

 夜、1972年制作「男はつらいよ 柴又慕情」を見た。
母は始めだけ見ていたが、直ぐに寝入った。映画好きの母は「男はつらいよ」シリーズを一番愛していたのに、その気力も失せたようだ。

一人で寅さんを見ながら、映画が作られた38年前の59歳の母の元気な姿が画面の風景と重なった。
「雲のように、自由に旅したいなー」
寅さんが空を見上げながらつぶやいた台詞が心に残った。
渥美清は言葉通りに68歳で大空へ消えた。

 深夜、開け放ったベランダから、涼しい風が玄関へ抜けて心地良かった。様子を見に行くと、母はすぐに目覚めた。
「いろいろとありがとう。苦労ばかりかけてごめんね」
母は途切れ途切れに言った。
最近母はお礼ばかり言う。

 2010年6月23日

 母が眼科受診に行けないので、処方箋を貰いに東京北社会保険病院へ行った。帰りに駅前に出て食材を買った。帰宅すると母の意識がない。ゴロゴロと変な寝息をたてている。出かける時は「行っておいで」と見送ってくれたのに、わずか二時間での急変だ。すぐに、診療所に往診を頼んだ。

 駆けつけた若い医師は心電図を取り、ペンライトで瞳孔の反応を調べ、念入りに聴診器をあてた。
診察の後、彼女は私を隣室へ呼び、深刻な顔で言った。
「お母さまは、今夜危篤になられてもおかしくない状態です。それでも、在宅をご希望ですか」
在宅で看取ると、幾度となく母と話し合っている。
「危ないのなら、なおさら在宅で看取ります」
私は迷いなく答えた。

 医師の説明では、母の急変は、カリウムのバランス異常から起きていた。母に点滴をすると見る間に意識を取り戻した。重篤だが、短期間なら母を元気にする自信があった。医師が帰るとすぐに、牛黄主成分の漢方薬を飲ませた。牛黄は強力な強心作用がある。すぐに効き目が出て、夕方には元気になり普通に会話しながら夕食を食べてくれた。

 2010年6月24日

 母はコップ一杯の栄養剤を飲ませるに十分以上かかった。食事全体となると小一時間は必要だった。もし、医師の薦めにしたがって入院させていたら、一人の患者にそれだけの手間はかけてもらえない。結局は点滴とチューブで栄養をとることになり、病室に一人で放っておかれ、母は孤独に苦しんだはずだ。しかし、在宅なら毎日、見舞い客が次々と訪れ、寂しくはなかった。改めて、緊急入院させなくて良かったと思った。

 お昼前、生協浮間診療所から看護師が点滴に来た。彼女は昨日より母が元気になっているのに驚いていた。看護師が帰った後、母の万一を考えて銀行へ金を下ろしに行った。

 窓口の係に「身分証明をお持ちですか」と聞かれた。払い戻し用紙に書いた「正喜」の「喜」の一番上が「士」ではなく「土」になっていると重箱のすみをつつくような理由だった。
「それは字が乱雑なだけでしょう。書き直せば済むことです」
反論すると、係はしばらく上司と相談して、やっと認めてくれた。多分、預金の殆どを下ろしたので怪しまれたのだろう。

 午後、大宮の浜田さんが額と木枠を受け取りに来た。台車で車まで運び見送ると入れ替わるように介護ベットが届いた。夕食後、ベットの母の上半身を電動で起こすと、月が見えると喜んでいた。

床ずれ予防の電動エアマットは、動いているのが分からないほど静かだった。昔、寝たっきりになった父のために外国製の床ずれ予防の電動マットを買ったが、体がたえず揺らされ、船酔いしそうだと父はいやがった。マットは三十年の間に格段に進化したようだ。

 深夜様子を見に行くと、
「あら繁、会いに来てくれたの」
母は私を死んだ繁兄と間違えて満面の笑みを浮かべた。
三十五年前に繁兄が死んだ後、母は私たちの前で一度も嘆いたことはなかった。しかし後年、布団の中で何度泣いたか分からないと話していた。母は今も繁兄に会いたかったのだろう。私は黙って母の頭をなで続けた。

 2010年6月25日

 朝、母を室内用車椅子に乗せて玄関前通路を行ったり来たりした。
「外は気持ち良いね」と母は喜んでいた。

 お昼前に医師が往診に来た。彼女は瀕死だった母がはきはき受け答えするのが不思議だったようだ。
「先生の処置が良かったようです。点滴のあと、とても元気になりました」
お礼を言うと、彼女は照れていた。

 午後は大型犬の小次郎くんが飼い主の小林さんに連れられて見舞いに来た。母は大喜びで小次郎くんを呼んだ。ベット脇まで来た彼は母の手をペロペロなめていた。その姿を見ていると、もっと頻繁に会わせてあげれば良かったと後悔した。

 先月、散歩している時、小次郎くんの家が近づくと母は彼に会いたいと話していた。
「小次郎は元気に散歩しているから、そのうちどこかで会えるよ」
私は気楽に答えていた。今思うと、母は彼に別れを告げたかったようだ。

小次郎くんが帰ってから、買い物に出ようと、母に声をかけたが意識が遠くなっていた。しばらく声をかけ続けると、やっと意識がもどった。
「行ってらっしゃいは」
催促すると、「バカ」と母は答えた。
そして間を置いて、「行っておいで」と、いつもの笑顔で送り出してくれた。

 その夜、母は急変した。意識がたえず遠くなって、話しかけても反応しなくなった。不安になって、懇意にしている上越で内科医をされている杉田さんに電話を入れた。深夜に関わらず、分かりやすく死間際の症状と対策を説明してもらえた。その中に、死の間際には呼吸と脈拍が不規則になるとあったが、母は弱いなりに安定していたので安堵した。

 2010年6月27日

 朝から母の意識は一度も戻らなかった。お昼、晃子姉が来たので、おむつ交換を手伝わせたが殆ど役にたたなかった。
「話しかけても反応がないし、居ても仕方がないから帰るね」
姉はすぐに帰った。姉は反応がないと思っているが、聴力は最期の間際まで保たれる。耳元で呼びかけると、母はかすかにうなづいた。スポンジに含ませた氷水で口元を濡らすと少しずつ飲んでくれた。

 神棚のサカキが枯れたので、午後、駅前に買いに行った。途中、顔馴染みに会った。母のことを聞かれたので、心不全で危ないと手短かに話した。話していると悲しくなり、気持ちが折れそうになった。
帰りは誰にも会わないように師団坂を上り、東京北社会保険病院の庭を抜けた。病院庭のヤマモモが熟していたので少し摘んで帰った。

 一旦帰宅してから母の付き添いをお隣に頼み、公団管理事務所へトランクルームの鍵を借りに行った。母の棺をエレベーターに乗せる時、トランクルームを開けて長さを確保しなければならない。それで、今から借りておくことにした。

母は献体の白菊会の古い会員だ。その時、慌てないように献体の書類に目を通した。必要なのは死亡診断書のコピー、火埋葬許可書、遺族の解剖承諾書だ。遺影用には三年前の九十四歳の写真を選んだ。元気な頃の写真を選んでいると喪失感がこみあげ悲しくなった。夜十時、突然に猛烈な眠気におそわれ、仕事部屋で十五分ほど寝た。夢の中で、母が笑顔で話しかけた。

「何だ、元気だったの」
喜んでいるところで目覚めた。母が急変したのではと、急いで様子を見に行くと、呼吸は小きざみで浅く、苦しそうだった。点滴で皮下出血だらけの手首の脈を取ったが殆ど触れない。胸に耳をあてると、弱くて早い拍動が聞こえた。もしかすると今夜、私が寝ている間に逝くかもしれない。
「いつも、近くに居るから、朝までがんばってね」
髪をなでながら話しかけると、母はかすかにうなづいた。

祖母千代は五月一日、父は六月一日に死んだ。母が元気なころ、四月か七月の一日に死んでくれれば覚えやすい。だけど、四月一日はエイプリルフールで信じてもらえないからだめだ、と話すと母は笑っていた。

 車椅子生活になったころから、母の姿を記録し続けたデジカメが先日壊れた。円座もパンクし、親しくしていたケアマネージャーも移動になった。総てが母の命に合わせたように思えてならなかった。

 2010年6月28日

 母の意識は少し戻ったが、食事は取れなかった。乳酸飲料をスプーン数杯とプリンを一口だけ、やっと飲み込んだ。食後の薬とサプリメントを飲ませようとしたが、口に含んだまま飲み込めないので綿棒でかき出した。お昼前、診療所から看護師が来て点滴をして帰った。

「口から食べている限り、人は死にません」
昔、在宅で祖母と父を看取った時の老医師の言葉を思い出した。祖母と父は終末期に入ってからもチューブによる栄養補給はしなかった。だから、殆ど苦しむことなく自然死した。

母の言葉は口の中でこもり、聞き取りにくくなった。しかし、私が話しかけることはよく分かり、小さくうなづいてくれた。タンの排出機能が弱り、絶えず絡むので先日、診療所から借りた吸引機でタンの吸引を繰り返した。

 深夜も、何度も様子を見に行った。母の意識は戻ったり遠くなったりしていた。
2時過ぎ行くと、母はハラハラと一筋の涙を流した。私は黙って涙を拭いた。
二ヶ月前に私と同年代の絵描き仲間が急死した。未亡人に最期を聞くと、彼も死ぬ前に一筋の涙を流した、と話していた。彼と同じように母も死を覚悟して万感迫り、涙を流したのかもしれない。

母が私の前で泣くのを見たのは、それを含めて生涯で二度だけだ。
もう一つの涙は今年三月、絵が売れて生活危機を乗り越えられた、と伝えた時だ。それまで母はのー天気に振る舞っていた。しかし、本当は私の苦境をよく分かっていて、声を出して泣いた。

 2010年6月29日

 朝、母は丸くなっていた腰が延びて背が高くなっていた。母の元々の身長は百六十三センチと昔の女性としては大きい。借りた女性用の介護ベットは小さく窮屈に見えた。腰椎が五個も圧迫骨折している状態で、腰が伸びれば二度と立てない。それは母も分かっているようで、声をかけると母は私の後方遠くを眺めていた。その時、母が死を受け入れたことを強く感じた。

 朝から母は食べ物も水分もほとんど摂らなかった。水分は、午前中の抗生剤入りの点滴だけだ。それでも意識ははっきりして元気そうに見えた。一時的に身体の需給のバランスが取れているからかもしれない。水分を無理に摂らせると心臓や肺がむくんで辛くなると医師は話していた。終末期は飲ませたり食べさせない方が本人は楽だ。しかし、異常なバランスはすぐに破綻する。

 深夜、母の神経は鋭敏になった。様子を見に行って声をかけるとハッと目覚めて私を見た。しかし、脈はまだらで、所々抜けた。いよいよ、最終段階に入ったようだ。母は天井の一点を凝視していた。
「何を見ているの」
聞くと、笑顔で「とても、綺麗」と言った。
それは臨死体験に登場する色とりどりの光かもしれない。
「苦しくはないの」
聞くと母は笑顔で首をふった。

 八十四歳の時、母は臨死体験をしている。母は胆石手術の後の腹壁瘢痕ヘルニアの手術を、近くの病院で受けることになった。母の腹膜は弱く、大病院でも何度も失敗した難手術だ。しかし、院長の自信満々の安請け合いに乗って、母は承諾してしまった。

その病院には麻酔医はいなかった。簡単な検査だけで執刀医が全身麻酔をすると、母の心臓は止まってしまった。十回近く母は手術をしてきたが、そのような荒っぽい麻酔は始めてだった。いつも事前に心肺機能を入念に検査して慎重に麻酔をし、手術中も麻酔医が付きっきりで異常を監視していた。

母は執刀医の救命措置で、なんとか生き返った。手術は即刻中止になり、翌日、母を退院させた。その時、母は色とりどりの光りを見てとても気持ちが良かったようだ。その臨死体験以来、母は死ぬのが怖くなくなったと話していた。

 毎日、母の品を大量に捨てている。今夜は、母用のトイレ手摺を分解してベランダに置いた。手摺がじゃまで掃除ができなかった床を石鹸水で洗った。便器もパイプもピカピカに磨いた。

去年始めから、母は部屋の簡易トイレだけを使っていたので、トイレを使うことはなかった。しかし、かたづけなかったのは、回復の希望を持っていたからだ。何もしないでいると、哀しみが間歇泉のようにこみ上げた。だから、休みなく動き回った。食事も立ったまま済ますので、いつ食べたのか記憶にない。役にも立たない年寄りなのに、なぜこんなに悲しいのだろうか。

「お一人でお母さまを看ていて、不安はありませんか」
午前中に来た看護師が聞いた。
「今は連日、見舞客が来てにぎやかです。でも、逝ってしまえば世間から忘れられ辛くなりそうです」
そんなことを話すと、看護師は何度もうなづいていた。この診療所の若い看護師たちは、昔の青春映画に出て来るような、やさしくて健気な人が多い。

 2010年6月30日

 朝から母は部屋を歩き出しそうなくらい元気だった。母の持ち物は殆ど捨ててあるので、「どうして捨てたの」と怒るのでは、と慌てたくらいだ。介護ベットの背中を上げると、外が見えると喜んでいた。それから母は子供の頃の思い出を途切れ途切れに話した。

 元気そうなので「夕飯を食べるか」と聞くとうなづいた。急いで、有り合わせの材料で鳥雑炊を作った。
誤嚥しないようにトロトロに煮込んだ雑炊を少しずつ母の口に運んだ。食べた量はサカズキ一杯ほどだが、何も食べていないのでうれしかった。それから、飲み物を用意していると母は急変した。雑炊を気管へ入れたのではと心配したが、呼吸の出入りはある。
念のため、吸引チューブを気管まで入れて吸引した。いつもの透明な粘液だけで異物はない。しかし、ただごとではない。心音は乱れ終末期の様相だった。
このまま逝かせたら、食事をさせたことを生涯後悔する。ベットの角度を変え、励ましたり揺らしたりしたが呼吸は弱まる一方だった。急いでベットに乗り「声を出せ」と母の胸を押さえた。母は「あー」と声を出しながら息を吐き、そして吸った。
しかし、人工呼吸を止めるとすぐに呼吸は弱って行った。人工呼吸を続けて深夜一時過ぎ、母はやっと自発呼吸を始め、声をかけるとかすかにうなづくまでに安定した。

 2010年7月1日

 午前九時半、ヘルパーの小黒さんが来たので、一緒に母の洗髪をした。それから体の清拭をしてもらい、新しい寝間着に着替えさせた。しかし、母の意識は戻らなかった。

 午後一時、生協浮間生協浮間診療所から若い医師が来た。頼んでいた口鼻を覆う酸素マスクを装着すると、酸素飽和度が七十から一気に九十へ回復した。しかし、一昨日の血液検査の数値は更に心不全の悪化を示していた。昨日、母が元気だったのは気分が高揚していただけかもしれない。気分が良くてご飯を食べてみたが、身体は受け入れる能力がなく急変したのだろう。
「水分を入れると心肺が浮腫み、苦しくなりますので」
医師はそう言って点滴はしないで帰った。

 午後二時、母の付き添いをお隣の吉田さんに頼んで、買い物へ出た。母の好きな甘えびが新潟から入荷していたので買った。水すら飲みこめない母に甘エビを買う意味はなかったが、かすかに希望を持っていた。帰宅して、甘エビ半分を吉田さんにお裾分けした。お隣が帰ったあと、母のかたわらで甘エビを食べた。最近は介助に追われ立ったまま食べていたので、腰かけての食事は久しぶりだった。
「とても、美味しいよ」
話しかけると、母はかすかにうなづいた。

 午後六時、近くの公園から「夕焼け小焼け」の放送が聞こえた。タンがからむ音が途絶えず、何度も吸引したが、出るのは透明な粘液が少量だけだった。それは肺胞の中が粘液で泡立っていることを示していた。その状態では吸引はほとんど効果はなく、母を苦しませるだけだった。心音は乱れ弱々しい。いよいよ別れの時が来たかと覚悟すると、涙が畳にポタポタと落ちた。呼吸音に乱れがあっても、もう何もせずに静かに見守るだけにした。

「十分に頑張った。もう、ゆっくり休みな」
手をにぎり、髪をなでながら声をかけていると、母の呼吸が弱まった。やがて、苦しそうに喘いでいた肩が動きを止め、表情から苦痛が消えた。呼吸が止まってからすぐの六時三十分に心音も消えた。

タンを吸引し続ければ呼吸は低水準で維持されたかもしれない。しかし、母は回復する訳ではなく、いずれ死は訪れる。私は母の苦しみを長引かせずに看取ることだけに集中しようと決意していた。だから、最期は医師を呼ばなかった。

 診療所へ電話を入れた。電話に出た看護師に母が死んだと言えなかった。今まで、どんなに辛い時でも言葉を出せないことはなかったのに、どうしても言葉が出なかった。
「お亡くなりになりましたか」
絶句していると聞かれたので絞り出すように「はい」と答えた。

十五分ほどして、昼間の医師と看護師が駆けつけた。丁寧なお悔やみに受け答えするのがとても辛かった。六時五十五分、医師が死亡を確認した。明日、白菊会に献体するので、今夜中の死亡診断書作成を頼んだ。

 医師が帰ると哀しみが幾度も幾度もこみあげた。生涯、これ以上の哀しみは訪れない気がした。お隣の吉田さんに母の死を伝えてから、哀しみを振り払うように台所や部屋をかたづけ続けた。新橋の店で働いている姉には、店が終わるまで伝えないことが母との約束だった。

一時間ほどして、白百合の花束を持ってお隣が夫婦で訪ねて来た。
吉田さんの奥さんに手伝ってもらて母の清拭をして新しい寝間着に着替えさせた。
それから私が死に化粧をした。
「どう、七月一日に死んでみせたでしょう」
母は威張っているように見えた。飲み食いから排泄まで人手に頼る寝たっきりは七日間。危篤になってからも二日。やつれていないのが救いだった。これは伝統的な自然死だった。もし、病院に入れていたら、骨と皮になるまで生かせ続けただろう。

祖母は五月一日、父は六月一日、母は七月一日と命日は覚えやすくなった。大正二年八月二十四日生まれ、享年九十六歳と十ヶ月。波瀾万丈の生涯だった。

 総てが終わった頃に日医大の白菊会から派遣されて葬儀社社員が来た。丁重に母の周りにドライアイスを置き、明日の予定を説明して帰った。入れ替わりに、母が親しくしていた病院関係の洲崎さんが来た。彼女は毎日見舞いに訪ねて来て、辛い気持ちの支えになってくれた。

新橋の小料理店で働いている晃子姉には夜十時半に知らせた。十二時前に駆けつけた姉と二人だけの通夜をした。明日、お昼に母は日本医科大に献体する。

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            死去した後、浮腫みが取れた母は若く見えた。

 2010年7月2日。

 午前九時、献体に必要な火埋葬許可書を王子の北区区役所で発行してもらい、予定の十分前に帰宅した。

時間通り日医大解剖学の助教授二人と葬儀社の二人が来た。助教授たちに一時間ほど今後の説明を受けた後、母は十二時半に家を出た。

 晃子姉は見送りの人達に笑顔で愛想を振りまいていた。
「晃子のバカが、みんなにお愛想している」
車に積まれた母がそう言って笑っているような気がした。
付き添いは規則で禁止されている。涙で曇るファインダーを覗きながら、小さくなって行く車を撮り続けた。母の遺体は二年後に町屋葬祭場で荼毘に付される。それまでは遺髪を仏壇に祭っておき、その時、正式な葬儀をする。

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                     母は運ばれて行った。 

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