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第五章 母の老いは穏やかに安定するよに思えたが、現実は厳しかった。

 2007年1月17日 母93歳

 年始から、住まい下の新河岸川にクレーン船が停泊している。大きな鰐口のようなグラブバケットで川底をさらい、運搬船へ土砂をあける。一連の作業はいつまで見ていても飽きない。

今日も、散歩の行きがけ、母としばらく眺めていた。夕暮れにはクレーン船後ろの住居に灯りがついて、作業員がくつろいでいるのが見えた。陸上から通うのは大変だ。それで泊まり込みで作業をしているようだ。

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 今朝は早く母に起こされた。
「朝食のご飯はどこにしまってあるの」
母は朝食の用意をするつもりだ。
「いつもオレが食事作っているだろ」
そう言うと、母はすぐに正気に戻った。
勘違いが増えても、必要な記憶はしっかりしている。今日も私の外出中にかかって来た電話の用件を正確に伝えてくれた。
「留守番電話の代わりになるね」
ほめると、とてもうれしそうだった。

 2007年1月20日

 どんよりと肌寒く、散歩道に人は少なかった。緑道公園の陸橋の上で、プラタナスの巨木を見上げながら熱いお茶を飲んだ。
「冷たい風を深呼吸すると、気分がいい」
肺が弱った母は酸素濃度の微妙な違いが分かる。

目の前の欄干に若いカラスがとまった。カラスはくわえて来た煎餅のかけらを足で押さえ、少しずつかじっていた。
「あら、良いもの持っているわね」
母が声をかけると、カラスは利口そうな目で私たちを見た。
「取ったりはしないから、安心して食べなさい」
母は笑顔で話しかけた。去年暮れから、このカラスによく出会う。そのような出会いが、老いた母を元気づけてくれる。

 2007年2月5日

 赤羽自然観察公園で顔馴染みになった車椅子の老人が来なくなった。ミカンを誤嚥して気管に詰まらせ、脳死状態だと聞いた。
そのように、今年になってから数人の老人が公園に来なくなった。元気だった人が、間をおいて会うと、すっかり老いていて驚くこともある。徐々に老いがやってくれば対応できるが、急変では家族は戸惑うばかりだ。

誤嚥は人ごとではない。今朝も母は、お茶を気管に入れて激しく咳き込んでいた。
食事中に話しかけない。液体は少しずつゆっくり飲ませる。様々に配慮しているが、誤嚥を完全に防ぐのはむつかしい。

誤嚥性の肺炎が怖いので、数年前に肺炎球菌ワクチンを受けさせた。母の年齢なら、一回の接種で死ぬまで免疫が持続する。最近、母の体調は悪いなりに安定している。ガンも母同様に老いて、成長が止まっているのかもしれない。

 2007年2月6日

 散歩の出がけ、下の新河岸川を見るとクレーン船が消えていた。昨夜は甲板をランタンを下げて歩く作業員が見えた。回りに小さなタグボートや作業船が繋がれ、それぞれにライトが灯って童話の世界のように見えた。何もない川面を眺めると、サーカスのテントが去ったような寂しさを覚えた。

 最近「無」について考えている。若い頃からその意味を知ろうと試みたが歯が立たなかった。座禅を組み、仏教関係の本を乱読したが、まったく理解できなかった。今は老いのおかげで、ほんの少し分かって来た。「無」とは物の有る無しではなく、認識の有る無しのようだ。生死を認識しなくなれば、総ての悩みは消える。

 2007年2月11日

 目覚めると背中が痛い。風邪の引きかけかもしれないので葛根湯を飲んだ。背中の異常感は数ヶ月前から続いていた。いつものくせで、中皮腫、肺がんと最悪の事態を案じた。そう考えるのは、絵描きに転職する前に彫金をしていたからだ。

彫金では肺ガンの原因物質アスベストを使っていた。当時は普通の家庭でも、アスベストを石灰で板状に固めたものを雑貨屋で買って、ちぎって水で練り、かまどや煙突の隙間を埋めるのに使っていた。私はタガネの焼き入れの時、仕事台を焦がさないように、断熱材として使った。だから、アスベスト粉塵を普通の人の百倍は吸って肺ガンのリスクは大きい。

同業者たちの多くは肺ガンで亡くなっている。私との違いは、彼らがヘビースモーカーだったことだ。昔の職人は、接客が巧く行くからと、先輩からタバコを吸うように薦められた。

「バカな習慣を身につけてしまった」
築地のガン病棟に見舞った時、彼は後悔していた。

 今朝は昨夜の雷雨に洗われた美しい青空だった。玄関前通路に出ると、期待通りの真っ白な富士が見えた。
緑道公園ではロウバイが満開だった。車椅子を押していると汗ばみ、冷たい風が心地良かった。
気がつくと、背中の痛みが消えていた。どうやらただの風邪だったようだ。

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                赤羽自然観察公園の遊水池近くにて。

 2007年4月4日

 散歩の出がけに、母は咳をした刺激で吐いた。散歩中ではなくて、出かける前で助かった。今年始めての嘔吐だったが、食欲があるので心配はしていない。

今日は寒の戻りで、母に冬服を着せた。桜は散って、地面は花びらに覆われていた。緑道公園脇の墓地にさしかかると、四十代のホームレスに声をかけられた。
「すみません。おたずねしますが、この辺りで墓地はここだけでしょうか」
汚れた身なりに似ず、礼儀正し言葉使いだった。
一キロ程下った線路近くに小さな墓地があると教えた。彼は墓地近くのアパートに住む知人を訪ねたいと話していた。

訪ねたのは十年以上前で、今も同じアパートに住んでいるかどうか分からない、と彼は話していた。話し終えると、彼は丁寧におじぎをして、教えたのとは反対方向へゆっくりと歩いて行った。もしかすると、彼は誰かと話したかっただけかもしれない。

 買い物はせず、真っすぐ帰った。留守中に来ていた晃子姉に母を任せ、私は横になった。最近、朝早く目が覚めるので寝不足が続いている。二十分ほど熟睡して目が覚めると姉は帰るところだった。

 電気工事でお昼に停電すると通知が来ていた。慌てて昼食を作っていると予告通り電気が消えた。停電でも料理は出来ると思っていたが、なぜか水道も止まった。外は雨が降りそうで暗い。母の様子を見に行くとテレビが止まり、手持ち無沙汰に椅子に腰かけていた。

「昔はよく停電したね。いつもこんな感じだった」
母は久しぶりの停電が懐かしいと話した。子供のころは停電になるとロウソクを灯せるので楽しかった。ロウソクの暖かい灯りの回りに大家族が肩を寄せ合い、とても幸せな気分だった。

遠い昔の思い出を話していると電気が点いた。
夢から醒めたような寂しさが残った。
昼食後、激しい雨が落ち始め、雷鳴が聞こえた。ニュースで都心にみぞれが降ったと伝えていた。

 2007年4月30日

 昨夜、母に呼ばれたような気がして飛び起きた。時計を見ると午前四時。急いで行くと母は静かに眠っていた。
肩が出ているので、掛け布団を直すと母は少し体を動かした。自室に戻り、テレビを点けてぼんやり画面を眺めているうちに寝入り、七時に目覚めた。

母が顔をペタペタ叩く音が聞こえた。今日は元気そうだと安堵した。
母は長年の習慣で目覚めると乾布摩擦をし、それから五分ほどシワ予防に顔を軽く掌で叩く。母は高齢のわりにシワはほとんどない。それはその美容法のおかげだと母は信じている。

点けたままのテレビでは、ディズニーランド上空からの空撮画像を流していた。すでに長蛇の列で、十時には入場制限が始まりそうだ。

 2007年5月13日

 朝から日射しが弱かった。自然公園の椎の下で休むと、母は風が寒いと言った。すぐに古民家へ向かった。途中のアシ池に人が集まっていた。カルガモのヒナが十五羽も孵化したようだ。

去年は成鳥になる前に、ノラネコやカラスに食べられてしまった。これから見物に来る老人たちは、心配で落ち着かないことだろう。
古民家の座敷で横になるとすぐに寝入った。
「お邪魔します」
子供の声で目覚めた。縁側の外に十歳程の男の子が立っている。
「どおぞ、お上がり下さい」
声をかけると若い父親と一緒に上がって来た。男の子は、奥の薄暗い板の間を怖そうに覗いていた。
「お化けがいるから、その板戸は開けない方が良いよ」
彼をおどかした。
「お化けはいないよ。もしかすると、びっくり箱みたいに誰かが人形を仕掛けているんだ」
男の子は子供らしく可愛い説明をした。
「さーあ、どうかな。お昼だからお化けはいないと思うけど、試しに開けてみな」
私の言葉に、彼は怖そうに父親を振り返った。父親は面白がって、板戸をガタガタと揺らした。男の子は「キャー」と逃げ出した。

私たちは笑いをこらえながら外へ出た。古民家の土間から、男の子が父親とお化けの話しをしているのが聞こえた。男の子には刺激的な日曜になったようだ。
「正喜が子供のころは、世の中はお化けだらけだったね」
母は六十年昔のことを楽しそうに話していた。

 私がこわかったのはカッパだ。真夜中の田圃のカエルの鳴き声を私たちはカッパの声だと信じていた。裏の田圃の代かきが終わるころ、山から降りて来たカッパたちが騒いでいると思っていた。

我が家のわきに山から田圃へ続く路地があった。誰かが、その路地がカッパの通り道だと話した。そう聞くと、深夜にカッパたちがザワザワと歩いて行くような気配を感じた。それ以来、私はカッパが怖くて夜中に目が覚めるようになった。

心配した父が素焼きに色付けしたカッバのお面を買って来て、守ってくれるからと部屋の柱に飾った。私はそれでやっと安眠できるようになった。カッパのお守りは小学校五年生まで大切に飾ってあったが、宮崎市へ引っ越した時に紛失してしまった。今も緑色の顔や、シュロの毛で出来た髪や、赤い口をはっきりと覚えている。

 2007年5月20日

 夕食後、母は「男はつらいよ、寅次郎物語」を見ていた。マドンナは秋吉久美子。ロケ地は吉野と伊勢志摩。二十年前の地方の商店街には活気があった。

「寅さんは良かったね」
ベットから母が話しかけた。私は隣室で、散歩用バックの整理をしていた。ポリ袋、丈夫な紐、予備の手袋、携帯雨具、便座拭き。どれも母の車椅子散歩での必需品だ。車椅子を押し始めて五年目。色々経験して行くうちに必要な品が増えた。

母はテレビを止めて、映画の余韻を楽しんでいた。静かな夕暮れの中、時間が止まったように穏やかに感じた。
「タンスにしまっていた死に装束が見つからないけど、どこにしまったか知っている」
先日と同じことを母が聞いた。いつもは聞き流すが、念のために探してみたが、白足袋しか見つからなかった。
「今度、晃子が来たら、探させるよ」
そう言って、私は仕事部屋へ戻った。

 2007年6月22日

 桜並木の公園のベンチで、ホームレスたちが飲み会をしていた。
「だからお前たちはダメなんだ。そんないいかげんな生き方を続けて、これから先どうするんだ」
大きな声はいつもの説教おじさんだ。以前は緑道公園で缶酎ハイ片手に仲間に説教していたが、今年から、新設のこの公園に場所替えした。

「一番ダメなのは自分なのにね」
通り過ぎてから、母はクスッと笑った。しらふの時の彼は疲れた営業マン風で暗い顔でうつむいて歩いている。

 母の暑さ対策に、散歩には霧吹きを持ち歩く。霧吹きは、母の手袋や首筋に吹き付けて涼しくさせる。汗と違い、水は素肌にかけてもサラリと乾き心地良い。私は胸元とズボンに吹き付けて汗の出を押さえている。湿したズボンが風に吹かれると、冷たいくらいだ。

好天続きで「暑いですね」が挨拶になった。老人は少しでも体を動かさないと際限なく弱って行く。
「無理をしないようにしてください」
医師はいつも同じことを言うが、無理をしないとすぐに弱って寝たっきりになってしまう。しかし、無理の兼ね合いはとてもむつかしい。百メートルを歩き終えて、さらに五十センチ余分に歩くくらいの小さな無理だ。それ以上だと、本当に弱ってしまう。

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 母の羽織っているのは、祖母の遺品。明治時代の綿の絞り。大変堅牢で痛みはまったくない。

 2007年7月13日

 散歩帰り、墓地近くで盆提灯を下げて行くおばあさんたちに会った。赤羽に引っ越して来たころは、浴衣がけで家族総出で墓参りをする一行によく出会ったが、最近はめずらしい。そのころは、庭付きの家に住んでいたので、夕暮れに麻ガラを焚いて迎え火にした。

 大堂津での子供時代に燃していたのは松の根で、松ヤニが多くて火持が良く甘味のある香りがした。迎え火は、子供が大っぴらに許されている唯一の焚き火だった。

子供たちは迎え火を目印に飛んで来る精霊を見逃すまいと夜空を眺めた。しかし、夜空には何も見えず、すぐに飽きて花火に興じた。

新盆の家には沢山の白い盆提灯が下がっていた。その下の縁側で老人が太鼓を叩き、独特の節回しの「くどき」を唄って、盆踊りが始まった。若者たちは女は男に、男は女に仮装をして踊った。明治生まれのおばあさんたちは優雅に腰を低く艶っぽく踊った。今は、あの頃のような優雅な踊り手たちはいなくなった。

新盆でない一般の家の縁側には色絵を施された盆提灯が飾られていた。その形は様々で、灯籠の形をした提灯が多かった。盆踊りの太鼓に提灯。軒の低い家々の間に点々と続く迎え火。死者を迎える幻想的な光景を昨日のことのように思い出す。

 2007年8月17日

 三十八度を越えたが乾燥していて、車椅子を押していても汗が目に入らなかった。見上げるといわし雲が出ていた。この雲が出ると雨になる。草木が水不足で弱り始めていたので助かる。予報では、雨と共に北方の冷気が吹き込み三十度を切るようだ。

緑道公園の木陰で休み、母と冷たいお茶を飲んだ。目の前の百日紅が清々しい。
母に右を向いてお茶を飲むように注意したが、左を向いて飲んでむせてしまった。真偽は分からないが、人の食道は右を向くと真っすぐになるらしい。
母は、祖母千代のいい加減な教育のおかげで右左を逆に覚えてしまった。小学校へ入ってから修正したが、老いた今、幼児期に退行して左右を間違えるようになった。

 祖母千代の教育は総てに型破りで、母が小学校へ入学した時、出前を取ればいいと弁当を持って行かせなかった。昼食時間、母は祖母に言われたように職員室で電話を借りて洋食屋に出前を頼んだ。教師は慌てて断りの電話を入れた。
「明日から、お母さまにお弁当を作ってもらって下さい」
教師は母に頼んだ。

翌日から弁当を作ってくれたのは、料理好きの祖父甚兵衛だった。祖母の教育に失敗した甚兵衛は、母にはしっかりと料理を教えてくれた。さらに良かったのは、住まい近くに第十二師団の将校クラブがあったことだ。母はその調理場に小さい頃から自由に出入りして、コックたちから洋食の作り方を教わった。後年、その頃覚えたロールキャベツやビーフシチューを母はよく作ってくれた。           

 2007年8月28日 母94歳

 朝から蒸し暑く、靄がかかった空から薄日が差していた。このベタつく暑さは苦手だ。散歩の出かけ、玄関前に油蝉が死んでいた。死んでいる蝉は羨ましいほどに安らかに見えた。

赤羽自然観察公園の老人たちは長い夏に飽き飽きしていた。
夕暮れから涼風が吹き始めた。今夜は皆既月食だが厚く雨雲におおわれている。

七時過ぎ、雷鳴と共に激しい雨が落ちて来た。玄関を開けて眺めていると、川口市方面に太い稲光が落ちた。母は雷が大好きだ。様子を見に行くと母は電灯を消して、開け放ったベランダから雷を眺めていた。

 2007年9月7日

 今朝まで台風の激しい雨風が残っていたが、母を診療所の定期検診へ連れて行った。待合室はがら空きですぐに診察してもらえた。
「台風の雨の中、よくおいでになりましたね」
看護師たちにほめられて母は嬉しそうだった。医師は血圧を測り、背中に聴診器をあて、腹を触診し、今年の猛暑をどうしのいだかと母と雑談していた。
「霧吹きのおかげて、暑い中も散歩が出来ました」
母は霧吹きの効能を説明していた。診療所に行っても特別な治療があるわけではない。医師との会話が母を元気にさせてくれた。

診療所から帰るころに雨は止んだ。桜並木の薬局で処方薬を受け取った後、向いの公園で台風で落ちたムクの実を拾った。公園のムクの実は大粒で甘く、母も私も羊羹のような食感と香りが大好きだ。拾った実を水飲み場で洗って母と食べた。午後、風は残っていたが青空が顔を出した。これでやっと秋が訪れそうだ。

 2007年9月21日

 赤羽自然観察公園の湧水池の橋で立ち止まると岸辺に彼岸花が咲き始めていた。突然に出現した鮮やかな花に母は見とれていた。

「今日も、暑いですね」
公園の係が母に挨拶して通り過ぎた。このところ仕事が忙しかったので、公園の穏やかな雰囲気が心地良い。母が元気を取り戻し、いつも微笑んでいるのがうれしい。椎の木陰で休んでいる母を眺めながら、知人からの電話を思い出した。

彼女は今年七月に実母を亡くした。
「無理難題を言って困らせていた母なら、憎たらしいだけなのに、思い出すのは優しい姿ばかりで、辛くて辛くて」
彼女は言葉を詰まらせていた。
私も母が逝けば、母の優しい笑顔ばかり思い出すのだろう。母は体力が更に落ちたが、そのまま安定期に入った。後、二度ほど体力が落ちたら公園行きは無理になりそうだ。

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     赤羽自然観察公園入り口の駐輪場にて。着ているのは中国の古い型染め。

 2007年10月22日

 朝から好天。散歩前に洗濯した。ジーパンは石鹸分を残し気味にすすぎをした。そうすると、次の洗濯の時に汚れが落ちやすい。洗濯機は古い二槽式を使っている。洗濯槽、搾り機と、使い分けられるので便利だ。
ベランダで洗濯物を干す時は、紫外線カットの防護眼鏡をかけた。紫外線は白内障の原因だ。防護眼鏡は散歩でも、トイレ掃除で塩素水を使う時も重宝している。

 散歩道の秋色が深まった。緑道公園の草むらでカサコソ音がした。母の車椅子を止めて眺めていると、若い赤トラの耳が草の間からピョンと出て日射しに輝いていた。
「おいで、おいで」
母が声をかけると、ニャンと返事して草むらに消えた。

最近、よく見かける子で、声をかけると返事するのが可愛い。
公園外れの植木の下に鳩の羽が散っていた。弱ったドバトがカラスかネコにやられたのだろう。人の死の大仰さに比べ、彼らの死は風のように軽やかで、一瞬に忘れ去られてしまう。

 2007年10月27日

 深夜から冷たい雨が降り始め、湿度のおかげで母の咳き込みがなかった。
起こされなかったおかげで、七時間近く眠った。

 母は冷たい雨の日の散歩が好きだ。車椅子は雨具でしっかりと覆うので寒くはない。元気なころの母は雨の日に散歩をしたことはなかった。車椅子生活になってから雨景色も雪景色も楽しめるようになった。

雨の赤羽自然観察公園では紫式部に錦木やマユミが色づき始めた。古民家では子供たちが、かまどを使って昔の食事体験会をしていた。帰りに鬼グルミを拾って万力で割って食べた。新鮮でとても美味しかった。

 2007年11月25日

 母は食後三十分は必ず椅子に腰かけている。すぐに横になると胃液が逆流して食道に炎症を起こすからだ。

夕暮れは足がおぼつかなくなるので、転ばないように私は後ろをついて行く。寝間着に半天を羽織った後ろ姿が祖母に似てきたと言うと母は笑った。

 ふいに、祖母の葬儀のあと、母が久留米の菩提寺に行った留守中のことを思い出した。父は小さな祭壇に線香を上げながら、とても寂しそうにしていた。事業に手を出しては失敗し、母に苦労をかけてばかりの父を祖母は心良く思っていなかった。

父もそんな祖母を敬遠していた。だから祖母が死んでせいせいしていると思っていたので意外だった。

 夜明け前、母の湯たんぽの具合を見に行った。低温火傷を起さないように、足から湯たんぽを離していると母は目を覚まし、カーテンを開けてくれと言った。開けると黎明の空に星が一つ輝いていた。
「あれが明けの明星だよ」
教えると、母は始めて見たと喜んでいた。
介護は大変で辛いことが多いが、母の笑顔を見ると救われる。母が逝けば、介護から解放されると同時に、共有していた記憶も失われる。そんなことを考えているうちに、父が寂しそうだったのは、そのような喪失感のせいだと思った。

 2007年12月16日。

 寒風に大気が洗われ、雪で覆われた富士から奥日光までくっきりと見えた。緑道公園の木々はすっかり葉を落とした。赤羽自然観察公園の古民家の障子は張り替えられて清々しい。クリスマスが過ぎれば、門松が立てられ、お供えが飾られる。

相変わらず、深夜に母の咳がひどくなる。カリン酒を水で薄めて飲ませるとすぐに治まる。カリン酒は三年前に漬けた大瓶二本を残すだけだ。あと一本、漬けようと迷っているうちに、カリンの季節は過ぎてしまった。                  

 2007年12月24日

 母の腫瘍マーカーは相変わらず高い。すでに肝臓から肺に転移して、それで咳が増えたのかもしれない。考えたくはないが、母が今のまま生き続けられるとは思っていない。ある朝、母が目覚めない。そのような静かな終わりを期待しているが、実際は嵐のように終末が訪れ、母は慌ただしく去って逝くのだろう。

 最近、風景がくすんで見える。冬枯れのせいではなく、長く親しんで来た老人たちが次々と姿を見せなくなったからだ。多くはそれを最後に二度と会うことはない。老いとは寂しさと対峙することだ。

 クリスマスの今日も、いつものように台所で夕食をとった。と言っても、テーブル椅子が揃ったダイニングキッチンではない。調理台をテーブル代わりにしての食事だ。母が倒れて以来、台所と母の食卓の往復が増え、一緒の食事は無理になった。それで、私は台所で一人で食事をするようになった。

台所での食事は快適だ。キャスター付きの椅子に腰かけると冷蔵庫も電子レンジも簡単に手が届く。寒くなるこれからの食事は楽しい。左手の冷蔵庫から冷やご飯を取り出し、右手の電子レンジで温める。おかずは目の前のガスコンロで干物を焼いたり、鍋物を温める。コンロはストーブ代わりにもなる。太いステンレス網を火にかけて赤熱させ、手をかざすと、炭火のように暖かい。

食器はできるかぎり少なく、刻んだおひたしは、まな板から直に食べる。そのために、松材を小さくカットしたお皿代わりのまな板が幾つも作ってある。食べ終わると、残飯は右後ろのゴミ箱へ、汚れ物は目の前の洗い桶に放り込む。しかも背中が後ろの壁にくっつく狭さは飲み屋の雰囲気で居心地が良い。

 母が練り歯磨きが少なくなったから買ってくれとたのんだ。確かめると、練り歯磨きはまだ十分に残っている。今朝も同じ事を訴えるので、まだ十分残っている練り歯磨きを見せた。
「それは、洗顔クリームだよ」
母は私が手にしているのは練り歯磨きではないと言い張った。
どうやら母は、洗顔クリームで歯を磨き、歯磨きで顔を洗っていたようだ。

「まったく、自分が厭になる」
間違いに気づいた母は笑い転げていた。洗顔クリームの味は相当にひどいはずだが、思い込みの強い母は気がつかなかったようだ。

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     赤羽駅近く、高架下のアルガードにて。歌うサンタクロースに大喜びしていた。

 2008年1月6日 

 母九十四歳の正月はあっという間に過ぎた。御諏訪神社先のゴールデンのルイちゃんは車椅子の音を聞きつけて尻尾をふりふりアルミ柵までやって来て、柵の間からゴツンと大きな頭を出した。
「いい子だね」
母が頭を撫でるとブロックに顎を乗せて目を細めた。
子犬の時から可愛がっているので、彼は私たちの言葉がよく分かる。
「バイバイ」と言うと、ルイちゃんはすなおに家へ戻って行った。
今朝から母は、昨夜、ベット脇のポータブルトイレで粗相したことが尾を引いて鬱気味だった。しかし、ルイちゃんに会ったおかげで明るくなった。

「やあ、今年も元気ですね」
緑道公園で、元ハーモニカ奏者のおじいさんが母に片手を上げて新年の挨拶をした。彼はとても元気な人だったが、最近、足取りが悪く体が大きく右に傾く。もしかすると小さな脳梗塞があるのかもしれない。どんなに頑張っても、老いと死はやってくる。私たちにできるのは、その訪れをほんの少し遅らせることだけだ。

 2008年1月8日

「今日は何日だったかしら」
母が聞いた。日めくりは十日になっている。訳を聞くと、夜中に目覚めた時、夜が明けたと勘違いして一枚めくり、更に今朝、一枚めくり、何日か分からなくなったようだ。

朝食後、「今日は何日」と聞くと「八日でしょ」と母は正解した。
少しの惚けなら、頭が明瞭なまま死の影に怯えるよりずっと良い。

後出しの年賀状が十二枚届いた。儀礼的な年賀状がなくなって、二十五枚くらいになったら爽快だと思っている。散歩へ出かける前に屠蘇を飲み干し、今年も屠蘇セットを水洗いして陰干しした。

 帰宅して、新調した母のネルの寝間着の紐の位置を変え、裾の角を内側へ折り込んだ。そうしないと、背中が丸くなった母の裾の角が床に触れるだからだ。

「そう言えば、ばあちゃんも、寝間着の角が床に触れそうだったね」
裁縫しながら母に話しかけた。
「可哀想に、直してあげれば良かった」
母は寂しそうにつぶやいた。
去年は一日中、母は手芸をしていたが、夏を過ぎるあたりから気力がおとろえて止めた。今は衣類のつくろいはすべて、私がしている。

 2008年1月9日

 お隣からカリンをもらった。正月に実家へ帰省した時、庭に残っていたのを摘んで来たそうだ。虫食いがあるから早く漬けたが良いと言われたが、切ってみると虫食いは表面に留まっていた。虫が取り付いたころに寒さが来て、食べ進めなかったのだろう。これで今年のカリン酒は何とか間に合いそうだ。

連日、介護絡みの事件が起きている。その多くが老々介護で、疲れ果てて事件を起こす。ニュースでは決まって専門家が「一人で抱え込まず、救いを求めて下さい」と解説する。簡単に助けを求められるなら事件は起きない。専門家たちは、辛い現実を訴えるシステムが整っていないことに気づいていない。

「うちは認知症がないから介護が楽だ」
ニュースを見ながら母に話した。
「あら、私に認知症はなかったの」
母は残念そうに言った。
「認知症とは惚けのことだよ」
説明すると、母は「何だ、そうだったの」と、てれ笑いした。どうやら、認知症を何でも認知できる優れた能力と勘違いしていたようだ。

 2008年1月10日

 午前中はシャワー介助。母は心臓が弱く、入浴はせず毎日シャワーで済ませている。それでは不十分なので、週に一回、ヘルパーに来てもらって全身を丁寧に洗ってもらう。
さっぱりした母はベットで気持ち良さそう寝ていた。私はその間に散髪へ行った。

頭をあたってもらっていると七十歳ほどの老人が入って来た。
「四十分くらいかかりますが、お待ちになりますか」
主人は申し訳なさそうに言った。
「それなら用事を片付けて、そのころ出直すよ」
そう言って帰りかけた老人は出口で立ち止まった。
「いやになったよ。大腸ガンが肺に転移して明日から入院だ」
老人は笑顔を作ろうとしたが、辛そうに顔がゆがんだ。
彼は足取り重く通りへ消えた。一人暮らしの老人が病院へ向かう気持ちは、独り者の私には人ごとでなかった。

母の肝臓ガンについては、転移が気にならなくなった。
ガンの進行より、老いるスピードが速くなったからだ。

散髪の後、赤羽駅前で買い物をして急いで帰宅した。母はテレビも点けずベットに死んだように横になっていた。
「大丈夫なの」
母に声をかけると「大丈夫」と、消え入りそうな声が返って来た。
今日は散歩を休んだので軽い鬱になったようだ。それでも、床屋さんで会った老人と比べると、母の老後は比べものにならないほど幸せだ。

 2008年1月14日

 汚染フィブリノゲンによるC型肝炎患者の救済法案可決のニュースを母は熱心に見ていた。母は十三年前の胆石手術の後、C型肝炎ウイルス感染を告げられた。胆石手術の前は感染はなかった。だから、胆石手術のおりに感染させらたと思っている。

そのことを医師に話すと、感染予防策がとられているのであり得ないと言っていた。母のC型肝炎ウイルスは駒込病院での肝臓ガン手術の折には自然治癒していた。だから、母の肝臓ガンとの因果関係を証明するのは難しい。加えて、自然治癒したからC型肝炎患者でもない。

「私の場合はダメかしら」
認定を期待していた母に説明すると落胆していた。 

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      雪の赤羽自然観察公園。子供が作った雪だるまが可愛いと喜んでいた。

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