第一章 母の突然の激変。車椅子からガン発症へ。

 "一日 数分の笑顔があれば それだけで生きて行ける"  篠崎正喜

 母との死別以来、住まいは静かになった。十三階の住まいはいつも一人で、訪ねて来る人は希だ。テレビを消すと時折、新河岸川の鉄橋を過ぎる列車の音が聞こえる。

そんな時、ふいに心の中に死んだ家族たちが帰って来ることがある。
「ああ着いた着いた。家はやっぱりいいね」
外通路から母の陽気な声。そして、死んだ父、祖母、兄、姉の声が続く。やがて皆のにぎやかな声が近づいて来て、玄関が開く。
「ただいま。元気に暮らしていたの。ご飯はちゃんと食べているの」
母の明るい声。しかしすぐに、静かな現実に引き戻される。

 今も、当たり前のはずの死を納得していない。家族たちが私より先に死んだからではなく、何故にかくも大きな哀しみを残したのか理解できないでいる。

先日、母の使っていた置き時計が止まっていた。電池を取り替えたのは二年前で、母はまだ元気だった。電池を取り替えながら「やっぱり死んだのか」と独り言をつぶやいた。母との死別以来、何かにつけて独り言を漏らすようになった。

十年前の記憶でも昨日のことのようによみがえる。それを確かめるように日記をたどっていると、十年前の初冬の日に目がとまった。

・・・今日は雲一つない空だ。赤羽自然観察公園へ母の車椅子を押して行くと汗ばんでしまった。
いつものように、母に手摺を掴ませて軽い運動をさせた。秋は深まり、日射しが心地良い。私は母の運動が終わるのを待ちながら、ぼんやりと十年後の自然公園を想像した。

目の前に細いケヤキの幼木が生えている。その幼木は十年後には見上げるように成長して、夏には涼しい木陰を作ってくれるだろう。その頃は、母を含め散歩に来ている老人の大半は死んでいない。もしかすると、私は公園の常連の老人たちの一員に加わっているかもしれない。しかし、ケヤキが大木に生長した三十年後となると、私は八十七歳で生きている自信はない。

「ずい分、涼しくなりましたね」
今日も公園のあちこちで老人たちが立ち止まり、挨拶を交わしていた。
この静かな穏やかさは素晴らしい・・・

 それから十年が過ぎた。成長を楽しみにしていたケヤキの幼木は草刈りボランティアたちによって切られた。

「元気に大きくなりなさいね」
母がいつも撫でていた遊歩道脇のトウネズミモチの幼木は見上げるように成長した。
母は一昨年の七月一日、九十七歳で死んだ。私は老人たちの仲間入りはせず、一人で散歩を続けている。その十年前の日記を書いた頃、私は五十七歳で母は八十九歳だった。

 母が倒れたのは二千二年十一月四日。母は二週間前から、近所の病院でぎっくり腰の治療を受けていた。しかし好転せず、痛みは日に日にひどくなって行った。

 早朝、母の呼ぶ声で目覚めた。急いで行くと、母は腰の激痛のため寝返りもうてない。トイレを訴えるので、慌てて死んだ父が使っていた簡易トイレを 押し入れから取り出しベット脇に置いた。介助して起こす間、我慢強い母が苦痛で顔をゆがませている。重大な病変があるのではと不安が募った。

 母が落ち着いたところで、離婚して西ヶ原の霜降橋で一人暮らしをしている晃子姉に連絡した。今日は文化の日の代替え休日。明日、姉と二人で、母が 二十年前から世話になっている板橋の病院に連れて行くことにした。母はその病院で、胆石、子宮がん、膝の人工関節、と様々な手術を受けている。板橋の病院 へ連れて行くと伝えると、母は深く安堵していた。

 翌五日にタクシーを呼んだ。住まいの十三階から姉と二人がかりで母を支え、下で待っているタクシーまで連れて行った。病院へは事前に急病 の母を連れて行くと伝えておいた。三十分ほどで板橋の病院に着き、病院の車椅子に母を乗せ待合室連れて行くと相変わらず大混雑で三時間ほど待たさた。
ようやく診察を受けると「よくある老化現象で、時間が経てば痛みは収まります」と、医師の説明は心許ない。病名も痛みの原因もあいまいなまま、母は入院し、鎮痛剤治療が始まった。

 とりあえず私たちは安堵して帰宅した。しかし、それからの三日間の治療でも激痛は軽減しなかった。今のまま鎮痛剤治療を続けても好転しそうにない。この状態が続くと筋肉が痩せ、寝たっ きりになってしまう。ネットで調べると、母の痛みには神経ブロックが効きそうだ。それはペインクリニックの一つで、神経のポイントに軽い麻酔をして痛みを取る治療だ。痛みが消えると同時に周辺の筋肉の緊張がゆるみ、血行が良くなって持続して痛みは消える。

 早速、担当医師に会って神経ブロックをしてもらえないか相談した。
「効くかどうか・・・どうですかね・・・」
医師は治療できるかできないかはっきり言わない。神経ブロック担当の麻酔科との連携に問題があるのかもしれない。このまま入院を続ける意味はなくなったので、その場で退院を申し出た。拒否されると思ったが、意外にも医師はすんなり承諾した。

 帰宅してすぐ、神経ブロックをしてくれる整形外科をインターネット検索すると、近所の川向こうに九月に開院したばかりの北赤羽整形外科がヒットした。治療項目トップがペインクリニックで母は運が良いと思った。すぐに予約を取り、介護保険で車椅子を借りる手続きをした。

 十一月十二日、朝一番で車椅子に母を乗せ北赤羽整形外科へ連れて行った。車椅子押しは、昔、父が倒れた時に経験している。操作は問題なく、十分ほ どで整形外科に着いた。すぐにレントゲンが撮られ腰椎が五個つぶれているのが分かった。板橋の大病院のレントゲンでは分からなかったのに、その病院の最新式デジタル画像では鮮明に写っていた。
「これでは痛かったでしょう。よく我慢できましたね」
若い医師は母に優しく話しかけた。心がこもった接し方に、信頼できる人だと思った。
母 はその病院最初の神経ブロック患者になった。医師は腰椎の硬膜外に慎重に麻酔注射をして三十分間付き添って経過観察した。効果はすぐに現われ、腰のあたり が温かくなって楽になったと母は笑顔になった。痛みは残っていたが、治療台から一人で立ち上がり車椅子に腰かけた。この一週間、そのような姿を目にしてい ないので心底うれしかった。次の治療は三日後だ。
「毎日でもできる治療ですので、もし今夜、痛くなったら明日朝一番で連れて来てください」
医師はそう言って、私たちを受付まで見送ってくれた。

 十一月十六日、二度目の神経ブロックで痛みは殆ど消えた。今日は始めて、車椅子で四キロ離れた赤羽自然観察公園へ連れて行った。母は散歩の習慣が なく、長年赤羽で暮らしているのに近所をほとんど知らない。車椅子から青空に映える紅葉を見上げながら、遠くを旅行しているみたいだと喜んでいた。公園に 着くと、母は少し歩いてみたいと、自分から手摺伝いに五メートルほど歩いた。後ろ姿を眺めながら、母は確実に回復する予感がした。

 車椅子散歩は母には新鮮な驚きの連続だった。人と同じスピードで移動し、音も静かで、小鳥の音や風の音が聞こえ、路傍の野草も身近に眺められた。買い物袋を取っ手に下げられるので、いつもより多くの買い物をすることができた。
毎日、母を連れて商店街へ行った。手押しドアの場合は背中で支えながら入るのだが、大抵、知らない人が気づいて駆け寄ってドアを開けてくれた。車椅子になって世間の優しさがよく分かった。
痛みは再発せず、神経ブロックは一週間に一度に延びた。車椅子になってから母の行動範囲は元気な頃より格段に広がった。人やペットたちとの出会いも多く、母の笑顔は日に日に増えて行った。

 私にとって良かったのは、三十年間続いた私の夜昼逆転の生活が改まったことだ。仕事は絵描きで、静かな夜に制作に集中し、明け方まで描く毎日だった。
それが、母の介護のために十二時前に就寝して朝六時に起床した。極度の不眠症で、始めはほとんど眠れなかったが、早起きを強引に続けている内に自然に眠れるようになった。

車椅子は毎日十キロ以上押した。おかげで、長く忘れていた私自身の健康感が戻って来た。もし、母が車椅子生活にならなかったら、成人病寸前だった私は健康を損ねていたかもしれない。

 雨の日も、風の日も車椅子散歩は休まなかった。防寒具や雨具は登山用を使った。雨具は車椅子用より登山用のポンチョを改造したものが軽くて快適だった。
困っ たのは車椅子の操作性だ。僅か二センチの段差でも、うっかり見逃すと、前車輪が横向きに引っかかって急制動がかかり、母を放り出す危険があった。対策とし て、登山用具のカラビナと帯ロープを使って安全ベルトを作った。車椅子用安全ベルトは市販されているが、華奢で信頼性に疑問があったので自作した。

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 十二月になって木枯らしが吹き始めた。
母は神棚の水換えだけは頑固に続けていた。足元の悪い母が転ぶのが心配だったが、自主性を尊重して好きにさせた。

十三日朝、母はふらついて神棚の花生けを落して割ってしまった。転ばなかったのは不幸中の幸いだ。母は八十歳の時両膝を手術して人工関節に変えていた。外科医からは、転ぶと関節が壊れるから気をつけるようにと厳命されていた。

花生けを買いに、気晴らしに浅草稲荷町まで行くことにした。私は絵描きに転向する前、彫金で生活していた。その頃は稲荷町近くの道具街へよく出かけていた。懐かしい街並を散策して、神具店で花入れを買った。帰りは観音様まで足をのばしてお詣りすることにした。

 観音様は寒い夕暮れにもかかわらずにぎわっていた。
「ええーっ、凶だ」
おみくじ売場から若者の大きな声が聞こえた。気の毒にと思いながら、私もおみくじを引くと七十五番と良い数だ。大吉を期待しながら小引き出しから取り出すと、なんと凶だ。以前、凶を引いた時、その数ヶ月後に祖母が死んだ。
気 になるので、再度、本堂で家内安全を祈ってからもう一本引いた。しかし、七番と良い数なのに再び凶。更に反対側のおみくじ売り場で引いたが、またもや凶。 もう声も出ない。浅草の観音様は凶が多いと知っていたが、三連続ではかなり滅入った。これから起こる事をあれこれ心配しながら帰宅した。
「楽しかった」
明るい声で迎えた母に、土産の切り山椒を渡した。しかし、凶のことは黙っておいた。

 翌十二月十四日、好天の中、知人の十三回忌の法要に池袋へ出かけた。彼は、絵描きに転向したばかりの私を助けてくれた恩人だ。
知人宅は大谷口の給水塔近くにある。近所のお寺の境内の墓地には木陰に先日の雪が清々しく残っていた。法要の後、未亡人や古い知人たちとのんびりお茶をして夕暮れに帰宅した。

 玄関を開けると晃子姉が待っていた。姉が訪ねる予定はない。どうしてと聞くと、母が浴室の床に落ちていたシャツを踏んで転んだと言う。私はいつも洗濯済みの下着は浴室のカゴに積み上げる。その一部が崩れ落ち、それを踏んで滑って転んだようだ。
外科医からは、転ぶと人工関節が壊れる厳命されていたので、一瞬血の気が引いた。

しかし、母は居間でのんびりテレビを見ていた。
転んだ後は大変だったようだ。人工関節は九十度までしか曲がらず、自力では立てない。母は電話まではって行き、私の携帯に電話をかけようとしたが、気が動転して電話番号が押せなかった。それでかけ慣れている晃子姉に電話して助けに来てもらった。

経緯を聞きながら昨日のおみくじの凶が頭をかすめた。しかし、母はカゴにふわりと積み上げていた衣類の山へ倒れ、怪我一つしなく運は良かった訳だ。三連続凶は、「これから足元は、いつも片付けておきなさい」との観音様の啓示だと良い方に考えることにた。

 暮れの間も休まず、毎日母を赤羽自然観察公園へ連れて行った。自然の治癒力はすばらしく、母の足取りは日に日にしっかりして、歩く距離は五十メートルに延びた。
母が歩いている間、私はぼんやりと冬景色を眺めながら待った。
鮮やかな紅色のネコ柳のつぼみ。ニガイチゴの蝋質の白い粉でおおわれた濃紫の茎。冬の草木は枯れているように見えても、命にあふれていた。私は田舎育ちで、自然のことは何でも知っていると思っていたが、五十七歳になって始めて冬の自然の美しさを知った。

二千三年一月二日

 母が元気になってくれたおかげで、さわやかな新年を迎えることができた。玄関を開けると真っ白な富士が見えた。正月も休まず散歩に母を連れ出した。

 緑道公園の路傍に雪が残っていた。昨夜、雪が降ったようだ。
母が初夢を見たかと聞いた。詳しくは思い出せないが、楽しい内容だったと答えると母は笑顔になった。緑道公園は戦前、旧軍の軍事工場への引き込み線跡に作られた公園で全長二キロほどある。我が家からは桜並木を経て緑道公園に入り、 その終わりに赤羽自然観察公園があるので、散歩は終始緑地帯を行くことになる。

 正月の赤羽自然観察公園は静かだ。葉を落としたミズキが紅色の枝を青空に広げているが清々しかった。
母は管理事務所に、車椅子用トイレを使わせてもらっているお礼だとポンカンを渡した。公共の施設だから、お礼は不要と言ったが、意に介さなかった。
係員にお礼を言われて母は気分が良くなったのか、いつもより長く歩いた。このまま元気を回復してくれると有り難い。

 帰宅すると、左目がムズムズした。鏡を見ると結膜が出血して真っ赤になっている。細い血管が切れて出血したもので、一週間ほどで自然に吸収され る。視力には影響はないが、人が真っ赤な目を見るとおどろくので、明日からサングラスをかけることにした。母の介助で、知らず知らずに疲労がたまっていた ようだ。

一月四日

 午後に母を散歩させた。好天で、自然公園はいつもより人出が多かった。母は体調が良く、いつもより20メートル多く歩いた。
帰宅してから、新宿の世界堂へ行って画材を補充した。絵の具と大量のボードは腕が抜けそうに重い。しかし、画材が十分にストックしてあると、気持ちが落ち着く。絵描きにとって大変なのは制作ではなく、絵が描ける生活環境を作ることだ。

帰宅して、母が見舞いで貰ったメロンを食べた。食べ頃は今日指定だが、暖房の所為で少し熟れすぎていた。メロン類は種の周りが好きだ。これをざるに あけて裏ごしするとコップ半分程のジュースが取れる。ジュースはメロンのエッセンスが集中していて香り高く味も濃厚だ。種に絡む糸状の部分も、丹念に種を 取り除いて食べた。サクサクした食感がとても美味い。

 日南市大堂津の子供時代は、メロンは高級過ぎて目にする事はなかった。代わりに、まくわ瓜をよく食べた。まくわ瓜は果肉の味が薄いので、種の回りの濃厚なジュースを果肉に絡ませて食べた。その時、種は面倒なので一緒に食べた。それで腹を壊したことはない。

始めてメロンを口にしたのは昭和30年代後半だ。デパートの食堂で、クリームパフェの頂上にサクランボと並んで麗々しく飾ってあった。メロンは向こうが見える程の薄切りで、私はサクランボとメロンを最後に残して宝石のように大切に味わった。

一月五日

 母の車椅子散歩から帰ると、日曜なのに年賀状が届いていた。これで主な差出人は出揃った。明日以降に届くのはお義理のものが多い。その中に、昔のガールフレンドからの結婚報告が四通あった。どれも二人でケーキにナイフを入れている写真だ。新婦は可愛いが新郎は間抜けに見えた。

 午後、池袋西武の詩のコーナーへ行った。
"私は最後に残ったお金で心を満たす詩集を買うだろう。決して食べ物を買ったりはしない。"
などと気障なことを考えながら、アメリカの現代詩集と水野るり子の「ヘンゼルとグレーテルの島」を衝動買いした。本当は最後に残ったお金で詩集を買ったりはしない。
昔、山で遭難しかけた時、空腹感は耐え難いものだった。だから、大切なお金は総て食べ物に使うはずだ。

一月七日

 七草である。松飾りを外して七草粥を作った。正月の気配が消えて、ほっとしする一方、何となく寂しい。冬はすぐに終わり春が来る。そして夏があっ という間に終わり秋が来て再び年末年始の慌ただしさを嘆く。これは洗濯や料理と同じようなものだ。繰り返すことに喜びがある。思い煩わず、ゆったりと時の 流れに身を任せていれば良いことだ。

そんな事を考えていたら、ふいに五体投地に一生を捧げるチベットの巡礼者の姿が浮かんだ。あの映像を見ていると、彼らの思い切りの良さが羨ましくなった。

 今朝は風が無く寒さが緩んだ。西の方角に赤みを帯びた富士が見えた。母が定期検診で老人センターへ行く日だ。早朝、無線タクシーを呼び、朝食後に来た姉に病院へ連れて行って貰った。
母を送り出して二度寝をしたら、お昼近くに宅急便で目覚めた。荷物は九州からの椎茸だ。肉厚の良品で、すぐに冷水に浸けて冷蔵庫にしまった。こ明日はこの椎茸と高野豆腐を煮る。

Fuji

一月十一日

 この数日の暖かさで、自然公園の厚く氷結していた池はすっかり溶けてしまった。冬至から三十分は日が長くなったように感じる。そうやって、すぐに春がやって来るのだろう。
昨夜は「高校教師」のリニューアルを見たが旧作には及ばない。旧作の真田広之--羽村先生の生真面目さ、桜井幸子--二宮繭の母性に似たひたむきさ、それらの設定は今の時代にはそぐわないのかもしれない。しかし、別の作品として見れば楽しめた。

今日は年賀状が二通届いた。これだけ遅れて届く年賀状はお義理ではない。その一通は、飼い猫が死んで年賀状を書く気力が湧かなかった、との詫び状。もう一通は身内の不幸による遅れだった。

 最近、自然公園で母が歩く後ろから、私は車椅子に乗ってついて行く。母の車椅子は介護車なので自走できない。私は足で地面を引き寄せるように進む。平地はそれで楽に進むが、少しでも上りになると大変だ。

私が車椅子に乗って母の後ろをついて行くと、二歳程の赤ちゃんがよちよち近づいてきた。アブアブと、どうやら乗りたいと言っているようだ。お母さんは困り顔で赤ちゃんを引き離そうとしていた。
「いいですよ」と、私は車椅子に乗せて少し動かしてあげた。赤ちゃんは大喜びで、もう降りないと頑張っている。お母さんは無理に下ろして、様子を眺めていた母にしきりに謝っていた。
「こんなもは乗らない方が良いのよ」
母は笑いながら、お母さんと赤ちゃんに話していた。母親は、恐縮しながら、去って行った。

子供には車椅子は大きな乳母車に見えるようだ。乳母車に乗った子供とすれ違う時、子供は決まって、どうして大人が乳母車に乗っているんだ、と母をにらむ。その表情がとても可笑しい。

一月十四日

 今日も自然公園で母が歩く後ろを私は車椅子に乗ってついて行った。
「交通事後ですか」
すれ違った老人が気の毒そうに聞いた。老母が私を介護していると思ったらしい。ヨタヨタやっと歩いている母に車椅子を押せる訳がないのだが、そそっかしい人だ。もっとも、母はとても喜んで調子を合わせた。
「有り難うございます。この年で苦労ばかりさせられて・・・」
母が適当に答えると、その人は更に気の毒そうに「お大事に。」と去って行った。

今日は暖かく、車椅子を押していると汗で背中が濡れた。梅が開花したとニュースで言っていた。明日は赤羽台団地の梅公園を回つてみようと思う。

一月十六日

 パソコンをつけるとニフティーから「誕生日おめでとう」のメールが届いていた。
「今日は何の日だ」
母に聞いたが誕生日を忘れていた。
「天皇陛下の前立腺切除記念日でしょう」
母は見当違いのことを言った後、やっと私の誕生日に気づいた。

私 は敗色濃厚な昭和二十年、日田市で生まれた。当時、福岡県の役所で土木技師をしていた父は、日田市山中の女畑で食料増産のための用水路工事の監督をしてい た。一月十六日は母の養父健太郎の命日である。臨月の母は二十五回忌の準備のために前日から日田市内へ下山していた。ついでに日田市豆田の産婦人科に寄る と、産まれそうだからと、すぐに入院させられた。その夜から陣痛が始まり、翌十六日夕刻に私が生まれた。

 八ヶ月後の終戦を迎えたころ、父は上司と喧嘩して辞職した。家族は私一歳の誕生日前に、旧知の漁師に誘われて、食糧事情が良い南九州の漁師町大堂 津へ引っ越した。大堂津は米がないだけで魚も野菜も安くふんだんにあった。しかし、世渡り下手な父のおかげで、それからの私たちの生活は激しく乱高下し続 けた。
「役所を辞めなかったら楽だったのに」
母は時折、死ぬまで借金を重ね続けた父をぼやいた。
ある時、父と一緒にならなかっ たら、私はいなかった、と応えると、「そうだったね。ごめんごめん。」と、母は笑いながら死んだ父に謝っていた。もし、父が役人を続けて生活が安定してい たら、私は絵描きにならずに平凡なサラリーマンになっていたはずだ。アートと平穏な生活は相性が悪い。作品は心の屈折から産まれるものだ。

一月十八日

 母をペインクリニックに整形外科へ連れていった。治療は一時間程かかるので、私はその間、絵をメモ帳に描きながら待っていた。
患 者は殆ど老人だ。今日は六十代の裕福そうな女性が入って来て、いきなり「順天堂から来ました」と大声で言った。一瞬、病院関係者と思ったが新しい患者 だった。順天堂で紹介状を貰って来たようだ。彼女はそれが嬉しいらしく、受付とのやり取りの中に何度も「順天堂」を夾んだ。

やがて彼女の診察番が来た。受付はうっかり名前ではなく「順天堂さん」と呼んでしまった。彼女は間違えられたのを嬉しそうに診察室へ入っていった。
「私は忙しい人だから、先週に順天堂さんでレントゲンを沢山撮ってるの。だから、注射だけにして下さい」
診察室から、先生に無茶を言っている声が聞こえた。このように、面白い患者が現れると、待ち時間の退屈が紛れる。

 更に治療に時間がかかる時は、一旦、誰もいない家に帰ることがある。独り身なので、誰もいない部屋は寂しい。
イソジンのCMで、一人暮らしの女の子が帰宅すると「お帰り」と河馬の親子が声をかけるのがある。迎えられて女の子が笑顔になる気持ちはとても良くわかる。たとえ河馬でも、誰かが家で待っていてくれると嬉しい。
近未来にはロボットがそのように出迎えるようになるかもしれない。そうなると、アーとかウーとかしか言わない夫とか、ろくに話も聞いてくれない妻よりも、ロボットが良くなるかもしれない。

一月二十日

 今日は風に春の気配を感じた。寒風から下草を守っていた枯れ草が倒れ、地面まで陽光が届いていた。枯れ草は春間近に倒れて土地を肥沃にする。実に巧みな自然の摂理だ。
冬の木々の木肌の色は美しい。ミズキやニガイチゴの紅色。柳のオリーブグリーン。紅色は直射日光の紫外線から守っているのだろう。だから、初夏に葉が茂ると紅色は薄れしまう。

自然を人の損得で考えるのは間違っている気がする。
役 に立たないから湿原を開墾する。役に立たないから古い建物を取り壊しビルを建てる。その結果、人が幸せなったとは思えない。役に立たなくても良いものはあ る。珍しい切手、古い陶器、眺めているだけで楽しい。私も役に立たない絵を描いている。役に立たない老人や身障者たちも、彼らがいることで、私たちは知ら ず知らずの内に、生きる勇気を貰っている。

一月三十日

 自然公園の日溜まりに母を休ませ、風の音聞いていた。
風の音を聞くと、子供の頃の裏山や海辺の松林を思い出す。やがて母が逝っても、ぼんやりと風の音を聞いているのかもしれない。そして、風の音に、杖をついてそろそろと歩く母の後ろ姿を思い出すのかもしれない。

  午後から、神楽坂のラボへ絵の撮影に行った。二年間、行かなかった間に街の様子は変わっていた。いつも客が入っていなかったレストランは、エスニックの調 度品屋に商売替えをしていたが、相変わらず客は入っていなかった。主人はショウウインドウ越しに通りを暗い顔で見ていた。
江戸時代から続く古刹の木々の茂っていた境内は、霊園に変わっていた。
デジカメの影響で銀塩フイルムが減少し、ラボは縮小していた。近く新橋に移転すると、顔馴染みの社員がこっそり話した。昔は来客が引きも切らず、受付の女の子が7,8人いたのに、今は彼女一人だけになっていた。

二月一日

早朝、腰痛で寝込んでいる姉へ、母は心配して電話していた。
「腰の具合はどう?」
・・・大分良くなったみたい・・・
「それは良かった。でも声が変だよ。風邪でも引いたのじゃない?」
・・・風邪は大丈夫・・・
そのような会話がひとしきり続いたようだが、母は突然、電話口で謝り始め、丁寧に挨拶して電話を切った。
「本当にそそっかしく、どうかしてるんだから。喋り口調が晃子に似ていたものだから、間違えちゃった」
母は笑いを押さえながら言った。電話した相手は姉ではなく、知らない人だった。しかし、会話は巧く符合して、ごく自然に続いてしまった。母は大雑羽だけでなくそそっかしい。私は繊細だが、そそっかしい性格は母から受け継いでいる。

 散歩から帰ってから、洗濯をした。洗濯機は十五年前から使っている二漕式。この機種は頑丈で、当分壊れそうにない。
洗濯槽にはいつも石鹸水を満たしてある。母はそれに片っ端から汚れ物を放り込む。母は若い頃から大雑把で、食器用布巾と雑巾を一緒に放り込んだりする。いくら言っても聞かないので、いつの間にかすすぎに時間差を設けて、食器用布巾と雑巾を分けてすすぐようにしている。

二月二日

 今日は初午。母の散歩の帰りが遅れたので午後4時に王子稲荷へ出かけた。今日は初午にしては人出が少なかった。三の午まであるから、皆はお詣りを控えたのかもしれない。境内では祭囃子が流れていた。和風はやはり心和む。
本 殿奥の祠に願い石が置いてある。重さは二十キロ程で溶岩のようにざらざらしている。いつものように胸まで持ち上げてこの先一年の商売繁盛を願った。それか ら、山肌の階段を上り狐穴に詣った。この、自然味溢れる山肌は、江戸時代から変わらない。小さな祠が幾つもあって、それぞれに小銭を上げて祈った。

 その後、目白へ行った。目白に新しくオープンした目白オープンギャラリーで彫刻家の知人が作品展をしていた。氏は鍛金で巨大なキリンや河馬を作る。客は美大の学生が多かった。氏の夫人が彫刻で受賞したお祝いを言い少し彫刻の話をして別れた。
帰り、池袋キンカ堂で布と紐を買った。昔は全館素材売場であったが今は一フロアのみで布の種類は少なくなった。
それから東急ハンズで段ボールと木材、ビックバソコン館でプリント用紙を買った。

  北赤羽で下車した時、明日の節分を思い出し、駅前のライフで魔よけに使う目刺しを買った。ベランダにヒイラギの鉢があるので、枝を切って目刺しの頭を刺し て魔よけにした。昔、一軒家に暮らしていた頃は豆殻をくすべて、鬼を追い払った。今の高層の住まいは機密性が高く、豆殻をくすべると煙が抜けず大変だ。そ れで、鬼くすべは止めている。

鬼くすべのパチパチと豆殻のはじける音と煙の香りは懐かしい。私が上京した昭和三十八年頃は節分の夕暮れになると町内のあちこちで「鬼は外、福は内」の大きな声が聞こえたが、今はまったく聞こえなくなった。

二月六日

 今日も、自然公園の日溜まりに母の車椅子を止めて休んだ。日射しが心地良い。公園の池の底に炭酸同化作用による酸素の気泡が無数に出ていた。藻類が活動を始めたようだ。ネコ柳の新芽も大きく膨らんで、子猫みたいに可愛いく なった。今の季節の変化を肌身に感じると、体も生き生きして来る。日溜まりの車椅子の母は、次は桜だねと嬉しそうにしていた。

 毎年春になると走馬燈のように思い出すことがある。
四十年昔の郷里宮崎での二月、私は冬休みの惰性で受験勉強に身が入らず、学校をさぼっ ては川の土手に寝そべって時間をつぶしていた。南九州の春は早い。土手は淡く芽吹き、畑には菜の花が咲き、遠くに春霞の山々が見えた。同級生達は二月にな ると、次々と受験の為に上京して、教室は櫛の歯が抜けたように寂しくなった。卒業式は三月を待たず、慌ただしく終わった。

二月下旬、卒業 式を終えた私も意気揚々と上京した。一日に一本だけの特急みずほの寝台車に乗れたことが嬉しかった。東海道に入ると、平行して建設中の新幹線の高架が見え た。ボックス席の相客は別府で乗車した老夫婦だった。東京駅が近づくと、「頑張って立派な偉い人になって下さい」と老夫婦は私を励ましてくれた。私は照 れもせず「頑張ります。」と答えた。まだ、日本人が熱い時代だった。

不勉強が祟り芸大受験は失敗した。浪人して再受験するか迷ったが、絵描きくらい、独学で簡単になれると過信した。現実は大変で、良い事と悪いことにジェットコースターのように振り回され、四十三歳でやっと絵描き転向できた。


二月十一日

  雨の中、ポンチョの雨具を被せて母を車椅子で自然公園へ連れて行った。公園に着くと、スズメたちが飛んできた。私はいつもと違うフード付きの雨コートを着 ているのに、スズメ達には私と分かるようだ。餌を撒くと一斉に食べ始めた。石畳を小さなくちばしでプチプチとつつく音を聞いていると、母も私も幸せな気分 になった。

雨に濡れた自然公園は深い山のようだ。木の枝に水晶の首飾りのように雨しずくが綺羅めいているのが美しい。
「雨コートが暖かそうですね」
顔馴染みの老人が母に声をかけた。彼は私が親孝行で評判になっていると話した。この三ヶ月間、殆ど毎日車椅子を押してやって来るので、そう思われているようだ。

 自然は様々なことを教えてくれる。
アマゾン、クリチカ族首長の次のような言葉がある。
「自然がそこにあって、鳥が歌い、森がささやく。なんと素晴らしいことか。あなたたち白人は優れたテクノロジーを私達にもたらした。しかし、テクノロジーは私達を幸せにしない。私達の幸せは自然とともにあり、自然が消滅すれば、私達もほろびる」

二月十三日

 冬はすぐに終わり、二月を迎えると時折暖かい日が訪れた。
車椅子散歩には意外な効果があった。振動で全身が揺らされて腎臓への血流が良くなり、赤羽自然観察公園に着くころに母は尿意を催した。母は腎機能が落ちていて、日中尿量が減るのを悩んでいた。だから、車椅子散歩を楽しみにしていた。

今日も公園へ着くとすぐに身障者用トイレへ入れた。外で待っていると、中年男性が通りかかった。
「女子トイレに入りやがって」
男は吐き捨てるように言った。
「母の介護だ。げすな勘ぐりをするな」
とっさに言い返したが、男は無視して去って行った。追いかけて文句を言いたかったが、母の世話があるので我慢した。
管理棟前のベンチで、母と昼食のおにぎりを食べた。先ほどの男は隣のグランドをぐるぐる歩き回っていた。運動が終われば私達の前を通るはずなので文句を言ってやろうと待ち構えていた。しかし、男はそんな私の気配に気づき、いつまでもグラウンドを回っていた。
車椅子は初めてのことが多い。今日は女子トイレを使う時は注意が必要だと学んだ。嫌な男だったが、それに気付かせてくれたことに感謝している。これからは車椅子を外に置いて、介護していることを明示することにした。

二月十六日

 住まい下の新河岸川護岸で若者達が映画を撮っていた。ああだこうだとやり合いながら、熱っぽく撮影している姿が若々しい。そのような若者たちを見ていると、若さはいい、と思ってしまう。そう思うのは年を取ってしまったからだろう。

最近、夜中に小用で目覚めるようになった。以前はそんなことは一度もなく、朝までぐっすり眠っていた。昔は歯は丈夫なのが自慢で、堅い梅干しの種を 楽々砕いていたが、今では想像もできない。母は夜中、三、四回は小用で目覚める。逆に、昼間はぱたりと止まってしまう。だから、母との会話は小用と通じの 話が多い。最近、老いは病ではないと気づいた。

 母にとって車椅子はタイムマシーンである。今日は自然公園の帰り、昔住んでいた辺りを通った。母には10年ぶりに懐かしい場所である。馴染みの八百屋の主人が白髪になったこと。明治屋のレジのおばさんがすっかり年寄りになってしまったこと、何もかも母には驚きだった。
さほど遠くない場所が、年寄りには外国のように遠くなってしまう。もし寝たっきりにでもなれば、町内の数メートル先でも、二度と見ることなく死んでいく。

三月十四日

  お昼のワイドショーで郷里日南市を取り上げていた。私は知らなかったがあの地方は長寿が多いらしい。その理由は温暖な気候に、新鮮な魚介類とツワブキを食 べているから、と言っていた。ツワブキが長寿の元とは知らなかった。映像で年寄りが畑栽培のツワブキを採るシーンがあったが、昔は山に自生しているのを子 供が採ってくるものだった。

ツワブキのシーズンは今頃で、山の南斜面で産毛に覆われた若いのを選んで採った。しかし、映像のツワブキは大 きく成長したものばかりだった。私達はそれをオンジョ・じいさんの意味・と言って嫌っていた。先日、九州の兄が市販されているツワブキを送ってきたが堅く て不味かった。それは畑で作ったものなのだろう。畑で作り始めたのは、子供が山へツワブキ採りへ行かないからだ。昔はツワブキとタケノコ採りは子供の仕事 だった。

子供の頃は、竹杖とわら縄一本を持って山へ行った。竹杖はマムシを追い払うために使う。ツワブキの多い斜面はマムシが多く、シーズン中に必ず誰かが噛まれた。私の友達もツワブキ採りの最中に噛まれ、皆で背負って、病院へ担ぎ込んだことがあった。

わら縄はツワブキを縛るのに使った。子供でも産毛の生えた若くて美味しいツワブキがすぐに一抱えは採れた。
帰ってから皆でツワブキの皮むきをした。ツワブキはあくが強く剥いていると指先が茶色に染まった。皮むきに飽きると、ツワブキを交互に折って首飾りを作ったりして遊んだ。ツワブキは母が鰹節と大鍋で煮込んだ。生醤油で煮詰めた佃煮も美味かった。

三月十七日

 赤羽自然観察公園の北方系のイヌコリヤナギが新芽を出した。まだ全体は枯れていたが、その刷毛で引いたような淡い緑に春を感じた。

最 近、赤羽自然観察公園で言葉を交わし始めた車椅子の老夫婦がいる。老夫婦と母は気づいていないが、昔、私たちは彼の家の近くに住んでいた。その頃、飼って いたオカメインコが逃げて、彼の庭に飛んで行ったことがあった。庭から鳴き声が聞こえたので玄関のブザーを押した。現れた彼に事情を話して庭へ入れてほし いと頼んだが、彼はダメだと言った。押し問答をしているうちに、オカメインコは野良ネコに捕まって食べられてしまった。その一件以来、彼のことを思い出す と腹が立った。

 その彼が脳梗塞で倒れ、公園で老妻に支えられて松葉杖で必死に歩いていた。
「大丈夫ですよ。きっと歩けるようになります」
母が励ますと彼は優しい笑顔になった。母はオカメインコの件は知らない。私は温厚な老夫婦と親しくなっただけで十分と思った。今日も別れ際、老夫婦はいつまでも私たちに手を振っていた。苦労が優しく性格を変えたようだ。

 四月に入ると日差しが強くなった。
帽子をかぶらなかったら耳の辺りがヒリヒリした。子供の頃から南九州の強烈な陽光を浴びて皮膚を痛めつけて来た報いだ。住まい下の新河岸川の川面が春めいてきた。川面の輝きを眺めると、半世紀前に暮らした大堂津の細田川を思い出した。

細田川河口は浅い汽水域で、水が温むと子供たちは入って遊んだ。魚が足にぶつかるほど魚影は濃く、足裏で砂中を探るとアサリがいくらでも取れた。そんな思い出を母と話しながら車椅子を押した。
「あのころは貧乏だったけど、子供たちが元気で、毎日が本当に楽しかった」
母は、大家族でのにぎやかな食事や、末っ子の私がご飯粒をこぼして困ったことなど、楽しそうに話した。
母とは二十八歳から一緒に暮らしているが、今ほど会話はしなかった。それが、車椅子になってから会話が増えたと、母は喜んでいた。

五月一日

 今日は二十八年前、在宅で看取った母方の祖母千代の命日だった。当時、父は事業を失敗して収入がなかったので私が扶養していた。

祖 母千代は死の二年前まで、溺愛していた繁兄の家族と都城で暮らしていた。その祖母が急速に弱ったので、当時二十八歳だった私が東京へ引き取って、母と二人 で介護した。私は祖母が寝ている隣室で夜通し仕事をしていたので、祖母が呼べばすぐに世話ができた。だから、母が夜中に起こされたことは一度もなかった。

 通夜の日、兄姉が集まり子供の頃のような大家族が再現され、祖母の死の寂しさより、大家族の暖かさが記憶に残った。
葬儀の日はツツジが満開の爽やかな日だった。遺骨は紅型染めの風呂敷に包み、上京して来た繁兄と母が九州の菩提寺へ運んだ。繁兄の姿を見たのはそれが最後だった。

新 緑の道を行く母と兄の後ろ姿が今も目に浮かぶ。翌年十月、都城で中学教師をしていた繁兄は学校で脳溢血を起こし四十二歳で急死した。私には父違いの兄が二 人いる。その上の兄が繁兄だった。他に母違いの姉が二人いる。両親が同じなのは姉二人と私三人だけで、末っ子の私が戸籍上の長男になっている。

 祖母千代と母は血のつながりはない。母の実母は母を生むとすぐに早世した。赤ん坊を抱えて困っていた実父茂太郎は、子供がいない千代の元に母を養 女に出した。実父茂太郎の父親、母の実の祖父は久留米藩士で、維新後は花道と茶道の心得を生かして没落を免れた。その嫡男だった茂太郎は近衛師団に入営 し、数年後に除隊して帰郷した。久留米に戻った彼は突然、酒と女と放蕩を始めた。そのころ、茂太郎は母を養女にした千代の夫健太郎と遊びを通じて知り合っ た。

親は彼の放蕩を若気のいたりと大目に見ていた。しかし、茂太郎が母の実母にあたる染物屋の娘と一緒に暮らし始めたことは許せなかっ た。結局、長い軋轢の末に茂太郎は家を捨て、家は真面目な弟が継いだ。弟はよく家を守り、その子孫は今も繁栄している。早世した母の実母は染め物の名手で 遊び好きの茂太郎に代わって生活を支えた。

 不思議なことに、私の父の実父も染め物職人だった。父の祖父は黒田藩の下級武士だったが、明治維新で勤王側について巧く立ち回り、屋敷を構えるほ どに出世した。しかし、その娘だった祖母は京都から流れてきた友禅染め職人とできて父を生み、一族から排除されてしまった。その友禅染め職人は父が生まれ る前に祖母を捨てて逃げた。逃げた祖父が染めた着物は戦前まで、遠縁の家に残っていた。母の記憶では腕は確かだったようだ。彼が流れ職人になったのは、師 匠筋とトラブルを起こしたからだ。私は絵描きに転職する前、彫金職人をやっていたので、その事情は肌で分かる。

今、私が絵描きになれたのは両親に染め物職人の血が流れていたからだと思っている。だから、逃げた父方の祖父に対しても敬意を持っている。

 祖母千代の夫健太郎はあちこちに女を作っていた。当時は盆暮れに本妻が夫の愛人に届け物をする習慣があった。それは本妻には腹立たしい習慣で、祖母は母が五歳になると自分の代理に立てた。

幼 い母は、毎年盆暮れに届け物を持って人力車で挨拶回りをした。挨拶先には遊郭の女がいた。遊郭では客の娘が挨拶に来たので、下にも置かず歓待した。遊郭は 現実を忘れさせるためにファンタジックに作られていた。たとえれば、ディズニーランドと歌舞伎町を合体させたような極彩色の妖しい場所だった。だから、母 は訪ねるのを楽しみにしていた。

時には母は長居して、父親の愛妾と遊郭の大きな風呂に一緒に入ったことがあった。その時、女が見たことも ない美しい小さな下着を身につけて世話してくれたのを、母は鮮烈に記憶している。女が裸にならなかったのは素人娘への礼儀だったようだ。常々、母の趣味に 過激さを感じる。それはその原体験が影響しているかもしれない。それにしても、幼い女の子を遊郭へ行かせる祖母も破天荒だった。

写真は十歳の母。日傘を買ってもらったのが嬉しくて、一人で写真館へ行ってツケで撮ってもらった。母は久留米一円の食堂も芝居小屋もツケが効いた。代金は後で祖母が払っていたようだ。

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 六月十二日。

 腰痛で緊急入院した板橋の病院の皮膚科に、母は腹部の小さな湿疹の治療のために一年前からかかっていた。今朝早く、母は晃子姉に連れられて皮膚科へ行き、お昼過ぎに帰って来た。
「皮膚科の先生に、進行したボーエンガンと言われた」
姉は医師のメモ書きを渡した。思ってもいない病名を目にして私は呆然とした。
「今の治療を続ければ、時間はかかりますが必ず治ります」
こ れまで医師は、付き添いの姉に楽観的に話していた。母を姉に任せ切っていたことを深く後悔した。もし、私が同行していたら、詳しく質問して早く手を打って いたはずだ。最近、母はとても元気で、風邪も引かず、公園でのリハビリ歩行の長さも延びていた。まだしばらくは元気でいてくれると喜んでいた矢先で、目の 前が真っ暗になった。

 六月十三日
 細胞診の結果を聞きに母を連れて病院へ行った。若い担当医はこともなげに、ボーエンガンは真皮まで進行していて転移の可能性があると告げた。そして、手術より放射線治療にリンパ節廓清が最適と付け加えた。
母は一年前に腹部に小さな異常を感じてから直ぐに診察を受けた。そして、医師の指示通り抗がん剤軟膏の塗布をまじめに続けていた。不信感がこみ上げ、厳しく医師に詰めよった。
「母は一年前から診察を受けています。それをなぜ進行するまで放置していたのですか。最悪を想定して対処するのが治療の基本でしょう」
「始めはただのボーエンでしたが、それが突然ガン化して進行することはよくありまして」
若い医師は上司の顔色を見ながらオロオロと答えた。
「急速に進行する可能性があるものをなぜ放置していたかと聞いています。なぜ九十歳近い老人に漫然と軟膏塗布を任せていたのですか」
更 に詰め寄っていると、母は厳しい詰問と飛び交う病名に困惑し切っていた。人生の終わりを無茶苦茶にされかけている母が可愛そうになった。今は争うより母の 治療が先だ。私は冷静になるように努めた。内心、ボーエンガンに関連してあるかもしれない内蔵ガンが心配だった。冷静になって聞くと、上司は待っていたよ うに言った。
「肝臓ガンの可能性があります。これからすぐにCTスキャンを受けて下さい」
どうやら腫瘍マーカーが高値を示していたようだ。医師の言葉に不安がこみ上げた。

 慌ただしくCTスキャンを受けて帰路に着いた。帰りのタクシーの中で、先々の事を考えた。ボーエンガンの治療にともない鼠径リンパ節を廓清すれば、高齢の母は足がむくんで歩けなくなる。更に肝臓にガンが見つかれば、考えれば考えるほど滅入ってしまった。
「みんな、私のことを心配してくれてうれしい」
母は私を気遣うよに、明るくふるまっていた。去年の暮れに観音様で引いたおみくじの三連続凶は、この暗示だったのかと、際限なく落ち込んで行った。

 三時過ぎに帰宅した。
「今日は先生たちに親切にしてもらえて、本当に良かった」
母はテレビを見ながら、のんびりと話した。
「そうだね。本当に良かったね」
私は努めて明るくふるまった。先日、デジカメを買い替えて、公園で歩く母を撮り始めた。それが母の遺影になるのではと思えてならなかった。

 六月十六日
 私は一人で母のCTスキャンの結果を聞きに行った。
「肝臓に三十ミリの腫瘍が見つかりました」
皮膚科の若い医師は安堵したように説明した。肝臓ガンが原発ならボーエンガンは二次で、責任は軽くなったと思っているようだ。予期していたが、宣告されるといたたまれなくなった。
胃腸内科の医師を交えて今後の治療方針を聞いた。
「九十歳の年齢では手術は無理です。血管を閉塞させたり、腫瘍にアルコール注入して壊死させる方法がありますが、それには腫瘍が大き過ぎます」
医師は治療方法を説明した。そして、いずれの方法も当院の技術水準では対応出来ないので、ガン治療が優れている駒込病院への転院を薦めた。すでにこの病院に母を任せる気持ちは失せていた。駒込病院へ早急に転院できるように医師たちに頼んだ。

 七月二日
 昨夜、母は激しく下痢をして、腹が張ると訴えた。いよいよ肝臓ガンの症状が現れたのかと滅入った。
今朝は下痢は止まっ たので、赤羽自然観察公園に連れて行った。明日は駒込病院での初診なので、リハビリは短く切り上げた。帰りぎわ、顔馴染みのおばあさんに会った。彼女は、 花イカダが実を付けているからと案内してくれた。実物を見るのは初めてで、葉の中央に付いている濃紫の実が可愛いかった。
「私が退院するまで、元気でいてね」
母は花イカダをそっとなでていた。

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 七月三日
 早朝、タクシーで母を駒込病院へ連れて行った。病院内で迷っていると、すぐにボランティアの案内係がやってきて案内してくれた。システムは合理的だったが、通路を兼ねた待合室は狭く車椅子を押すのに苦労した。

 肝臓ガン手術は難題が多く、とりあえずボーエンガンの手術を先にすることになっていた。皮膚科では二時間ほど待たされ、やっと医長に会えた。医長 は紹介状とデーターに目を通して、若い医師を呼んで担当にした。私は考えが柔軟な若い医師が担当になって安堵した。それから五時間かけて次々と検査が行わ れた。帰宅すると母は疲労困憊して寝込んでしまった。

 七月八日
 明日の入院が決まったのでしばらく散歩を休むので、霧雨の中、赤羽自然観察公園へ母を連れて行った。公園の遊歩道に餌を撒くと、スズメが沢山集まって来た。ガン宣告を受けた母とは対照的に、自然は命にあふれていた。
「もう一度この自然を見たいね」
母はつぶやいた。母は八十歳を過ぎてから三度大きな手術をした。そのいずれにも不安はなかったが今回はまるで違う。心底、無事に退院できることを願った。

 午後、入院用品を買いに出た。帰宅すると、母は肌着や寝間着を並べてバックに入れていた。大柄だった母の後ろ姿が小さく見えた。
「がんばれよ」
心の中で何度もはげました。

 七月十五日
 駒込病院に入院してから一週間が過ぎた。しかし、手術の予定は決まらなかった。
病院に行くと、「車椅子を歩行器代わりにして歩くのが許可された」
母はとうれしそうに話した。今まで母のリハビリに毎日通っていたので、これで休むことができると安堵した。病室には若い女性患者が新しく入っていて、母親が心配そうに付き添っていた。

帰りは母が車椅子を押しながらエレベーターまで見送りに来た。
「お母さんよりお見舞いの娘さんが老けていてお気の毒」
新しく入った患者の付き添いの母親を母は患者の娘だと言った。
「娘さんじゃないよ。どう見てもお母さんだ。」と言ったが母は娘だと言い張った。

昔から、母は思い込むとゆずらない頑固なところがあった。
昔、母が鱒寿司を買ってきた時のことだ。
「添えてある黒ゴマをかけると美味いよ」
母 は小さな袋を添えて食卓に出した。袋を見ると、「脱酸素剤につき食べるな」とある。注意書きを教えたが、それは黒ゴマでとても美味かったと言い張った。 すでに母は脱酸素剤を鱒寿司にかけて食べたようだ。しかも、それを美味いと言うのだから、相当に思い込みは強い。脱酸素剤を食べた母が心配だったので、数 日見守っていたが腹痛も下痢も起こさなかった。それから十年は過ぎたが、今も思い込みの強さは変わらない。

 母はエレベーターのドアが閉まるまで、私を見送っていた。
「お見送りはお母さんですか」
エレベーターに一緒に乗った見舞客が聞いた。「そうです」と答えると、「やさしそうなお母さんですね」とほめた。頑固で気が強い母だが、他人からはやさしく見えるようだ。

 七月二十一日

 二十三日にボーエンガンの手術が決まった。その前々日の今日、駒込病院へ母の手術同意書のサインへ行った。若い執 刀医は、手術時に鼠径リンパ節を郭清をするかどうかの同意を求めた。明確なリンパ節転移はないが、顕微鏡レベルの転移の可能性は二十パーセントだ。しか し、それだけの情報では即答できない。同意書へのサインは明日に延ばしてもらった。

 九十歳の老人と壮年ではリンパ節廓清の意味は大きく違う。廓清した後の不具合と、取らずにガンを転移させた不具合を冷静に比較しなければならな い。はっきり転移が認められているなら、リンパ節郭清は必要だ。しかし、健康なリンパ節を予防的に取って、老いた母を苦しめたくない。母は腰痛を克服し、 今は元気に歩いている。もし、リンパ節廓清をすれば足がむくみ、歩行ができなくなる。加えて、むくみ防止のきつい靴下をつけ、毎日、リンパ液還流マッサー ジをしなければならない。

 帰宅してすぐに関連サイトを検索した。その中に母と同じケースがあり、廓清してもしなくても予後は同じだと数値で示していた。私は母の命を八十パーセントのリンパ節転移なしに賭けた。しかし、その決断は大変な不安を残してしまった。

 七月二十二日

 母の手術承諾書へのサインに駒込病院へ行った。明日の手術でのリンパ節郭清は見送って欲しいと申し入れると、若い医師は転移を心配した。
「まだ、本命の肝臓ガン手術が残っています。今の段階での転移予防はあまり意味がないのではないでしようか」
言葉を選んで慎重に話すと、医師はすぐに納得してくれた。柔軟な考えの若い医師が担当で本当に良かった。医師は目の前で、手術計画書のリンパ節廓清の文字を赤ボールペンでしっかりと消した。

 七月二十三日

 午前中に母のガンの手術だった。縁起をかついで、今まで通り付き添いを晃子姉に頼んだ。不安の中、連絡を待ってい ると、輸血なしで無事に済んだと姉から電話が入った。八十歳を過ぎてから大小十回目の手術だった。内蔵は傷つけてないので、明日から歩かせると医師は話し ていた。

 七月二十四日

 駒込病院に行くと、母は集中治療室から一般病棟へもどっていた。点滴、排尿、脊髄への鎮痛剤の注入チューブとまさにスパゲッティ状態だったが、とても元気だった。
母は来るのが遅いと憎まれ口をたたいた。この様子なら回復は早い。歩きたいと言うので手を貸すと、チューブだらけのまま廊下を十メートルほど歩いた。まるでタコ足配線のソケットが動いているようで、みんなが振り返っていた。

看護師は驚異的な快復だと驚いていた。しかし、次の肝臓ガンは容易ではない。執刀医は肝臓上部の表面近くにガンがあるので開腹して取りたい意向だった。しか し、度重なる手術後遺症で腹壁瘢痕ヘルニアを起こし、その治療のために広くメッシュが入っている。メッシュは組織と一体化し、それをわずかでも傷つけると 感染症を起こす。本当の苦労はこれからだと気持ちを引き締めた。

朗報もあった。肝臓内科の医師にC型肝炎ウイルスが消失していると告げられた。C型肝炎は過去の手術で感染させられ、肝臓ガンの原因になった。長い間、キャリアだから気を付けるようにと言われていたのに、狐につままれた思いがした。

 七月二十八日

 昨夜は遅くまで、川向こうの小学校で盆踊りをしていた。玄関を開くと校庭の飾り提灯の下から、都はるみの「好きに なった人」のフレーズが延々と聞こえた。暗い中、仕事部屋の日よけの御簾を取り替えた。生活の手を抜くと、生きる力まで弱まってしまう。模様替えを済ませ ると気分が軽くなった。
早朝の驟雨で涼しくなったが、すぐに暑くなった。ベランダ際にちゃぶ台を置いて、蝉の声を聞きながら冷や麦を食べた。これでいつもの夏気分が戻って来た。

 八月二十二日

 朝から猛暑で、京浜東北線の冷房が心地よかった。駒込駅で下車し、駒込病院へ一キロの道を歩いた。途中、広大な切 り通しを上ると、右の脇道に赤紙仁王堂がある。江戸時代の古いお堂が忽然と出現する様は劇的だった。お堂前の三メートルほどの阿吽の仁王石像は病快癒の願 いを込めた赤紙が全身に貼られ、巨大な赤い蓑虫のように見えた。私も仁王堂に、母の快癒を祈った。

 近所の平井さんが引っ越しの挨拶来たと母に伝えた。平井さんは母の整形外科での患者仲間で母より年上の九十三歳。娘夫婦と暮らしていたが折り合い が悪く、川崎の息子夫婦の所へ引き取られて行く。母はガンで入院中と答えると、彼女は気の毒そうな顔をした。しかし、すぐに笑顔に戻り、母にくれぐれもよ ろしくと言って帰った。

老人は別離や生き死に対して驚くほど淡白だ。それは母も同じで、平井さんの引っ越しを聞いても、「あらそう」と平 気だった。二人の年齢では永遠の別れになるのに、我々の感傷は老人には通用しないようだ。しかし、動物たちに対する気持ちはまるで違っていた。今日、散歩 コースのネコやイヌの写真を持って行くと、母はうれしそうにいつまでも写真をなでていた。

 九月六日 

 先日、母は90歳の誕生日を迎えた。駒込病院で肝臓内科の医師と外科医から治療方針を聞いた。内科医は体力の回復を優先していたが、外科医は速やかな手術を望んでいた。
「当院での肝臓ガン手術の高齢記録は八十三歳です。お母さまが受ければ一気に九十歳に記録が伸びます」
外科医から最高記録と聞くと、母の表情が明るくなった。
「先生、ズバッと切って下さい」
母は気楽に頼んでいた。しかし、外科医は母の積極的な反応に困惑していた。
「もし、少しでも不安がありましたら、たとえ手術台に上がってからでも嫌だと言ってかまいません。ご高齢ですので、絶対に無理は避けたいと思っています」
外科医はメッシュを傷付けないで手術する難しさを話したが、母はまったく意に介せず、手術を是非にと頼み込んでいた。その場で、体力をつけるための一時退院が決まった。

 九月十一日

 母は晃子姉に連れられて退院して来た。
「我が家はいいね」
母はうれしそうに自分の椅子に腰かけた。昼食を用意すると完食し、ベットに気持ち良さそうに横になった。
しかし、夕刻に小水が出ないと訴えた。車椅子で揺らせば出るかもしれない。日が陰り涼しくなったので外へ連れ出した。御諏訪神社下から旧雪印工場下まで三十分ほど、車椅子で体を揺らして帰宅すると、母はすぐに小用をもよおした。

 九月十五日

 久しぶりに赤羽自然観察公園に連れて行った。母の足取りは重くすぐに疲れて車椅子に戻った。駒込病院へ入院するまでは一日中椅子に座っている体力があったのに、今は殆どベットで過ごしている。今日も母は散歩から帰宅するとすぐにベットに横になった。

 しばらくして様子を見に行くと、母は衣装ケースの整理をしていた。
「後はオレがやるから、休んでな」
私が代わって整理を始めると「ありがとう」と、母はソロソロとベットに戻った。若い頃は親は煩わしくて、早く親を亡くした友人が自由に思え、うらやましくさえあった。しかし今は違う。いつまでも元気でいて欲しいと心から願っていた。

 十月二十八日

 自宅での食事と公園でのリハビリが功を奏し、母の体力は手術に耐えられるまでに回復した。母は再入院のため、晃子 姉とタクシーで駒込病院に向かった。見送った後、介護保険で借りていた車椅子を返す手配をした。介護保険では、入院中の貸与はできない。必要な場合は自費 で借りることになる。

お昼前に姉からの病室番号の連絡を受けた。見舞いへ行くついでに池袋に出て画材を買った。
画材を下げて駒込病院へ回ると、二度目の入院の母は我が家のように病室でくつろいでいた。池袋のデパートで買った佃煮を渡すととても喜んだ。帰宅して夕食後、仕事を始めたが心身共に疲労していてはかどらず十二時前に寝た。

 十月二十九日

 目覚めたのは午前十時。連日、四時間睡眠が続いていたので、久しぶりにたっぷりと眠った。病院へ行くと肝臓の血管 造影とCTスキャンの結果が出ていた。六月に三十ミリだったガン腫瘍が三十八ミリに肥大していた。しかし、周りへの浸潤がないので、手術は計画通り行われ る。次に肝臓へカテーテルを入れる検査が予定されていて、血管を傷付けないように母の体は器具で固定されていた。我慢強い母が、それがとても苦しいと訴え ていた。

 十一月六日

 暖かいので母を病室から庭へ連れ出した。母は色づき始めた樹々を見上げながら、今回の手術は私が付き添ってくれるように頼んだ。母は手術の厳しさを覚悟しているようだ。
食 事が不味いと文句を言いながら母は病院生活に馴染んでいた。深夜でも、トイレに立つと看護師が直ぐに飛んできて付き添ってくれる。同室の若い患者たちも、 高齢の母に親切にしてくれていた。昔、私はアキレス腱断裂で入院したことがあるが、三食昼寝付きの生活に馴染んでしまい、退院がいやになった。母の気分は それに似ているようだ。

 自宅ベランダの植木鉢のヒイラギが枯れ始めた。母の手術を控えて、不吉な気がした。万一を考え、台所の大掃除をした。水屋を開けると使わない食器が山のように出てきたので処分した。結局、不要品はごみ袋六個になった。

 十一月二十八日

 本命の肝臓ガンの手術日だった。早朝五時に起きて手術の立ち会いに行った。手術前の母は処置室のベットに寝ていた。
「おや、寝過ごさないで来てくれたの」
母は満面の笑みを浮かべた。その笑顔を最後になるかもしれないと思いながら何枚も撮った。  

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 執刀医は手術方法は開腹してから決めると言っていた。手術が失敗して母が逝けば、たった一人の家族を失うことになる。昔、父や祖母が死んだ時とは、まるで違う重圧を感じた。
母 の肝臓は右肺を深く押し上げるように肋骨の中に食い込んでいた。しかもガンは肝臓上方にあるので、大きく切らないと患部を目視できない。さらに過去の手術 による癒着も多く、それらを剥がしながら遠い肝臓を引きずり出してガン腫瘍を切除する。切除が無理なら手探りでラジオ波で焼き切る。どちらかの方法も九十 歳の母には過酷だった。

 手術の控え室は早朝にもかかわらず十組ほどの家族が不安げに待っていた。難しい手術を受ける私たちともう一組の家族にPHSが渡され、問題があった時に手術室から電話がかかることになっていた。
二時間ほど過ぎたころ、もう一組の家族に電話がかかり手術変更の承諾を求められていた。家族は二、三分ほど小声で相談して了承した。もれ聞こえる言葉からとても厳しいガン手術のようだった。

三時間後、執刀医が手術着のまま駆け足でやって来て成功を告げた。
「なんとか肝臓を目視出来るところまで引き出して、ラジオ波で完全にガンを焼き殺すことができました。」
医師の声は明るくはずんでいた。母の肝機能は正常なのでメスによる切除がベストだったが、手探りでは止血ができず、無理だったと付け加えた。
「これで、しばらくは再発しません」
医師は心底うれしそうだった。九十歳の年齢を考えると、再発の前に寿命が尽きるはずだ。私は胸をなで下ろし、医師に深く感謝した。手術室から運ばれて来た母は麻酔から覚めていて、顔色も良かった。
「大成功だったよ」
告げると、酸素マスクでしゃべれない母は手を伸ばし、私と晃子姉の手を驚くほどに強くにぎりしめた。

 十二月三日

 午後遅く駒込病院へ行った。母の手術は成功したが体力の回復ははかばかしくなかった。通常の肝臓ガン手術では腹部中央をカギの字に切る。しかし、 母の場合はメッシュを傷付けないように脇腹から切開した。不自然な位置を切ったので、かなり痛む。その上、吐き気が止まらず、お粥を一口飲み込むのも苦し そうだった。こっそり持って来た漢方胃腸薬を飲ませると、吐き気はすぐに治まり食欲は回復した。
母が若ければ病院の規則は守る。しかし、高齢の母の体力回復に食事は必須だ。高度医療でガン手術が成功したのに、食事の不味さで体力を損なうことに大きな矛盾を感じていた。

 母は術後すぐに歩くように言われた。歩かないと筋肉がやせて寝たっきりになってしまう。廊下を十メートルほど歩かせ、その後、車椅子で庭へ連れ出した。、母は外の空気は酸素が濃くて気持ちがいいと深呼吸していた。母の表情に生還できた喜びがあふれていた。

 夕暮れ、帰路についた。エレベーターで中年女性患者と内科医の二人連れと乗り合わせた。
「明日が手術です。もし生きていたらまた診て下さいね」
患者は医師に話していた。言葉のはしばしに切なさがこもっていて、聞いていて辛くなった。
途 中で降りた二人と入れ替わりに、若い女性と女の子の二人連れが乗って来た。八歳ほどの女の子は涙を浮かべ必死に嗚咽をこらえていた。玄関を出ると女の子は こらえきれなくなって泣きじゃくり始めた。二人の会話から、女の子が見舞った相手は母親で、若い女性は母親の妹だと分かった。母親の病状は深刻な様子だっ た。若い叔母さんは姪に小学校のことなど聞いて気を紛らそうとしていたが、慰めにはならなかった。子供を帰す母親も、母親のいない家に帰る子供も、共に辛 いことだろう。

 十二月八日

 術後、母の肺に影が出て肺炎を心配していたが、ようやく影が消えた。酸素吸入は外され、腹から出ていた二本のチューブも抜かれた。見舞いに行くたび母の顔色は良くなった。
今日はシャワーを浴びてすっきりしていた。担当医からはいつ退院しても良いとに言われた。退院に備え、母を庭に連れ出して冬の外気に慣れさせた。

 病院ドラマで、庭で看護師に車椅子を押してもらったり、肩を借りて歩く松葉杖の患者さんが登場する。しかし、今までそのような光景は見たことがない。この近代的な駒込病院でさえ庭はバリアフリーではなく、段差だらけで病人も車椅子も危険だ。
夏のころ病院の庭で、若い看護師が押していた車椅子が段差を乗り越えられず困りはてていた。私は彼女に代わって病棟入り口まで押して行った。彼女はドラマで見た病院風景をイメージして、患者を連れ出したのだろう。もし、看護師長に知られたら大目玉を食らうところだ。

 十二月十一日 

 寒い雨の中を母は晃子姉とタクシーで退院して来た。母は疲れ果て、部屋へ入るとすぐにベットで休んだ。
暖房は昨夜から効かせておいたが、布団が冷たいと母は訴えた。大急ぎでお湯を沸かして湯たんぽを足元に押し込んだ。それからお昼の食材を買い出しに出た。一人だと食べものは簡単だが、食欲の落ちた母は簡単ではない。
帰 宅すると薬が足りない。病院で渡し忘れたようだ。再び外出して家庭医の黒木さんに処方してもらった。お昼はナメコ入りキツネうどん、甘エビの刺身、ほうれ ん草のひたし、それにヨーグルトをつけた。病院食に閉口していた母はすべてを完食した。人は口から食べていれば必ず元気になる。

 十二月十三日

 快晴。暖かいので、久しぶりに赤羽自然観察公園まで母を連れて行った。途中、知人やイヌやネコと再会して母は喜んでいた。母は退院後すぐに食欲が回復し顔色が良くなった。術後、日に日にやつれていたのは栄養不足が原因だったようだ。

 十二月十六日

 昨夜、母は椅子から滑り落ちた。そのショックで気力がなくなったのか今朝は腹痛を訴えた。便通はあるので癒着による腸閉塞ではない。明日は肝臓外科の診察日なので、原因ははっきりするだろう。とりあえず鎮痛剤の座薬を使わせた。薬はすぐに効いて元気になった。

 午後は木枯らしの中、赤羽自然観察公園へ連れて行った。
「もう一度、土筆が見たいね」
冬枯れの草原を眺めながら母は言った。今年の春、母は土筆を見つけて子供のように喜んでいた。春の訪れを待つ心が、さらに回復させてくれそうな気がした。

 十二月十七日

 駒込病院でCTスキャンを受けた後、外科医に会った。母の昨日の痛みは何も問題はなかった。医師の子息が絵が好きだ、と言った雑談をしただけで診察は終わった。

 夕方帰宅した。
「もう病人ではないから、明日から普通の生活に戻すよ」
これからのリハビリの予定を話すと、母は神妙に聞いていた。次回は一月早々にCTスキャンの結果を聞きに行く。
「その結果が悪くても、追加手術も抗がん剤治療も何もしない」
母は自分からきっぱりと宣言した。

 十二月十九日

 朝、母は鮮血を下血した。直腸にガンが転移したのかと不安がよぎった。朝食後すぐに黒木医院へ連れて行った。診察してもらうと、母が自分で浣腸し たした時、先端で直腸粘膜を傷つけたのが原因だった。医師は手早く処置し、念のために触診してくれた。直腸ガンの好発域は指の届く範囲にある。医師は慎重 に調べて何もないと言った。
帰宅すると母の腸は目覚めて粗相した。急いで熱いおしぼりで体を拭き、汚れものは塩素水で洗った。そう書くと大変だが、一度経験するとすぐに慣れる。年寄りの介護の大半は食べさせるのと排泄だ。今のところ母の粗相は頻繁ではないので負担ではない。

 十二月二十二日

 夕暮れ、友人が食事に誘ってくれた。母に夕食を食べさせてから、家を出た。池袋で友人と会い、イタリー料理を食べた。別れ際、母の見舞いにラ・フランスをもらった。心遣いが身に染みた。
十一時に帰宅すると、消したはずの母の部屋の明かりが点いていた。何かあったのではと急いで行くと、眠っていた母がすぐに目覚めた。
「正喜が帰った時、暗いと危ないから点けておいた」
母は寝ぼけ声で言った。
「オレのことは考えなくて良いから、ゆっくり寝てな」
布団をかけ直すと「ありがとう」と、母は寝入った。母は老いても、死ぬまで母親であり続けるようだ。

 二千四年一月九日

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 ガン手術がうまく行き、新年をさわやかに迎えることができた。
CTスキャンの結果を駒込病院へ聞きに行った。相変わらず大混雑で満員電車のように患者が待っていた。外科医は画像のガンが壊死した箇所を示しながら、もう何も心配ないと話した。
外科の診察の後、採血室へ行った。
「ご一緒は息子さんですか」
採血の看護師が母に聞いた。
「分かりますか」
母が答えると「似ていますから」と看護師は言った。
「本当は拾ってきた子なんですけどね」
母は機嫌良く軽口をたたいた。

 帰りは京浜東北線田端駅へ向かった。母はこのコースは始めてだ。田端駅前商店街のペットショップでチンチラネズミを見せると、頭が大きいくて可愛 いと喜んでいた。それから、私が病気快癒を願っていた赤紙仁王堂に寄った。母は巨大な蓑虫みたいに赤い紙で覆われた仁王像を見てびっくりしていた。母は仁 王様に手を合わせて深く感謝していた。

 二月二十七日

 散歩の行きがけ、御諏訪神社の階段から黒っぽい太った中型犬が私たちを見下ろしていた。一瞬、そう思ったのは見誤りで、よく見るとコロコロ太った タヌキだった。タヌキは目を丸くして私を見ていた。黒い長毛の地に明るいベージュのフサフサした下毛が密生している。母に見せようと急いで車椅子の方向を 変えたが、タヌキは逃げてしまった。タヌキが出没しているのは噂で聞いていた。急いで階段を登ると、境内の自然林へ向かって転がるように逃げて行くタヌキ が見えた。道々、母にタヌキのことを話したが、それは太ったネコか野良犬だと信じなかった。

 赤羽自然観察公園の帰りに駅前のスーパーに寄った。魚コーナーで、母が欲しがっていたイイダコを探したが、なかった。帰りは緑道公園を抜けた。天気が良くて暖かく、母も私ものんびり散歩を楽しんだ。
「せせらぎの水音が聞こえる」
途中、母は耳を澄ましていた。しかし、その辺りにせせらぎはない。音がする茂みを見ると老人が立ち小便をしていた。
「まるで深い山の中みたいで、清々しい」
母は水音に聞き入りながら、気持ち良さそうに深呼吸した。どうやら、母は行きがけのタヌキにだまされたようだ。母がしきりに感動しているので、立ち小便のことは黙っておいた。

 三月五日

 駒込病院へ前回の血液検査の結果を聞きに母を連れて行った。待合室は風邪ウイルスが充満しているので、人のいない離れた通路に車椅子を止め、風邪 予防の緑茶を母にせっせと飲ませた。肝臓内科の外来患者は少なく、すぐに母の番が来た。結果はC型肝炎ウイルスはマイナス。アルブミン値、肝機能、いずれ も正常。腫瘍マーカーも正常範囲だった。
「完全な健康体で百歳まで生きられます」
内科医が上機嫌で話すのを母は半信半疑で聞いていた。
帰り道の風は冷たかったが、母も私も晴れ晴れとしていた。ガンの再発は考えず、母が今の一瞬一瞬を享受できたらそれで良いと思った

第二章 肝臓ガン手術は成功し穏やかな日々

2004年2月21日 母90歳

 今日はお昼に25度近くになった。小学生の頃、2月半ばに郷里の日南の海で泳いだことがある。波打ち際でズボンをまくって遊んでいるうちに、波をかぶり、濡れたついでに泳いでしまった。気温は低かったが日射しが強く、寒さに震えた記憶はない。その後、衣服を乾かすのに苦労し、肌が塩分でべたつき気持ちが悪かったことだけを、はっきり覚えている。

 今日、母はデイサービスで留守だ。今年始めから週一回のデイサービスを受け始めた。足腰を痛めた母は浴槽が使えず、いつもシャワーで済ませていた。だから、入浴サービスは助かる。
1階の郵便受けを覗きに下りた。Yシャツ1枚でも寒くない。郵便物はなかったので、新河岸川の遊歩道行って、東京湾へ下って行く曳き船をぼんやり眺めていた。
母が回復基調なのは嬉しい。その反面、抗ガン作用や免疫力強化の効果があるサプリメントへの出費が多く生活のやりくりは大変だ。

午後は、志村二丁目の日曜大工店ドイトにテレピン油を買いに行った。ついで荒川土手の板橋運動公園へ回りたかったが、母の帰宅時間が近づいたので止めた。
板橋運動公園に行きたかったのは、高さ5mの私の彫刻が設置してあるからだ。野外彫刻は設置後のメンテナンスが重要で、時折、点検して異常があれば管理者に伝えることにしている。

2月22日

 赤羽自然観察公園で土筆を見つけた。地面から少し頭を出していただけだが、母はとても喜んでいた。ガン手術後、母は土筆を見ることはないと思っていたので、とても嬉しかったようだ。人の予想は良くも悪くも外れるものだ。

 母の体調は日替わりで上下して安定しない。昨日はよかったが、今日は帰宅すると疲労して寝てばかりだった。
夜九時、憂鬱さを晴らそうと玄関を開けて外を見た。夜空を灰色の雲が猛スピードで北東方向へ流れていた。雲間に 星空が見えるのに、時折、大きな雨粒が十三階の通路に打ち付けた。風は強いが寒くはない。季節は私の気分に無関係にぐんぐん春へ向かっているようだ。

二月二十六日

 母が倒れて以来、激動の毎日だった。しかし、深刻に考えないように努めている。しかし、いつも頭上に暗雲がたちこめている。それが最近、少しだけ晴れて来た。気持ちが強くなったのかかもしれない。強くなれたのは夢を絶やさなかったからと思っている。ネバーエンディングストーリーでは「夢見る心」を失うと暗黒の世界がやってくる。それは童話の世界だけではなく、現実の生活にもあてはまる。

 散歩道の桜の蕾が赤味を増してきた。去年の日記を開くと、三月十二日にテントウムシを見たとある。今年は二月初めから目撃しているので、桜は早いかもしれない。
日記は後で読むと役立つ。二年前の今頃は、絵描き仲間と横浜中華街へ行っている。生活の不安はなく、母も元気だった。しかし、今より幸せだったかどうかは確信がない。同じことでも、その見方で幸福にも不幸にも変化する。

三月五日

 駒込病院へ母を連れて行った。区から支給されたタクシー券が片道分残っていたので行きはタクシーを使った。運転手は話し好きで、景気から小泉政権の政策に及んだ。タクシー業は厳しいと話していたが、絵描きと比べると、努力の成果が得られるだけ恵まれている。

相変わらず駒込病院の待合室は満員電車のように混んでいた。風邪のウイルスが充満しているので、人の居ない通路に車椅子を止め、持参した風邪予防のお茶 をせっせと母に飲ませた。今日は肝臓内科の医師に血液検査の結果を聞くだけだ。外来患者は少なく、すぐに母の番が来た。

結果はC型肝炎ウイルスはマイナス。アルブミン値、肝機能、いずれも正常。腫瘍マーカーも正常値。医師は「完全な健康体で百歳まで生きられます」と上機嫌だった。
しかし、いつも疲労感があり、食欲も優れない母は半信半疑だった。

 帰りに再度採血した。看護婦が母の腕に「絆創膏の跡がありますね」と言った。「去年の採血の跡かな」と私が言うと、「落ちにくくて評判悪いんですよ」と九州訛りで頷いた。冗談のつもりだったが、本当に二、三ヶ月絆創膏の粘着跡が残ることがあるらしい。彼女の訛りに母が気づき出身地を聞くと、両親が九州出身だと嬉しそうに答えた。彼女も母の九州訛りに気づいていたようだ。

  帰りはJR田端駅へ向かった。途中、赤紙不動に病気快癒のお礼に詣った。風は冷たいが、明るい日射しの下、晴れ晴れとした気分になった。普通の人には普通の健康が、母には一年以上縁がなかった。この先にガン再発があったとしても、今の一瞬を享受出来ればそれで良いと思った。

三月十四日

 いつも緑道公園で出会う八十歳程のお婆さんがいた。
「お元気ですか」
母が声をかけるとニコっと笑っていた。無口な人で、声は一度も聞いたことがない。しかし、穏やかな表情から温かい家族に包まれている様子がよく分かった。
その彼女が去年の暮れから見かけなくなった。何かあったのかと案じていたら、先月、お嫁さんに連れられているのに出会った。転んで腕を骨折し、退院してからはデイサービスに通っているようだ。穏やかだった表情が暗くなっているのが気になった。

デイサービスは素晴らしい制度だが、それだけでは老人は回復しない。お婆さんは自然の中を歩くことで人間らしさを取り戻すはずだ。人は何百万年も自然の中を歩き回って生活してきた。木々や草原を目にし、季節の風を肌に感じることで体のシステムは整えられて来た。空調の整った部屋にいても体のシステムは正常に働かない。
赤羽自然観察公園で、暗い表情だった老人が明るく変化するのを何度も見ている。自然は役に立つから大切なのではなく、自然と人間は一体だから大切なようだ。

三月十五日

 去年の手術前、母は今年の桜を見ることはないと覚悟していた。しかし今日、母は開花した桜を見つけて感動していた。これからも毎年、母は桜を目にする都度、生き延びられたことを感動するのだろう。

 深夜、母の薬をピルボックスに分けた。
「さっき、肩をつついたけど、どうしたの」
隣室で寝ていた母が目覚めて声をかけた。
「気のせいだよ」と言うと、母は再び寝入った。ふと、死んだ父か祖母が訪ねてきたのではと思った。老いた母と暮らしていると、死んだ人をとても身近に感じる。

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                   赤羽自然観察公園の桜。

三月十八日

 午前中に強い雨が降ると予報していたが、雲の間に青空が見えて降りそうにない。奥秩父から浅間まで、関東の山々がくっきりと見えた。
散歩道の桜は一晩で満開になっていた。病んだ古木を伐採して、その跡に植えた幼木も開花していた。母は「幼くて可愛いね」と喜んでいた。古木の花はピンクがかっているが、幼木の花は白く清楚だ。

赤羽自然観察公園は春らしくなっていた。時折、小さな雨が落ちたが寒くはなく母は気持ちよいと喜んでいた。ヒキガエルの卵は孵って湧水の流れにオタマジャクシが泳いでいた。遊びに来ていた幼稚園児たちにオタマジャクシを教えてあげると、歓声をあげて覗きこんでいた。

三月二十四日

 朝から夜まで、いかりや長介氏の葬儀を放映していた。八時だよ全員集合の頃、私はいい歳して夢中で見ていた。しかし、今日の葬儀中継は醒めた目だった。
インタビューされる芸人さんたちは大変そうだ。カメラが向けば習性で笑いを取りたくなるし、泣き崩れていたら調子がいいと思われる。その中で立川談志のコメントは良かった。
「いいところで死んじゃったよ。俺もああいうふうに死にたいね」
斜に構えて話せるのは彼もガンを患っているからだろう。しかし、どんな有名人でも騒がれるのは死んだ当座で、一ヶ月も経てば忘れ去られてしまう。

 我が家の葬儀はどれも身内だけの密葬だった。大げさな葬儀は厭である。後ろで名刺交換などしている参列者を見ると不愉快になる。
私は葬式を何度も仕切った。葬儀は、葬儀屋の提示額を値切ることから始める。担当の社員にチップを弾んでおくと、値切っても立派な葬儀に仕立ててくれた。葬儀で一番金のかかるのは僧侶への支払だ。担当者に安いけど立派なお坊さんをと頼むと、本物の宗教家を見つけてくれた。金取り主義の大寺院の高僧と違い、本物の宗教家は一般人からの転向が多く、心のこもった供養をしてくれた。 
いかりや氏の葬儀は相当に高額な僧侶だっただろう。中継画面は、悲しみや悼みとは別の、ちょっと虚しい雨の風景だった。

 四月八日 

 強風に満開のソメイヨシノが散り始めた。
桜吹雪を浴びながら、母は九十年近く昔の花見を話し始めた。

 母の郷里久留米では筑後川土手の桜並木で花見をした。
毎年、母は養父母に連れられて花見に出かた。みんなが飲めや歌えの大騒ぎをしていると、祖母と親しいおさきさんが、囃し立てられて踊り始めた。おさきさんは色白の気量良しだ。座は盛り上がったが、おさきさんの一人息子の健ちゃんは座から離れ、俯いて泣いていた。

「健しゃんが泣いとるよ」
母は踊り続けているおさきさんに言った。
「泣いとってもよかよか」
おさきさんは息子を無視して踊り続けた。

 その数年前、おさきさんは、亭主熊太郎の博打の借金のカタに遊郭に売られた。熊太郎は名とは逆の、色白の大変な二枚目だった。それを知った母の養母千代は激怒し、すぐに金を工面して、おさきさんを身請けした。
しかし、遊び人の熊太郎は実母をおさきさんに押し付けたまま、他の女に入り浸って死ぬまで帰って来なかった。おさきさんが踊り続けたのは、その切なさがあったからだろう。

 昭和初期、大陸での戦争が日々悪化する中、おさきさんは姑の世話をしながら、健ちゃんを立派に育て上げた。そして、太平洋戦争開戦間もなく、家庭を持った健ちゃんに男の子が生まれた。しかし新妻は産後の日建ちが悪く、間もなく死んでしまった。

妻の葬儀の日に健ちゃんに招集令状が来た。母は紋付袴の葬儀姿で招集されて行く健ちゃんの寂し気な姿を鮮明に記憶している。老母に幼い子供を託して戦地に向かう心境はいかばかりだっただろうか。

その半年後、南方へ向かう健ちゃんの乗る輸送船はバシー海峡で米潜水艦に撃沈され、あっけなく戦死してしまった。

おさきさんは六十を過ぎてから、戦中戦後の厳しい時代に孫を成人するまで育て上げ、やがて、ひ孫が生まれた。彼女の老後は家族に恵まれ、百歳近くまで長生きし、みんなに看取られて死んだ。

「こんなに苦労すると分かっていたら、身請けされない方が良かった」
後年、おさきさんは祖母に話していた。勿論、本心ではなく冗談だったが・・・

快活で大柄だった母は、当時、町内のガキ大将だった。
健ちゃんは母より年上だったが子分の一人だった。母は男の子たちに墓石に小便かけさせたり、筑後川で泳いだりしながら、楽しい子供時代を過ごした。

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                     当時、10歳の母。

 私が祖母と呼ぶ養母千代は、義侠心には厚かったが女の仕事はまったくできなかった。母に料理を教えたのは、千代の父親の甚兵衛で、手芸を教えたのは夫の健太郎だった。
料理や手芸が好きでも、二人は屈強な男たちだった。

甚兵衛は西南の役で西郷軍に従い、城山に立てこもったほど血の気は多かった。赤ん坊だった母の世話をしたのはその甚兵衛だ。荒々しい戦乱や世相の荒波をくぐり抜けて来た甚兵衛に母はようやく得た大切な安らぎだったのだろう。

 甚兵衛は、母が小遣いをねだると財布のまま渡した。
「ほら、一銭とっといた」
母は一銭銅貨と大きさが似た五十銭銀貨を選んで見せた。甚兵衛は「そうか、そうか」と、いつも楽しそうに笑っていた。
信頼されると、かえって罪の意識が生じる。余った小遣いで酒好きの甚兵衛へ酒を買って帰り、罪滅ぼしをしていた、と母はよく話していた。

母はやがて嘘がつけなくなり、財布から取り出した額を正直に話すようになった。今思うと甚兵衛は高度な道徳教育をしたようだ。甚兵衛が母を真っ正直に育てたのは、破天荒に育ってしまった娘千代への反省があったからだ。

 千代の母親は女の鏡と言われるほどきちんとした人だったが、千代が幼いころに早世した。千代は、子供の頃、軽い眼瞼下垂を患った。まぶたが落ちて来る神経の病気で、甚兵衛に病院に通うように言いつけられていた。しかし、千代は遊びに夢中で病院へは行かなかった。

「本当は目はぱっちりして大きかったけど、医者へ行かなかったから目が細くなった」
後年、祖母は残念がっていた。当時の治療費は暮れにまとめて支払った。年末、甚兵衛は千代に三十円渡して支払いを済ますように言った。当時 の三十円は一家が一ヶ月、裕福に生活できる額だった。千代は、その金で近所の駄菓子屋を買い占め、お菓子を長持ちに入れて家に運ばせた。そして、近所の子供を集めて配って顔を売った。祖母はそのころから顔を売るのが好きだったようだ。

 甚兵衛は大変強健で八十五歳まで歯は一本の欠損もなく、堅い肉を好んで食べていた。寝付いたのはわずかな期間で、十代の母が世話をして看取った。死んだ後、甚兵衛がいつも座っていた縁側を見ると、とても寂しかったと、後年、母はよく話していた。

 養父健太郎は大の手仕事好きで、小さな芝居小屋で小道具を作ったり、書き割りを描いたりしていた。しかし、道具方の薄給ではあちこちに女は囲えない。本業は他にあったようだ。健太郎の交友関係に九州一円の名だたる侠客が多くいた。母は話さなかったが、その関係が本業だったようだ。成人して、母は京都、東京にしばしば遊びに出かけた。その時、どこへ行っても土地のやくざが挨拶したと話していたので、ただ者ではなかったようだ。

母は退屈すると健太郎がいる芝居小屋へ遊びに行った。母が訪ねると健太郎は喜び、武骨な手で姉さま人形や花かごを作ってくれた。母が無類の手芸好きになったのは健太郎の影響だと思っている。

 健太郎は酒好きで、医師に「死ぬから飲むな。」と言われても飲み続け、四十歳で死んだ。その朝、「腹の辺りが重苦しい」と健太郎は寝ていた。家事が一切ダメだった養母千代は介護など到底できないので養父も母が看病した。往診した医師が今日辺り危ないと言って帰った午後、「何だか、すーっと楽になった」
健太郎はそう言って、かたわらの引き出しの取手をカタカタさせ始めた。その時、千代はのんびりお風呂に入っていた。母は健太郎が危ないから早くお風呂から出るよ うにせかした。
「死ぬのをちょっと待ってもらっといて」
千代は無茶なことを言った。健太郎の部屋が突然静かになったので、母が急いで行くと亡くなっていた。食道の血管が破裂しての出血死で、まさしく酔生夢死だった。

 千代は遊び人の夫には冷淡だったが、他人にはきわめて優しかった。物乞いが来ると家に上げ、ご飯を食べさせ、財布ごと渡して送り出した。更に、親しくない人でも、頼まれると借金でも保証人でも心良く引き受け、後年までその後始末で母は大変な苦労をさせられた。 

四月十三日

 赤羽自然観察公園の帰り、母のディサービスの費用を振り込みに信用金庫へ寄った。週一度だけなので月に1万円前後だ。信用金庫は都営桐ヶ丘団地の商店街の一角にある。振り込みを済ませた後、久しぶりに商店街から生協方面へ抜けた。

都営桐ヶ丘団地は殆どが老人世帯になった。数年ぶりに通る商店街の広場に人影はなく、廃墟のように寂れていた。私が赤羽に引っ越してきた昭和四十年後半頃は、その広場には子ども達の歓声で溢れていた。
古い色褪せた商品が雑然と並べられた薄暗い 寝具店。客待ち顔にぼんやりと外を見ている雑貨屋の老店主。商店街上の居住区域のベランダはペンキが剥げ赤錆びていた。この寂しい風景は、これから日本が辿り着く近未来を暗示しているように思えた。

  ふいに広場の片隅に店を出していた老夫婦の屋台を思い出した。七十代の老夫婦はお好み焼きを子ども相手に売っていた。剃り上げた頭に捻りはちまきでお好み焼きを焼いていた老人。傍らでかいがいしく手伝っていた老妻。とても商売になっているように見えなかったが、律儀に人に頼らずに生きて行こうとする老夫婦の気概に惹かれた。

四月三十日

 母の体調は良い。次の駒込病院での検査は骨盤のCTスキャンとゴールドマン視野検査。前者の骨盤のCTスキャンはガンの転移のあるなしの検査だが、たとえガン転移が見つかったとしても、九十歳の年齢を思うと抗癌剤治療も放射線治療も何もしないことにしている。

後者のゴールドマン視野検査は緑内障の検査だ。以前から母は眼圧が高く、視野狭窄が起きている。気休めに毎日ブルーベリーを食べさせているが、楽しそうな母を見ていると、さほど心配はいらないかもしれない。母は眼圧の高いタイプの緑内障で、眼圧を正常に保てば進行は止められる。対して日本人に多い正常圧緑内障は厄介だ。眼圧は下げすぎると網膜の抑えが弱くなり網膜剥離を起こしやすくなる。

 母は混み合う駒込病院の眼科を嫌っている。最近やっと開院した近所の東京北社会保険病院に六月から眼科が開設される。手始めに眼科を受け、更に他の科もそちらへ変えようかと思っている。口には出さないが、母は自分の死に場所は東京北社会保険病院だと思っている。開院前の見学日に訪れると、病室は広々とした4人部屋のバストイレ付きで、母は気に入っていた。病院は社会保険庁の無駄遣いの遺産で、中規模公的総合病院では日本最高の施設だ。我が家から歩いてすぐの距離も助かる。

 母の死期を考えることに違和感はない。母が逝けば次は私の番である。今、私は毎日車椅子を十㎞以上押す体力があるが、何時までも保てる訳はない。体の中では老化が確実に進行しているはずだ。

五月二日  

  散歩時、紫外線よけの透明ポリカーボネート製の防護眼鏡を愛用している。紫外線は白内障の主因だ。父は七十過ぎに白内障の手術をした。体質の遺伝を考える と紫外線対策はやっておきたい。実際、防護眼鏡をかけると透明なのに強い日射しが眩しくない。色つきのサングラスは瞳孔が開き、レンズ脇から入ってくる紫外線の弊害を受けるので使用しない。

白内障を心配するようになったのも老いの第一歩だ。二年前に突然始まった左肩の激痛はまだ完治していない。駅の階段を駆け下りると、膝に違和感を感じる。寝付きも悪く、明け方に目覚めて小用に行ったりする。散歩の時、つえをつきそろそろと歩いている老人を見ると、10年後の自分が重なってしまう。

五月八日

 新緑が美しくなった。赤羽自然観察公園では、ニガイチゴが甘く香り高く熟し始めた。イチゴを摘んで手渡すと、「命が延びる気がする。」と、母はうれしそうに味わっていた。
いつものように、顔見知りのスズメたちが私たちを待っていて餌をねだった。石垣では蜥蜴たちがのんびりと日向ぼっこをしていた。寝不足で疲れていても、彼らに会うと疲れが飛んで行く。
母はいつものように老人たちと挨拶を交わした。朝日に照らされた古民家の茅葺き屋根が美しい。この穏やかな佇まいには、この国の美しさをしみじみと感じる。

 夕暮れ、玄関を開けると通路に羽蟻がいた。営巣場所を探している女王蟻だ。つまんで空中へ放ると、そのまま新河岸川の河岸まで飛んで行って見えなくなった。
私 はそのまま、夕暮れの風景を眺めた。広大な都会風景を目の前に、未来への不安が漠然とよぎった。これから先の生活を維持は、母のガン再発は、と次々と悪いことばかり想い浮かぶ。そんな私とは対照的に、広漠とした未来へ、恐れることなく飛び去った羽蟻の潔さがいつまでも心に残った。

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         赤羽自然観察公園の古民家入り口。母の左下に田圃がある。

五月十七日

 自然公園の茅葺き屋根は葺き終えてから一月以上、そのままで未完成だ。雨で濡れた屋根の重みで柱や土台が締まるのを 待っているらしい。そのように気長に作るので昔の建物は長持ちする。茅葺きは何度か雨に洗われて、色合いが落ち着いて来た。

 車椅子は乗り物の中で最高の乗り物だ。歩くスピードでエンジン音もなく、季節の大気や鳥の声を聞きながら移動できる。建物でも人が歩ける場所は殆ど行ける。
余談だが、最高の乗り物は戦車だ。どのような悪路でも砲台の水平を保つ為に、極めて乗り心地は良いらしい。

帰り道、桐ヶ丘区立体育館のツバメの巣が落とされていた。蕭然と飛び回るツバメ夫婦が哀れだ。糞の苦情を受けて職員が落としたようだ。去年は巣立ちまで楽しませてもらったので今年もと期待していたが、残念だ。

五月十九日

 自然公園入り口の広場中央に東屋がある。東屋にはいつも朝早くから老人達が集まって談笑している。中にはカップ酒を飲んいる者もいる。酔生夢死と言うが、まさしくそれだ。自然公園を眺めながら終日酔って、青空を眺めながら死ねたら最高の人生だろう。

古いブラウン管テレビの調子が悪い。4チャンネルは、いつも同じ将棋解説の画面が映っている。棋士と女性アナウンサーの会話も同じ内容だ。他の放送が混線しているのだろうと思ったが、考えてみるとおかしい。昼夜関係なく、いつも同じ将棋解説の同じシーンだ。番組表を調べても将棋番組はどこにもない。どう考えても分からないミステリーだ。

生活は行き詰まっていたがなんとか切り抜けた。しかし、じきに次の危機がやって来る。困ったことに危機に慣れている。いつも、どうにかなると楽天的で緊迫感がまるでない。

五月三十一日

 散歩帰りの桜広場のベンチに老人が腰掛けていた。パナマ帽に糊のきいたワイシャツ。小綺麗にしているところが何となく父に似ている。日頃、父のことを思い出すことはまったくないが、明日六月一日は父の命日なので思いだしたのだろう。

母の食欲は回復し元気だ。しかし、この状態を維持することは難しく、やがて変化は訪れる。変わることを恐れなければ人生は素晴らしい。

 深夜一時、風の音が聞こえた。明日は朝から晴天の予報だ。外へ出ると星空だった。
三十年前、父が死んだ日も朝から晴天で風が強かった。
「お父様は今夜あたりが危ないです。もし、お亡くなりになったら、明日朝にお知らせください。」
往診に来た老いた女性医師はそう言って、脈の取り方を教えて帰った。
私はすぐに姉たちを呼び、みんなで父を見守った。夜十時、父は肺に溜まっていた生臭い血を大量に吐くと表情が穏やかになって脈が触れなくなった。

「さあ、みんなで合掌しましょう」
母は神妙な顔で言った。
すると、死んだはずの父が「ワァー」と声を出して両手を振り回した。
父はまだ生きていたようだ。
「かあちゃんは、そそかっしいんだから」
姉たちが言うと、母も私も不謹慎にも大笑いしてしまった。しかし、父はそれを最後に本当に死んだ。
「勝手なことを言うなって、文句言いにあの世から戻って来たんでしょう」
母はそう言って照れていた。

父はすぐに白菊会に献体することになっている。遺影が必要なので、私は枕元で父のデスマスクをスケッチしながら通夜をした。翌朝、医師に電話で知らせると、すぐに来て死亡診断書を書いてくれた。享年七十九歳だった。

 死の半年前、父は最後の仕事で共同経営者の保証人になり、闇金に追い込まれたショックで倒れた。闇金の取り立てはすさまじく、倒れた父の代わりに私は矢面に立たされた。何度も呼び出されて死ぬほど怖い目にあったが、支払いは拒否し続けた。

その内、その筋の二人連れが我が家まで押し掛けた。
険悪な状況で対応していると、母が出て来た。
母は戦前、日本各地の名だたる侠客と親交があった。だから、ヤクザの使い走りなど何とも思っていなかった。
「堅気の者に手出したらどうなるか分かっていますね。指一本、私たちに触れても黙ってはいませんよ」
母がピシリと言うと、二人は勢いに押されるように黙って帰って行った。

 翌日、母は公安警察に相談に行った。事情を話すと担当官は深く同情し、目の前で闇金業者に電話を入れ、以後、取り立ては収まった。当時は警察が庶民の訴えを真面目に聞いてくれる良い時代だった。彼らが簡単に引き下がった真相は、その頃始まったバブルの地上げの方が楽に稼げたから、と思っている。

  戦後の高度成長期、一級土木建築士の資格を持つ父は大手ゼネコンに勤め、そのまま真面目に働けば生活に窮することはなかった。しかし、山っ気が多い父は金が貯まると退職し、会社を興して失敗した。その後も、数限りなく会社を作っては借金を重ねた。それらの後始末をしたのは母と私だった。

 父が闇金に取り立てられる原因になった最後の仕事は経営コンサルタントだ。仕事場は新橋駅前の安喫茶店だ。喫茶店と分かったのは、父が仕事仲間と電話で話している内容が聞こえたからだ。私の家族はみな声が大きく秘密を保つのが下手だった。

集まる仲間は、父のような役人崩れやサラリーマン落伍者たちだった。父が新橋に出かけると、煙草臭い喫茶店に鳩首して怪しい計画をめぐらす老人たちが想い浮かんだ。

 経営コンサルタントの立ち上げの時、ファイルするために数千枚の名刺に穴を明けてくれと父に頼まれた。また下らない計画を立ててと腹立たしかった私は、文字を傷つけるのもかまわずに乱暴に穴を明けて父に渡した。その時、父は名刺の束を寂しそうに受け取った。

  深夜1時、外へ出ると星空が見えた。最近、夜空を見上げると、死んだ父母や兄姉を思い出すようになった。どうしようもない自分勝手な父だったが、今になると、もう少し丁寧に穴をあけてやれば良かったと後悔している。そう思うようになったのは、私が父の年齢に近づいたからかもしれない。

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     三十七歳の私。父の債務は直ぐに相続放棄をしたので法的に消滅した。

六月六日

 整形外科とデイサービスが二日続いて母の散歩を休んだ。デイサービスは来週から東京北社会保険病院に併設の「さくらの杜」に代わるので、西が丘園は最後の日だ。理由は何であれ、終わりには一抹の寂しさがある。

 長年世話になった知人が住み慣れた都心を離れ、郊外の介護施設に入った。訪ねると、彼女は寂しさに耐えかねて「死にたい」と漏らしていた。この喪失感は深くて暗い。
若さの定義づけは難しいが、老いは簡単だ。肉体的能力、社会的地位、家族、友人知人、それらの喪失が老いを表す。

若い頃は喪失感は殆ど無かった。失ってもすぐに取り返せる自信があった。引っ越ししても、転居先での新しい出来事などに期待でわくわくした。十八で九州から上京する時も、郷里には何の未練も無く、東京生活への期待で爆発しそうだった。

 二十歳代の頃、三年暮らしたアパートを引き払った時、大家さんに迷惑をかけたので、菓子折を下げて挨拶に行った。彼女は今の私くらいの年頃で、空になった私の部屋で拭き掃除をしていた。
「お世話になりました」
照れながら菓子折を差し出すと、その人はいきなり泣き出した。それがとても不思議だった。しかし、彼女と同じ年頃になって、彼女の気持ちが分かるようになった。

  住まいのある十三階の数軒隣りに若夫婦が住んでいる。四歳程の男の子がいて通路で遊んでいたりする。子どもが少ない集合住宅なので、子どもの声が仕事部屋 へ聞こえるのは楽しい。しかし、それは数年で聞けなくなる。そして、肝臓ガンを抱えている母は死んでいる公算が大きい。そのように、年を取るとは次々と訪れる喪失感に耐えることだ。

 今日は雨の中、母の車椅子を押して赤羽自然観察公園へ行った。自然はいつ見ても素晴らしい。自然の中に、喪失感を乗り越えるための大きなキーが隠されているような気がしてならない。

六月十一日

 絵の具パレットを変えたらやりにくい。慣れようと努力したが気分が乗らず、結局元に戻した。小説家は万年筆が変わると 書けない。絵描きは小説家ほどこだわりはないが、私はボードにこだわる。高価だから良いということはなく、素材の色味、柔らかさ、手触り、その感覚は微妙 だ。キャンバスは布目が嫌いなので、徹底的に布目を地塗りで潰し平坦に仕上げて使う。

バレットは以前のように、絵の具溜めに同色をグラデーションに調合して並べた。そのパレットを10段重ねたのが二つで、調合した色数は総計160色。それで、描けるようになった。絵の具の調合のついでに仕事机を整理し、使わないものは思い切って捨てた。

整理していると和紙に包んだ母の髪の毛が見つかった。これは去年、母が肝臓ガン手術で駒込病院へ入院の時、髪が長すぎるので切った髪だ。手術に失敗して、遺髪になるかもしれないと思い捨てずにしまっておいた。

母は白菊会の会員で死んだらすぐに献体することになっている。だから葬儀は遺体なしで行う。その時、遺髪を遺体代わりに祭壇にまつろうと思っている。
父も白菊会会員で、死ぬとすぐに日本医科大の解剖学教室に電話を入れた。解剖は新鮮なほど有用で、すぐに教室から父を迎えに来た。だから葬儀は父の遺体無しで行った。その時、母が死んだ時は遺髪をまつろうと決めた。
父の遺骨は一年後に日医大の解剖教室から紅型の風呂敷に包んで持ち帰った。その後、博多の菩提寺で法事をして納骨した。

六月十七日

 玄関ドアは新幹線レールを切った鉄の塊をストッパーにして開いたままにしてある。十三階は風の抜けがよく、夜はTシャツ一枚では寒いくらいだ。レールは以前彫金をしていた頃、金敷代わりに使ったものだ。

寝る前いつも、玄関から夜景を眺める。ここへ引っ越してきた頃は、夜景を眺めていると寂しくなった。その頃は母は元気で、仕事は順調で僅かだが蓄え もあった。加えてガールフレンドもいて恵まれていたのに、何故か虚しかった。友人たちと馬鹿騒ぎしている時でも、心は醒めていた。その寂しさが何だったの かよく分からない。もしかすると、やっていたこと自体が空虚だったからかもしれない。

 上京したての昭和三十年代、東京には心の豊かさが 残っていた。下町では隣人は助け支え合っていたし、町には子ども達の楽しげな声が満ちていた。あの元気の良さはどこに消えてしまったのだろうか。少子化と言っても繁華街へ行けば若者で溢れている。しかし、彼らの表情はどこか空虚だ。幸せは個人に属しない社会的なもののようだ。社会が健康なら豊かな心が生ま れるはずだ。

今日も私たちは赤羽自然観察公園で老人たちと挨拶をし短い会話を交わした。今の生活は心地良い。私はいつの間にか、老人の世界に安らぎを覚えるようになった。それは老人たちの中に、昔の豊かな心が残っているからかもしれない。

六月二十一日

「リンパ節転移があるのかしら」
母がぽっりと言った。適当にごまかしたが、転移の可能性は消えていない。
それを駒込病院の若い担当医も心配していて、来月に精密検査がある。病状が分かったとしても、母も私も治療する気はない。若い頃は始まりばかりが気になっていたが、今は終わりばかりが気になる。

 デトロイトに住む元女優さんから、子供が産まれたと写真添付のメールが届いた。昔、劇団の宣伝美術をしていた頃からの付き合いだ。老人ばかりの生活をしていると、命の誕生に感動を覚える。

昔は誕生から死まで、一つの家の中で繰り広げられていた。今はそれは極めて希だ。先日見た在宅医療の番組で、末期ガンのおじいさんが子供と孫たちに囲まれて死ぬシーンがあった。祖父の死に小学生の孫は声を上げて泣いていた。その子はきっと、良い大人になるだろう。必ず訪れる死を教えれば子供は正しく 成長する。

七月三日

 蒸し暑いが厚手の長袖にした。両腕に日焼けどめを塗っているが、最近、発疹が出来た。紫外線吸収剤が体に合っていないようだ。それで厚手の長袖を着用している。さすがに長袖は暑く、母の車椅子を押していると、暑さで頭がクラクラした。

 仕事は厳しいが、その都度、乗り切っている。知人たちは悪運が強いと言うが、本当に悪運が強いのなら、危機に陥る前に避けているはずだ。

仕事が不調な時は順調な人が羨ましくなる。健康を損なっている時は、健康な人ばかり目に入る。失恋した時は、仲のいい男女が気になる。凡人はいつも何かを羨むようだ。

今、成功を願っているが、もし成功を手に入れたら、次は健康を悩み始めるはずだ。健康に問題がなければ、災害とか、孤独とか、次々と悩みを見いだす。そんなことをくだくだ考えていたら、子どもの頃可愛がってくれた隣家のお貞さんを思い出した。
彼女は当時六十代だった。家業は漁師で、家の裏で小さな畑を耕し、天秤棒で魚を担って農村部まで売りに行っていた。勤勉で寡黙で、母は彼女ほどに優しく強い人はいないと話していた。

その頃は敗戦直後の食糧難時代で、その小さな漁師町にも食料を求める人たちが町からやって来た。ある日、お貞さんが作っていたカボチャが盗られ、代わりにお金が結びつけられていた。お貞さんは、お金なんか気にしないで、黙って持って行けば良いのに、と持って行った人を同情していた。後年、お貞さんに体の不自由な孫が生まれた。しかし、愚痴一つ言わず、いつも背負って可愛がっていた。

思い返すと、お貞さんの運命を決然と受け止める姿が眩しく見える。当時はどの土地にも、そのような無名の老人がいた。

七月十日

 今日は風が吹いて凌ぎやすい。昨日まではシャツが重くなるほど汗をかいた。
暑くても、生命溢れる夏は好きだ。今日の赤羽自然観察公園には腰明トンボが飛んでいた。

五月始め、毎日、緑道公園のベンチに若者が腰かけていた。ホームレスになりたてのようで、身だしなみはこざっぱりしていた。その彼が、最近は日に焼けて、立派なホームレスの風貌に変わった。正社員は無理としても、アルバイトならいくらでもある。だから、若い彼に同情はしていない。

 母は暑さに負けずに歩いてくれるので助かる。医師は冷房を薦めるが、私は冷房なしで暑さに耐えるのが母の健康維持に大切だと考えている。

今日は土曜で、親子ずれに沢山出会った。中に道一杯に子どもと手を繋いで歩く親子がいた。私は道脇に車椅子を寄せて、彼らが通り過ぎるのを待った。親子は会釈もせずに通り過ぎた。次の家族連れは、私たちの車椅子を見て、子どもたちを道脇に寄せ、軽く会釈をして見送ってくれた。母はそれがとても嬉しかったよ うで、昔の思い出を話し始めた。

 昭和25年、博多で単身、仕事をしていた父を訪ねての帰りのことだ。日豊線門司近くで赤ちゃんを背負った母子が乗車してきた。敗戦後で列車は大変な混雑だった。
「あなたたちは、運賃を払っていないから立ちなさい。」
母は私と姉を座席から立たせた。私たちは元気な田舎の子だったので、立っていても平気だった。
母子は席を譲って貰ったことがよほど嬉しかったようで、私達にパンをくれた。食糧難時代の貴重な本物のパンである。当時はパンと言えば代用パンばかりで、糠や雑穀の粉末が増量剤として入れてあり、パサパサして堅く色も灰色に近かった。しかし、そのパンは真っ白でフワフワしていた。私と姉はすぐには食べず柔ら かいパンを頬に当てて「柔らかくて気持ち良い。」と喜んでいた。その人は進駐軍関係の人で、それは米軍の上質のパンだっだ。

 母は良いことをすれば良いことがあると話したかったようだ。今も、あの白パンの柔らかさと、美味しさを思い出す。あの白パンをもう一度食べたくなった。

七月十四日

 昨夜は風が冷たくて気持ちよく眠った。朝も昨夜の冷気が残っていてさほど暑くない。
赤羽自然観察公園に着く と、入り口で一柳さん夫妻が私達を待っていた。二人と立ち話をしていると、可愛いセーラー服の少女を交えた若者グループがドヤドヤとやって来た。 中にレフ板を持った青年がいる。すぐに、エッチビデオのゲリラ撮影だと分かった。人影が少ない真夏の自然公園とは良い所に目を付けたものだ。

入り口広場の東屋で相手の男とツーショットで撮影が始まった。
お年寄りの一柳さん夫婦は只の撮影会と思っている。グループはすぐに園内に入った。

私はついて行き、生撮影を見学したかったが、久しぶりに会ったご夫妻はつもる話しがあるようで、聞く他なかった。
「今のグループは、何の撮影をしているか分かりますか」
二人に聞いてみたが、皆目分からない様子だ。
「ピンク映画の撮影で、これから凄いことを撮影しますよ」
説明したが、真面目なご夫婦には、まったく理解出来ないようだ。しかし、母はすぐに分かって、「あら、それなら私も見学したいわ」と喜んでいた。
「後で、ご主人にお聞きになると分かりますよ」
分けれ際に一柳さんたちに言うと、「そんなことは・・・」と、ご主人は照れていた。

 園内にはいると、グループは素早く移動しながら撮影していた。湿地の橋ですれ違う時、母が笑顔で会釈すると主演のセーラー服の女の子は丁寧に挨拶を返した。
「がんばってね」
声をかけると女の子はニッコリ微笑んだ。化粧は濃いが近くで見ると二十歳前後の本当に可愛い子だった。

高台の桜並木下で休んでいると、谷向こうの斜面で撮影が始まっていた。それからしばらく彼等は園内の木々の間に見えたが、やがて撤退して行った。それは真夏の夢から醒める気分で、ちょっと切なくなった。

七月十八日

 駒込病院の肝臓内科へ精密検査の結果を聞くために母を連れていった。あいかわらず、待合室は混み合っていて、長時間待つのは辛かった。

診察結果は、腫瘍マーカーは概ね良好、若干気になる箇所もあるが、九十歳の歳を考慮すれば、さほど気にする必要はなかった。
別れ際、担当医師がその日を最後に定年退官で、九月から仲間と丸の内にクリニックを開設すると話した。木訥で優しい医師で母は大変気に入っていたので残念だ。
「いつまでも元気でいて下さいね」
母が医師に言った。
「いや、貴女より、私の方が先に逝きそうですよ」
医師は真顔で答えた。
今までの母のデーターのコピーを頼むと、医師は快くバソコンから出力してくれた。
駒込病院は更にコンピューター化が進み、八月からカルテの院内移動はなくなる。これで、待ち時間は相当短縮するらしい。しかし、駒込病院への通院は止めるので、その恩恵は受けられない。

帰宅すると、母は疲れ切って寝込んでしまった。病院は病気を治す所だが、同時にストレスを与えて病気にしてしまう側面もある。

赤羽自然観察公園への散歩は素晴らしい。ストレスが解消した上、免疫力を賦活させてくれる。「自然は大きなホスピタル」のコマシャールがあるが、これは正しい。ガンは外科的に除去するのがベストだが、その回復に近代医学は殆ど役に立たない。母は自然の中の散歩で回復したと信じている。

七月二十五日

 最近、母の下痢が始まった。肝臓ガン手術前に、頑固に続いていた下痢は術後に収まっていた。今回の下痢は日に1回なので、気にする程ではない。

雨が欲しい。赤羽自然観察公園のタマアジサイのが開花を目前に枯れ始めた。ヘクソカズラは炎天にも負けず可憐な薄紫の花を咲かせている。
母は暑さに負けず、いつものように炎天下を歩いてくれた。しかし、無理はさせない。体力を維持できるだけで上出来と思っている。

  夜間、母は尿取りパットを使っている。最初、少量用であったが、最近は大きいものに変えた。このままおむつに進行していくのは厭なので、頑張って、尿意 があれば起きるように言った。しかし、母は大型の尿取りパットを着用して安眠出来る方が良いと言った。それも一理あるので、好きなようにさせた。

私は母の介助はしているが、本格的な介護ではない。だから、尿取りパットの始末は母は自分でしている。家事、母の歩行介助、粗相の始末は私がする。母の終末期ぎりぎりまで今の状況を維持したいと思っている。

七月二十八日

 赤羽自然観察公園の上空に澄み切った夏空が広がっていた。真夏の青空を見上げていると、決まって子供時代を思い出す。昭和二十年代後半の南九州の漁師町の記憶だ。

 夏休みには、毎朝、神社へ出かけて掃除をした。と言ってもゴミは落ちていないので、適当に箒目をつけ、後はみんなでチャンバラをして遊んだ。それから、家に戻って水着に着替え、歩いて十分ほどの海水浴場へ出かけた。

朝なぎの海で泳ぐのは爽快だった。潜ると、日の光が水底の砂地に網目模様を描き、魚が猛スピードで泳いで行くのが見えた。お腹が空くと、腰の袋に入れた煎り空豆を食べた。空豆は潮水でふやけ、適度に塩味がついて美味かった。そうやって、お昼まで浜で過ごし昼食時に帰宅した。

午後は海に入ら ず、夕飯まで友だちと走り回って過ごした。夕暮れにはラジオの連続ドラマの、紅孔雀や笛吹童子を夢中で聞いた。夕食後はよく夜釣りに出かけた。港の突堤か ら港内に釣り糸を垂らすと小鰺が面白いように釣れた。しかし、子どもたちは八時過ぎると眠くなり、大人たちに抱えられるようにして帰宅していた。

思い返すと、夏休みの宿題をした記憶がない。宿題は八月最後の二、三日で大慌てで片づけていた。今も仕事は締め切り間際に頑張って仕上げている。その癖は子供時代に身についたようだ。

七月三十日

 駒込病院婦人科に骨盤CTの結果を聞きに行く日だ。朝七時に起床して、タクシーで9時に駒込病院へ着いた。

婦人科は空いていて、母は予約の九時半に診察して貰えた。骨盤CTも他の血液検査の結果もさして問題はない。去年の弱った状態を思うと嘘のようだ。二度のガン手術の予後が良いのは、赤羽自然観察公園での散歩と楽天的な母の性格が免疫力を高め、転移をくい止めているのかもしれない。

駒込病院へ一日がかりで連れて行くと母は疲労困憊するので、担当の若い医師に近所で見て貰うからと紹介状を頼んだ。医師は快諾したが、寂しそうだった。
初診の時、医長は面倒な病状の母を若いその医師へ任せた。結果的にそれが良く、若い医師に大変丁寧な外科治療をしてもらえた。
そんな経緯があって、母は愛着のある患者だったようだ。別れ際、医師は「具合が悪い時はいつでも来て下さい」と母へ繰り返し言っていた。

  これを最後に駒込病院に行くことはない。田端駅へ出る途中、赤紙仁王堂に参り、無事一年が過ぎたことを感謝した。仁王堂は白竜山東覚寺の一角にある。途中 のコンビニで買ったアイスクリームを仁王堂の日影で母と食べた。東覚寺はこぢんまりしているが古い瀟洒なお寺である。見上げると、本堂の屋根の上に真っ白 な積雲と澄み切った青空が見えて清々しかった。

 帰りの田端駅の若い駅員の対応も良かった。リフトで車椅子をホームへ下ろして、京浜東北線下りを待つ間、駅員は母に話しかけた。母がガン治療のことを話すと、彼は去年お爺さんをガンで亡くしたと話した。彼は何度も、母に元気でいて下さいと励ましていた。

赤羽駅前の赤羽市場で昼食用にアナゴ寿司を買って帰った。母は美味しそうに食べた。私は久しぶりに気持ちのよい夏だと思った。

八月一日

 今年の夏は厳しいが、既に散歩道の風に秋の気配を感じた。
すでに、ツクツクホーシが鳴いていた。この声を聞くと、私は子供時代に引き戻される。
いつも蘇るのは、遠くの友達の家へ遊びに行った帰りの風景だ。山の端を夕日が染め、ツクツクホーシが降るように鳴いていた。遠くまで来てしまって心細くなり、私は家まで駆けて帰った。家々からは夕餉の香りが漂っていた。家に駆け込むと、「どこまで行っていたの」と母が迎えてくれた。あの安堵感をいつも懐かしく思い出す。

 昨夜は隅田川の花火大会で、我が家のベランダからも遠く小さく花火が見えた。
ベランダで私は夜風に吹かれながら、かき氷を食べた。かき氷はイチゴ味が好きだ。しかし、コンビニの氷イチゴには本物のイチゴが使ってあり、私の好みではない。氷イチゴは、昔の赤い偽イチゴシロップの方がさっぱりしていて美味い。

昔はよしず張りの茶店で食べた。注文すると店の小母さんが木製冷蔵庫から氷を取り出して手回しでかき氷にした。硝子の鉢にアルミのぺらぺら薄いスプーンが付いていて、かき氷を赤い氷水の中へ少しづつ崩しながらの食べるのは至福の時間だった。

昔の食堂は夏になるとピカピカ光る捻ったアルミ板が何本も軒下にぶら下がっていた。それに風が当たると、クルクル回ってキラキラ光り、涼しげに見えた。上京してから四,五年は東京の食堂にも下がっていた記憶があるが、いつの間にか消えてしまった。

八月十八日

 猛暑が戻り、1時間前に洗ったタオルケットがすでにカラカラに乾いている。
午後は散髪に出かけた。先客がいて二十分程の待ちだったが冷房が気持ちよかった。

散髪の後、スーパーに回り、国際標準のバネ式体重計を買った。若い頃は体脂肪は少なく腹筋も見えていた。しかし今は、すっかり厚い皮下脂肪に覆われて腹筋は見えない。時折、思い切り体重を減らすが、すぐにリバウンドしてしまう。
若い頃は歯が強く梅干しの種を軽々と割り、ビールの王冠を歯で開けたりしていた。視力も狩猟民並みに良かったが、今は仕事中は乱視と老眼の入った眼鏡を使っている。他にも探すと老いは数限りなくある。母も以前と比べると著しく弱っているが、私程に気にしていない。その姿勢は、これから老いて行く私には参考になる。

八月二十八日 母九十一歳 

 先日の八月二十四日に母は九十一歳の誕生日を迎えた。
暑い夏にも負けず毎日の車椅子散歩にも耐えてくれた。

今日はいつも 持参するお茶を忘れた。暑い中、母も私も水分補給は重要なので、自然公園入り口の自販機に硬貨を投入した。しかし、ボトルは途中で引っかかって落ちてこな い。諦めて行こうとすると、公園入り口の東屋から経緯を眺めていた老人たちが集まって来た。自販機が壊れてボトルが取り出せないと話すと、老人たちは、自 販機を揺すり始めた。
「大した額ではないですから、いいですよ」
私は遠慮したが老人たちはもったいないと言い張った。一人が取り出し口 に手を入れて取り出そうとするが、奥まで手が届かない。すると別の老人が鉄棒を持ってきて、中をかき混ぜ始めた。そんな無茶なことをと思っていると、詰 まっていたプラスチック片と一緒にボトルが落ちてきた。

戦中戦後を生き抜いて来た老人たちは実にパワフルだ。礼を言うと老人たちは満足げ に、東屋へ戻って行った。今、少子高齢化の弊害ばかり言われている。しかし、そのように若者以上にパワフルな老人たちがいる。これからは、元気な老人二人 と若者二人が弱者一人を支えれば、少子高齢化問題は解決できると思った。

 好天なので公園には親子連れが多かった。管理棟前の広場で、知らない親子連れが母に挨拶した。五才ほどの男の子はスパンコールの星が着いた真新しい帽子をかぶっていた。
「格好いい帽子ね」
母がほめると、男の子はうれしそうに胸をはった。
「この子は、気に入るとそればっかりです」
若いお母さんが言った。
「うちのも、そうでしたよ。幼稚園生のころ、水兵さんの服が大好きで、汚れても着替えないので困りました」
私がいつも着ていた水兵さんのセーラー服を無理に脱がせて、洗濯した時のことを母は話した。私は、乾くまで幼稚園へ行かないと言い張り、物干し台の下で乾くのを待っていた。五十五年前の出来事を、母親は昨日のことのように覚えている。もし、母が死ねば、そのような過去を共有している者が一瞬で消えてしまう。

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九月八日

 母を通所リハビリへ送ってから部屋を片付けていると姉が訪ねてきた。
姉は死んだ父に似て潔癖症である。母の部屋の掃除が行き届いていないと文句を言った。それなら黙って掃除をしてくれれば有り難いが、言わずにはいられない性分である。
父や姉に反して、私と母は小さいことは気にせず、綿埃を見つけると、つまんで捨てるだけだ。ただし、トイレ・台所・風呂場などの水回りはこまめに掃除をする。

「掃除しなくても死ぬことはない」
そう言うと姉は呆れていた。介護は完璧を狙わず、手を抜くことが大事だ。そうすることで、心にゆとりができて長続きする。

 母の部屋の掃除を姉に任せ、母のタオルケットを洗濯した。ベランダに干し終えると、十八号台風余波の驟雨がやってきた。慌てて取り込むとすぐに日が射した。再び干すとまた驟雨。面倒になって母を姉に任せて散歩へ出た。

 夜九時過ぎ、神棚の榊が台風の風で落ちた。窓は閉めてあるのに小窓から吹き込んだ猛烈な風が五メートル離れた榊を倒した。その頃、大手町で風速三十三メートルを記録していた。ここは高層なのでもっと強かったのかもしれない。

九月十三日

 赤羽自然観察公園の椎の木陰で、車椅子の母は気持ちよさそうに居眠りしていた。そのように、椎の木陰で爽やかな風を感じながら、「ああ眠い・・・」と逝くことができたら、最高の最後だ。

そのような母を眺めながら、山梨の長寿村についての記述を思い出した。戦前のことだが、その村では九十代の長寿の老人は普通だった。しかも、老人たちはとても元気で、死の寸前まで野良に出て、最期は畑の傍らで「ああ、眠い・・・」と、眠ったままに逝った。

今、その村は長寿ではなくなった。粗食でよく体を動かしていた生活は、現代風の動物性脂肪の多い食事に変化し、農作業は機械化されて体を使わなくなった。その結果、若い者に成人病が急増し、倒れた息子を老親が世話をするのが、ありふれた光景になってしまった。

 母が休んでいる間、私は椎の枝を引き寄せて青い実を採った。緑の殻を割ると、艶やかな焦げ茶色に熟した実が入っていた。普通は自然に殻が割れ、地表に落ちたものを拾う。しかし、私が子供の頃は、未熟の実を生で食べていた。未熟の実は甘みがあってとても美味しかった。

九月二十五日

 緑道公園の花壇は植え替えの為、園芸種のスベリヒュが抜かれていた。花を残したまま雨に濡れている様は哀れだ。しかし、乾いた荒れ地で丈夫に育つスベリヒュの素質は受け継いでいるようで、路傍に積まれたまま生き生きしていた。

スベリヒュは湯引きしてお浸しにして食べられる。腎臓病の民間薬として使っている地方もある。子供の頃、母とメキシコ映画を見た時、映画のシーンのサボテン が肉厚の葉のスベリヒュに似ていると思った。以来、炎天下の地面に寝転んでは、スベリヒュを眺め、メキシコの砂漠を想像していた。

 一日腰かけていることが多い母は、尻の圧迫箇所に軽度の床ずれが時折できる。今は床ずれ防止の電動マットや良いクスリが開発されて重症例は少なくなった。

昔、母が老人センターに入院した時、隣のベットの老人が床ずれになった。ところが若い担当医師は床ずれを知らず、治療をしても治らないと頭を抱えていた。見かねた母が「それは床ずれですよ」と教えると医師は始めて気付き、すぐに治すことができた。

父が寝たっきりになった時、床ずれ防止の電動のエアマットを使った。しかし、揺れる感じが気分が悪いと嫌がるので、結局、使うのを止め床ずれができた。今のマットはその辺りは改善されているようだ。

九月二十七日

 激しい雨の中、散歩へ出た。母の車椅子は雨具で完全に覆っているが、フードの防水が弱り、頭に少し染みると母は気にしていた。帰宅すると、母は疲れたと、いつものシャワーを浴びずに横になった。

昼食後は少し元気になり椅子に腰かけてテレビを見ていた。しかし、夕刻になって熱っぽいのか自分から熱を測った。三十七度、母の平熱に近いが、老人の場合は甘く思ってはいけない。すぐに葛根湯を飲ませた。母は寝相が悪いので、寝冷えをしたのだろう。

明日は通所リハビリだが、施設へ休むと電話を入れた。葛根湯を飲ませたので、明日は元気を取り戻すと思う。老人は平穏に過ごすことは難しい。一難去って又一難。死なない限りこの連鎖から解放されることはない。

九月二十八日

 早めに手を打ったので、今朝の母は元気を回復していた。
通所リハビリがなくなり時間が空いた。それで、午前九時、駒込病院からの紹介状を持って東京北社会保険病院眼科へ行った。眼科は混んでいたが、小一時間で診 察を受けられた。母は緑内症で点眼薬を常用している。診察の結果では悪化はなく一安心だ。医師も優しく親切な人だった。

十月二日

 赤羽自然観察公園の椎の木陰にシートを敷き、蚊取り線香を焚いて親子連れが食事をしていた。その三、四歳の男の子が車椅子の母に「足がないの?」と聞いた。
「幽霊みたいでしょう」
母が冗談を言うと、男の子は目を丸くした。
そして「ボクはあるよ」と寝転がって自分の足を見せた。
母は「あら、何本あるのかしら」とからかった。
男の子は数えていたが「沢山ある」とごまかした。
「じゃー、一本ちょうだい」
母がお願いすると「大きくなったらあげるね」と、男の子は目をクルクルさせて答えた。

傍らで若い母親が幸せそうに母と子どものやり取りを聞いていた。
彼はあと何年母親に付き合ってくれるのだろうか。彼が小学校の高学年になった頃、小さい頃は何処でも一緒で楽しかったのに、と母親は嘆くのかもしれない。

十月四日

 寒い雨の中、キンモクセイが香っていた。赤羽はキンモクセイの古木が多く、突如として香り季節の変化を感じさせてくれる。

先日、三面記事の片隅で、作家森村桂が病苦により自殺と報じていた。私より五歳下。平安時代の女官みたいな風貌や、少女趣味の言動には抵抗があったが、作家の自殺は気になる。

物書きは自殺が多い。旧知の物書きにリストカットを繰り返す者がいる。その都度、担当編集者が右往左往させられ、ぼやきの電話が入る。まだ起きていないことを先回りして悩んだり、内省的だったりする物書きの性癖が災いするのだろう。その点、画家はしぶとく、殆ど自殺はしない。

 先日、隣家のネコのモモちゃんは網膜剥離で失明した。それでも外へ遊びに出て、通路の壁にぶつかりながら歩き回っている。私が名前を呼ぶと見えない目でこちらを見る。不便だろうが、悩んでいるようには見えない。もし、彼が人だったら、失明は自殺を考えるほどの重大事で平常心ではいられない。

モモちゃんはすぐに慣れて器用に歩き回っていた。彼のように現実をストレートに受け入れられたら素晴らしいが、人には難しい。人は万物の長と思い込んでいるが、本当は最悪の動物だ。

十月十二日

 母を通所リハビリに十時前に送り出した。久しぶりに薄日が射しているので、急いで、溜まっていた洗濯を済ませた。部屋干しできるものは毎日洗濯するが、大物は好天に合わせている。

赤羽に暮らし始めて三十二年になる。その間殆ど家仕事だったので散歩は日中にした。おかげで、顔見知りが増えた。それは八百屋さん、床屋さん、本屋さんと 数え切れない。その彼らも私同様に年取ってしまった。彼等の殆どに二代目はいないので、時期が来たら順次閉店していくことになるのだろう。

母は最近、元気になった。散歩をしていると、知り合いが顔色が良くなったと誉めてくれる。お世辞ではなく、本当に顔色は良く、百歳まで行きそうな勢いがある。しかし、ガン細胞が消滅した訳ではない。見えないところで火山のマグマのように噴出を待っている。その不安はいつも心の底に淀んでいる。

十月二十一日

 母のペインクリニックとさくらの杜でのリハビリに台風が重なって散歩を三日間休んだ。
久しぶりに散歩に出ると、秋色が深くなっていた。
 
最近、老いたら反省する必要はないと思っている。長く生きていると、経験から非常識なことはやらない。どのような行動も、それをベストと判断したからで、結果が悪くても反省する必要はない。たとえ、失敗したところで、その殆どは残りの人生で取り戻す事はできない事柄だ。それよりも、更に良い事に全力を傾注する方が前向 きだ。

車椅子を押しながら、そんなことを話すと、
「当たり前よ。私は反省したことなんか一度もない」と母は威張っていた。話した意味は違うのだが、そのような誤解が母の元気の元だ。その点私は、若い頃から内省的で、すぐに反省してしまう。だから、失敗しても反省する必要はない、と自分に言い聞かせている訳だ。

  夏の頃は赤羽自然観察公園の椎の下で休んでいたが、涼しくなってからは炊事棟のベンチに腰掛けて休憩する。その一角は軒端まで木々の枝が茂り、山荘の雰囲 気がある。今日も炊事棟のベンチに腰かけて紅葉の始まった桜や樫を見上げた。枝の間から雨に洗われた清浄な空が見えホッとした。

先日、友人から電話がかかってきた。
「最近、自分の人生はそんなに悪くないと思うようになった」と話すと、
「お前らしくない。もっと、とんがっている方がいいよ。」と友は答えた。
しかし、とんがり続けるのは疲れる。今日のようにボーっと青空を眺めていた方が楽しい。

十月三十一日

 昔の彫金仲間の山本さんが遊びに来た。山本さんは私より五歳年上の飾り職で、若い頃はよく一緒に飲みに行った。
飾り職とは、金属を叩いて伸ばしヤスリで仕上げ、ロー付けで接合して組み立て、装飾品を作る仕事だ。今は主に指輪やブローチを作っているが、本来は御輿や家具の飾り金具等を作る仕事だった。

貴金属装身具制作では、鏨で地金を削り宝石をセッティングする仕事がある。私はその工程の職人だった。私が絵描きに転職した頃から、職人の世界はすっかり 変わり、安物は海外生産にシフトし、高級品は海外有名ブランドに蚕食されてしまった。今は直しの仕事ばかりだと、山本さんはぼやいていた。

山本さんと母と三人で話していると、昔の活気のある職人の世界がよみがえり、懐かしかった。
「今度は家に遊びに来てよ」
見送る私に、山本さんは何度も言った。

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 雨の日も散歩は休まなかった。母は雨に打たれる感触が心地良いと話していた。

十一月八日

 昨日日曜は快晴で日射しが強く、夏服で歩いている人が多かった。
十一月に夏服とは異常だ。おかげで、ノープラ・ティシャツの女の子に見とれてしまい、車椅子を段差に引っかけてしまった。
車椅子を押していると視線が低くなるので、短いスカートが気になる。特に、御諏訪さん脇の急斜面を押し上げる時、一層視線の位置が低くなって、坂上に先を行く短いスカートが気になる。

 先月から住まい下の公園に三十代のホームレスが住み着いている。最近は中年の仲間が加わり二人で生活している。中年はベテランで、公園の水道を使い、こまめに洗濯し、植木の上に広げて干している。
日中は二人とも、彼等特有の気配を消した視線でボーっとベンチに腰かけている。二人が会話を交わしている姿は見たことがない。共にきれい好きで、若い方が公園を掃除をする係のようだ。二人とも、ドロップアウトしていることを除けば、極めて健全な人達だ。

段ボールハウスは、バブルの頃、新宿西口広場辺りに出現した。それより以前、アメリカに路上生活者が多いと聞いた時は、遠い国の出来事と思っていた。それが、日本に出現した時はショックだった。それがいつの間にか違和感を感じなくなった。

彼らの生活は、都心にトランクルームを月一万程で借りて身の回りの品を預け、携帯電話を持ち、週二回のペースで銭湯に行き、頭は三ヶ月に一回理髪店で整え、 郵便局に私書箱を設け、月三万程で慎ましく生活をする。そして、就職面接がある時はトランクルームから背広一式を取りだして、ごく普通に出かけていく。
しかし、冬場はとても厳しい生活だ。私の知っている老ホームレスは体調が悪くなると急患で入院して体力を回復させている。

ホームレスが生まれる程に安価な住宅が払底しているのに、空き地は加速度で増えている。最近も散歩コースの無人の住宅が取り壊され駐車場に変わった。最近は至る所空き地ばかりで、急速に社会のバランスが壊れ始めているようだ。

 ガン検診について、ガンセンターニュースに面白いものがあった。検診料、男、十八万九千円 女、二十二万五千七百五十円で全身の微細な初期ガンまで発見が可能とあった。但し、微細な初期ガンは見つけても何もせず、観察するのが望ましいとあった。
しかし、微細な初期ガンを何もせずに平然としていられる人は少ない。殆どの人は気になり、中にはノイローゼになる人もいるだろう。ガンを知ってノイローゼになったり、ガン手術 をしたりすると免疫機構がバランスを失い、一気にガンが増大し転移が始まることがある。だから、その検診を受ける意味が分からない。

健康でもガンは出たり消えたりしている。何かの原因で免疫システムに異常が生じた時、ガンは一気に病気へ発展する。皮膚ガンのように目視できるなら観察は簡単だが、体の中を観察するとなると負担は重い。できることなら動物のようにその一瞬一瞬に生きていたい。悩みを再生産する人の英知は煩わしい。

十一月十五日

 冷たい雨の中、自然公園へ行った。静かで、濡れた紅葉が美しい。母が拾ってくれと言うので、ニシキギの深紅の落ち葉を集めた。今年の九州の紅葉は台風で痛めつけられて良くない、と兄から手紙に書いてあった。母は東京の美しいニシキギの葉を押し葉にして兄に見せたいようだ。

  竹野君に絵本英訳を頼んであった。彼から英訳ができたと連絡があったので、夕刻に池袋で会った。彼は医師の家庭で育ち裕福で、私が困ると何かと助けてくれる。去年、母ががん手術で入院した時、私の窮状を察して、過分の額で絵を買ってくれた。絵描きは大変な仕事だが、そのような世間の暖かさで何とか生きて行ける。

池袋西口でトンカツを肴に二人で生ビールを飲んだ。久しぶりなので、アルコールの回りが早い。割り勘でと言ったが竹野君は奢ってくれた。私は母の世話があるので、十時に別れた。

 北赤羽駅前のスーパーライフは十二時まで開いている。帰りに寄って、明日の食材を買った。スーパーの深夜営業で近隣の二十四時間営業のコンビニが影響を受けているようだ。よく利用していたセブンイレブンは繁盛していたが、夏に突然閉店してしまった。

十一月十九日

 母の散歩と雑用を午前中に済ませ、雨の中、銀座へ出かけた。石川の山中温泉で挽物作りをしている作家の作品展初日である。ギャラリーは泰明小学校先の高速道高架の近く。彼は親子二代の挽物師である。木訥で加賀山中の雰囲気をそのまま東京へ持って来たような人だ。作品を前にして、仕事の話は楽しかったが三時に辞した。

その後、知人の高田氏が銀座に最近事務所を開いたので、挨拶に行った。寒い雨が降っていて銀座は風情が増していた。銀座は女性が美しい。大きな絵を小脇に抱えた画家の卵らしい女性が急ぎ足で通り過ぎた。

昭和通近くの事務所に着くと、遅い私を高田氏は待ちかねていた。
彼は電通の要職を早期退社してキャラクター管理の仕事を始めた。できれば絵本などの出版まで事業の枠を広げたいと計画している。六時頃まで、ビールを飲みな がら、今の出版事情を話した。帰ろうとすると、良い曲があるから聞いてみないかと引き止められた。イタリー製のスピーカーだ。高音の切れがよく透明感があ る。さすがに、我が家の六千円のパソコン用とは違うと思った。

それから、暫く音楽の話をして別れた。帰宅は七時十分。教育テレビ七時からの絶滅動物シリーズ、サーベルタイガーを見たかったが間に合わなかった。
母はベットに寝ないで待っていた。九州の兄からクール便で海産物が送ってきていて、自分では開けられないので気になっていたようだ。急いで開けると、蒲鉾、 薩摩揚げと甘鯛のみそ漬けが入っていた。甘鯛は長崎産を散歩帰りに多めに買ったばかりだ。好物は重なるものだと母は笑っていた。

十一月二十一日

 昼食の後、絵を描いていたらすぐに夕食の時間になった。
夕食後、四チャンネルの鉄腕ダッシュの粟ヒエ作りを見た。粟ヒエは縄文弥生時代から連綿と日本人の食生活を支えていた・・・のナレーションを聞いているうちに、私は寝入ってしまった。

短い眠りの間、夢の中に父が出てきた。父は二十三年前に七十九歳で死んでいる。目覚めた後、日頃、父のことはまったく思い出さないのに夢に出て来たのことが不思議だった。

夢の中で、父は山あいの日溜まりで、美しい秋景色を眺めていた。
「なんだ、生きていたのか」と父に話しかけると、父は照れくさそうに笑った。
目覚めてから、母に父の夢を見たと話すと、
「父ちゃんは元気だったの」と、母は馬鹿なことを聞いた。

父は郷里九州の方言でへこたれだった。死への恐怖心は人一倍強く、風邪で三十八度の熱が出ただけで、入院させろと大騒ぎしていた。その父が最期の三ヶ月近く黙って寝込み、あっさり死んでしまった。治療は懇意にしている近所の女医さんに往診してもらっていた。
「入院させれば数ヶ月は命が延びますが、薦められません」
女医さんの言葉に従った。

へこたれの父が死の覚悟など出来るわけがない、と思っていたので、静かな父の姿が不思議だった。寝込んでから二ヶ月を過ぎた辺りから父は昏睡状態になり、意識が戻ることなく死んだ。最期の脈を取ったのは私である。深夜、脈が途絶えた後、朝を待ち、女医さんを呼んで死亡診断書を書いて貰った。

死んだ六月一日の朝は晴天で風が強かった。葬儀屋がこんな天気の日はよく人が死ぬと話していたのを印象深く覚えている。

十一月二十五日

 私と同年輩の詩人が雑誌に、父親と会話した記憶がないと書いていた。
私はやはりそうかと思った。我々以上の世代では父親は煩い存在で、男の子は出来る限り避けていた。父が何か話す時は、説教するか、命じるか、いつも一方的で、会話にはほど遠かった。だから、私たちは出張等で父が長期間留守になると飛び上がって喜んでいた。

ドラマで父親が忙しくて遊んでくれないとか、学校参観に来てくれないと男の子が拗ねてぐれたりする設定がある。私はそれは良いことなのに、何故すねたり腹を立てたりするのか今も理解できない。私の世代の子供の頃は、父親が担任教師と会わないように工夫したものだった。

 その小うるさい父は六十代にヘルニアの手術をした。場所はへその近くで化繊のメッシュで蓋をした。体質は似るものなので私は鼠径あたりが弱い。シャワーの時に眺めると、右鼠径部が盛り上がっている。統計では右側が多いとある。それで、気休めに腹筋を始めた。

もし母の存命中にヘルニアが悪化して、手術が必要になるのはまずい。手術は簡単だが、一ヶ月は車椅子を押すのを禁じられる。母の体調は毎日のリハビリで維持している。それを思うと、おいそれと手術は出来ない。
今年は知人が多く死んだ。母は肝臓ガン手術から生き残ったが、時折微熱を出す。もしかするとガン再発の兆候かもしれない。

十一月三十日

 母が通所リハビリに行っている間、画材を買いに池袋へ出かけた。買い物のレシートで福引きのガラポンをしたが総て外れだった。

帰りの埼京線で隣の女の子がしきりに回りを見回していた。埼京線は痴漢のワーストワンの路線だ。痴漢が出たかと見回したがそれらしき者はいない。そんな私に気づいた彼女が声をかけた。
「すみません。横浜へ行くには、この電車で良いのですか」
どうやら、山手線と間違えたようだ。
「赤羽から京浜東北線へ乗り換えれば行けるよ」
教えると、彼女は笑顔になった。赤羽に着くまで十分ほど彼女と話した。秋田から上京したばかりで、横浜で友だちと待ち合わせていると話した。色白で目の大きな子だ。彼女は赤羽駅でお礼を言って、京浜東北線へ駆けていった。

福引きは外れたが、電車は当たりだった。昔はよく横浜で遊んだ。無性に横浜へ行きたくなった。ささやかな出来事だが、介護生活の中で爽やかな風のように感じた。

十二月四日

 冬景色になってきた。公園に再建中の古民家の茅葺き屋根の丸みが暖かく見える。茅葺き屋根を見ると囲炉裏の火を思い出 す。昔は頻繁に登山に出かけた。宿は山里の民宿で、囲炉裏ばたで山菜やキノコ料理を振る舞って貰った。その時の、ランプの光や囲炉裏の暖かさを懐かしく思い出す。

電柱程の太い丸太をそのまま囲炉裏で燃している宿もあった。丸太の端は部屋をはみ出す程長かったが、主人は上手に、丸太の先端だけをチョロチョロと燃していた。それ程の丸太は1週間は燃せるらしい。
囲炉裏は暖を取る為だけではなく茅葺きに虫が付かないように薫蒸の意味もある。だから茅葺きの家では、夏でも火は絶やさない。不思議なことに囲炉裏の火は夏でも熱くないと主人は話していた。

  焚き火は好きだ。火を囲んでいると安らぐ。以前住んでいた庭付きの家では、庭に石積みをして落ち葉や枯れ枝を集め、毎日焚き火をした。木の燃える煙は甘い香りがして、ゴミの煙とはまったく違っていた。ことに今日のような寒い日の焚き火はとても楽しかった。究極の贅沢は、都心に山里を再現して、茅葺き屋根の 家を建て囲炉裏で火を燃すことだと思っている。

十二月七日

 母が目覚ましを壊したので、駅前のホームセンターで時計を買った。帰りに商店街の八百八に寄るとカリンが安かったので六個買った。それで母のせき止めのカリン酒を漬ける。

カリン酒は三年物の四リットル入り瓶二本の在庫がある。母が咳止めに飲むだけなので暫くはこれで何とか間に合う。しかし、来年のカリンの時期までとなると微妙だ。親の死期を考えて買い物するのは厭なものだ。

そんなことを考えていたら、ある随筆を思い出した。
それは作家が父親のことを書いたものだ。粗筋は次のようなものだった。
・・・ 半年の余命を宣告された母親が自宅で寝ている。季節は鮨を漬け込む時期である。鮨と言ってもお寿司ではなく、長期貯蔵できる鮒鮨のたぐいだ。母親はその鮨 を作るのが得意だった。父親は鮨の材料を買ってきて、寝ている母親を起こして作るように命じた。彼女はふらつきながら台所に立ち鮨作りを始めた。作家は父 親の態度を怒り、母親に、すぐに止めて寝ているように言った。しかし、母親は「いいのよ」と作り続けた。
それから数ヶ月後に母親は死んだ。そして、母親の作った鮨が熟成して食べ頃になった。
ある日作家は、父親が独りその鮨をしみじみと食べている姿を目撃した。その時、作家は気がつかなかった両親の間の愛情を理解した。

私のカリン酒漬けとは意味が違うが、ふいにその話を思い出した。

十二月十四日

 花屋でサンキライのクリスマスリースを売っていた。冬の野山でこの赤い実を見つけると童話の一シーンのように楽しかった。西日本ではこの丸い若葉をガメノハと呼び、五月の節句には、それで包んだ餅を食べた。柏餅と違い、独特の甘い香りがして私は好物だった。

 子どもの頃はクリスマス、大晦日、正月と続くこの時期は、一年で一番楽しかったが、今は、ただ慌ただしいだけだ。
散歩道は静かだった。人声も車の音もなく風の音だけが聞こえた。去年の今頃は、肝臓ガン手術から退院したばかりの母は弱っていた。大好きなテレビ番組も見ないで、椅子に座ったまま居眠りしていた。今、元気になった母にその頃のことを聞いても何も覚えていない。

 昼食後大掃除をすると壁際に黒いゴミが落ちていた。拾おうとするとピョンと逃げた。小さな蠅取りクモだ。最近、小さな生き物が一生懸命生きている姿に感動する。傷つけないように手のひらで包んで、安全な場所に逃がした。

十二月十九日

 朝から気持ちよく晴れ渡って静かな日曜だった。しかし、赤羽自然観察公園に着く頃にはすじ雲が流れていた。この雲は雨雲の前触れだ。
公園は休日で人出が多かった。炊事棟では大勢の子ども達が焼き芋をやっていた。枯れ葉や薪を燃す煙が甘くたちこめ懐かしかった。

  いつもの休憩場所の遊歩道の日溜まりに腰を下ろしてボーっとしていると眠気が襲ってきた。サラサラと枯れ葉を揺らす風の音が心地よい。枯れたススキの原の向こうに木の葉の落ちた木々の梢が見えた。それは子どもの頃に眺めた風景に似ていた。平和とは、こんな風景を言うのかもしれない。

休んでいる私たちの前を、四歳程の男の子を連れた若い母親が目の前を過ぎた。
「ここはね、昔、しゅん君もベビーカーに乗って来たことがあるのよ。」
少し前のことを母親は遠い昔のように話していた。母や私にはその若い母親が生まれる前のことですら昨日のようだ。

公園を出てすぐに、車椅子の車輪が犬の糞を轢いてしまった。途中の水飲み場でいつも車椅子に下げているブラシで丁寧に洗い落とした。その時、車輪の留めネジ が緩んで落ちかけていることに気づき、スパナでしっかりと締めた。ネジを落して車輪が外れれば大変なことになっていた。

「"運"が付いていて良かったね」
母は笑いながら言った。本当に運が良かったかもしれない。それにしても、犬の糞は車椅子にとって厄介だ。

午後三時過ぎ、思った通り雲が空を覆い始めた。明日は雨のようだ。

十二月二十八日

 午後、正月用品の買い物に出た。午後の光は午前中の散歩と逆方向で、見馴れた風景が違って見えた。
正月用品の買い物は疲れる。欲しくもないものを高い値段で買わされるからかもしれない。毎年、正月は家族揃って温泉で過ごす知人がいるが、最近、彼等の気持ちが分かるようになった。正月は何もせずにぼんやり過ごしたい。

カレンダーは貰い物で間に合うが、日めくりは買う。文具屋の店頭に小さなものが七百五十円で並んでいた。買い求め、背景の俗っぽい博多人形の写真を切り取って下げた。
日めくりをめくるのは母の仕事である。去年は母が入院している間、破られない日めくりが数ヶ月分残った。

 インド洋の大津波災害の報道を見た。若い日本人家族が撮っていたビデオが写し出された。突然、潮が引いていくのを撮しながら、「珍しい、異常気象です」と小さな子どもを連れた若い父親はのんびり解説していた。その映像を見ながら私は背筋が寒くなった。

私は南九州の漁師町大堂津で育った。私たちは潮が急に引いたり井戸の水が急に減った時は津波の前触れだからすぐに山へ逃げろ、と繰り返し教わった。映像を撮影した若 い家族を見ていると、今の子どもはそのような教育は受けていないようだ。教育の最小限の基本は命を守る方法を学ぶことだ。
大災害が増えたような気がする。来年の安泰を切に願った。

夕食後、仏壇と神棚の花と榊を正月用の松と千両の赤い実入りに変えた。最近、注連飾りは買わない。プラスチックを多用して値段も高いからだ。代わりに、形の良い松の一枝を玄関に飾った。松だけの飾りはすっきりして清々しい。眺めながら、少し正月気分になった。

十二月三十日

 昨日までの雪は止み、今日は打って変わって好天。散歩に出ると、雪は道端に堅く凍って残っていた。雪道は車椅子に厳 しい。緑道公園へ入ると更に厳しく、前車輪が凍った雪の凹凸に取られて前進できず、後ろ向きに進んだ。自然公園の歩道は更に雪が多く、途中で諦めて引き返 し、一般道を遠回りして正門から入った。

 公園では子どもたちが歓声をあげてはしゃいでいた。その中、三つ程の女の子が道端の汚れた雪を拾って口に入れた。
「食べちゃダメダメ」
母が慌てて声をかけたが後の祭りだった。若いお父さんも気づいたが間に合わなかった。多分、彼女には生まれて始めての雪だろう。お腹が痛くならなければ良いが。しかし、父親は気にせず、親子で母にバイバイと手を振りながら公園奥へ入って行った。
私たちは管理棟付近で雪景色を楽しみ、早々に公園を出た。
 
 帰りは買い残した正月用品を板橋区に新しく開店したスーパーに寄って買い物した。北区の境界を越え板橋に入った途端に緑地が消え、工場ばかりで殺伐とした光景に変わった。

スーパー店内は放送がうるさく落ち着かなかった。急いで必要なものを揃え、静かな北区内へ戻った。新河岸川沿いの遊歩道をカモメを見ながら車椅子を押していると、冷たい川風が心地よかった。

第三章 肝臓ガン再発の不安な日々

二千五年正月元旦 母九十一歳

 除夜の鐘を聞きながら、神棚仏壇の水を替えた。それからお屠蘇を飲み近所の神社に初詣に出た。溶け残った雪が氷結しているので慎重に歩いた。
初詣の人は少なく、殆ど並ぶことなくお参りが出来た。
帰宅しても直ぐに寝る気になれず、テレビを点けたが、つまらない番組ばかりだったので止めた。

 元旦早朝、住まい下へ降りて雪の凍り具合を確かめた。まだ堅く凍ったままなので、母の車椅子散歩は昼過ぎに変更した。

昼食後、車椅子散歩の準備をしていると姉が文明堂のカステラを持って年始に来た。姉は母と少し雑談してから、私が作ったガメ煮を小分けして持ち帰った。

日向の雪は消えていたが、日影は堅く凍っていた。凸凹の雪道は車椅子を後ろ向きにグイグイ引いて進めた。
午後の自然公園へ母を連れていくのは始めてだ。午後二時に陽は早くも沈み始め、カラスが鳴きながら飛んで行くのが侘びしかった。

一月六日

 正月は一瞬で過ぎた。
赤羽自然観察公園に着くと、鳩たちが集まって来て餌をねだった。来園者が少ない正月の鳩たちは、餌の貰いが少なくて可哀想だ。

数日前の公園で、母は持参した緩下剤を飲もうとピルケースを取り出した。容器の蓋が固くて開けづらそうだ。無理に開けると、その勢いで中身のビーズ状の緩下剤をばらまいてしまった。

回りには、鳩たちが物欲しげにうろついた。しまった、と思ったが後の祭りで、鳩たちはこぼれた緩下剤を目ざとく見つけてついばみ始めた。緩下剤の成分はインドのオオバコ科の草の実とセンナのエキスなので飲んでも害はない。公園の鳩は太り気味なので、緩下剤が効いて、少しスリムになるかもしれない。

それから毎日、鳩たちを観察していたが大過なく安堵した。
公園で出会った知人にそのことを話すと、飼っていたインコの話をしてくれた。彼女が朝、高血圧の薬を飲もうとテーブルに錠剤を置いたら、飼っていたインコが目ざとく見つけて、くわえて飛んでいった。直ぐに追いかけたが取りかえせない。インコの血圧が下がったらどうしようと心配していたが、何事もなかった。

そんなのんびりした話しを、日溜まりで母は楽しそうに聞いていた。がん手術の後遺症もなく、ようやく母に穏やかな日常が戻った。

一月九日

 ベストセラー「負け犬の遠吠え」は巧い題名の付け方だ。
昨夜は仕事をしながらこのドラマの音声だけを聞いていた。昔ならともかく、今も女性にとって結婚がそこまで重大とは意外だった。

結婚は愛し合った結果であって、人生の目的ではない。なのに才能溢れる女性たちが最終目標にしているのが意外だった。男には新撰組や義経のように敗北の美学があるが、女性にとっての敗北はただの落伍者のようだ。

私は独り身だが独身主義ではない。
私の家系は家庭を持つのに不向きで、姪を含め全員が離婚を経験している。それでも結婚が穏やかな生活のための素晴らしいシステムなのはよく分かっている。

幸せな結婚を占いに頼る人は多いが、占い師に言われて止めるくらいならやらない方が良い。

私が絵描きへの転進を決意した時、占いをしている知人は最悪の年回りだから上手く行かないと断言した。しかし、私は野垂れ死に覚悟で絵描きに転職した。

占い通り、現在は大変に厳しい生活だが、この占いが当たるのは当たり前だ。絵描き、役者、音楽家、小説家、と芸術に関係する仕事が厳しいのは当たり前だが、それでも挑戦する者がいるから、世の中に潤いが生まれる。皆が安全な生活だけを望んでいたら、つまらない世の中になってしまう。結果など考えず、やりたいと思ったら、恋でも仕事でも結婚でも、果敢に挑戦すれば良い、と思っている。

一月十六日

 今日は私の60歳の誕生日。パソコンを入れるとハッピーバースデイの表示。メールを開くとグリーティングカードが届いていた。グリーティングカードには「幸せは経験するものではなくて、あとで思い出してそれと気づくものだ」とあった。

十年前の今日は絵本「父は空母は大地」の総仕上げの最中だった。徹夜で仕上げていると、翌十七日朝、大震災の速報が入った。地震のニュースを気にしながらパロル舎へ出かけ原画を納品した。

その本が完成したのは三月のオームサリン事件の日だった。
出版社に完成した絵本を受け取りに出かけ、本郷三丁目駅で下車すると、サリンを洗い流した水が通路に溜まっていた。

今、ようやく神戸は復興したが、被災者の心の傷は今も癒えていない。高校まで神戸で過ごした知人は震災前の風景を思い出すと悲しくなると話していた。

 母は昨夜下痢が続き一睡もしていない。
流行のノロウイルスではないようだが、大事を取って散歩は休んだ。散歩に連れて行くようになって体調不良を理由に休むのは二度目だ。椅子に腰掛けている母の足元に電気あんかを入れて暖かくした。母は寝不足で半分居眠りしながらテレビを見ていた。体調は落ち着いているので安堵した。

 午前中、母の散歩がないので一人で買い物へ出た。玄関を開くと冷たい風雨だ。雲は激しく流れ、大気に早春の気配を感じた。遠く、荒川土手の濡れた草地が美しい。ふいに、正月のメッセージの「幸せは経験するものではなくて、あとで思い出してそれと気づくものだ」を思い出した。

一月十八日

 快晴、風に春の気配がある。富士、雪景色の秩父連山、奥白根と関東一円の山々が見渡せた。今日は母の通所リハビリ。その時間を利用して国民年金の前倒し請求の書類を提出に十条の社会保険事務所へ出かけた。

出かけるついでに、デイサービスの先月分代金の支払があったので、施設へ直接母を送り届けた。施設庭の沈丁花はすでに蕾が膨らんでいた。先月まで紅葉の秋景色だったのに、春は直ぐそこに来ていた。

母と別れてから、久しぶりに通勤時間の電車に乗った。
長く夜型生活を続けていたので、この時間帯の電車には殆ど乗らない。朝の光の中を急ぐ通勤の人波が懐かしかった。

京浜東北線の東十条で下車した。大衆演劇の総本山、篠原演芸所のある演芸通り商店街を十条駅へ向かった。狭い路の両側にびっしりと店が並ぶ。朝早いので殆どの店はシャッターが降りていたが、モーニングサービスの喫茶店からコーヒーの香りが漂って来た。

商店街には篠原演芸所のポスターがそこかしこに貼られていた。主演は長谷川一夫とある。「エッ、」と目を凝らすと長谷川一天だった。
付け睫毛白塗り厚化粧の股旅姿でポーズを取っていた。おばちゃん達が嬌声を上げるのは理解できる。

十条で十年近く生活したので隅々まで知っている。十条駅ホーム裏の道を抜けて大通りに出るとすぐに目的の社会保険事務所があった。

事務所の年金相談申請の待合所は四人待ちだった。長時間待たされると覚悟していたので肩すかしを受けた。しかし、直ぐに人が続々とやって来て、あっというまに待合所は一杯になった。

私の待ち時間は三十分程。必要書類は昨日までに揃えていたので、申請は問題なく進み直ぐに終わった。後は四月の支給日を待つだけだ。

ちなみに、七十七歳以上長生きするのなら六十五歳から満額を貰うのが得だ。しかし、それ以前に死ぬのなら、六十歳に前倒して貰うのが得である。さらに、将来年金が破綻するリスクを考えると前倒しが得策だ。

一月二十日

 先日の母の下痢はノロウイルスだったようだ。私も少し遅れて感染したが軽い下痢は直ぐに収まった。しかし、胃の不快感は残っている。年末からの寝不足がたたっているようだ。今日は、散歩は休んで一日休んだ。

昨日は食欲がまったくなく、テレビで料理の画像を見ただけでオエッと吐き気がした。殊に甘いものがダメだった。それが一転して最中を美味しく食べた。この分では明日は正常に戻りそうだ。

午後、気分が良くなったので、一階へ郵便を取りに行った。
エレベーターをおりると、知らない女性が訳のわからない悲鳴のような声を発しながら駆けよって来た。

落ち着かせて聞くと、誰かがこの建物から駐車場へ落ちたらしい。ビックリして行くと、駐車場の屋根がへこみ、男性の頭が見え血が滴り落ちていた。慌てて携帯で119番をかけた。
場所は地上三メートル程の屋根で近づくことは難しい。駐車場の屋根がクッションになって命は助かったようで体は動いていた。
「すぐに救急がきますから、頑張って下さい」
大声で声をかけ続けていると、五分程で、消防車と救急車がやって来た。足場の悪い事故では消防車も一緒に来ることになっているようだ。

警察に事情を話していると、七十代半ばの母親が下りて来た。親子は九階の住人で、落ちた男性は四十八歳無職。精神病院に通院中のようだ。同居している母親が大きな物音で子息が落ちたことを知り、私より早く通報していた。男性は重症だが、命は取りとめるように思えた。正月早々、辛いものを見てしまった。

一月二十三日

 年末から蓄積していた疲労がようやく和らいだ。
しかし、健康感はない。私は元来胃腸は丈夫だったが、最近、 胸焼けや上腹部に圧迫感を感じたりする。もしかして、重大な病気、たとえばガンの予兆ではと心配になる。多分、胃液が逆流して食道に炎症を起こす逆流 性食道炎だ。
対策として前かがみになって仕事するのを避け、寝る時は上半身を少し高くしている。いずれにしても、私も老年に入ったようだ。

 母の深夜の咳はカリン酒がよく効いていて軽くなった。しかし、風邪気味なのはなかなか治らない。その所為か自然公園で歩く距離が短くなった。
考えてみれば、老人は日に日に弱って行くのが当たり前だ。いつまでも元気でいてくれると錯覚していた私が甘かった。

寒空の中、母の車椅子散歩から帰ると、姉が来て掃除をしていた。
急いで昼の支度をしていると、母と姉が話す快活な声が聞こえた。一瞬、母が昔のように元気になってくれたと錯覚したが、姉が帰った後、ベットへ向かう母の後ろ姿は一段と小さく見えた。そのように、人は年を重ねる毎に小さくなって、ある日スーッと消えて行くものなのかもしれない。

一月二十四日

 母は散歩から帰るとすぐにベットに横になった。疲れがひどく吐き気もある。午後四時からユニバーサルデザインの会社からピンセットのモニターを頼まれていた。
「私は大丈夫だから、行って来なさい」
心配している私を母は送り出してくれた。

三番町にある会社へでかけた。場所は日テレ脇をお堀へ向かったあたりだ。渋いグリーンの煉瓦の新築ビルの二階全フロアーを会社は占めている。この会社はデザイン界では勝組だ。

ピンセットのモニターは、町工場の親父になった気分でビシビシ問題点を指摘した。モニターの謝礼五千円は今年初めての収入で目出たい。

五時前に急いで帰宅した。母は留守中に軽く吐いて枕元を汚していた。すぐに、寝間着などの汚れ物を洗った。熱はなく、咳と鼻水だけなので、明日、耳鼻科に連れて行くことにした。

帰りにスーパーで長崎産の新ジャガを買って来た。冷蔵庫にあるのは豚細切れと安物のパルメザンチーズ。新ジャガはすぐに茹で、豚細切れは中華鍋でオリーブ油で炒めニョクマムと粗挽き胡椒で味付けした。
茹で上がったジャガイモは荒く割り、パルメザンチーズと炒めた豚細切れで和えた。シンプルな料理だがとても美味い。更にマヨネーズを加えてサラダにしてみると、箸が止まらない。昨日、胃腸の調子を案じていたが、食い物が美味ければ案ずることはない。美味く食える間は病気は軽いし、口から食える間は人は死なない。

一月二十五日

 お昼前に東京北社会保険病院耳鼻科へ母を連れて行った。待ち時間なしですぐに診察を受けられた。結果は急性の副鼻腔炎。慢性化すると厄介だが、初期なので二、三日で簡単に治ると医師は説明した。

金曜日に家庭医が鼻炎治療のため処方してくれた抗アレルギー剤を服用してから母の疲労感が強くなった。そのことを耳鼻科の医師に話すと、即刻止めるように言われた。

 帰宅してその薬をネットで検索してみた。そこには眠気だけでなく倦怠感が生じるとあった。内心、母の疲労感は肝臓ガン再発の所為ではと気になっていたので安堵した。明日は母の体調は快復しそうな気がした。

一月二十六日

 車椅子を押していると、色んな人が母に声をかけてくれる。
道路工事の交通整理の人。スーパーの警備員。犬を散歩させている人。母が車椅子生活になってから、人との繋がりがいつの間にかできあがっていた。

帰りは赤羽台団地の商店街を通った。団地の小学校は去年の新入学が三名だけで、今年限りで廃校になる。この団地も老齢化が進み、商店街の殆どはシャッターが降りたままだ。

昔、商店街に若い者を使って繁盛していた魚屋があった。秋の頃、私が店の前を通りかかると目の前で店の二代目が地面に音をたてて倒れた。体格は頑強な人で病気とは無縁に見えたが、脳出血で即死に近かった。

二代目には弟が二人いて、兄に代わって店を継いで切り盛りしていた。しかし、その弟二人も数年の内に同じように急死してしまった。その後は、引退していた老夫婦が復帰したが、その主人もすぐに死んだ。

残されたお婆さんはとても強い人で一人で店を切り盛りしていた。
しかし母には本音を漏らしていたようだ。
「どうして、こんなに不幸が続くのか・・」
深く嘆いたお婆さんもいつの間にか店を閉めた。

シャッター通りを行きながら、母はその頃を想い出して「虚しい」と呟いた。
しかし、商店街で旧知の老人に会うとはじけるように元気になった。センチメンタルな感情は母たちには持続しないようだ。

一月二十七日

 今朝、仏壇の水を取り替えていた母はグラリと倒れかけた。その後、少し動くだけで身の置き所がないように疲れると訴えた。肝臓ガンの再発や脳梗 塞が頭を過ぎった。

すぐに東京北社会保険病院内科へ連れて行った。最初に総合内科の診察を受けた。母の病歴を話した後、血液検査と頭のCTを撮った。結果が出るまで一時間かかる。病院庭で時間をつぶして総合内科に戻ると結果が出ていた。

「立派な脳です。九十一歳にしては萎縮がなく、脳梗塞もありません」
医師は母をほめた。安堵したが、明日から神棚と仏壇の水は私が取り替えることにした。それを伝えると、母は寂しそうだった。そうやって、母の仕事は一つづつ消えて行く。

一月二十九日

 赤羽自然観察公園で母は気力を奮い立たせ、いつもの距離を歩いた。しかし、ひどく疲れたようで帰宅するとすぐにベットに横になった。

母は声が大きく、電話をしていると仕事部屋まで話の内容が分かるくらいだ。その母の声は、今は小さくて聞き取りにくくなった。
そんな母でも、顔馴染みに会うと、元気な頃のようにしっかり大きく喋る。今はその気力が救いだが、やがて無理になるだろう。

母の頭はしっかりしているが、最近、居眠りの時間が長くなった。ぼんやりと夢うつつに過ごすことが、迫った死期への恐怖心を和らげているのかもしれない。これは自然の巧みな采配で長命の恵みでもある。

 自然公園の移築中の古民家は敷地の整備が始まった。敷地の前には田圃や自然の木立があり、小さな田舎が再現されている。完成したら暑い真夏に縁側で涼むのが今から楽しみだ。
一昨年に移築工事が始まった頃、母がその完成を見ることはないと思っていたが、なんとか間に合ってくれて嬉しい。

二月二日

 散歩途中に東京北社会保険病院へ寄って、眼科処方を変えて貰った。母は緑内障だが複数の点眼薬のおかげで眼圧も安定し、視野の欠損も進行していない。
担当医師に駒込病院で処方されていた新薬の追加を頼むと快諾してもらえた。同じ事を先日までかかっていた駒込病院ですると1日がかりだった。年寄の病院は近いほど良いと思った。

赤羽自然観察公園に移築した古民家は敷地の整備中だ。民家のすぐ下の水場にはカワセミがやって来るので、その見物客が大勢やって来る。

民家の茅葺きは、風雪に晒されて落ち着いた色合いになった。茅葺きは適度にいぶさないと虫や野ネズミにやられてボロボロになってしまう。それで、トラックの荷台に炉を積んで来て、木材の煙をダクトを使って屋根裏をいぶす業者がいる。費用は一日二十万程らしい。珍しい商売があるものだ。

二月三日

 今日は節分で初午。午前中、母を王子稲荷へ連れて行った。南北線の赤羽岩渕駅は久しぶりだ。

地上からエレベーター。その次は駅員にエスカレーターを操作して貰って改札へ。更にエレベーターへ乗ってホームへ。一見複雑な行程だが、実際はスムースに車椅子はホームへ降りることが出来る。
三つ目の王子駅では駅員の介助なしでエレベーターを乗り継いで地上へ出た。

 風もなく良い天気で初午の人出は多かった。小さな子どもたちが出店に、はしゃいでいるのが可愛い。神社脇の急坂を車椅子を押し上げて本殿へ直行した。車椅子の母を日溜まりに置いて、私だけお参りした。母は楽しそうに参詣客の人波を眺めながら待っていた。

 帰路、今年も無事にお参りできて本当に嬉しいと母は何度も言った。お昼過ぎに赤羽に着いた。商店街で昼食用の食材を買って、緑道公園で休み、持参して来た熱いお茶を飲んだ。目の前で三毛猫がのんびり昼寝をしていた。日射しに照らされた木々に春の気配を感じた。

昼食後、出版社から詩につけた絵の初校が届いた。色校をした画像をメールに添付して送った。昔なら、半日がかりで出向いて色校をしていたが、今はメールで済むので介護をしている身にはとても助かる。

仕事をしていると、ピンボーンと呼び鈴が鳴った。テレビ番組の音なのか、本物なのか判然としないまま玄関を開くと誰もいず、静かな美しい夕景が広がってた。

日が暮れる前に、形ばかりの豆まきをした。それから、太巻きの海苔巻きを、母と吉方の西南西を向いて丸かじりした。その後、ヒイラギに鰯の頭を刺した魔除けをあちこちに下げて、厄よけの豆殻を大鍋の中で燃した。
明かりを消した夕暮れ、赤い炎を上げながらパチパチとはぜる音が懐かしい。このような年中行事は、私一人になっても続けようと思っている。老後は日常を変えないことがとても大切だ。

二月六日

 御諏訪神社脇の宮の坂は急で車椅子の難所だ。殆ど体を水平にしないと押し上げることはできない。押し始めの三年前までは登り切ると息切れがしたが今は平気だ。坂は舗装され手摺りがついているが、昔は凸凹の砂利道で難所だった。近所の年寄りの話では、終戦後間もなくまで坂の下に車押しの人がいて、荷を満載した大八車が来るとわずかな賃銭で車押しを手伝った。これは手っ取り早い失業者の仕事で、昔は貧しかったが、失業者はそのように直ぐに日銭を稼ぐことができた。

今は貧乏人に厳しい社会だ。昨夜、番組でフリーターを特集していたが、時給九百円では家族を養うことはできない。しかも、社会保険等皆無でいつ首を切られるか分からない。そのような劣悪な仕事でも中高年は門前払いで、労働人口は相当に余っている。それでも政府は更に失業者を増やす人口増を図っている。そのような政治に不安を感じる。

散歩から帰宅するとすぐに姉が訪ねて来て、母に近況を喋ると直ぐに帰った。新しい職場は原宿の食堂で、相当に忙しいようだ。しかし、姉は十一時間労働を厭わず喜々として働いている。姉同様に私も仕事好きで長時間労働を厭わない。だから若い人が忙しいと愚痴るとついつい叱ってしまう。

二月十日

 夕暮れ、近所で火災が起きた。消防車がうるさいので外に出ると川向こうから炎が上がっていた。母に知らせると見たいと言うので手を引いて玄関へ出た。
「気の毒だけど、大きな炎は綺麗だね」
母は見とれていた。

昼の暖かさから一転して冷たい強風が吹き荒れていた。直ぐに部屋へ戻るとテレビニュースで火事のことを何度も報道していた。温泉用に千五百メートル掘り進んだ井戸から天然ガスが吹き出て引火したようだ。そう言えば、炎の大きさの割には煙はなかった。その後は大変で、次々と報道のヘリが飛んできて、六機が上空を旋回していた。火事より、空中衝突しないか心配したくらいだ。

火を消すとガスが充満して危険なので、類焼しないように放水が続けられ、20時間後、泥水で封をして鎮火した。被害は広い工事現場の一部で、けが人は出なかった。

二月十四日

 母は元気になり、それまで止めていた編み物を再開した。
一昨年、肝臓ガン手術で駒込病院に入院する前、母は柳行李一杯の毛糸を田舎の知人へ送ってしまった。今考えると、生還できないと覚悟していたようだ。そんな訳で、毛糸が残り少なく、先日、赤羽駅高架下の手芸材料店へ行った。冬の終わりの今は毛糸は値下がりして、十玉入りが四百五十円だった。

生活にゆとりがあるころは、高い手芸材料でも大量に買った。今も二十年前に買った高価な鹿革が丸めて天袋にしまってある。母が最近手芸に使っているビーズも、昔、問屋で箱で買ったものだ。革細工用のカシメも箱で揃っている。紐類は浅草橋の問屋で全色を揃えた。以前は小さな手芸材料店をやれるくらいの品ぞろいがあったが、今の住まいに引っ越す時、殆ど捨てた。

私の夢は機能的な工房を作ることだ。木材から金属素材まで大量に揃えて、旋盤、溶接、鍛冶の道具で色々なものを作りたい。車の運転には興味はないが、コンパクトな和室を備えた車は作ってみたい。和室には畳を敷いて掘り炬燵を作り、その車で冬の北国を旅したら楽しいだろうと想像している。

大木の樹上の家もいい。真夏の午後、梯子で上って寝ころび、鳥たちと同じ目線で昼寝をしたら気持ちよさそうだ。地下室もいい。入り口は何気ない公園の大木の根元で、秘密のボタンを押すと丸い穴がパッと開いて、階段で下りると気持ちの良い地下室がある。ドーモ君とウサ爺の家のような隠れ家だ。

子どもの頃は友だちと山の斜面に穴を掘り、ロウソクを立て、むしろを敷いて隠れ家を造った。今考えると湿気が多く快適ではなかったが、木の根や土の匂いを懐かしく思い出す。それは東京の子も同じで、近所の山の斜面に子どもたちが穴を掘って隠れ家を造って遊んでいた。彼等も私と同じようにドーモ君とウサ爺の家を作りたいと思っていたのだろう。

二月十九日

 母の月二度の定期往診に来た若い黒須医師はとても元気な人だった。
黒須医師は五年前に馴染みの床屋さんの向かいに開業した。

彼を知ったのは郵便受けに往診しますの小さなビラが入っていたからだ。床屋さんに聞くと、親切で患者離れも良いと評判は良かった。それから間もなく、母が風邪を引いたので往診を頼んだ。

迎えに行くと、黒須さんは自転車に往診カバンを積んで、私と一緒に家まで歩いた。母の風邪は大したことはなかったが、高齢で体力が弱っているので点滴したが良いだろうと、彼は診療所に戻って点滴セットを持ってきた。そして、点滴が終わる夜十時過ぎまで付き添ってくれた。患者が少なかった所為もあるが、間違いなく好人物だった。それ以来、診療所前を通る時、入り口に患者の履き物があると、何とか医院をやって行けそうだと安堵した。

 今日の往診日、黒須さんは嬉しそうに入って来た。
「インフルエンザが流行っていまして、忙しくて忙しくて・・・」
とても正直な人だ。
彼の話では、先日のガス噴出の火災を見物に行って風邪をひいた人が多いとのことだった。あの夜は寒い強風が吹いていて、私たちは直ぐに部屋へ逃げ込んだくらいだった。

二月二十一日

 深夜、定期的に母の様子を見に行く。母は寝相が悪く、肩や手を出しているのでその都度掛け布団を直す。目覚めたら「有り難う」と母は礼を言う。寝付けないでいる時は、明日の予定などを話したりする。

眠るにはエネルギーがいる。若い頃は疲れていると二十時間でも眠ることができた。しかし今は無理で、寝入って5,6時間もすれば小用を催して目覚めてしまう。

母の様子を見に行くと呼吸が浅く死んでいるように見えることがある。しばらく枕元で見守って、肩が少し動くと安心する。
自分だけかと思っていたら、父親の介護をして看取った知人も同じ事を話していた。そのように少しづつ死をシュミレーションして慣れて行き、やがて本物の死を受け入れるのだろう。

母は北朝鮮関係のニュースが大好きで欠かさず見ている。昨夕の報道に出ていた脱北した要人御用達の占い師は、二千八年に金正日の命運が尽きると話していた。母はそれは当たりそうだと感心していた。しかし、その時は母は九十五歳で、金正日の死を見ることはできないだろう。

昨夜、母の寝息を確かめてから仕事に戻った時、ふいに郷里での昔の葬式を思い出した。
出棺の時、家族は故人が使っていたお茶碗を玄関で地面に叩き付けて割った。故人への思いを断ち切る意味がある。それと似ているが、一昨年母が入院した時、私は母の身の回りの品の大半を処分した。

不思議なもので、生還できないと覚悟したら母は元気になって帰宅できた。逆に、まだ長生き出来ると思っていると、あっけなく死ぬのかもしれない。世の中、予測通りはいかないものだ。

三月三日

 寒い中、緑道公園でドラネコが死んでいた。近所の人が用意したのだろう、傍らにお棺代わりの段ボールが置いてあった。太った可愛い黒キジのドラネコで外傷も毒物を飲まされた形跡もない。表情は安らかで気持ち良く眠っているように見えた。車椅子の母には、通り過ぎてから教えた。

以前の住まいの庭はネコの死に場所で、幾度も臨終に立ち会い、区役所に引き取って貰った。当時は道路で死んでいるネコはゴミ扱いで、清掃局が無料で引き取りに来た。私の場合は毎度敷地内なので、二千円負担した。清掃局に連絡すると、すぐに緑色のヘルメットと作業服の担当が二人で来て、ネコを綺麗なバスタオルでくるんで両手で抱きかかえ丁重に引き取ってくれた。

人と比べると動物の最期は立派である。誰にも助けを求めず、静かに眠るように死ぬ。もしかすると、人は医学の進歩で却って不幸になっているのかもしれない。母がよく話してくれる昔の人の死に方はどれもとても静かだった。

帰り、緑道公園を通ると、ドラネコは片づけてあった。先日は蕎麦屋の植え込みでカラスが逆さまになって地面に転がっていた。てっきり死んでいると思ったら、声をかけると目が瞬いた。その後、カラスがどうなったのか気になって仕方がない。

予報では、明日は雪が積もると言っている。去年の日記を見ると、雪柳が芽吹き、自然公園のオオイヌノフグリは咲いていた。桜も三月十五日に開花している。この寒さでは、桜の開花は遅れるかもしれない。

三月十一日

 春の雨に洗われた冷たい空気が心地よい。散歩道の濡れた草木を見ると、昔愛用していた"ぺんてる"のクレパスを思い出した。箱のデザインは広い空と大地の風景画だった。

十五歳の春、高校野球の地方大会を見に行った。スタンドの一番高い所に座ると、遠く菜の花やレンゲが咲く風景が見えた。空には雲が流れていて、時折雨が落ちた。その風景は"ぺんてる"の風景画にそっくりだった。野球の試合を忘れ風景を見入っていると、突然、雷が落ち、レンゲと菜の花が広がる畑に巨大な稲妻の柱が立った。

 赤羽自然観察公園の石垣では冬眠から目覚めたメスの青トカゲが日向ぼっこをしていた。丸っこい体に小さな手が可愛い。いつもの日溜まりに腰を下ろし、風の音を聞きながらお茶を飲んでいると、母がお彼岸のお布施のことを言い始めた。昨日、博多の菩提寺から封書が来ていた。内容はお彼岸のお布施の通知だった。

金がある頃は何も考えず振り込んでいた。生活が大変になっても、母の為と思って無理をして振り込んでいた。しかし、最近は腹立たしさが募る。これが病院の払いとか薬代なら、無理してでも都合する。裕福な寺へ貧乏人が無理をして支払う構図はやりきれない

三月二十一日

 昨日の北九州の地震には驚いた。博多には菩提寺があり法事で何度も訪れている。昨日からの報道でも、よく知っている場所が幾つも出た。報道に登場したお彼岸法要をしていたお寺も菩提寺に似ていた。

幸いなことに、寺は一方的に墓地を取り払い納骨堂を建設してしまった。その時は先祖代々の墓を壊されて腹立たしかったが、あの取り壊しがなく墓石が残っていたら地震で倒れた墓の修理費を要求されていただろう。

天神の近くで兄は小さな店をやっている。心配している母に混んでいるから電話をしてはいけないと言ったが、心配なようで何度もかけていた。しかし、総て留守番電話だった。

兄家族は連休を利用して旅行に出かけていたようだ。
今日の昼、帰宅した兄から電話があり、店も自宅も被害は無かったと話していた。旅先から電話をくれれば良かったのに、兄は母が心配していることを想像できなかったようだ。

あの地域は地震空白地域で昔から地震はないと聞いていた。日本に安全地域は無いようだ。奥尻、神戸、新潟、北九州と大陸プレート内の震源は関連があるかもしれない。大地震のレッドゾーンに住む身としては、南関東の活断層にどう影響があるかが気になる。今回で更にストレスが軽減され、発生が遅れれば良いが、そう巧くはいかないだろう。いずれにせよ、地震は思わない場所で起こるものだ。

三月二十四日

 辛夷が桜に先駆けて開き始めた。青空をバックに咲く辛夷は清楚で心が洗われる。
赤羽自然観察公園には新年長組の幼稚園児が大勢来ていた。母が歩いている間、いつものように私は母の車椅子に乗って追いかけた。年長組の子どもたちが車椅子の私に「どうしたの」と心配そうに聞いた。「足が痛いんだ」と答えると心底気の毒そうな顔をした。その無邪気な表情がとても可愛い。

最近母は大変元気だが、食事の量は減った。三年前の手術前と比べると半分に近い。
昔、即身仏になった坊さんは、五穀断ち、十穀断ち、断食と進んで往生した。断食すると死への苦痛が薄れるらしい。母は断食している訳ではないが、自然の摂理で食事量が減って行くのだろう。

三月三十日

 桐ヶ丘の日溜まりの桜が数輪開花した。天気は良くても風は冷たい。それでも、冬服では汗をかくし、薄着では風邪を引く。これからは着るものに頭を悩ます。

母は一月に風邪を引いてから回復に手間取ったが、ようやく元気になった。
深夜、母が呼んだような気がして目覚めることがある。殆どは錯覚だが、希にベッテ脇で倒れていることがあるから気を抜けない。母が車椅子になってからはや三年。悩み多い生活を続けていたら、すっかり、平穏な生活を忘れてしまった。もし、平穏な生活が戻ったら、次は私に様々な問題が起きるのだろう。平穏を願わず、変化を恐れないことが大切なようだ。

四月十日

 桜の花弁がサラサラと舞っていた。今年の桜はメリハリがありいつになく美しい。桜の吹き溜まりでは、子ども達が転がって遊んでいた。

緑道公園では、ホームレスが仲間たちと酒盛りをしていた。六十歳近い彼等に輝かしい老後が待っているとは思えない。そのように、飲んで酔っぱらい、死が訪れれるのを待っているように見える。

 赤羽自然観察公園の青トカゲたちは餌採りに出かけていて、石垣には留守番の数匹が顔を出していただけだった。公園隣りに関東財務局の官舎が完成したこともあり、最近は公園の人出が多く、落ち着かない。

芝生に腰を下ろすと、スミレ、タンポポが花盛りだった。傍らの林の中には炊事棟で使う薪が積んである。その向こうの溜め池からは涼しい風が吹き渡ってくる。悩み多い生活の中、この一瞬だけに開放感を感じる。

最近、仕事がうまくいかず、ちょっとしたことで苛つき、母にあたることが増えた。あと何年も生きることのない母に対して、大人げないが、気持ちとは違う行動をしてしまう。母の世話には苦痛はない。しかし、仕事が減るのは本当に辛い。日に日に真綿で首を絞められていくようだ。

日曜の今日は病院下の空き地で花見客が盛り上がっていた。客が連れて来たミニチュアダックスフンドが花弁の吹き溜まりに鼻を突っ込み、花弁を鼻に付けているのが可愛かった。

四月十一日

 朝から雨で、気温の変動が激しい。夜来の雨で桜は散り、地面をピンク色に染めていた。赤羽自然観察公園へ着くころは、雨はさらに強くなった。公園に人影はない。このところの人出の多さにうんざりしていたので、この静けさは心地良い。

 母は緑内障のために視野欠損がある。母の体質を受け継いだ私も眼圧は高めだ。自覚症状はないが、先日、ゴールドマン視野検査を受けた。異常はなかった。
しかし、去年は歯を一本失った。少し食べ過ぎると胸焼けがする。他にも老いの兆候は多くあるが、母の介護をしていると、調べる気になれない。もしも悪かったら介護に響くので考えないようにしている。合理的ではないが、それが介護する者の心理だ。

四月十四日

 新聞に周恩来のことが載っていた。
若い彼が留学の為、来日した頃、日本は襤褸の国と中国では言われていた。しかし、実際に見た日本は襤褸の国ではなく国民も親切で優しかった。先日、現代の留学生も周恩来と同じ事を話していた。中国は今も昔も同じだったのかと、興味深い。

最近、絵の市場とは距離を置いている。旧知の画廊へも足を運ばなくなった。元々、画商の世界は嫌いなので、距離を置くことに何も感じない。

世界の作品は面白い。特にニューヨーク市場は活気があり納得出来る。
対して日本の市場は停滞そのもので、専門家が推する新人作品も何故か一様に虚無とか倦怠がテーマで楽しめない。虚無とか倦怠がいけないのではない。作家に追いつめられた状況がないのに、流行のようにそのテーマを選ぶことに嘘を感じる。生きることの壮絶な闘いの上で良い作品は生まれると私は信じている。

四月二十三日

 今の新緑は美しい。しばしば、車椅子を押すの止め眺め入ってしまう。しかし昨日、この美しい季節にポール牧は自室から飛び降り自殺してしまった。彼にはこの美しい自然は届かなかったのだろう。

本当に滅入っている時は、美しい風景が平板の味気ないプリントに見える。これは鬱患者や分裂症患者にもある感覚で、医学書によると回りと自分の間を板が隔てているように見えるようだ。逆に、自然を美しいと感じられる時は、人は自殺したりしないのかもしれない。

それにしても、一度でも脚光を浴びた芸人には、仕事が無くなるのは辛いことだ。現実は、大御所のサンマとかタケシを除けば、大半の芸人さんの老後は寂しい。そう言う私だって食うや食わずで大変であるが、幸か不幸か脚光を浴びたことがないので落差は感じない。自殺について触れたが、実際は、生活できなくて自殺する者より、作品が出来なかったり、芸が拙くなって、悲観して死ぬ者が多い。

今日のような天気の良い日は自然公園の田圃脇の土手でお茶を飲む。爽やかな日溜まりで、草の上に腰を下ろした感覚は子どもの頃を思い出させる。
田起こしが終わり水を入れた田圃ではツバメの夫婦が巣作りの為に泥を集めていた。背中の黒い羽が青く光って美しい。
私達に気づいた田圃作りの指導をしている松下さんが、古民家の軒下に巣作りしてくれたらいいな、とツバメたちを目を細めて眺めていた。古民家にツバメの巣は絵に描いたように似合っている。

五月一日

 祖母の命日だ。
自然公園のウグイスカグラの実が赤く熟した。この実は長い期間次々と熟していくので、これから夏まで楽しめる。母に数粒食べさせると甘いと喜んでいた。去年、母は癌病棟からの生還して感慨深く食べていた。これからも毎年、食べる都度、これが最後かもしれないと思うのだろう。

連休の間は遠出する人が多く、近場の自然公園はひっそりしていた。十才ほどの男の子がバケツを片手に「ザリガニをいっぱい捕まえて、バケツに入れたいな・・」と楽しそうに唄いながら歩いて行った。バケツは空だけど、頭の中はザリガニで一杯のようだ。

古民家の座敷では子ども達が年寄りにお手玉など昔の遊びを教わっていた。私は庇の下に母の車椅子を止めて、人のいない縁側に大の字に寝て休んだ。爽やかな風が吹き抜け、一瞬だが、生活のことを忘れられた。このような静けさを毎日味わっていると、たまに繁華街に出ると、とても疲れる。

五月七日

 最近、二時過ぎまで絵を描いているので、寝不足で気だるい。今朝は御諏訪さんの急坂を車椅子を押し上げていると、左ふくらはぎが痙攣するように痛んだ。

散歩途中、母の薬の処方箋を薬局に出した。処方が済むまで、いつもなら立って待つのに、気だるくてソファーに腰掛けて待った。薬の陳列棚を見ると、うんこの匂いが消える薬一回分二百円とあった。腸内細菌を乳酸菌を使って調整するものだろう。以前、海外で評判になっていると、ニュース・トピックスで紹介していた。どうせなら、うんこがカレーの匂いに代わる薬を作ったらいいのに、とぼんやり考えていた。そんなことを考えるのは、寝不足で頭が変になっているからだ。車椅子を押しながら母にそのアイデアを話すと、間違えて食べそうだ、と文句を言った。

自然公園の帰り、駅前に出て、薬屋でハンドクリームを買った。母は化粧用ではなく顔にもハンドクリームを使っている。しかし時々、間違えて私のポマードを顔に塗ってしまう。容器のデザインが似ているからで、今日は間違えないようにアロエ入りのグリーンのハンドクリームを買った。

その後、プルーンの葡萄酒漬けに使う赤ワイン、一・八リットル八百五十円を買った。
酒屋近くの八百八で、群馬の取れたてほうれん草二束二百円も買った。朝露を含んで美味しそうなほうれん草である。

帰宅するとすぐに姉が訪ねてきた。母は「明日は母の日だけど」と、しきりにアピールしていたが、姉は馬耳東風、気付かないふりをして帰った。

五月十二日

 昔の床屋さんは整髪が終わると竹の耳掻きで掃除をしてくれた。
最後の羽毛のポンポンでの仕上げは殊に心地良かった。ある時、理髪学校を出たての床屋さんの娘が整髪してくれた。しかし、耳掃除は慣れていないようで、掃除の後、外耳道に違和感が残った。それから二、三日して痒くなったので耳鼻科に行った。

医師は、外耳道の皮膚はデリケートだから強くいじってはいけない、違和感があっても何もせず放っておけば自然に治る、と教えてくれた。その通り、何もせず放っておいたら数日で炎症は治まった。

それ以来、耳掃除は強く擦らないように気を付けていたが、最近、何となく強く潔癖に掃除するようになった。それで外耳道に炎症が起き痒くなった。

痒みはすぐに治まったが、あの十条の床屋さんの娘を思い出した。美人ではないが、色白でグラマーな子だった。ひげ剃りの時、緊張するのか胸の膨らみが私の二の腕に触れた。だから、調髪が娘にあたるととても嬉しかった。

床屋の親父さんはその頃売れていた噺家の円鏡にとても似ていた。面白い人で、深夜、最後の客を送り出すと、素っ裸になって手ぬぐいを腰に巻き「あらよーっ」と隣の銭湯へ駆け込んだ。今なら問題だが、当時は誰も当たり前と思っていた。私が、それを変だと思い始めたのも、つい最近のことだ。それから間もなく、親父さんは五十そこそこで急死した。

娘は同業の婿を貰った。繁盛している店で、近所の者達は、「店と可愛い娘を手に入れやがった」と話していた。それから間もなく私は赤羽へ引っ越し、その床屋さんとは縁遠くなった。

ビートルズの影響で、その頃から長髪が流行り始め床屋さんは客が激減した。
数年して店の前を通ると、床屋さんは閉まっていた。噂では、婿さんが競馬に入れあげ、サラ金に追われ夜逃げしたと聞いた。それから間もなく隣の風呂屋も廃業してマンションに建て代わった。

五月二十一日

 自然公園の入り口に広場がある。傍らにクワの巨木が大きく枝を広げ、風が抜け、気持の良い場所だ。その広場中央の東屋にはいつも老人がたむろしている。
自然公園へ着くと、一人で休んでいた老人が自然公園にやって来た三十代の夫婦に「今日は暑いね」と声をかけていた。夫婦者は、無言で老人を無視して去って行った。私たちはいつものように老人に挨拶した。老人は嬉しそうに「今日は暑くなりそうだね」と同じことを言った。

公園内で、先程の若い夫婦を追い抜いた。その時、「変な年寄り」と二人が話しているのが聞こえた。世代間の断絶が話題になるが、これがそうなのかと思った。

ヒヨドリの雛の巣立ちの季節で、公園の手摺りには丸く膨らんだ雛が数羽とまっていた。まだ警戒心が無く、私達が近づいても逃げない。それでは危険なので、ちょっと追い払う仕草をすると、不器用に飛んで奥のクヌギにとまった。幼い動物は邪気が無くて可愛い。一説では、幼獣の可愛さは外敵から身を守る唯一の手段のようだ。

緑道公園の墓地近くに羽の折れたカラスが冬から住み着いている。近所の人が哀れに思い餌をやっているようで、まだ元気だ。その近くのお婆さんは「あら、カラスさんは元気だったのね」と声をかける。カラスは目をクルクルさせて小さく鳴く。この関係を見るとホッとする。

五月二十三日

 爽やかな日射しだ。白シャツに白のジーンズと夏姿に変えた。
「白づくめだね」
母は言ったので「死に装束だ」と言いかけて「巡礼姿だ」と言い直した。

緑道公園では、いつも出合うホームレスたちが酒盛りしていた。
「あの時、先々の事を考えていたら、こうはならなかったのに」
一人が愚痴り始めた。すると、他の一人が「今更言って何になる」と説教を始めた。
これは毎度聞く同じパターンだ。彼等の会話はいつも一点を中心としてグルグル回っているばかりで、外へ広がらない。彼らはそうやって老いて、一生が終わるのを待っている。

 自然公園では、ネコとカラスに雛を奪われたカルガモが鳴いていた。危険を学習して、来年から安全に子育てしてくれることを願った。

古民家には小さな女の子を連れた若い父親が来ていた。私はいつものように母を土間に置いて、座敷で寝ころび、爽やかな新緑の風景を眺めていた。
背後の縁側から親子の会話が聞こえる。親子は濡れ縁の拭き掃除を始めた様子だ。
「雑巾がけをすると、まっくろくろすけが引っ越すんだよね」
女の子は雑巾がけをしながら"となりのトトロ"のことを話していた。
「そんなに頑張ると、体が痛くなっちゃうよ」
父親は優しくたしなめた。
「平気だよ」
女の子はかいがいしく土間の台所へ水くみに行った。
「トトロ」の小さな女の子メイと「千と千尋の神隠し」の千尋に自分を重ねているようだ。
縁側からのそよ風に吹かれ、親子の会話を心地よく聞きながら、私は一瞬、眠ってしまった。

六月六日

 緑道公園を通ると、いつものように、スズメ達が餌をねだった。集まって来たのは七、八羽で、遅れて来た一羽が母の目の前をかすめて飛んでいった。母は一瞬、木の葉が舞ったと錯覚していた。
「スズメは小さくて、大きな蛾くらいしかないね」
私が言うと、母は昔のことを話し始めた。
田舎暮らしの頃、夕暮れになると明かりを求めて裏の畑から蛾たちが飛んできてバタンバタンと音をたてて障子にぶつかった。スズメ蛾はその名の通りスズメ程の大きさがあった。私たちは食卓に蛾の鱗粉が舞わないように、大騒ぎして捕まえていた。母はそんな夕暮れの大騒ぎを懐かしく話した。

 いつものように、古民家で休んでいると、老人の先客がいた。
いつの間にか話しかけられて、昔の話になった。話の内容から、私より少し上のようだ。赤羽の在の人で、昔の赤羽の様子を聞けて面白かった。
赤羽台団地が出来る前は米軍の用地で、子どもだったその人は鉄条網をくぐり抜けて、鉄クズや薬莢を拾って、お小遣いにした。時々、米兵に見つかるが、彼等は子どもには優しかったようだ。それは、金へん景気の朝鮮動乱の昭和二十五年〜二十八年の頃だ。

私はその頃、南九州日南市大堂津にいた。私もその人と同様に鉄クズや銅線を集めては小遣いにしていた。当時は砲弾等に使う非鉄金属の高騰は凄まじく、銅線を夏みかんほどに纏めたものを三十円程で買い取ってくれた。日雇い日当が二百五十四円の頃で、子どもには大金だった。

その頃、海岸の沖合の岩礁に帝国海軍のイ号潜水艦が赤錆びて座礁していた。そこに朝鮮特需が起きて、子どもも大人も潜水艦に砂糖にたかる蟻のように群がって、あっという間に、潜水艦は消えてしまった。

六月十二日

 今日は蒸し暑い。自然公園で母は元気に歩いていたが、帰ってくると疲れたと横になってしまった。最近元気だったので心配だ。しかし、お昼は普通に食べてくれた。食べられるなら心配するほどのことはない。
これから本格的な夏を思うと、無事に乗り越えてくれるか心配だ。医師はクーラーを薦めるが、経済的な理由だけでなく、空調は一気に弱らせてしまう恐れがあるので避けている。
去年の猛暑に自然公園行きを止めてクーラーの部屋で過ごした老人の殆どは、二度と来なくなった。彼らは、ただ、死を待つだけの生活に変わった。

 今日は同窓会である。九州からの夫婦での参加が多く、そのまま団体でアメリカへ行き、二次会はロスでやるらしい。それで、二百人程の盛会になりそうだ。だが、私は出席しない。友人達は参加費はいらないから、東京の同窓会だけでも出席しろと言ってきたが、人の情けにすがっていては楽しくない。

そんなことを考えていると、昔の同窓会での出来事を思い出した。それは絵描きに転向して間もない頃で、作品カードを持参して同窓生に配った。そして会が終わり、私は忘れ物があり会場に戻り、テーブルの下を探していると、私の配ったカードが破り捨ててあった。にこやかに受け取り、頑張れよと言った中に、内心、反感を持っていた者がいたようだ。

六月十九日

 散歩道で車椅子を押す婦人によく会う。乗っているのは交通事故で重度の障害を負った息子である。ご子息は大柄で彼女が押すのは大変そうだ。

今日は生協で、一人で来ていた彼女と出会った。訪問入浴の日で散歩はないらしい。私が買い物している間、彼女は母と話し込んでいた。子息は三十代後半、頭半分を縦断する大きな傷跡があった。彼女の話では、十年前の交通事故の跡だ。彼女は今も、事故のあった午後3時になると胸がドキッとすると話していた。それは、若く将来豊かな青年の交通事故を知らせる電話があった時間だ。その一瞬から、彼女の人生は激変し、平和で静かな生活、息子夫婦と孫達に囲まれた穏やかな老後、それらの夢が一瞬に失われてしまった。

経緯は違うが、脳障害を持つ四十代の子息の手を引いて自然公園に散歩に来る、老夫婦とも出会う。障害を持つ息子を残して、先に逝かねばならない心境はさぞ辛いだろう。
それでも、家族はかけがえのないものだ。厄介で手が掛かる存在であっても、生きて行く心の支えになる。それは、母の介護を始めて分かったことだ。

六月二十四日

 今日は三十一度を超えた。紫外線に弱いので、Tシャツの上に長袖のシャツを羽織る。しかし、長袖で炎天下を車椅子を押すのはとても暑い。帰宅するとすぐに水シャワーで汗を流す。その後、雑用を終わる頃に耐え難い睡魔に襲われる。それで三十分程午睡を取る。しかし、目覚めると体がだるく気力が湧かない。最近はその対策として大掃除をすることにした。不思議なことだが、大掃除を始めると体がピリッと引き締まる。不要なものをゴミ袋へ放り込むのは快感に近い。

 今日は、カセットテープを大きなゴミ袋一杯捨てた。他にテレホンカードも大量にあった。殆どは少し使っただけのカードだ。全くの未使用なら換金できるが、捨てることにした。
昔、知人に法人向けのテレホンカードの会社を経営していた者がいた。羽振りが良くて、会うと仕事なら幾らでも出すと豪語していた。当時は私も羽振りが良かったので、仕事を貰うことはなかった。その彼は今、行方不明になっている。
街頭で貰ったティッシュも山のように出てきた。これは全部中味だけを大きな箱に入れた。箱入りティッシュに換算すると三箱分はあった。

 昔、大変世話になった方の形見の腕時計も出てきた。命日は二日前の六月二十二日だった。去年は色々あって墓参りはできなかったが、今年は、母の通所リハビリの間に墓参りすることにした。
合理主義だけでは、ささくれ立って疲れる。自然公園の古民家を訪ねる老人達も、忘れていた死者達のことを懐かしく思い返している。古びた柱や天井に篭もった死者達の記憶を思い返すことは心地よいことだ。

この夏は、古民家に小学生が体験宿泊をするらしい。その時、使用する蚊帳が中二階に用意してあった。子供達にはさぞや楽しい経験になることだろう。想像していると、子供の頃の寝る前の蚊帳吊りが蘇った。ふいに蚊帳の麻の香りがして、快活で底抜けに楽しい時代を次々と想い出した。

七月六日

 昨夜は涼しく、全開の窓から冷たい風が容赦なく吹き過ぎた。それでも、夏の思い込みで、気温二十二度なのにバスタオル一枚で寝入ってしまった。
その所為か、変な夢ばかり見ていた。夢の中で鍋物をつついてくれたが、鍋物はちっとも熱くない。外を見ると雪景色。いつもなら目覚めて、夏布団を取り出すのだが、朝まで寒い夢を見続けていた。連日、ホームページの手入れを続けていたので、疲れていたのだろう。お陰で散歩に出ると鼻がグスグス始めた。

外は冷たい雨だ。暑いと雨コートは蒸れて閉口する。しかし、冷たい雨は車椅子を押すには助かる。公園に着く頃に雨は止み、薄日が射した。そうなると暑いが、鼻風邪に良い。いつの間にか鼻のグズグズは消えていた。

 アスベスト被害を連日報道しているが今更遅い。私も昔、彫金をやっている頃にアスベストを扱っていた。アスベストを石灰で固めた板に細工物を置いて熱した。これは断熱性に優れ、とても使いやすく雑貨屋でも売っていた。家庭ではちぎって水で練り、竃やストーブの煙突の目張りに使った。学校でも、理科の実験でビーカーを熱する時、ガスバーナーとの間にアスベスト金網を置いた。金網の中央に貼付けてある白い円板の部分がアスベストである。屋根のスレート瓦もコンクリートにアスベストを加えたもので、軽くて丈夫だった。他に、石膏ボード、ヒューム管、水道のパッキンと、大量に使用されていた。

その中で一番目についたのは、断熱用に建物の梁柱天井に吹き付けたアスベストだ。十年前まで、池袋東急ハンズはアスベストが吹き付けられた天井がむき出しになっていた。私はそれが厭で、池袋の東急ハンズへ行かないようにしていた。

昔の鉄筋コンクリート建物なら総てアスベスト断熱材が使ってあると考えて間違いない。今、散歩道沿いの保健所を壊しているが、工事過程で近隣民家に相当量のアスベストが飛散したはずだ。

アスベスト肺の怖さはは戦前から知られていた。昔、私が出入りしていた、池袋の石綿屋さんは石綿の保管場所と事務室はガラス窓でしっかり隔ててあった。それでも、従業員は大量に粉塵を吸ったはずだ。これから、様々な職種から中皮腫が多発しそうだ。

七月十一日

深夜、母からのブザーがけたたましく鳴った。この電子音は嫌いだ。慌てて母の部屋へ行くと、咳が出て眠れないと言う。咳は仕事部屋まで聞こえるはずなのに聞こえていない。しかし、母は気管支辺りが苦しいと訴える。母は精神的に脆いところがある。気のせいだと思ったが、ムコダインを二錠飲ませた。これは痰の排出を容易にする作用があり、副作用も少ない。

後で見に行くと母は死んだように寝ていた。いつものことだが、本当に死んだのではと暫く眺めていると、腹の辺りがかすかに動いた。更に三十分後に見に行くと手の位置が変わっていた。

母の咳は最近増えた。時折、肺か気管支にガン転移かと、厭なことが頭に浮かぶ。しかし、悪くなっても何もしないことにしている。母に長生きして欲しいが、もうすぐ九十二歳の母を思うと無理な願いだ。だが、唯一の家族を失う寂しさは大きく深い。

教育テレビの日曜美術館のテーマは「家族」だった。登場した昔の作品は心温まる作品が多かったが、現代作家の作品は頭でっかちで、素直でなく魅力がなかった。
私は独り身なので家族の良さがしみじみと分かる。

七月十四日

 昨日は盆の入りで、絹張り提灯を出した。
「一年が過ぎるのは早いね」
ベットの母がつぶやいた。遠くに遠雷が聞こえた。暗くなっても、開け放った窓からセミの声が聞こえた。今年の夏の暑さは過酷だ。医師からクーラー設置を薦められているが、涼しさに慣れると暑い散歩に耐えられなくなる。だから、母が耐えられるかぎりクーラーなしで過ごそうと思っている。

 出がけ、車椅子にクモが巣を張っていた。一晩がかりで苦労して巣を張ったのだろう。可哀想だが取り除いて母を乗せた。母の腎臓の精密検査に東京北社会保険病院に行った。予約時間にピッタリに検査が始まった。造影剤を点滴しながらレントゲン撮影をして、腎臓から膀胱への経路の画像を調べた。結果は尿路系に腫瘍はなし。腎機能も年相応。尿中の癌細胞検出なし。良い結果に心底ホッとした。来月の、母の九十二歳の誕生日は無事に迎えられそうだ。

八月六日

 昨夜、寝付けないまま朝を迎えた。暑さの所為ではない。何となく違和感があるので体温を測ると三十八,五度。しかし、脱力感はない。ただ、体の節々が痛む。他に下痢気味。何か食べ物が悪かったようだ。母の世話があるので早く治す必要がある。色々迷った末、融通が利く家庭医の黒須さんにかかることにした。

医院まで二キロちょっと、炎天下を歩いていけたから大した病ではない。黒須さんの診断はウイルス性の腸炎。抗菌剤が出たので、医院ですぐに飲んだ。
幸いにも今まで大過なく過ごしてきたが、母を私一人で世話をしているとこんな時、とても困る。しかし、抗菌剤のおかげで午後には微熱まで下がった。洗濯をして、台所を片づけた。昨夜寝ていないので、横になるとすぐに寝入った。体温が高いので、猛暑なのに暑さは感じない。風邪の熱と違い、疲労感が無いのが幸いだ。

八月七日

 熱は下がったが、疲労感が強い。暑さと体熱が合わさって頭の芯までボーっとしている。しかし、母の世話は休めない。お昼前に買い物へ行き、昼食を作る。それから洗濯、雑用と気力を振り絞ってこなしている。つくづく健康は大切だ。今まで、介護生活を維持できたのは私が丈夫だったからだ。

体調が悪くなれば休める。このごく普通のことが私にはできない。姉に手助けしてもらえば楽だが実際には簡単ではない。災害対策の訓練と同じで、事前にシュミレーションし、訓練しないと、突然には何も出来ないのである。母を介護施設に預けることも可能だが、事前に申請しないといけない。結局は健康に注意を払い、そのようなことにならないようにするほかない。

八月八日

 ようやく、朝の体温が平熱になった。しかし、抗菌剤の副作用で全身に発疹が出た。途中で止めるのは冒険だが、思い切って服用を止めた。悪くすると耐性菌が生じ厄介になる。夕刻まで様子を見ていたが、悪化の気配はなく安堵。

午後から再び体温は微熱になった。しかし、休むわけにはいかない。締め切りの仕事もある。仕事と母の介助をしながら、いつものように、買い物、料理、洗濯と雑用をこなした。

八月九日

 今日は通所リハビリで母を預ける日なので、久しぶりに楽ができる。体温も平熱に戻った。施設の車が迎えに来る前、川沿いの道を、体慣らしに車椅子の母を押した。涼しくて良い朝だが、後遺症の足の薬疹がひどく、ズボンで擦れて猛烈に痒い。そのまま川向こうの商店街へ行き、開いていた薬屋で抗ヒスタミン軟膏を買った。私の経験ではこの薬は殆ど効かず、ただの気休めだ。母は先週の金曜以来の車椅子なので気分がいいと喜んでいた。

送迎車に母を乗せ、急いで帰宅してシャワーを浴びた。痛痒い足の発疹を冷たい水で冷やすと気持ちがいい。シャワーの後、湿り気が残っている内に買ってきた抗ヒスタミン軟膏をたっぷり塗った。この手の湿疹は湿度を保つことで治りが早い。

八月十二日

 母の散歩を休んで、昼前に東京北社会保険病院の皮膚科へ行った。
待合室には私の前に六人程。十二時前に私の診察。医師にこれまでの経過を話す。診断も治療も私の予想通り。原因は先日飲んだ抗菌剤のクラビット。この副作用に日光皮膚炎がある。私は元々日光過敏症だったので、それが過剰に出てしまった。発疹が出てすぐに診察を受けていたら簡単に直ったが、仕事のおかげで悪化させてしまった。これで、仕事がうまく行かなかったら、泣きっ面に蜂である。

アレルギー反応は、免疫システムが暴走した結果だ。不愉快な反面、ガンにかかりにくいという説もある。人体は面白いものだ。赤い発疹に、ステロイド軟膏を擦り込みながら、私の皮下で仮想の敵に戦いを挑もうとヒスタミンを大量に放出続けている肥厚細胞のことを考えた。

 三十代の頃、肥厚細胞には随分ひどい目にあった。そのきっかけは夏、浅間へ行ってからだ。帰って来ると腕にポツポツが出ていたので、市販の軟膏を塗った。すると翌日には腕が腫れ上がるほど蕁麻疹がひどくなってしまった。皮膚科に行ったが、全く改善せず、結局何もせず放っておいたら、秋口に綺麗に直ってしまった。以来、夏は恐怖の季節になってしまった。あれから、上手く管理し続けて、発疹とは無縁になっていたのだが、今回は悪条件が重なっていた。

医師の処方したのは最強のステロイド軟膏。医師は不安があるようで、血液と尿検査の指示の後、酷くなったら拙いので、土曜に来て下さいと言った。血液で体内のアレルギーの状態を知りたいようだ。今回のクラビットの日光皮膚炎は典型的なものだ。医師は隣室の若い女医さんをよんで説明した。女医さんは興味深げに私の発疹を観察していた。

土曜に行った時、血液と尿検査の結果が分かる。どこか悪いところが見つかるかもしれない。そうなるとすぐに病人の気分になってしまう。だから私は病院が嫌いである。

八月十四日

 最強のステロイド剤のおかげで薬疹は見事に引き始めた。
今日は一週間ぶりに母の車椅子を押した。涼しいので散歩再開には良い日だ。行く途中、東京北病院の皮膚科に寄った。九時前、待っているのは三人だけ。二十分程で再診。発疹はかなり改善しているので診察は一瞬終わった。気になっていた血液、尿検査では腎臓も肝臓も異常なし。検査結果はコピーしてもらった。

無理はせず、自然公園へまで行かないで手前の緑道公園で母を散歩させた。昨夜の雷雨に洗われた、深緑の静かな歩道は気持ちよい。母は久しぶりに爽快な表情をしていた。
帰りは生協で買い物。回り道はせずまっすぐ帰宅した。お昼の支度や雑用をしていると姉が来たので三人で昼食を摂った。

八月二十六日 母九十二歳

 台風一過、予報は外れ雨はない。富士から奥秩父、浅間、奥日光とくっきりと見えた。今日は母の整形外科でのペインクリニック。お昼まで大荒れの天気予想を信じ、昨日ヘルパーを断ったので私が連れて行くことにした。

川向こうの整形外科は近い。大気は南の湿潤な風が吹き込み蒸し暑く、十分ほど車椅子を押しただけで汗が吹き出た。
老人たちは病院行きを躊躇したようで、待合室は空いていてすぐに母の順番が来た。神経ブロックの治療は時間がかかる。処置室のベットに母を寝かせ、私は一旦帰宅した。

昨夜はあまり寝ていない。自室で少し仮眠を取るとすぐに終わったと電話が入った。急いで病院へ戻る。前回の血液検査の結果が良かったと母は上機嫌だった。
「正喜も、先生に聞いておきなさい」
母は言うが、待っている他の患者さんに悪いので、先生には会わずすぐに連れて帰った。

途中、橋の下でホームレスが寝ていた。昨夜はそこで雨風を避けたようだ。今時の身綺麗なホームレスではなく、伝統的な垢まみれ、髪も髭も伸ばし放題のホームレスだ。精神に異常をきたしているようで、坂道の下りへ頭を向けて平気で寝ている。蒸し暑いのに真っ黒く汚れた毛布にくるまっているのも変だった。

川の水量はさして増えていない。台風の都度、荒川河川敷に設置してある私の彫刻「雲おやじ」が無事か気になる。風圧を逃がすように金網で作り、構造の骨格も頑丈にしてあるので風には強いが、増水して水圧が本体に当たると厳しい。しかし、幸いにも水量の増加は少なかった。

九月四日

 日中は蒸し暑かったが、午後、埼玉に降った驟雨のおかげで涼風が吹き始めた。夜になった今は、赤羽も激しい雷雨に見舞われ、風は一段と心地よい。

今日は自然公園の帰り駅前に出た。小泉さんが応援演説に来るらしく、物々しい警備と雑踏である。苦労して駅前広場の雑踏を抜け、ダイエーでアガリスクを買った。帰りは駅前広場を避け、裏道を通ったが、駅前へ向かう人波は絶えず、裏路裏まで警官が警備している。さすが、一国の宰相の警備は厳しい。ミーハー的に小泉さんを見てみたかったが、母は小泉さんよりペットショップのハムスターが見たいと言った。

ペットショップでは豆みたいに小さなハムスターたちがゲージの一角に集まり押しくらまんじゅうをしていた。彼等は狭い場所が大好きだ。騒然とした世相に比して、ゲージの中のハムスター達の平和な姿に和んだ。暫く眺めて、帰りは緑道公園へ出た。

途中、緑道公園の石垣を蛇が登っていくのを見つけた。母は怖がるが私は好きである。蛇はじむぐりのようだ。じむぐりは優しく平和的な蛇である。主食はネズミで人の役に立つ。
ジムグリは石垣の躑躅の植え込みの中へ隠れたので、覗くと私に見つかるまいと微動だにしない。その慎重さのおかげで大都会の密集地でも生き延びて来られたのだろう。健気な姿に胸がジーンとして「がんばって生き抜けよ」と声をかけた。

以前住んでいた我が家の物置には二メートル以上の青大将が住み着いていた。その抜け殻は今も大切に桐箱に樟脳と一緒にしまってある。
炎天の路上で、その青大将が脱皮を始めているのを見つけた。人に見つかったら大騒ぎされるので、脱皮を手伝った。そのおかげて、尻尾の先から頭まで、欠損なしに手に入れた。その青大将も私達が引っ越した後、解体業者によって物置ごと壊され、犠牲になってしまった。東京の蛇たちは本当に可哀想だ。

九月十八日

 仕事が入って平和な毎日を過ごしている。節約すれば来年三月まで生活できそうだ。サラリーマンから見れば不安定だが、フリーの私には希な安定した状態だ。おかげで、毎日の散歩も心地よい。今日は緑道公園を歩いていると祭囃子の音が聞こえた。静かな散歩道に響く笛や太鼓の音が懐かしい。

 自然公園の古民家は親子連れが多かった。座敷では小さな子供たちがおはじきなどの昔の玩具で遊んでいた。子供達はシンプルな昔の遊びがとても楽しいらしく、座敷から帰りたがらない。お母さんがせかせると「お留守番しているから、行ってもいいよ」と可愛く応えていた。何もない畳と古い木材で出来た空間が子供たちには心地よいらしい。縁側には月見団子とススキが飾ってあった。今日は十五夜だ。好天なのですっきりした月見ができそうだ。

 先日、絵描き仲間が電話してきた。相変わらず生活は大変な様子。しかし、色々雑談している内に最後は絵描きは精神的にタフだと言った話に落ち着いた。私達は作品は極めて繊細に制作するが、生活者としては大雑把でタフだ。好きな仕事の為なら少々世間体の悪いことでも出来る。それは物書きも同じで、知人の小説家は仕事で絡んだ企業を脅して金をせしめていた。アーティストと言うと品の良い仕事に見えるが、実はやくざな仕事だ。何しろ役に立たないものをお金にするのだから、やっていることは詐欺師と大差ない。

とは言えアートは文化の根幹を成すものだ。その国の文化はその国の工業製品に付加価値を生み出す。たとえばトヨタがベンツやフェラーリにいくら技術的に追いついても、ユーザは本心から敬意は示さない。それは車文化の蓄積の差だ。

九月二十二日

 今日の涼しさはひさしぶりで、懐かしさを感じる。最近の夏は、三十年前と比べると二ヶ月は長く、かって経験したことがない猛暑だ。落ち着いていた石油が反騰し始め一バレル七十ドル超しは時間の問題だろう。おかげで日本の貿易収支は近々赤字になりそうだ。しかし、石油が際限なく高騰することはできない。いずれ代替え燃料の割安感が起きて、下がり始めるはずだ。問題なのは最大消費地のアメリカ国民の省エネ意識だ。巨大な家を隅から隅まで冷暖房するやり方はもう許されない。たとえば、日本のような小さな家で炬燵を使うやり方は大変合理的だ。

 知人のドイツ人は炬燵が好きで、ドイツの家でも炬燵を使っている。彼女は一人暮らしで洗濯機と冷蔵庫も日本製を愛用している。容量の大きなドイツ製は単身者には向かない。加えて日本製の静音設計も気に入っているようだ。日本は枕元に冷蔵庫を置くことがあるので、静音設計が進んでいる。
炬燵の暖かさは外国人にも心地よいものらしい。先日町中で、貰い物らしい炬燵を意気揚々と持って帰る外国人一家に出会った。

九月二十三日

 休日の自然公園には隣の団地から若い親子が沢山遊びに来ていた。自然公園に来ている人達は伸びやかで楽しそうだ。両親と歩いていた四歳程の女の子が「こんにちわ」と母と挨拶して、嬉しそうに駆け寄って来た。彼女は母が腕にしている自作のビーズ細工に触れて「まあーステキ」と誉めた。「この子はビーズ細工が大好きなのですよ」と母親が嬉しそうに話した。女の子は「どうしてこれに乗っているの」と車椅子のことを聞いた。「腰が痛いの」と母が答えると気の毒そうな顔をした。

公園の流れでは子供達がザリガニ釣りをしていた。傍らでは老人達があれこれ釣り方を教えていた。古民家の座敷でも子供達が遊んでいた。寝転んでいる私の耳元を子供が行き来するので、いつものようにのんびり出来ないが、子供達の声が楽しい。

古民家下の田圃はすっかり実って、穂の重みで倒れそうだ。
「早く、稲刈りしないと倒れちまうな」
公園に来ている農家出身の老人たちは気が気でない様子だ。来週あたり、近隣の小学生の稲刈りがある。

九月二十四日

 午前中、時折、大粒の雨が落ちた。車椅子押しは暑いが、今日は涼しくビニールコートが蒸れないで助かった。濡れた自然公園は秋色が冴えて美しい。黄色みががった草むらの各所に彼岸花の紅が鮮やかに映えた。近づく台風を予感しているのか、スズメ達はいつもより熱心に餌をねだった。足元まで近づいて私たちを見上げながら餌をねだる幼鳥たちが可愛い。

帰る頃、雨は強くなった。早く帰りたいので、住宅地の中を近道した。近道の風景は少し見ない内に空き地が増えていた。その一つは以前は古いアパートだった。二階の角部屋に髪も髭もぼうぼうの異様な風体の若者が住んでいて、昼夜なく大音量で音楽をならしていた。あれは住人を追い出す為に雇われた者だった。しかし、無理に更地にしても良い値では売れない。駐車場に変えても借り手は少ない。バブルの頃、このような土地余りの時代が来るとは誰も予想していなかった。統計では現在日本の住宅の一割は空き家である。空き家率は年々高まり、10年後は二割を越すと予測されている。私は人が少なくなって、街が静かになるのは好きだ。

 昨夕、テレビで定年後、田舎で暮らす定年退職の熟年たちを取り上げていた。しかし、東京が静かになって行く現実を見ていると、田舎へ行く必要はなさそうだ。私は雑然とした都会風景が好きなのでなおさら離れたくない。都会の人間関係に疲れて田舎に行くのは誤りだ。田舎の人情味に幻想を抱いて脱都会をして、再び東京へ戻ってくる人は多い。田舎は人同士が助け合う反面、義務も多く人間関係は煩雑である。

 帰宅すると鍵が開いていて姉が来ていた。姉は原宿の店を辞め、池袋に再就職したことを報告した。今の店は悪くはないが、重い什器を持つことが多く腱鞘炎をおこしてしまったようだ。幸いにも景気が好転して、姉の転職も直ぐに決まった。年金が殆ど無い我々は死ぬまで働き続ける他ない。

十月一日

 日射しが強く汗をかいた。九州では三十二度になった。十月にこの暑さは異常だ。途中、緑道公園の木影で休んで冷たいお茶を飲んだ。貰い物の玉露を抹茶にして冷水に溶いたもので、とても美味しい。
休んでいる目の前の地面にオレンジと黒の縞の大スズメバチがいた。大きなカマキリを軽々と押さえつけ肉団子を作っている。強いカマキリでも、大スズメバチから見ると子羊みたいだ。しかし、その凶暴な大スズメバチを小さな日本ミツバチはやつけてしまうのだから自然はすごい。

 散歩から帰宅すると姉が来ていて、玄関を開けて掃除をしていた。私は三人分の昼食を手早く作った。最近よく食べる一つに、ブナシメジとシラスを入れた大根下ろしがある。ブナシメジは電子レンジで加熱する。シラスは九州から送って来た堅く干し上げたものを使う。他にカボチャの甘辛煮付け、鱈と昆布の煮付け、人参とレンコンの金平。メインのうどんにはカニかまと精進揚げととろろ昆布と茹でほうれん草。母も姉も美味しそうに食べていた。このような伝統食のおかげで母は元気である。

十月九日

 外は肌寒い雨、母のカーデガンを出すと脇が綻びていた。
「さんどがんのかくさん、死なさった、あー忙し、あー忙し」
母は小声でつぶやきながらつくろった。出がけに針を持つと縁起が悪い。母の郷里久留米では、そのまじないを三度唱えると厄よけになると信じられている。かくさんは奥さんの意味だが、さんどがんの意味は母にも分からない。もしかすると、母の記憶違いかもしれない。

 雨の中、母に雨具をかぶせて散歩へ出た。御諏訪神社横の急坂は濡れると滑りやすいので気をつけて登った。車椅子を全身の力でそろそろと押し上げていると、足音が近づいてきた。
「お手伝いしましょうか」
若い女性の声だ。顔を上げると、清楚な女性の顔がそばにあった。
「ありがとう。でも慣れていますので大丈夫です」
即座に答えたが、女性の手はすでにハンドルをつかんで押していた。私はどぎまぎしてしまった。坂上まで押し上げ、母がお礼を言うと女性はうれしそうに去って行った。

 雨の赤羽自然観察公園の古民家には誰もいなかった。板の間をトントンと歩く自分の足音が大きく聞こえた。座敷で横になると軒先から落ちる雨だれの音が心地よく聞こえた。天井のシミを見上げながら、ぼんやりと行きがけの女性のことを考えた。もしかすると一人で休日を過ごしているのかもしれない。あの時、立ち止まって、色々話したら名前を聞けたかもしれない。そのような妄想をめぐらせていると、いつの間にか雨が止んで青空が見えた。出かけの母のまじないが効いたようだ。

十月十六日

 朝、玄関前で母の車椅子の用意をしていると、新河岸川対岸から救急車のサイレンが聞こえた。見ると、パトカーが停車していて、警官が住人達に質問をしている。場所は古い低層の公団団地である。やがて、団地から担架が運ばれて来た。掛けられた薄緑の布の膨らみは薄く老人の様子。担架は収容されたが救急車は発車しない。どうやら既に亡くなっていたようだ。住人たちへの警官の聞き込みは十分程続き、ようやく救急車は出ていった。一連の動きから見ると変死である。もしかすると孤独死かもしれない。母を車椅子に乗せ出発する頃には、何もなかったように団地の路上から人影は消えた。

人はいずれ死ぬが、死に方は様々だ。アフガニスタン地震では四万人近く亡くなった。生き埋めでの死は閉所恐怖症の人には想像するだけで息苦しいだろう。極限状態では人の知恵は逆に苦痛を増すように働く。野生動物のように、目の前の現実だけに耐えているのなら楽だが、凡人はそうはいかない。

入定という生き仏になにる究極の修行がある。自らの意思で生き埋めにして貰い、静かに仏の世界へ旅立つのである。これは壮絶な苦行を重ねた者だけに出来ることだ。昔読んだ文献に、苦行を重ねる内に恍惚感を覚えるようになる、とあった。入定する僧はそれに近い感覚だったのだろう。そんなことを考えながら、冷たい雨の中自然公園へ向かった。公園は静かだった。この雨に濡れた初秋の自然を見ると心が洗われ、重く心を占めていた死が消え去った。

車椅子を押していると、母の杖につけた鐘の音に誘われて、今年生まれの若いスズメ達が餌を貰いに来た。初めて冬を越す準備なのだろう。成鳥になると現れる胸毛の黒いネクタイがまだなく、白いふっくらとしたマシュマロのようなお腹が可愛い。彼等の寿命は二、三年である。それでも、スズメ達は生き生きと生きている。彼らを見ていると、生きていることが本当に素晴らしく思える。

十一月六日

 昨夜、仕事をしていると母の咳き込みが聞こえた。なかなか止まらないので、急いで駆けつけ、背中をさすった。母の寝間着の肩に自分でしたつくろいがあった。昔と比べると針目は粗くて大ざっぱだ。仕事は粗くなったが、母の手芸好きは変わらない。今はビーズ細工の腕輪を一日二本のペースで作っている。粗製濫造なので、半年で三百本は溜まった。母の元気な頃は、人形作り、仏像彫刻、編み物と熱中していた。今の住まいに引っ越す時、大量の人形は持って行けないので大半を私が庭で燃した。灰の中に人形に塗った胡粉が骨のように燃え残り、胸が痛んだ。

自室へ戻ってから、寝室の母の様子が分かるようにテレビを止めた。静かになると微かに雨音が聞こえた。

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 今朝早く、母はベットから起きる時に畳で足を滑らせて転んだ。私を呼ぶ声に気付いて目覚め駆けつけたので、大事には至らなかった。すぐに滑り止めの小さなカーペットを畳にしっかりと固定した。

 午後、雨が止んだので母を散歩に連れ出した。午後の光の中、色づいたイチョウが美しい。緑道公園の明るい木漏れ日の中、桜の落ち葉を踏みしめて歩くと、さわやかな芳香が漂った。

十一月十七日

 今朝は八度まで下がった。先日、カーテンの裾を伸ばして床面との隙間をなくした効果で、室内は二十度を保っている。おかげで、母はストーブなしで過ごしている。

先日兵庫で、ど根性大根のことが話題になっていた。車道脇のアスファルト路面を押し広げ、逞しく成長していく大根を近隣の人たちは大切に見守っていた。しかし、心ない者に折られてしまった。見守っていた人たちの落胆は気の毒なくらいだった。

この気持ちはよくわかる。自然公園のビロードモウズイカが、月曜日、先端から五十センチ程の位置で折られていた。ちょうど先端のミトンの形をしていた部分に花が咲きはじめていたので、持ち帰ろうとした者がいたようだ。しかし、この茎はかなり繊維が丈夫で、ねじ切ることは出来ず、犯人は諦めたようだ。
ビロードモウズイカは折れたままブラブラ風に揺れていた。花が咲くのを楽しみにしていた人たちは一様に立ち止まり、可哀想なことをすると怒っていた。

それから三十分程公園で過ごしての帰り、奇跡が起きていた。折られた茎が真っすぐに戻っていたのである。それは夢のようで母も私も我が目を疑ってしまった。どうやら、わずかな間に自力で茎を持ち上げ直立させてしまったようだ。咲き始めた先端のつぼみをどうしても開花させたいビロードモウズイカの意地だろう。帰り道、母は逆境を跳ね返す逞しさが素晴らしいと、繰り返し話していた。そして今日も、ビロードモウズイカは元気に花を咲かせていた。

十二月十三日

 いつものように自然公園の歩道を車椅子を押していると、顔見知りの公園管理人が声をかけてきた。
「先月、菊池さんが亡くなったよ」
突然のことで、母も私も驚いた。菊池さんは秋口まで管理室に詰めていた人だ。年は六十九歳、八年前に肺がんの手術から生還していて、同じように肝臓ガンから生還した母とは気が合っていた。彼は私たちが管理室前を通ると、すぐに気づいて窓を開け、嬉しそうに話しかけた。それで母は管理室前を通るのを楽しみにしていた。
しかし、今年春あたりから風邪っ気が抜けず、夏に体調を壊したまま秋口に退職した。私たちはそのうち再会できるだろうと思っていた。

「人は死ぬものだから、しかたがないね」
母が寂しそうにつぶやいた。私は曖昧に返しながら空を見上げた。青空には、葉を落としたミズキが端正な枝を広げていた。今年生まれた雀達はすっかり成長して、コロコロ転がるように足元に来て餌をねだった。その平和な光景の中で餌を撒きながら、新たに生まれる者たちのために、死ぬ人がいるのだと思った。

 帰り、公園の日だまりでひなたぼっこをした。古民家で休むようになってから、その日だまりで休むのは久しぶりだ。母がガンから生還してすぐの去年の初頭、よくその日だまりで休み風の音を聞いていた。すすきの原の向こうのに炊事棟の屋根が見えた。
「炊事棟の屋根は古澤焼酎の屋根に似ているね」
母が話しかけた。古澤焼酎とは少年時代を過ごした南九州の大堂津にある焼酎醸造所だ。今は現当主が商売上手で東京でも知られるようになった。当時は古い土蔵のある、軒の深い昔の建物だった。最近、昭和を思い出すことが増えた。記憶の中の風景は、古い映画のようにセピア色がかって懐かしい。やがて、それらの記憶に母が加わると思うと寂しい。

十二月二十七日

 朝から小雨まじりの風が吹いていた。母が肝臓がん手術から生還してから三年目に入った。母の通所リハビリの送迎バスを一階エントランスで待っていると、突風が広場のケヤキの枯れ葉を盛大に散らした。
午後四時、送迎バスが着いて係員から車椅子の母を受け継いだ。遠くで眺めていた小学生の男の子が、エレベーターへ駆けて行って、ドアを開けて待っていてくれた。一緒に乗り込むと、彼は私たちの階を聞いてボタンを押した。
「あなたは偉くなるよ」
母が彼をほめた。
「でも、学校の成績はだめなんで。」
彼は恥ずかしそうに答えた。
「成績なんかより、やさしい思いやりが大切だよ」
私がはげますと、うれしそうに一礼して九階で降りて行った。

 深夜、母がブザーで呼んだ。飛んで行くと、「あったよ」と母は部屋の一角を指差した。見ると椅子の下でブローチが赤く点滅していた。発光ダイオードが点滅する星形のブローチで、三日前に赤羽駅前商店街で買った。母の服に付けていたが、着替える時落として探しても見つからなかった。
「可哀想だから消してあげて」
母はブローチの電池を切るように頼んだ。仕事部屋へもどってから、赤羽自然観察公園でもらったワラを太くなって正月飾りを作った。ワラをなうのは五十年ぶりだが、独りでに手が動いた。正月飾りを作っていると、新年を迎える厳粛な気分になった

第四章 安定はつかの間で、母は吐血し緊急入院した。

二千六年一月四日 母九十二歳

 元旦から仕事をしようと思ったがその気分が乗らず、三が日は映画を見て過ごした。昨日は「レジェンド・オブ・ホール」の録画を見た。ブラッド・ピットとアンソニー・ホプキンの競演でモンタナの雄大な風景を背景に、家族愛を描いていた。
正月に家族愛のドラマは一人者の私の胸にぐさりと刺さる。何故家族は大切なのか、私には痛い程分かる。

元旦と二日は肌寒い曇天で、母を連れて行った自然公園は閑散としていた。昨日三日は穏やかな好天で、顔馴染みが多く、何度も年始の挨拶を交わした。園内崖下のジャブジャブ池ではカワセミが放流された小魚を狙っていた。母と二人、ぼんやりカワセミを眺めて終わる正月も悪くはない。月日を濃密に使おうと、軽く使おうと、人生への意味は殆ど変わらない。

だから正月は一瞬で終わった。
「もしものことがあったら、タンスの一番下に死に装束がしまってあるから使ってね」
昨夜、母の様子を見に行くと、死んだ時にやって欲しいことを頼まれた。十年前から定期的に、母は私が忘れないように同じことを言う。

一月七日

 朝は七草粥を作った。母は珍しく美味しと完食した。朝食後、お屠蘇セットを洗って陰干しした。松飾りは明日朝に外す。同じことを数日前にしたような気がする。歳を取ると、1年はあっという間に過ぎてしまう。

散歩に出ると、道でスズメ達が楽しそうに餌をついばんでいた。明日のことを悩まず今を生きている彼らが羨ましい。完全な幸せは難しいが、完全な不幸も難しい。不幸でも、小鳥たちや青空や自然の草花が癒してくれる。

一月二十日

 今日は家庭医の黒木さんの往診日だった。しかし、予定時間を過ぎても往診に訪れない。黒木医院へ電話をしても繋がらない。不審に思って、医院前の床屋さんに電話で聞いてみた。
「黒木さんは一月八日に亡くなりましたよ」
床屋さんは沈痛な声で話した。思ってもいないことに私は驚いた。四十代前半の黒木さんは太り気味なだけで、突然亡くなるようには見えなかった。
往診の予定日は一月十三日だったが、彼は一週間早い六日に往診に来た。
「風邪がはやっていますので、くれぐれも気をつけてください」
黒木さんは帰りがけに何度も念を押していた。予定日を間違えたのは自分の死を予感していたからかもしれない。

 黒木さんは五年前、老人医療を目ざして当地に開業した。私が彼を知ったのは、二千一年晩秋、郵便受けに「往診します」の小さなビラが入っていたか らだ。それから間もなく、母が下痢で寝込んだので、医院まで出向いて往診を頼んだ。自転車を押す黒木さんと並んで、緑道公園を家へ向かっているとおばあさ んが挨拶した。
「先日は難うございます。おかげで、すっかり元気になりました」
その信頼して切っている姿に、黒木さんに頼んで良かったと思った。

母は脱水症を起こしているからと、黒木さんは深夜まで母に付き添って点滴をしてくれた。それ以来、月に二度の定期往診を頼んでいた。

 熱心なお医者さんだったが経営は大変だった。黒木医院の前を通る時、玄関に患者さんの履物が並んでいるのを見ると母はとても喜んでいた。

最近は患者も増え介護施設の嘱託医にもなった。やっとこれからの時の突然死は気の毒でならない。後日、彼の死の少し前に彼の奥さんはガン死していると聞いた。両親の死により、小学生の男の子が一人残されてしまった。

夕暮れ、医院前を通ると、ビル屋上の病院看板が虚しく点灯し ていた。ビルの持ち主が長期入院中で、自動点灯装置を切る者がいないようだ。孤独な老いと働き盛りの医師の死と母親も亡くした幼い孤児。それらは寒々とした光景だった。 

四月二十八日 

 一月に黒木医師が急死してから、あっという間に春が来て、咲き誇った桜は葉桜になった。
新緑の緑道公園を、老人三人が歩いていた。
「二十年前にもどりてぇな」
「そうだ、そうだ。あの頃は元気で、疲れ知らずだった」
老人たちの会話は後ろを行く私たちに聞こえた。
「あたしは、そんなことはどうでもいい。今日が良ければそれだけでいいの」
母が小声で茶々を入れていた。それは私も同じだ。今が良ければそれでいい。

 黒木医師が死んでから、往診してくれる医院を探し続け、やっと川向こうの生協浮間診療所に決めた。最近、母は極度の疲労と食欲不振を訴えることが増えた。早速、往診を頼むと三十分後に若い医師が来た。医師は色々と訴える母に優しく受け答えしていた。もしガンが再発していても、治療する気はないと医師に伝えた。母は往診してもらえると知っただけで元気になった。

 2006年5月1日

 母の食事量は去年と比べると三割以上減った。それでも体力を保っているのは、プリンやアイスクリームで補っているからだ。

 母は東京北社会保険病院で胃カメラ検査を受けた。検査室へ着くとすぐに母の喉に麻酔がされ胃カメラ検査が始まった。医師はモニターを見ながら、老人性の胃壁の萎縮、食道の軽い炎症、緊急性の無い平らなポーリープ、と症状を説明してくれた。

 その後、内科の診察を受けた。内科医は肝臓ガン再発を示す腫瘍マーカーを示しながら、今まで放っておいたことを非難した。医師の立場としては正論だが、九十三歳の母の年齢を考慮すべきだ。壮年と余命幾ばくもない老人とは治療のやり方は大きく違う。母と私が望んでいるのは、ガンを完治させることではなく、症状を取って楽にする緩和医療だ。

そのようなことを話すと、医師は面倒になったのか、母を外科へ回した。しかし、外科には何も期待できない。すぐに外科をキャンセルして病院を出た。すぐに行けば生協浮間診療所の午前の診察に間に合う。初夏のような暑い日差しの中、川向こうへ向かった。
「絶対に、死ぬまで気分良く暮らせるようにするからね」
道々母に話すと「信じているよ」と、母はうなづいていた。

 診療所に着くとすぐに診てもらえた。医師に経過を話し、緩和医療を希望していると話した。
「お気持ちはとても分かります。お母様の症状に応じて緩和治療をいたします」
彼女は丁寧に対応してくれた。気休めに少量の点滴をすると、母は体が楽になったと喜んでいた。ガンは治らなくても、共存して穏やかに生きることはできる。そのように、気休めの治療をしてもらうのが母の望みだった。

 病院から帰るとお隣の吉田さんが来た。彼女は検査の後そのまま入院するのではと心配していた。
「入院なんて二度といやですよ。ご飯は不味いしお金はかかるし、悪くなっても家で過ごすつもり。それで死んだら、あの世でモモちゃんを可愛がってあげる」
母は陽気に答えていた。モモちゃんとは先日死んだ吉田さんの飼いネコだ。母はモモちゃんをとても可愛がっていた。

 2006年5月6日

 散歩の出がけ、エレベーターホールに一匹の蛾がじっとしていた。二センチほどの枯れ葉色で微動だにしない。眼が青くかがやき、まるで異星から来た三角翼の宇宙船のように見えた。近づいても反応しないところを見ると、死期が近いのかもしれない。

 赤羽自然観察公園で知人に会うと母は快活に話していたが、私と二人だけになると無口になった。疲れて声を出すのも辛いようだ。最近の母の声はかすれ消え入りそうだ。
「もう少しで仕事はうまく行くから、それまでは元気でいてね」
帰り道、母に話した。
「もう、十分に良くしてもらったから、良くしてもらえなくてもいいよ」
母はすっかり良い人になっていた。仕事がうまく行くと知ったら、いつもの母なら高価な食べ物を並べてあれも欲しいこれも欲しいと並べる。そんな俗物の母が良い人に変わったのを見るのは寂しかった。

帰ると、エレベーターホールに行きがけの蛾が転がっていた。指先でつつくと、枯れ葉のように揺れた。どうやら命が尽きたようだ。数時間前まで足を踏ん張って生きていたのに、小さな生き物でも死は寂しい。

 2006年5月9日

 母は朝から口も効けないほど疲労困憊していた。いつもなら、母が始末している簡易トイレを私が代わって始末した。自分のトイレだけは最後まで自分で始末するとがんばって来たのに、その気力も失せたようだ。
私が始末するのを、母はベットから寂しそうに見ていた。
母は朝食は口にせず、診療所に往診を頼んでくれと言った。すぐに若い医師と看護師がやって来た。母は急に元気になって、詳細に体の具合を話し始めた。医師が採血して帰ると、母は再び元気がなくなり、テレビを消したまま暗い顔で寝ていた。

 2006年5月10日

 散歩から帰宅すると、診療所から血液検査の結果の電話があった。
「悪い箇所はありますが、重要な部分は正常の範囲内で、何も心配ありません」
医師の声は明るかった。うれしくて、すぐに母に伝えた。母は一応納得したが「体の不調は続いているのに。」と不満をもらした。

 2006年5月12日

 昨日、整形外科でペインクリニックをして腰が軽くなり、母は元気になった。公園へ連れて行くと、以前と同じ距離を歩いた。
帰りに赤羽駅近くのケアマネージャーを訪ね、新しい車椅子を受け取った。隣の空き地でバックミラーと安全ベルトを付け替えた。
「新しいのは乗り心地が良いね」
母はとても喜んでいた。

 車椅子は二センチの段差でも見落とすと、つまずいて前のめりになり母を放り出してしまう。それで、登山用ベルトとカラビナで安全ベルトを作って装着している。バックミラーは、歩道を無謀運転する自転車が多いので必要だ。車線を変える時、後ろを確認しないと追突されてしまうからだ。この二つのおかげで事故は起こしていない。

駅前に出ると、母はお金があるならコーヒーを飲みたいと言った。母が色々要求するのは元気になった証拠だ。高架下のスターバックスでカプチーノを頼み、シナモンとナツメグをたっぷりかけた。母は飲み干すとプラスチックサジをポケットへしまった。母は物が捨てられない世代で、台所の引き出しには持ち帰ったサジが大量にしまってある。

 商店街の「八百八」でイチゴを買い「まるます家」でウナギを買った。帰り道、床屋さんのゴールデンのラッキーに母が声をかけると、いつものように尻尾を振りながら吠えた。
「元気だよって、吠えてくれるのね。良かった良かった」
母と彼は老いたもの同士、通じ合うものがあるようだ。
緑道公園でお茶を飲んだ。新緑が美しい。つい先日まで桜が咲いていたのが夢のようだ。

 2006年7月16日

 曇天で小さな雨が舞っていた。雨具は持って散歩に出たが、着けるほどではなかった。公園の古民家で休んでいると、小母さんの一団がにぎやかにやって来て話し始めた。
「この前、大きなカメが団地の下の道を歩いていたね。何て名だったけ、あの緑ガメの大きくなったやつ」
彼女たち話しているのは、先日、私が助けた赤耳ガメのことだった。

 先日、公園からの帰り、団地下の炎天下の道を大きな赤耳ガメが歩いていた。可哀想なので、捕まえて近くの亀池弁天の池に放った。
「カメを助けたから、乙姫様がお礼に来てくれるよ」
母は浦島太郎みたいなことを話した。
「乙姫様は可愛いけど、お嬢様だから家のことは何もしてくれないよ。これ以上、料理を作ったり洗濯したりするのはいやだ」
「それなら、乙姫様のタイやタコの腰元たちならいいでしょう」
母は腰元たちなら働き者で優しいと言った。しかし、ウロコやイボがいやだ。手がかかっても可愛い乙姫様がいいと答えた。

 公園からの帰り、雲が晴れ日射しが照りつけた。どこからか精霊トンボが飛んで来て、母の帽子にとまった。オレンジ色がかった地味なトンボで、郷里ではお盆に大発生するので精霊トンボと呼んでいた。

トンボがとまっていると教えると、母は帽子を動かさないように気をつけた。車椅子と一緒に帽子も揺れたが精霊トンボは逃げなかった。環八の信号を渡り、エレベーターに乗っても逃げなかった。しかし、住まいのある十三階に着くと明るい空へ向かって飛び去って行った。

「甚兵衛さんが家を見に来たのかもしれないね」
大好きだった母の祖父が、精霊トンボに乗って訪ねて来たのだと母は話した。養母千代の父親甚兵衛とは血のつながりはないが、本当の祖父以上に母は慕っていた。

今日はお盆の送り火だ。夕刻、盆提灯を片づけた。この作業をしていると、いつも月日が止まったように感じる。

 2006年7月29日

 テレビで隅田川花火大会を中継していた。ベランダへ出てその方向を見ると、ビルの間に小さく花火が見えた。
「隅田川の花火が見えるよ」
ベットで布団を直していた母に教えた。
「きれいでしょうね」
母は手を止めずに答えた。ベットを直すのは私が手伝えば早いが、自分でできることは手伝わないことにしている。
「頭にのせる冷たいの、持って来てくれた」
ベットに横になった母が冷湿布のことを聞いた。
「さっき、そこへ置いたでしょう」
傍らを示すと「あっ、そうだったね」と母は笑った。母は最近、直ぐ前のことを忘れるようになり体力も一段階落ちた。しかし、悪いなりに平穏な日が続いている。

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 散歩道で仲良くなった小次郎くん。ニコニコしている顔が可愛い。

 2006年8月24日 母93歳の誕生日。

 赤羽自然観察公園は静かだった。日射しが照りつける遊歩道の真ん中で、青トカゲが顔を赤くして日なたボッコをしていた。古民家の庭の砂地では、丸い小さな凹みでスズメたちが砂浴びをしていた。

遊水池からの流れにかかる橋で、中年男性二人が子供の頃のザリガニ釣りの思い出を話していた。すれ違う時、男のシャツの袖から彫りものがちらりと見えた。ヤクザ者がしている伝統的な彫りものだ。彫りものをしていたと話すと、母は養父健太郎の話を始めた。

 健太郎は片腕に小さな桃の彫りものを入れていた。
「父しゃん。梅干し入れとっと」
幼い母は養父をよくからかった。
「モモだ」
健太郎が恥ずかしそうに腕を隠すのが、母は楽しかったと話した。それは小さいが、美しい彫りものだったようだ。

 いつものように椎の木陰で休んだ。隣の炎天のグラウンドでは若者たちがサッカーの練習をしていた。遠くで、先ほどの二人連れが木陰に腰を下ろし見学していた。汗を流す若者達と中年やくざ二人。似合わない取り合わせだと思った。

 2006年9月5日

 今日は通所リハビリの日だが、母は休むと言った。明け方まで咳が続いて疲れてしまったようだ。朝食後、施設に休むと電話を入れ、母の様子を見に行くと椅子で居眠りしていた。

 九時半、居眠りしている母を起こして外の空気を吸おうと誘った。赤羽自然観察公園に連れて行くと、母はいつもの半分だけ歩いてくれた。帰り、再び母が無口になったので遠回りは止め、生協で食材を買った。

店内で旧知の高木さんに声をかけられた。母は高木さんの娘時代から親しくしている。高木さんは、最近視力が落ちてきたからと、買い物カゴのブルーベリーを見せた。それから互いの病気の話になって、母は生き生きして来た。
「貴女と話していたら、急に元気が出てきました」
別れぎわ母は彼女の手をしっかりにぎった。帰り道、母は外へ出ると良いことがあると喜んでいた。

 2006年10月7日

 夜、ベランダに出ると月が出ていたので、ベットの母におしえた。
「あら、月が出ているの」
母は返事をしたが、体を起こしてまで眺める気力はなかった。午前中の散歩までは元気だったが、夕暮れから腹が張ると苦しんでいた。ガスを吸収するガスコンを飲ませたり、腹をさすったりしたが良くならない。火曜まで病院は連休。朝までに回復してくれることを願いながら仕事に戻った。

 仕事をしていると、子供の頃の十五夜を思い出した。十五夜前には母に頼まれてススキの穂を採りに行った。母は縁側にススキを飾り、茹でた栗と里芋をザルに盛って月に供えた。子供たちは外に出て、月明かりの道路で綱引きをしたり、影踏みをしたりして遊んだ。それから、お供えを取りに行った。子供は自由に取るのが許されていたが、イモや栗ばかりで月見団子を供えている家は少なかった。

 赤羽自然観察公園のススキの穂が出そろった。もし、公園で夜を過ごせるなら、子供の頃のようにススキの原で月見をしてみたいと思った。テレビを消すと、新河岸川河畔の虫の声が仕事部屋まで聞こえた。

 2006年10月13日

 午後、完成した百号の注文絵のキャンバスを木枠から外して、丸めて梱包した。作業が終わった頃にディサービスに行っていた母が帰って来た。いつもなら、母は快活に冗談を言いながら送迎車から降りて来るのに、今日は元気がなかった。部屋に戻るとすぐにベットに横になった。

母が寝ている間に、梱包した絵を郵便局へ持って行った。郵便局帰りに車椅子用の空気ポンプを買った。これまで使っていた中国製ポンプは、昨日、音を立てて壊れた。今度は、いつまでも使えるように堅牢な品を買った。

母は食欲がまったくなく、少し食べた夕食をすぐに吐いた。深夜、ブザーが鳴ったので急いで行くと、吐いて寝具と寝間着を汚していた。すぐに着替えさせ、汚れた寝具を取り替えた。小さな汚れものは洗濯機で洗い、大物は浴槽で洗ってベランダに干した。単純な病気なら回復するが、ガンの再発なら緩和医療に頼るほかない。今日郵送した絵は、来春までに完成させれば良かったが母の体調に不安があり、前倒しで描き上げた。

 2006年11月15日

 明け方まで母は嘔吐を繰り返し、最後は透明な粘液を絞り出すように吐いた。診療所は九時開院。八時半に電話して受付に母の病状を話した。
「往診は午後になりますので、何とか連れて来ていただければ、すぐに点滴ができるように対応いたしますが」
受付は申し訳なさそうに話した。

すぐに母に暖かい上着を着せて車椅子で出かけた。外は北風が強く、母は押し黙ったままだった。診療所に着くとすぐ、処置室のベットへ横にさせた。医師が腹の各所を押さえて痛みはないか聞いた。痛みはないが気分が悪いと母は答えていた。

ブドウ糖に吐き気止めを加えた点滴が始まった。母は青ざめた顔で横になっていた。そのような生気のない母を今まで一度も見たことがない。一昨日、母は公園で歩き、知人と快活に喋っていた。あの元気は、ロウソクが燃え尽きる前の一瞬の輝きだったのかもしれない。すぐに吐き気止めの効果が出て、母は軽い寝息を立て始めた。点滴は一時間で終わり、吐き気止めのナウゼリンが二日分処方された。
「二日分を飲み終える前に、嘔吐はなくなりますよ」
別れ際の医師の言葉がうれしかった。

 嘔吐はおさまったが、食欲はなく疲労感は治らなかった。お昼前、晃子姉が来たので、母を頼んで買い物へ出た。お昼には、ほうれん草のおひたし、湯豆腐、ヨーグルトとゼリーを出したが、その殆どを残した。

最近、終末期緩和ケアのサイトを調べている。それによると、死が近づくと味覚が変わり肉類を嫌い、大きな器に盛った食事を嫌うとある。母もその通りで、ママゴトのように小さな器に少量盛りつけ、空の食器は直ぐに片付け次の料理を出している。テーブルの上に食器を並べると、母は見ただけで食欲が失せる。サイトにあった例に母の症状がすべて一致しているのが不安だった。

 2006年11月16日

 今朝も、開院と同時に診療所へ母を連れて行った。母の疲労感は昨日よりひどい。わずか一日、ベットに横になっていただけで足腰は極度に弱った。簡易トイレへ母を移動させる時も、足はワナワナと震えて立っていることができない。このままでは寝たっきりになってしまいそうだ。

 レントゲンを撮ると結腸に便の滞留があった。すぐに、浣腸が施され、ほぼ排泄できた。まだ確定できないが、ノロウイルス感染が濃厚だと言われた。それには思い当たる。月曜に母が生ガキを欲しがったので食べさせた。潜伏期を計算すると、嘔吐が始まった日と一致する。清浄海域で養殖されたカキで汚染はないはずだが、老いて体力がなかったので発症したのかもしれない。医師はもう少し経過を見て、回復しなければ入院したが良いと言った。

帰宅後、母はすぐにベットに横になった。寝ていても疲労は強く、わずかに体を動かすにもブザーで私を呼んだ。夕暮れから深夜まで、何十回となく仕事部屋とベットを往復した。

 2006年11月17日

 疲労を訴える母を診療所へ連れて行った。今日の点滴は二種類に増えた。その間に私は医師に呼ばれた。
「昨日の血液検査で貧血が分かりました。出血箇所を見つけるために、検査入院されませんか」
医師は入院期間は長くなりそうだと話した。入院先は王子にある大きな関連病院だ。検査入院のことを点滴している母に話すと表情が暗くなった。気丈な母は、今までの十回以上の入院や手術に積極的に応じて来た。しかし、今回の入院は今までのどれとも違うと思っているようだ。

「本当はいやだけど、食欲不振や、疲労がとれるのなら、入院しても良いね」
母は自分に言い聞かせるように承諾した。二時間近い点滴で母は疲れてしまった。外は曇っていて肌寒い。母を冷やさないように急いで帰宅し、昼食を用意した。しかし、母は殆どを食べ残した。仕方がなく、食事代わりに乳酸飲料を飲ませた。

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               診療所のベットに死んだように寝ている母。

 午後、母が寝ている間に、赤羽駅前まで買い物へ出た。途中、桜並木にある調剤薬局の薬剤師さんたちが見えた。その薬局には母も私も親しんで来たが、今月一杯で閉鎖される。今年に入ってから、親しい人やペットたちの訃報や別ればかりで、母は精神的に参っている。だから、閉店のことは母には伏せておいた。

買い物買帰り、疲れたので赤羽駅から埼京線に乗って北赤羽で下車した。浮間橋を渡り、新河岸川沿いの遊歩道を行くと少年がカモメに餌をやっていた。カモメの群れを見上げながら、アメリカ国歌が口をついて出た。滅入って行く気持ちを奮い立たせたかったのかもしれない。

「日曜あたりに公園まで行ってみようか」
ベットの母に話しかけると、母はうれしそうにうなづいた。今日、始めて母の笑顔を見た気がした。

 2006年11月18日

 早朝五時、ブザーが鳴った。すぐに母のベットへ駆けつけると、「起き上がれなくなった」と言って意識が遠くなった。それからは話しかけても身体を揺すっても反応がなく呼吸も浅い。ただごとではない。病院、姉兄たちへの連絡と、すべきことが次々と頭の中を駆け巡った。しかし、穏やかな表情の母を見ていると、このままそっと逝かせるのも良いかもしれない、とふと思った。

六時半、霜降橋の晃子姉に電話を入れた。
「今日は予定があるから、後で行く」
姉は寝惚けた声で答えた。
「今日はいつもと違う。すぐに来たがいい」
強く言うと、ようやく重大さに気付き、すぐに行くと答えた。

七時、吸い飲みを口元に持って行くと、母は意識が戻り二口だけ飲んだ。しかし、すぐに意識は遠くなった。

八時、姉が駆けつけて来たので、母に付き添ってもらった。母は古い白菊会会員で献体することになっている。万一を考えて、書類を用意した。

八時半、生協浮間診療所へ電話を入れ、入院の前倒しを頼んだ。すぐに診療所から病院にベットの空きはないと電話が入った。東京北社会保険病院に連れて行くと伝えると、紹介状を病院へファクスすると言って、役に立たなかったことを詫びた。

九時、姉と二人で抱えるように母を車椅子に乗せ、姉に留守番を頼んで病院へ向かった。御諏訪神社の階段下に車椅子を止めると、母は一瞬意識が戻り、神社へ手を合わせていた。

 東京北社会保険病院受付に診療所からの紹介状が届いていた。しかし、内科の受診は順番を待ってもらうのが規則だと担当看護師は言い張った。車椅子の母は青ざめて崩れ落ちそうで一刻の猶予もない。待つ間、せめてベットに横にさせて欲しいと頼むが、内科医の許可がないとできないの一点張りだった。

看護師は診察室に入ったまま、十五分以上出て来なかった。他所で救急措置をしてもらうから連れて帰ると受付に伝え、診察券を返してもらって玄関へ向かった。

「篠崎さん、先生がすぐに診るそうです。」
玄関を出たところで、看護師が追いかけて来た。診察室へ向かっていると、看護師が配慮が足りなかったと、しきりに詫びた。

十時、母を診た内科医は誠実な人だった。原因は脱水症で点滴をするとすぐに意識が戻った。医師は優しく母に話しかけながら診察した。安堵したのか、母の表情に生気が戻った。すぐに上部消化管の内視鏡検査に回された。

「綺麗な食道ですね。噴門から胃、幽門から十二指腸へ入ります」
内視鏡の医師はモニター画面をバスガイドのように説明してくれた。しかし、出血箇所は見つからない。しばらく、胃壁を往復しながら丹念に調べていると、褐色のえぐれが見つかった。
「ああ潰瘍がありました。出血は止まっていますが、止血剤を吹き付けておきます」
医師は潰瘍に白い泡を吹き付けた。処置室で点滴を受けていると内科医がやって来た。
「入院して絶食し、点滴で栄養補給をしてみましょう」
医師はすぐに入院手続きをしてくれた。

十二時半、母は四人部屋に入った。栄養の点滴が加わった効果で、母は次第に元気になった。年頭から続いていた母の食欲不振と疲労の原因は胃潰瘍による出血が原因だった。

午後一時、一旦帰宅して、留守番をしていた姉に入院に必要な品を病院へ持って行ってもらった。シャワーを浴び、朝食を兼ねた昼食を取ると、激しい眠気に襲われ三十分ほど眠った。

午後二時半、病院へ戻ると、母は必要な品を忘れていると文句を言った。文句が出るのは元気になった証拠だ。一階の売店で足りない品を買い、病室に届けて夕暮れに帰宅した。

 2006年11月19日

 早朝、四時に目覚めた。小刻みの睡眠の習慣は治らない。床に入ったまま先々のことを考えている内に再び寝入った。

七時に目覚めた。いつもなら、母がテレビを見ながら、シワ予防に顔をペタペタ掌で叩く音が聞こえる時間だ。母は洗顔後、肌を叩くとシワができないと信じている。

一人の朝は静かだった。ベランダへ出ると、寒い曇り空の下日曜の街が、遠い知らない街のように見えた。昨日の、母の緊急入院騒ぎで散らかったままの部屋を片付けた。冷蔵庫を開けると、昨日、母の朝食用に作ったおかゆが入っていた。それと一緒に、蓮根の金平を捨てた。蓮根の金平は母の好物だったが、一口も食べなかった。

流しに山積みになったままの汚れた食器を洗い、神棚と仏壇の水を替え、灯明を上げた。母が居なくても、することはいつもと同じだ。日常生活の変化がないから、私は平常心を保てる。一人になった時、女性の方が強いのは男女差ではなく、生活の恒常性にあるようだ。

病院の面会時間は十四時から二十一時の間と決められている。それまで時間があるので更に大掃除を続けた。病院は近く、日に何度でも往復できる。
夕暮れに行くと母は元気を取り戻していた。同室の患者さんたちがみんな惚けていて話し相手にならないと、いつもの口の悪さが復活していた。

 2006年11月20日

 一人暮らしは慣れているが、快活な母がいなくなると部屋が寒々しく見えた。帰って来るといつものように「ただいま」と母のいない部屋に声をかけ、仏壇に灯りを上げた。仏壇横に死んだ父や兄や祖父母たちの写真が飾ってある。母はその誰よりも長命になってしまった。今回の母は回復するが、次に倒れればそれが最後になりそうだ。

 午後、母の病室へ行った。
「晃子が、同室のおばあさんたちの惚けがうつるって、心配していたよ」
姉がそう言っていたと母に話すと、「あの子はバカだから」と楽しそうに笑った。母は十八日朝のことを覚えていて、今度こそ死んでしまうと思ったようだ。
「土曜で晃子は休みだし、死ぬには丁度いいと思ったよ」
そう話してから、もし、私が寝過ごしていたら、そのまま死んでいたと言った。

 2006年11月21日

 病院に上の裕子姉が見舞いに来た。下の晃子姉とは数年ぶりの再会だ。
「喧嘩ばっかりしているけど、やっぱり姉妹だね。久しぶりに会って、とても楽しそうに話していた」
母はうれしそうに話した。

母の洗濯物を持ち帰って遅い夕食を摂り、夕暮れまで休んだ。再度、病院へ戻ると担当医によばれた。出血の原因はほぼ潰瘍に間違いなく、今日の夕食が摂れるなら週末に退院できると告げられた。母は入院以来、始めて口にするお粥を美味しそうに食べていた。

 2006年11月22日

 病院に行くと母はベットに腰かけて暗い顔をしていた。いつもの鬱が始まったようだ。
「外に出てみようか」
誘うと渋々承知した。寝間着の上に膝掛けを巻き、ダウンのコートを着せて外へ連れ出した。病院の庭は自然豊かで、カエデの紅葉が美しかった。いつもなら楽しそうにおしゃべりするのに母は押し黙ったままだった。色づいた木の葉を拾って手に取らせても興味を示さなかった。
椎の木の下に車椅子を止め、持参した朝鮮人参末を飲ませた。それから、暖かい日溜まりで少し休み、病室へ戻った。

 ベットに戻ると、母は手鏡をなくしたので探してくれと言った。しばらく、ベットの回りを探したが見つからないのであきらめ、ベットわきのテレビで「ナースのお仕事」を見た。病院で病院ドラマを見るのは、レストランでインスタントラーメンを食べている気分だった。

ふいに、母が欝になったのは、お化粧ができなかったからだと気づいた。すぐに、手鏡を取りに家へ帰った。持ち帰った汚れ物を洗濯し、急いで夕飯を済ませ、夕暮れ、手鏡と佃煮を持つて病院へ戻った。

母は見違えるように顔色良く元気になっていた。どうやら、朝鮮人参末の効果が出たようだ。手鏡を渡してから、ふとテレビの台をみると側面の隙間から手鏡の柄が出ていた。偶然にその隙間に落ちたようだ。見つからなかった手鏡が見つかって、母は更に明るくなった。帰りがけ、母は明日も人参末を持ってくるように言った。

 2006年11月23日

 母が嘔吐して汚した敷き毛布を火曜日朝に洗った。搾り機に入らないので、濡れたまま竿に掛けて二日間おいた。それでも湿っぽいので布団乾燥機で乾かした。その間、ベランダのガラス戸を開け放っていた。仕事部屋まで冷たい外気が漂って来て心地良かった。

電子レンジで温めた牛乳を勢い良く取り出すと、カップの底がドアにぶつかり床にこぼれた。いつもならイライラするが、今日はのんびりと後片付けした。母が回復して、気持ちにゆとりができたようだ。

 2006年11月24日

 母の退院は、今日に前倒ししてもらった。このまま入院していると不味い病院食で母の体調が悪化しそうだからだ。病院は近いので退院は簡単だった。退院は晃子姉に手伝ってもらった。

病院では元気に見えた母だが、家に着くと衰弱しているのがよくわかった。明日は生協まで買い物へ連れ出し、それから早い段階で、赤羽自然観察公園に連れて行くことにする。

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               東京北社会保険病院の庭にて、晃子姉と母。

 午後、北赤羽整形外科にペインクリニックへ連れて行った。医師は無事に退院した母を見て喜んでいた。開院時からの患者の母には思い入れが深いようだ。先週土曜、母の意識が混濁した時のことを医師に話すと、
「そんな時はすぐに救急車を呼ばないといけません」と言った。しかし、救急車を呼んで、質の悪い病院に入院させられたら、そのまま寝たっきりになる。それを恐れて私は救急車を呼ばなかった。

 2006年11月26日

 母が倒れた日、家の中にハエが入って来た。中型の家バエで、何時休んでいるだろう、と思うくらい元気に飛び回っていた。母が入院中、私が帰って来るとそのハエがいつも迎えてくれた。そうなると、家族のような親しみを感じた。

今朝、洗濯物を取り込もうとベランダのガラス戸を開くと、そのハエが明るさに惹かれて外へ飛び出した。外は曇天で寒い。ハエはベランダの壁にとまったが、すぐにポトリと床に落ちた。寒さで体が硬直したようだ。床を探したが見つからない。日射しが戻り、体が温まればまた飛び回るだろう。ハエのことを母に話すと、可哀想にと同情していた。

 今日は母を自然公園まで連れて行った。母は気持ち良さそうに深呼吸した。よほど気分が良かったのか、少し歩くと言うので好きにさせた。母は十メートルほど歩いた。そこまで回復するとは思っていなかったのでうれしかった。 

第五章 母の老いは穏やかに安定するよに思えたが、現実は厳しかった。

 2007年1月17日 母93歳

 年始から、住まい下の新河岸川にクレーン船が停泊している。大きな鰐口のようなグラブバケットで川底をさらい、運搬船へ土砂をあける。一連の作業はいつまで見ていても飽きない。

今日も、散歩の行きがけ、母としばらく眺めていた。夕暮れにはクレーン船後ろの住居に灯りがついて、作業員がくつろいでいるのが見えた。陸上から通うのは大変だ。それで泊まり込みで作業をしているようだ。

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 今朝は早く母に起こされた。
「朝食のご飯はどこにしまってあるの」
母は朝食の用意をするつもりだ。
「いつもオレが食事作っているだろ」
そう言うと、母はすぐに正気に戻った。
勘違いが増えても、必要な記憶はしっかりしている。今日も私の外出中にかかって来た電話の用件を正確に伝えてくれた。
「留守番電話の代わりになるね」
ほめると、とてもうれしそうだった。

 2007年1月20日

 どんよりと肌寒く、散歩道に人は少なかった。緑道公園の陸橋の上で、プラタナスの巨木を見上げながら熱いお茶を飲んだ。
「冷たい風を深呼吸すると、気分がいい」
肺が弱った母は酸素濃度の微妙な違いが分かる。

目の前の欄干に若いカラスがとまった。カラスはくわえて来た煎餅のかけらを足で押さえ、少しずつかじっていた。
「あら、良いもの持っているわね」
母が声をかけると、カラスは利口そうな目で私たちを見た。
「取ったりはしないから、安心して食べなさい」
母は笑顔で話しかけた。去年暮れから、このカラスによく出会う。そのような出会いが、老いた母を元気づけてくれる。

 2007年2月5日

 赤羽自然観察公園で顔馴染みになった車椅子の老人が来なくなった。ミカンを誤嚥して気管に詰まらせ、脳死状態だと聞いた。
そのように、今年になってから数人の老人が公園に来なくなった。元気だった人が、間をおいて会うと、すっかり老いていて驚くこともある。徐々に老いがやってくれば対応できるが、急変では家族は戸惑うばかりだ。

誤嚥は人ごとではない。今朝も母は、お茶を気管に入れて激しく咳き込んでいた。
食事中に話しかけない。液体は少しずつゆっくり飲ませる。様々に配慮しているが、誤嚥を完全に防ぐのはむつかしい。

誤嚥性の肺炎が怖いので、数年前に肺炎球菌ワクチンを受けさせた。母の年齢なら、一回の接種で死ぬまで免疫が持続する。最近、母の体調は悪いなりに安定している。ガンも母同様に老いて、成長が止まっているのかもしれない。

 2007年2月6日

 散歩の出がけ、下の新河岸川を見るとクレーン船が消えていた。昨夜は甲板をランタンを下げて歩く作業員が見えた。回りに小さなタグボートや作業船が繋がれ、それぞれにライトが灯って童話の世界のように見えた。何もない川面を眺めると、サーカスのテントが去ったような寂しさを覚えた。

 最近「無」について考えている。若い頃からその意味を知ろうと試みたが歯が立たなかった。座禅を組み、仏教関係の本を乱読したが、まったく理解できなかった。今は老いのおかげで、ほんの少し分かって来た。「無」とは物の有る無しではなく、認識の有る無しのようだ。生死を認識しなくなれば、総ての悩みは消える。

 2007年2月11日

 目覚めると背中が痛い。風邪の引きかけかもしれないので葛根湯を飲んだ。背中の異常感は数ヶ月前から続いていた。いつものくせで、中皮腫、肺がんと最悪の事態を案じた。そう考えるのは、絵描きに転職する前に彫金をしていたからだ。

彫金では肺ガンの原因物質アスベストを使っていた。当時は普通の家庭でも、アスベストを石灰で板状に固めたものを雑貨屋で買って、ちぎって水で練り、かまどや煙突の隙間を埋めるのに使っていた。私はタガネの焼き入れの時、仕事台を焦がさないように、断熱材として使った。だから、アスベスト粉塵を普通の人の百倍は吸って肺ガンのリスクは大きい。

同業者たちの多くは肺ガンで亡くなっている。私との違いは、彼らがヘビースモーカーだったことだ。昔の職人は、接客が巧く行くからと、先輩からタバコを吸うように薦められた。

「バカな習慣を身につけてしまった」
築地のガン病棟に見舞った時、彼は後悔していた。

 今朝は昨夜の雷雨に洗われた美しい青空だった。玄関前通路に出ると、期待通りの真っ白な富士が見えた。
緑道公園ではロウバイが満開だった。車椅子を押していると汗ばみ、冷たい風が心地良かった。
気がつくと、背中の痛みが消えていた。どうやらただの風邪だったようだ。

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                赤羽自然観察公園の遊水池近くにて。

 2007年4月4日

 散歩の出がけに、母は咳をした刺激で吐いた。散歩中ではなくて、出かける前で助かった。今年始めての嘔吐だったが、食欲があるので心配はしていない。

今日は寒の戻りで、母に冬服を着せた。桜は散って、地面は花びらに覆われていた。緑道公園脇の墓地にさしかかると、四十代のホームレスに声をかけられた。
「すみません。おたずねしますが、この辺りで墓地はここだけでしょうか」
汚れた身なりに似ず、礼儀正し言葉使いだった。
一キロ程下った線路近くに小さな墓地があると教えた。彼は墓地近くのアパートに住む知人を訪ねたいと話していた。

訪ねたのは十年以上前で、今も同じアパートに住んでいるかどうか分からない、と彼は話していた。話し終えると、彼は丁寧におじぎをして、教えたのとは反対方向へゆっくりと歩いて行った。もしかすると、彼は誰かと話したかっただけかもしれない。

 買い物はせず、真っすぐ帰った。留守中に来ていた晃子姉に母を任せ、私は横になった。最近、朝早く目が覚めるので寝不足が続いている。二十分ほど熟睡して目が覚めると姉は帰るところだった。

 電気工事でお昼に停電すると通知が来ていた。慌てて昼食を作っていると予告通り電気が消えた。停電でも料理は出来ると思っていたが、なぜか水道も止まった。外は雨が降りそうで暗い。母の様子を見に行くとテレビが止まり、手持ち無沙汰に椅子に腰かけていた。

「昔はよく停電したね。いつもこんな感じだった」
母は久しぶりの停電が懐かしいと話した。子供のころは停電になるとロウソクを灯せるので楽しかった。ロウソクの暖かい灯りの回りに大家族が肩を寄せ合い、とても幸せな気分だった。

遠い昔の思い出を話していると電気が点いた。
夢から醒めたような寂しさが残った。
昼食後、激しい雨が落ち始め、雷鳴が聞こえた。ニュースで都心にみぞれが降ったと伝えていた。

 2007年4月30日

 昨夜、母に呼ばれたような気がして飛び起きた。時計を見ると午前四時。急いで行くと母は静かに眠っていた。
肩が出ているので、掛け布団を直すと母は少し体を動かした。自室に戻り、テレビを点けてぼんやり画面を眺めているうちに寝入り、七時に目覚めた。

母が顔をペタペタ叩く音が聞こえた。今日は元気そうだと安堵した。
母は長年の習慣で目覚めると乾布摩擦をし、それから五分ほどシワ予防に顔を軽く掌で叩く。母は高齢のわりにシワはほとんどない。それはその美容法のおかげだと母は信じている。

点けたままのテレビでは、ディズニーランド上空からの空撮画像を流していた。すでに長蛇の列で、十時には入場制限が始まりそうだ。

 2007年5月13日

 朝から日射しが弱かった。自然公園の椎の下で休むと、母は風が寒いと言った。すぐに古民家へ向かった。途中のアシ池に人が集まっていた。カルガモのヒナが十五羽も孵化したようだ。

去年は成鳥になる前に、ノラネコやカラスに食べられてしまった。これから見物に来る老人たちは、心配で落ち着かないことだろう。
古民家の座敷で横になるとすぐに寝入った。
「お邪魔します」
子供の声で目覚めた。縁側の外に十歳程の男の子が立っている。
「どおぞ、お上がり下さい」
声をかけると若い父親と一緒に上がって来た。男の子は、奥の薄暗い板の間を怖そうに覗いていた。
「お化けがいるから、その板戸は開けない方が良いよ」
彼をおどかした。
「お化けはいないよ。もしかすると、びっくり箱みたいに誰かが人形を仕掛けているんだ」
男の子は子供らしく可愛い説明をした。
「さーあ、どうかな。お昼だからお化けはいないと思うけど、試しに開けてみな」
私の言葉に、彼は怖そうに父親を振り返った。父親は面白がって、板戸をガタガタと揺らした。男の子は「キャー」と逃げ出した。

私たちは笑いをこらえながら外へ出た。古民家の土間から、男の子が父親とお化けの話しをしているのが聞こえた。男の子には刺激的な日曜になったようだ。
「正喜が子供のころは、世の中はお化けだらけだったね」
母は六十年昔のことを楽しそうに話していた。

 私がこわかったのはカッパだ。真夜中の田圃のカエルの鳴き声を私たちはカッパの声だと信じていた。裏の田圃の代かきが終わるころ、山から降りて来たカッパたちが騒いでいると思っていた。

我が家のわきに山から田圃へ続く路地があった。誰かが、その路地がカッパの通り道だと話した。そう聞くと、深夜にカッパたちがザワザワと歩いて行くような気配を感じた。それ以来、私はカッパが怖くて夜中に目が覚めるようになった。

心配した父が素焼きに色付けしたカッバのお面を買って来て、守ってくれるからと部屋の柱に飾った。私はそれでやっと安眠できるようになった。カッパのお守りは小学校五年生まで大切に飾ってあったが、宮崎市へ引っ越した時に紛失してしまった。今も緑色の顔や、シュロの毛で出来た髪や、赤い口をはっきりと覚えている。

 2007年5月20日

 夕食後、母は「男はつらいよ、寅次郎物語」を見ていた。マドンナは秋吉久美子。ロケ地は吉野と伊勢志摩。二十年前の地方の商店街には活気があった。

「寅さんは良かったね」
ベットから母が話しかけた。私は隣室で、散歩用バックの整理をしていた。ポリ袋、丈夫な紐、予備の手袋、携帯雨具、便座拭き。どれも母の車椅子散歩での必需品だ。車椅子を押し始めて五年目。色々経験して行くうちに必要な品が増えた。

母はテレビを止めて、映画の余韻を楽しんでいた。静かな夕暮れの中、時間が止まったように穏やかに感じた。
「タンスにしまっていた死に装束が見つからないけど、どこにしまったか知っている」
先日と同じことを母が聞いた。いつもは聞き流すが、念のために探してみたが、白足袋しか見つからなかった。
「今度、晃子が来たら、探させるよ」
そう言って、私は仕事部屋へ戻った。

 2007年6月22日

 桜並木の公園のベンチで、ホームレスたちが飲み会をしていた。
「だからお前たちはダメなんだ。そんないいかげんな生き方を続けて、これから先どうするんだ」
大きな声はいつもの説教おじさんだ。以前は緑道公園で缶酎ハイ片手に仲間に説教していたが、今年から、新設のこの公園に場所替えした。

「一番ダメなのは自分なのにね」
通り過ぎてから、母はクスッと笑った。しらふの時の彼は疲れた営業マン風で暗い顔でうつむいて歩いている。

 母の暑さ対策に、散歩には霧吹きを持ち歩く。霧吹きは、母の手袋や首筋に吹き付けて涼しくさせる。汗と違い、水は素肌にかけてもサラリと乾き心地良い。私は胸元とズボンに吹き付けて汗の出を押さえている。湿したズボンが風に吹かれると、冷たいくらいだ。

好天続きで「暑いですね」が挨拶になった。老人は少しでも体を動かさないと際限なく弱って行く。
「無理をしないようにしてください」
医師はいつも同じことを言うが、無理をしないとすぐに弱って寝たっきりになってしまう。しかし、無理の兼ね合いはとてもむつかしい。百メートルを歩き終えて、さらに五十センチ余分に歩くくらいの小さな無理だ。それ以上だと、本当に弱ってしまう。

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 母の羽織っているのは、祖母の遺品。明治時代の綿の絞り。大変堅牢で痛みはまったくない。

 2007年7月13日

 散歩帰り、墓地近くで盆提灯を下げて行くおばあさんたちに会った。赤羽に引っ越して来たころは、浴衣がけで家族総出で墓参りをする一行によく出会ったが、最近はめずらしい。そのころは、庭付きの家に住んでいたので、夕暮れに麻ガラを焚いて迎え火にした。

 大堂津での子供時代に燃していたのは松の根で、松ヤニが多くて火持が良く甘味のある香りがした。迎え火は、子供が大っぴらに許されている唯一の焚き火だった。

子供たちは迎え火を目印に飛んで来る精霊を見逃すまいと夜空を眺めた。しかし、夜空には何も見えず、すぐに飽きて花火に興じた。

新盆の家には沢山の白い盆提灯が下がっていた。その下の縁側で老人が太鼓を叩き、独特の節回しの「くどき」を唄って、盆踊りが始まった。若者たちは女は男に、男は女に仮装をして踊った。明治生まれのおばあさんたちは優雅に腰を低く艶っぽく踊った。今は、あの頃のような優雅な踊り手たちはいなくなった。

新盆でない一般の家の縁側には色絵を施された盆提灯が飾られていた。その形は様々で、灯籠の形をした提灯が多かった。盆踊りの太鼓に提灯。軒の低い家々の間に点々と続く迎え火。死者を迎える幻想的な光景を昨日のことのように思い出す。

 2007年8月17日

 三十八度を越えたが乾燥していて、車椅子を押していても汗が目に入らなかった。見上げるといわし雲が出ていた。この雲が出ると雨になる。草木が水不足で弱り始めていたので助かる。予報では、雨と共に北方の冷気が吹き込み三十度を切るようだ。

緑道公園の木陰で休み、母と冷たいお茶を飲んだ。目の前の百日紅が清々しい。
母に右を向いてお茶を飲むように注意したが、左を向いて飲んでむせてしまった。真偽は分からないが、人の食道は右を向くと真っすぐになるらしい。
母は、祖母千代のいい加減な教育のおかげで右左を逆に覚えてしまった。小学校へ入ってから修正したが、老いた今、幼児期に退行して左右を間違えるようになった。

 祖母千代の教育は総てに型破りで、母が小学校へ入学した時、出前を取ればいいと弁当を持って行かせなかった。昼食時間、母は祖母に言われたように職員室で電話を借りて洋食屋に出前を頼んだ。教師は慌てて断りの電話を入れた。
「明日から、お母さまにお弁当を作ってもらって下さい」
教師は母に頼んだ。

翌日から弁当を作ってくれたのは、料理好きの祖父甚兵衛だった。祖母の教育に失敗した甚兵衛は、母にはしっかりと料理を教えてくれた。さらに良かったのは、住まい近くに第十二師団の将校クラブがあったことだ。母はその調理場に小さい頃から自由に出入りして、コックたちから洋食の作り方を教わった。後年、その頃覚えたロールキャベツやビーフシチューを母はよく作ってくれた。           

 2007年8月28日 母94歳

 朝から蒸し暑く、靄がかかった空から薄日が差していた。このベタつく暑さは苦手だ。散歩の出かけ、玄関前に油蝉が死んでいた。死んでいる蝉は羨ましいほどに安らかに見えた。

赤羽自然観察公園の老人たちは長い夏に飽き飽きしていた。
夕暮れから涼風が吹き始めた。今夜は皆既月食だが厚く雨雲におおわれている。

七時過ぎ、雷鳴と共に激しい雨が落ちて来た。玄関を開けて眺めていると、川口市方面に太い稲光が落ちた。母は雷が大好きだ。様子を見に行くと母は電灯を消して、開け放ったベランダから雷を眺めていた。

 2007年9月7日

 今朝まで台風の激しい雨風が残っていたが、母を診療所の定期検診へ連れて行った。待合室はがら空きですぐに診察してもらえた。
「台風の雨の中、よくおいでになりましたね」
看護師たちにほめられて母は嬉しそうだった。医師は血圧を測り、背中に聴診器をあて、腹を触診し、今年の猛暑をどうしのいだかと母と雑談していた。
「霧吹きのおかげて、暑い中も散歩が出来ました」
母は霧吹きの効能を説明していた。診療所に行っても特別な治療があるわけではない。医師との会話が母を元気にさせてくれた。

診療所から帰るころに雨は止んだ。桜並木の薬局で処方薬を受け取った後、向いの公園で台風で落ちたムクの実を拾った。公園のムクの実は大粒で甘く、母も私も羊羹のような食感と香りが大好きだ。拾った実を水飲み場で洗って母と食べた。午後、風は残っていたが青空が顔を出した。これでやっと秋が訪れそうだ。

 2007年9月21日

 赤羽自然観察公園の湧水池の橋で立ち止まると岸辺に彼岸花が咲き始めていた。突然に出現した鮮やかな花に母は見とれていた。

「今日も、暑いですね」
公園の係が母に挨拶して通り過ぎた。このところ仕事が忙しかったので、公園の穏やかな雰囲気が心地良い。母が元気を取り戻し、いつも微笑んでいるのがうれしい。椎の木陰で休んでいる母を眺めながら、知人からの電話を思い出した。

彼女は今年七月に実母を亡くした。
「無理難題を言って困らせていた母なら、憎たらしいだけなのに、思い出すのは優しい姿ばかりで、辛くて辛くて」
彼女は言葉を詰まらせていた。
私も母が逝けば、母の優しい笑顔ばかり思い出すのだろう。母は体力が更に落ちたが、そのまま安定期に入った。後、二度ほど体力が落ちたら公園行きは無理になりそうだ。

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     赤羽自然観察公園入り口の駐輪場にて。着ているのは中国の古い型染め。

 2007年10月22日

 朝から好天。散歩前に洗濯した。ジーパンは石鹸分を残し気味にすすぎをした。そうすると、次の洗濯の時に汚れが落ちやすい。洗濯機は古い二槽式を使っている。洗濯槽、搾り機と、使い分けられるので便利だ。
ベランダで洗濯物を干す時は、紫外線カットの防護眼鏡をかけた。紫外線は白内障の原因だ。防護眼鏡は散歩でも、トイレ掃除で塩素水を使う時も重宝している。

 散歩道の秋色が深まった。緑道公園の草むらでカサコソ音がした。母の車椅子を止めて眺めていると、若い赤トラの耳が草の間からピョンと出て日射しに輝いていた。
「おいで、おいで」
母が声をかけると、ニャンと返事して草むらに消えた。

最近、よく見かける子で、声をかけると返事するのが可愛い。
公園外れの植木の下に鳩の羽が散っていた。弱ったドバトがカラスかネコにやられたのだろう。人の死の大仰さに比べ、彼らの死は風のように軽やかで、一瞬に忘れ去られてしまう。

 2007年10月27日

 深夜から冷たい雨が降り始め、湿度のおかげで母の咳き込みがなかった。
起こされなかったおかげで、七時間近く眠った。

 母は冷たい雨の日の散歩が好きだ。車椅子は雨具でしっかりと覆うので寒くはない。元気なころの母は雨の日に散歩をしたことはなかった。車椅子生活になってから雨景色も雪景色も楽しめるようになった。

雨の赤羽自然観察公園では紫式部に錦木やマユミが色づき始めた。古民家では子供たちが、かまどを使って昔の食事体験会をしていた。帰りに鬼グルミを拾って万力で割って食べた。新鮮でとても美味しかった。

 2007年11月25日

 母は食後三十分は必ず椅子に腰かけている。すぐに横になると胃液が逆流して食道に炎症を起こすからだ。

夕暮れは足がおぼつかなくなるので、転ばないように私は後ろをついて行く。寝間着に半天を羽織った後ろ姿が祖母に似てきたと言うと母は笑った。

 ふいに、祖母の葬儀のあと、母が久留米の菩提寺に行った留守中のことを思い出した。父は小さな祭壇に線香を上げながら、とても寂しそうにしていた。事業に手を出しては失敗し、母に苦労をかけてばかりの父を祖母は心良く思っていなかった。

父もそんな祖母を敬遠していた。だから祖母が死んでせいせいしていると思っていたので意外だった。

 夜明け前、母の湯たんぽの具合を見に行った。低温火傷を起さないように、足から湯たんぽを離していると母は目を覚まし、カーテンを開けてくれと言った。開けると黎明の空に星が一つ輝いていた。
「あれが明けの明星だよ」
教えると、母は始めて見たと喜んでいた。
介護は大変で辛いことが多いが、母の笑顔を見ると救われる。母が逝けば、介護から解放されると同時に、共有していた記憶も失われる。そんなことを考えているうちに、父が寂しそうだったのは、そのような喪失感のせいだと思った。

 2007年12月16日。

 寒風に大気が洗われ、雪で覆われた富士から奥日光までくっきりと見えた。緑道公園の木々はすっかり葉を落とした。赤羽自然観察公園の古民家の障子は張り替えられて清々しい。クリスマスが過ぎれば、門松が立てられ、お供えが飾られる。

相変わらず、深夜に母の咳がひどくなる。カリン酒を水で薄めて飲ませるとすぐに治まる。カリン酒は三年前に漬けた大瓶二本を残すだけだ。あと一本、漬けようと迷っているうちに、カリンの季節は過ぎてしまった。                  

 2007年12月24日

 母の腫瘍マーカーは相変わらず高い。すでに肝臓から肺に転移して、それで咳が増えたのかもしれない。考えたくはないが、母が今のまま生き続けられるとは思っていない。ある朝、母が目覚めない。そのような静かな終わりを期待しているが、実際は嵐のように終末が訪れ、母は慌ただしく去って逝くのだろう。

 最近、風景がくすんで見える。冬枯れのせいではなく、長く親しんで来た老人たちが次々と姿を見せなくなったからだ。多くはそれを最後に二度と会うことはない。老いとは寂しさと対峙することだ。

 クリスマスの今日も、いつものように台所で夕食をとった。と言っても、テーブル椅子が揃ったダイニングキッチンではない。調理台をテーブル代わりにしての食事だ。母が倒れて以来、台所と母の食卓の往復が増え、一緒の食事は無理になった。それで、私は台所で一人で食事をするようになった。

台所での食事は快適だ。キャスター付きの椅子に腰かけると冷蔵庫も電子レンジも簡単に手が届く。寒くなるこれからの食事は楽しい。左手の冷蔵庫から冷やご飯を取り出し、右手の電子レンジで温める。おかずは目の前のガスコンロで干物を焼いたり、鍋物を温める。コンロはストーブ代わりにもなる。太いステンレス網を火にかけて赤熱させ、手をかざすと、炭火のように暖かい。

食器はできるかぎり少なく、刻んだおひたしは、まな板から直に食べる。そのために、松材を小さくカットしたお皿代わりのまな板が幾つも作ってある。食べ終わると、残飯は右後ろのゴミ箱へ、汚れ物は目の前の洗い桶に放り込む。しかも背中が後ろの壁にくっつく狭さは飲み屋の雰囲気で居心地が良い。

 母が練り歯磨きが少なくなったから買ってくれとたのんだ。確かめると、練り歯磨きはまだ十分に残っている。今朝も同じ事を訴えるので、まだ十分残っている練り歯磨きを見せた。
「それは、洗顔クリームだよ」
母は私が手にしているのは練り歯磨きではないと言い張った。
どうやら母は、洗顔クリームで歯を磨き、歯磨きで顔を洗っていたようだ。

「まったく、自分が厭になる」
間違いに気づいた母は笑い転げていた。洗顔クリームの味は相当にひどいはずだが、思い込みの強い母は気がつかなかったようだ。

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     赤羽駅近く、高架下のアルガードにて。歌うサンタクロースに大喜びしていた。

 2008年1月6日 

 母九十四歳の正月はあっという間に過ぎた。御諏訪神社先のゴールデンのルイちゃんは車椅子の音を聞きつけて尻尾をふりふりアルミ柵までやって来て、柵の間からゴツンと大きな頭を出した。
「いい子だね」
母が頭を撫でるとブロックに顎を乗せて目を細めた。
子犬の時から可愛がっているので、彼は私たちの言葉がよく分かる。
「バイバイ」と言うと、ルイちゃんはすなおに家へ戻って行った。
今朝から母は、昨夜、ベット脇のポータブルトイレで粗相したことが尾を引いて鬱気味だった。しかし、ルイちゃんに会ったおかげで明るくなった。

「やあ、今年も元気ですね」
緑道公園で、元ハーモニカ奏者のおじいさんが母に片手を上げて新年の挨拶をした。彼はとても元気な人だったが、最近、足取りが悪く体が大きく右に傾く。もしかすると小さな脳梗塞があるのかもしれない。どんなに頑張っても、老いと死はやってくる。私たちにできるのは、その訪れをほんの少し遅らせることだけだ。

 2008年1月8日

「今日は何日だったかしら」
母が聞いた。日めくりは十日になっている。訳を聞くと、夜中に目覚めた時、夜が明けたと勘違いして一枚めくり、更に今朝、一枚めくり、何日か分からなくなったようだ。

朝食後、「今日は何日」と聞くと「八日でしょ」と母は正解した。
少しの惚けなら、頭が明瞭なまま死の影に怯えるよりずっと良い。

後出しの年賀状が十二枚届いた。儀礼的な年賀状がなくなって、二十五枚くらいになったら爽快だと思っている。散歩へ出かける前に屠蘇を飲み干し、今年も屠蘇セットを水洗いして陰干しした。

 帰宅して、新調した母のネルの寝間着の紐の位置を変え、裾の角を内側へ折り込んだ。そうしないと、背中が丸くなった母の裾の角が床に触れるだからだ。

「そう言えば、ばあちゃんも、寝間着の角が床に触れそうだったね」
裁縫しながら母に話しかけた。
「可哀想に、直してあげれば良かった」
母は寂しそうにつぶやいた。
去年は一日中、母は手芸をしていたが、夏を過ぎるあたりから気力がおとろえて止めた。今は衣類のつくろいはすべて、私がしている。

 2008年1月9日

 お隣からカリンをもらった。正月に実家へ帰省した時、庭に残っていたのを摘んで来たそうだ。虫食いがあるから早く漬けたが良いと言われたが、切ってみると虫食いは表面に留まっていた。虫が取り付いたころに寒さが来て、食べ進めなかったのだろう。これで今年のカリン酒は何とか間に合いそうだ。

連日、介護絡みの事件が起きている。その多くが老々介護で、疲れ果てて事件を起こす。ニュースでは決まって専門家が「一人で抱え込まず、救いを求めて下さい」と解説する。簡単に助けを求められるなら事件は起きない。専門家たちは、辛い現実を訴えるシステムが整っていないことに気づいていない。

「うちは認知症がないから介護が楽だ」
ニュースを見ながら母に話した。
「あら、私に認知症はなかったの」
母は残念そうに言った。
「認知症とは惚けのことだよ」
説明すると、母は「何だ、そうだったの」と、てれ笑いした。どうやら、認知症を何でも認知できる優れた能力と勘違いしていたようだ。

 2008年1月10日

 午前中はシャワー介助。母は心臓が弱く、入浴はせず毎日シャワーで済ませている。それでは不十分なので、週に一回、ヘルパーに来てもらって全身を丁寧に洗ってもらう。
さっぱりした母はベットで気持ち良さそう寝ていた。私はその間に散髪へ行った。

頭をあたってもらっていると七十歳ほどの老人が入って来た。
「四十分くらいかかりますが、お待ちになりますか」
主人は申し訳なさそうに言った。
「それなら用事を片付けて、そのころ出直すよ」
そう言って帰りかけた老人は出口で立ち止まった。
「いやになったよ。大腸ガンが肺に転移して明日から入院だ」
老人は笑顔を作ろうとしたが、辛そうに顔がゆがんだ。
彼は足取り重く通りへ消えた。一人暮らしの老人が病院へ向かう気持ちは、独り者の私には人ごとでなかった。

母の肝臓ガンについては、転移が気にならなくなった。
ガンの進行より、老いるスピードが速くなったからだ。

散髪の後、赤羽駅前で買い物をして急いで帰宅した。母はテレビも点けずベットに死んだように横になっていた。
「大丈夫なの」
母に声をかけると「大丈夫」と、消え入りそうな声が返って来た。
今日は散歩を休んだので軽い鬱になったようだ。それでも、床屋さんで会った老人と比べると、母の老後は比べものにならないほど幸せだ。

 2008年1月14日

 汚染フィブリノゲンによるC型肝炎患者の救済法案可決のニュースを母は熱心に見ていた。母は十三年前の胆石手術の後、C型肝炎ウイルス感染を告げられた。胆石手術の前は感染はなかった。だから、胆石手術のおりに感染させらたと思っている。

そのことを医師に話すと、感染予防策がとられているのであり得ないと言っていた。母のC型肝炎ウイルスは駒込病院での肝臓ガン手術の折には自然治癒していた。だから、母の肝臓ガンとの因果関係を証明するのは難しい。加えて、自然治癒したからC型肝炎患者でもない。

「私の場合はダメかしら」
認定を期待していた母に説明すると落胆していた。 

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      雪の赤羽自然観察公園。子供が作った雪だるまが可愛いと喜んでいた。

第六章 そして、母の老いは静かに進行した。

 2008年1月15日 母94歳

 朝、母は椅子に座ったまま居眠りしていた。
「出かけるよ」と、何度か声をかけると母はやっと目を覚ました。
「幽霊橋の夢を見ていた」
寝ぼけ顔の母は楽しそうに夢の話しをした。

 幽霊橋とは久留米の心霊スポットの一つで、画家青木繁が住んでいた荘島町の一角にある。幽霊橋と言っても橋ではなく、路傍の土に埋まった何の変哲もない三十センチほどの黒っぽい石だ。その直ぐ先の荘島小学校は刑場跡で、その石は刑場へかかっていた橋の礎石だった。

昔、その橋には幽霊のうわさが絶えず、そのような名がついた。今は整地され住宅地になり、橋も小川も礎石もない。
大正中期、荘島小学校に通学する子供たちは幽霊橋は祟るからと、大きく避けて通っていた。しかし、活発な母は平気だった。
「ゆうれいばし、ふんづけた」
母は毎日、石を踏んづけ荘島小学校へ通った。
「みんなは、恐ろしそうに見ていたけど、ちっとも怖くなかった」
母はいつも楽しそうに話していたが、その後の苦労を見ると、幽霊橋に祟られたように思えてならない。

最初は、頼まれればすぐに保証人の判子を押してしまう祖母のために、たえず借金取りの矢面に立たされた。それから何度かの結婚の失敗のあと、父と一緒になって、さらに長い苦労が始まった。父は甘言に乗せられやすく、がまんできない性格だった。

終戦直後、役所を辞職して会社を興したがすぐに倒産した。それからも失敗を続ける父に代わり、一時期、母はコロッケを作って行商して私たちを育てた。私が母の介護を続けられたのは、そのような苦労を見て育ったからだ。もし、母が普通の主婦だったら、晩年は施設に預けていたかもしれない。

 最近、九十年近く続いた幽霊橋の祟りは、母の肝臓ガン手術を最期に薄れて来たような気がする。祟っていた霊も老いて円くなり、もういいだろうと許してくれたのかもしれない。おかげで、術後二年で終わると思っていた命は今も消えず、今年夏の九十五歳の誕生日を何とか迎えられそうだ。

 夕食後、仕事を始めるとすぐに母が呼んだ。湯たんぽが冷たいと言う。昨夜から布団に入れっ放しだ。急いで湯たんぽを下げて台所に行くと、下げて行ったのは簡易トイレのバケツだった。最近、私も惚けたようだ。

「うっかり、バケツのおしっこを湧かすところだった」
母のベットに戻って、湯たんぽを取り出しながら言った。
「おしっこでも、お湯でも、温かければ同じよ」
母は楽しそうに笑っていた。

 2008年2月1日

 朝、北赤羽整形外科へ母を連れて行くと、看護師が貼り紙をしていた。
「エレベーターが故障したので二階まで階段をお使いください」とある。
「おんぶして上がろうか」
母に聞くと「絶対にいやだ」と拒否された。

仕方がない。理学療法士の男性二人を呼んで、私と三人で車椅子ごと抱えて階段を上った。
母をペインクリニック治療に置いて一旦帰宅し、雑用を片付けた。治療が終わったころ、北赤羽整形外科へ戻ると階段前は患者たちで大混乱していた。

患者は足腰の悪い人ばかりで、一人で階段を上れる人は殆どいない。平常時でもそのように混乱するのだから、これが大震災だったら想像するのもおそろしい。母を介護していて一番恐れているのは大震災だ。介護の必要な老人に避難施設は過酷過ぎる。

 2008年2月4日

 朝、昨夜までの雪が凸凹に堅く凍っていた。石ころだらけの山道を行く思いで、凍った道を車椅子を押して行くと汗だくになった。赤羽自然観察公園の遊歩道は更にひどいので入るのは諦めた。

帰りは下りばかりで楽だった。東京北社会保険病院にさしかかると、いつもより強く揺らされた効果で、母は便意を催した。
すぐに病院のトイレへ駆け込んだ。前日、通じがなかったので、母は腹がすっきりしたと喜んでいた。

 車椅子散歩で一番重要なのは、事前の車椅子用トイレの確認だ。
新設の東京北社会保険病院の車椅子用トイレは広くて暖かく、洗面所からゴミ箱まで揃っていてとても助かる。車椅子用の公衆トイレは各所にあるが、どれも寒い上、衛生的でない。スーパーや、駅の公衆トイレは、ホームレスが寝場所にしていたりする。

利用した中で、最高ランクのトイレは、北区立多目的ホール「北とぴあ」十階のトイレだ。車椅子用は一階にもあるが利用者が多くて汚い。
十階の車椅子用トイレは施設の事務室そばで、一般人は利用しにくいので清潔だ。広さは四畳半ほどで窓も広く、北方向の広大な風景を眺めながらトイレを利用できる。
概して、新しい施設や、介護関係のトイレは清潔で使いやすい。

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               赤羽自然観察公園管理棟のトイレ前にて。

 2008年2月5日

 歩道の雪が溶けた。赤羽自然観察公園の冬木立が清々しい。日溜まりで休んでいると、谷の向こうから知人が手を振った。母に教えると、大きな声で挨拶を返していた。百メートル程の距離だが、静かなので声がよく通る。大きな声を出して酸素飽和度が高くなったのか、母は元気になった。

帰り生協で節分の売れ残りの豆を買った。豆は酒で薄めたダシ醤油に漬け、一晩置くと柔らかくなって箸休めに重宝する。
部屋の隅で、昨夕まいた豆を踏みつぶした。砕ける音に春が近いと感じた。

 2008年2月8日

 シャワー介助が終わったので、食間の薬を持って行くと母は口を開けて待っていた。ヘルパーの小黒さんは優しい人で、こまごまと母の世話をしてくれる。それで、一過性に依頼心が強くなったようだ。

「子供じゃあるまいし。薬くらい自分で飲みなよ」
叱ると、母はしきりに照れていた。
老人施設に入った知人たちが急速に老いて行く。その一因に、施設の面倒見の良さがある。職員は、当然、入所者へは自立を促すように接している。しかし、忙しいと却って手伝ってしまい自立心を奪ってしまう。
私も、母がノロノロと服を着ていると、早く済ませたくて手伝いたくなる。しかし、手伝うと母の老いが進むので我慢している。

 2008年2月9日

 散歩に出ると、時折雪が舞った。寒くて緑道公園の霜柱が溶けていない。
「温泉の噴気みたいね」
遠く低く響く音が、昔、霧島のえびの高原で聞いた噴気の音に似ていると母は話した。音源は一キロほど離れた中山道の車の音だ。曇った日にはよく聞こえる。

 母が思い出したのは四十五年前の冬のことだ。高校生の私は四日間電気器具店の倉庫整理のアルバイトをして二千円もらった。うれしくて、母に何か買ってやると言うと、温泉へ連れて行ってくれと言った。私は千円を加えた三千円で、霧島のえびの高原日帰りバスツアーに申し込んだ。ツアーには温泉付きレストセンターの休憩が含まれていた。

早朝出発したバスは三時間弱でえびの高原に着いた。団体バスだったが乗客は私たちを含めて十人ほどだった。えびの高原は霧島韓国岳山腹に広がるススキを主体とした草原でミヤマキリシマツツジの群落で有名だ。自生する高山性ススキが雨に濡れると赤く海老の尻尾のように見えるのでその名がついた。

高原には雪が積もっていて、母の靴が雪で濡れた。高原の一角の温泉が噴出している場所へ連れて行くと、母は蒸気に温められた石に冷えた足をのせて温めた。その後、母はレストセンターで休んで温泉に入った。

私はその間に、韓国岳へ駆け登り、一時間で往復してレストセンターに戻った。母は暖房が効いた広い座敷でくつろいでいた。私も温泉に入って疲れを取り、夕暮れに団体バスで宮崎へ戻った。

「温泉で温まった石がとても気持ちがよかった」
母は目を細めて、遠い昔のことを思い出していた。当時、母は四十代後半、今の私より二回り若かった。

 2008年2月12日

 時折小雨が落ちる中、母を王子稲荷の初午へ連れて行った。地下鉄南北線で王子で下車し、王子稲荷下の通りに出ると露店が並んでいた。両側の食べ物屋から湯気がたなびく雑踏を、ゆっくりと車椅子を押した。

王子稲荷裏門への急坂を一気に車椅子を押し上げ、本殿脇に母を置いてお詣りした。その後、火災避けの凧を受けようと社務所の行列並んでいると百円玉が落ちていた。お金を拾うのは縁起がいい。拾ったお金は縁起物として貰っておいて、財布から出した百円を本殿の賽銭箱へ返しておいた。

「今年も初午にお詣りできて、本当によかった」
帰り道、母は何度も話していた。

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                    王子のお稲荷さんの初午。

 2008年3月7日

 緑道公園で久しぶりに顔馴染みの川崎さんに会った。川崎さんは七十歳代の資産家で、身なりの良い精悍な人だ。それが薄汚れ、顔色に生気がない。聞くと、奥さんが脳梗塞で倒れたと言う。幸いにも、血栓溶融剤が適用できる三時間以内に救急病院へ運び、後遺症は少なくて済んだ。しかし、右半身に麻痺が残り、今は必死でリハビリ中だと言う。

「食事と家事にはホトホト困っています」
突然に一人暮らしを強いられた川崎さんは、どうして良いか分からないと嘆いた。この先、奥さんが退院しても、後遺症が大きければ川崎さんの負担は増える。子供はいるが、財産処分のことでもめているので手助けを求めたくないと彼は話した。

「野菜を多く、バランスのよい食事をして下さい」
会話の後、そう言って別れた。奥さんの回復がはかばかしくなければ有料の施設に入れるだろう。家族がいても、川崎さんのように突然一人暮らしを強いられることがある。そんな時、家事能力があれば何でもなく対応できる。

 帰宅してから、自分の老後について考えた。死期が近くなってから、厄介なのは思い出の品の処分だ。殊にアルバムの処理には苦労しそうだ。

以前、モンゴルを舞台にした絵本を描くために資料を集めた。彼らは大平原に住みながら、住まいは実に小さくシンプルで最小限の家具しか持たない。しかし、思い出だけは大切にする。子馬が生まれたとか、羊が増えたとか、楽しい出来事があると記念写真を撮る。だから、昔からモンゴルには写真屋が多いと資料にあった。確かに、写真なら軽くて持ち運びは簡単だ。

しかし、今の日本では写真は余りにも膨大過ぎて、大切な写真を選ぶのは難しい。残された者たちも、身内の写真の取り扱いには苦労しそうだ。今のうちに最小限に絞って、アルバム一冊にまとめておくのが良いかもしれない。

 母の思い出の品はセンチ尺併記の竹の物差しだ。裏には昭和十二年と墨書してある。
もう一つ愛用している手芸材料の箱は机の引き出の転用だ。裏に昭和二十八年と裕子姉の署名がある。

不要なものの処分を進めたいが、それらの母の思い出は私が健在なかぎり残して、私の死が間近になったら処分しようと思っている。

 私の思い出の品は、いつも仕事机に置いてあるオタフク鎚だ。オタフク鎚とは彫金用のタガネを叩く小さな金槌で、一番大切な道具だ。
彫金職人として長く生活を支えてくれたそのオタフク鎚の古びた樫の柄は、手のひらと指で擦れて凹みができていて、辛い時、それを手にすると不思議に元気が出る。多分、私が最期に処分する思い出の品はこのオタフク鎚だ。母のアルバムは孫たちが引き受けてくれるが、このオタフク鎚だけは、だれも大切にしてくれそうにないからだ。

 2008年3月9日

 赤羽自然観察公園の石垣の青トカゲたちはまだ冬眠していた。しかしクヌギは、冬の間新芽を守っていた枯れ葉を落し芽吹き始め、ようやく春が訪れたようだ。

「おじさん。元気でいなよ」
桜広場のベンチで休んでいた老人が、先に帰る老人仲間に声をかけた。
「分かっているよ。でも、元気ばっかりはどうしようもない」
老人は片手を上げて、ゆっくり去って行った。
「体だけは、どうしようもないものね」
車椅子の母が去って行く老人を見ながら言った。老いはどうしようもないが、今年も母は土筆を味わえた。それだけでも、生きているのはすばらしい。

 2008年3月16日

 緑道公園の陸橋の下でお茶を飲んだ。母は突然、八十八年前の久留米荘島小学校の頃、実父に会ったことを話し始めた。母は記憶がしっかりしている内に、思い出を私に伝えたいと思っているようだ。

 母の小学校の授業中に、突然、養父健太郎が来て早引きさせた。二人は人力車で久留米第一銀行の官舎へ向かった。着くと玄関前で若い女性が待っていた。慌ただしく案内された奥の部屋に男の人が布団の上で正座して待っていた。
「千代しゃんか、大きくなったね」
その人は母を見てににこやかに声をかけた。それから、どのような会話をしたのか母の記憶にない。ただ、男の人の端正な顔立ちと、出迎えた女性が突然泣き崩れたことだけを、はっきりと覚えている。

 出会いは慌ただしく終わり、すぐに帰路に着いた。母は男の人が誰なのか健太郎に何も聞かなかった。
後年、正座して待っていたのは実の父親で、再会した直後に死んだことを知った。待っていた若い女性は後添えだった。母の実母は母を産むとすぐに死に、幼いは母は養女に出された。

実父の死は久留米第一銀行に職を得て、安定した生活を送り始めた矢先だった。放蕩の限りをした実父が、なぜ堅い銀行に勤められたのか、その経緯は母にも分からなかった。

「どうして死にかけた人が、正座して笑顔になれたのでしょうね」
母は長年疑問に思っていると話した。
「やもうえず、赤ん坊の娘を他人にやってしまい、自責の念が消えなかったからだ。それで、最後の力を振り絞って、やさしい父親像を記憶に残したかったのだろう」
父親の心情を話すと母は可哀想にとつぶやいた。
もし、やつれ果てた姿を見せていたら、母の実父のイメージはまったく違ったものになっていたはずだ。

 2008年3月20日

 今朝、母は粗相して、申し訳なさそうにしていた。ベット傍らの簡易トイレが間に合わなかったようだ。
「気にしないでいいよ」
私は素早く片付けた。
最近は習熟して、素早く片づけることができる。汚れた寝間着は浴槽の底に広げて熱いシャワーで洗い、洗濯機で仕上げ洗いをした。外は寒い雨だったので寝間着は部屋干した。それから雨の中、いつものように散歩へ連れ出した。外へ出ると母は空気が美味しいと、すぐに元気になった。

 緑道公園で若いメスカラスが小枝を集めていた。数日前から、同じ場所で彼女と出会う。しなやかな体に艶やかな羽色が美しい。

「巣を作っているの」
母が声をかけると、ちょっと首をかしげて私たちを見た。頭の良いカラスは声の調子で危険がないと理解する。彼女は小枝を吟味して選んでから桐ヶ丘体育館へ運んで行った。下からは見えないが、屋上に営巣しているようだ。

 雨の緑道公園を車椅子を押しながら、去年から取り組んでいた本の企画がうまく行っていないと母に話した。仕事は順調に仕上げていたが、先日、担当者から企画がつぶれたと伝えられた。私は生活が厳しくなった状況を手短かに話した。

「私は正喜の力を信じている。きっと、良い方向に変化するよ」
母はいつものように前向きに答えてくれた。
何時死んでもおかしくない母だが、いつも私の支えになってくれる。だから苦境を母に話したのかもしれない。

自然公園に着くと、遠く満開の辛夷が雨に霞んで見えた。白い辛夷の花を眺めていると、母の言葉通り良い方向へ変化するような気がした。

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                   赤羽自然観察公園の辛夷。

 2008年3月24日

 寒い雨の中、散歩へ出た。雨は強く、緑道公園の陸橋の下で雨宿りしながら母と熱いお茶を飲んだ。
「橋の下で休んでいると、浮浪者になった気分だね」
母に言うと、懐かしい言い回しだと笑った。最近、浮浪者はホームレスに変わった。私はホームレスより浮浪者の方が情があると思っている。

本の企画が潰れてから、どっと疲れが出て左外側の白目が出血した。
公園の木々の芽吹きが雨に濡れて美しい。どんなに疲れていても、この散歩のおかげで癒されている。

 お昼は、筍、ワカメ、ホタテ、を煮込み、仕上げに摘んで来た土筆を入れた。母は美味しそうに食べていたが、急に食べるのを止め吐きそうにした。直ぐに吐き気止めのナウゼリンを飲ませると五分ほどで収まり食欲は回復して完食した。

最近、母の吐き気への対応に慣れて、母を吐かせることがなくなった。レントゲンを撮ると肝臓の腫瘍が横隔膜を押し上げているのが分かる。それでも激変しないのは、高齢のため腫瘍の成長が緩慢だからだ。

先日、春物の上着を着せると、腹回りのボタンが留まらなかった。太ったのではなく、腹水が溜まっているからだ。一見平穏だが、ある日限界点を越えた時、激変しそうで不安だった。

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                    雨の自然公園での花見。

 2008年4月7日

 目覚めた母はとても気分が良いと笑顔だった。しかし、朝食を食べ終えると疲労を訴えた。それからは、テレビも点けずベットに死んだように横になっていた。生協浮間診療所の開く八時半を待って往診を頼んだ。

仕事をする気にはなれず、不安な気分で医師の到着を待った。何もしていないと様々なことが思い浮かぶ。いつもなら、自然公園で母を歩かせているころだ。帰りに駅前で買い物をして緑道公園で休憩し、桜並木を通って十一時半に帰宅する。ありふれた毎日のできごとが遠い昔のことのように思い返された。

 医師は昼前に訪れた。
「それほど悪いとは思えませんが」
医師が笑顔で説明すると母は不満そうだった。
しかし、それが正しい診断かもしれない。母は自己暗示にかかりやすく、小さな症状をきっかけに不安が増幅されたのだろう。夕刻、私は銀座のギャラリーで9月の個展の打ち合わせがあるので、回復してもらいたかった。

「まったくの健康体で、どこも悪くないよ」
医師が帰った後、繰り返し話すと、母は少しずつ元気になった。

 夕食後、母をベットに寝かせて銀座に行った。九月の個展の期間中、母の世話をどうしたら良いか頭が痛い。介護施設にショートステイさせる予定だが、施設を自由に選べず、利用者にとって今の制度は不自由だ。

 2008年4月14日

 曇り空で寒い一日だった。夜九時過ぎ、母が寒いと言うので電気あんかを布団に入れた。それから、私は隣室でテレビを見ていた。

「三島さんの上は気持ち良かったね」
母がベットから話しかけた。三島さんとは郷里大堂津にある神社の名だ。神社裏山にお神楽をするテニス場くらいの草原がある。母は毛布とゴザを持ってそこへ出かけ、よく昼寝をしていた。

「今頃は海がキラキラ光って綺麗だった」
母は広場から見える太平洋と沖の大島の光景を懐かしそうに話した。
その頃、父は事業に失敗し、毎日借金取りが押し寄せるので、母はその広場へ逃げていた。

「貧乏だったけど、子供たちがいたから、とても楽しかった」
母はしばらく昔話をしていたが、いつの間にか寝入った。

 2008年4月23日

 昨夜母は、ベットから起き上がるのが遅れて粗相してしまった。そろそろ電動の介護ベットを検討する段階になったようだ。食事の量は更に減り、声は小さく聞きづらくなった。

 赤羽自然観察公園の土筆が生えていた辺りはスギ菜に覆われていた。ミズキは若葉に変わり、すぐに花かんざしのような白い花が咲く。季節は一日も留まる事なく変化して行く。

赤羽自然観察公園の古民家の前庭で母に輪投げをさせてから古民家で休憩した。静かで、かまどの薪が弾ける音が土間に響いた。

「昔は朝早くから忙しかったけど、ちっとも辛くなかった」
母は食事時間に、おかずが大きいとか小さいとか、大騒ぎしていた私たちのことを楽しそうに話した。我が家は大家族の上に、時には知らない大人も交じって食事はいつもにぎやかだった。当時の日本は貧しかったが、振り返ると本当に楽しかった。

 散歩帰りに夏用の長手袋を買って渡すと母は子供みたいに喜んでいた。そのような小さな希望が母を元気づけてくれる。その後、久しぶりに都営桐ヶ丘団地を抜けた。石垣の上のツツジが三分咲きだった。

ツツジが咲くと祖母の命日が近い。祖母が死んだ日、九州から父親違いの兄二人が上京して来て、昔の大家族が再現された。その暖かさが祖母の死の喪失感より強く記憶に残っている。その翌年、上の繁兄は脳溢血で急死したので、大家族が集まったのは祖母の葬儀が最後になってしまった。

 2008年5月3日

 母のベットに厚ベニヤを十五度の角度で置いた。それで、母は起き上がるのが楽になった。しかし、今朝の母は足はふらつき、手は震えてお茶碗を落しそうになった。母はショックで表情が暗くなった。朝から雨だったが、朝食後、散歩に行こうと母を誘った。

「散歩は行きたいけど、こんなに疲れていては無理。外で具合が悪くなったら、みんなに迷惑かけるよ」
母は今日は寝て過ごすと言った。
「寝ていても疲労は治らないよ。散歩に出て車椅子の上で死ねたら本望だろう」
無茶なことを言った。
「車椅子で死ねたら良いね」
母は笑顔になった。

寝間着の上に半天を着せ毛布で包み、雨具をかぶせた。外へ出ると、細かい雨が顔に当たって気持ちいいと母は言った。公園で、集まって来たスズメたちに餌をまくと、楽しそうにプチプチとついばんでいた。それが可愛いと母は笑顔になった。

 お昼前に帰宅すると晃子姉が来ていたので母を任せた。姉は母の冬物の衣類の整理に来た。母はベットに横になったまま姉の作業を見ていた。
「さぼらないように私を見張とっとでしょ」
姉が母を笑った。母もつられて声を出して笑った。
「マーも晃子も、優しくてうれしいね」
母はベットでつぶやいた。マーとは私のことだ。
「そげんこと、言わんでも分かっと」
姉は久留米なまりで母に言った。姉は宮崎育ちだが、母との会話は久留米なまりになる。

 2008年5月16日

 母を生協浮間診療所へ連れて行った。医師に、強い疲労、食欲不振、吐き気などの症状を話すと、心臓が弱っているかもしれないと、胸のレントゲンを撮った。

写真を見ると両肺下部はもやもやして丸みを帯びていた。医師は心臓が弱って肺がむくんでいるからだと説明した。高齢の場合、肺がむくむと強い疲労感や食欲不振、吐き気などの症状が現れる。それら総ての症状が母と一致した。

先月、疲労を訴え始めた頃、母の咳に力なく息が漏れるようなのが気になっていた。今思えば、その頃に母の心臓は弱り始めたようだ。
利尿剤が処方された。母の心臓の弱りは治しようがないが、原因が分かっただけでホッとした。むくみが取れれば症状は緩和するはずだ。

 昼食後、母をベットに寝かせて上野上野歯科医院へ出かけた。歯のメンテナンスは今日で終わる。若い歯科衛生士はいつもより丁寧に手入れをしてくれた。
「今月一杯で辞めることになりました。長い間、ありがとうございます」
終わってから彼女が挨拶した。
「良いことで」
聞くと彼女は微笑んだ。
どうやら寿引退のようだ。長く担当してくれた人だったので、心に穴が空いたような気がした。帰りはさわやかな風の中、道の明るい日射しを選びながら帰った。

 2008年5月23日

 今日は北赤羽整形外科での神経ブロック治療。母が車椅子に座るまでは介添えするが、足乗せと安全ベルト装着は自分でセットさせている。
母は予約時間に遅れるから装着を手伝えと言った。十分にゆとりがあるから大丈夫、と説明したが、予約時間を間違えていると言って聞かない。言い合っていると、出勤する、お隣のご主人が挨拶した。
「少し惚けちゃいまして、バカなことばかり言っています」
私は言い訳をした。
「そのバカな親の子供はだれ」
母は言い返した。
「いつもお元気ですね」
お隣のご主人は笑いながら出かけて行った。

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                   病院帰りに赤羽駅前へ出た。

 2008年5月25日

 雨の中、赤羽自然観察公園へ散歩へ出た。以前は雨の中でも雨具をつけて歩かせたが、最近は疲れさせるので止めている。歩く代わり、母に大きな声を出させた。声を出せば呼吸が活発になり酸素飽和度が高まる。
「一・二・三・イ、ロ、ハ、ニ、」
母は大声を出していたが、時折退屈して「バ、カ、ま、さ、き、」と間に入れた。
他に誰もいないが、さすがに恥ずかしい。
母は私の悪口を言ってストレスが取れたようで元気になった。

 雨の静かな公園は安らぐ。
「卒業した人達が訪ねて来ているように感じるね」
母は遊水池を覆う深い樹木を眺めながら言った。公園では、常連が弱ったり死んだりして姿を見せなくなることを卒業と言う。

人の魂はきれいな水が好きだから遊水池の周りに集まっている、と母は信じていた。そう言われると、薄暗い水辺の木陰に死んだ知人たちの魂を感じた。

 ウグイスカグラが赤い実を付けていたので数粒を母の口へ放り込んだ。
「甘いね。命が伸びる気がする」
母はとても喜んでいた。私も食べながら体に力が沸き上がるような気がした。

 2008年6月6日

 昨夜は冬布団をかけたくなるほどの涼しさだった。一夜明けると好天で気温が上がった。診療所の定期検診に母を連れて行くと、診察は簡単に済んだ。酸素飽和度は八十二と相変わらず低い。

「お年ですし、まあ、こんなものでしょう」
医師は明るく言った。母はそう言われただけで気分が良くなった。
診療所から桜並木の薬局へ回り処方薬を受け取って帰った。帰宅すると少し汗をかいていたので、シャワーを浴びて仮眠を取った。目覚めると背中が痒い。痒み止めを塗りたいが手が届かない。ベットに寝ていた母を起こして、痒み止めを塗ってもらった。

 毎夜、寝る前の母の背中に、安眠できるように痒み止めを塗っている。
「塗ってくれる人がいて良いね。おれは年取って背中が痒くなった大変だよ」
塗りながら母に話すと、
「その時は、わたしが化けて出て、背中を掻いてあげる」
母は気楽なことを言った。
「お化けは指の力がないからから掻けないだろう」
言い返すと、母は楽しそうに笑っていた。

 2008年6月17日

 午前三時、母が起きた気配に目覚めた。様子を見に行くと母は簡易トイレを使っていた。最近、母は用を足した後、ベットに上がるのに苦労する。事故を起こさせたくないので、起きて手伝っている。

隣室で小用が終わるのを待って、ベットに寝かせた。体重のある母をベット中央に寝せるのは大変な作業だ。母の身体はあちこち痛んでいるので、力ずくで動かすことはできない。滑りの良いゴミ袋を体の下に敷いて、少しずつ移動させた。

自室に戻り、二度寝をしようとしたが眠れないので母の催眠剤を飲んだ。薬はよく効いて朝六時まで寝ていた。

 朝から好天で、洗濯物が乾くので助かった。最近、母は粗相が多く、寝間着やシーツの洗濯が増えた。専用シーツは防水加工がされ、汚れ落ちが良く、朝干せば散歩から帰宅する頃には乾いている。雨で乾かない時は、使い捨てのシーツを使う。

 散歩先の古民家でいつものように横になった。係の人達が立ち働く物音。母と知人との会話。我が家に帰ったような安らぎを感じる。縁側から吹き抜ける風は少し冷たかったが、すぐに寝入った。

誰かがバスタオルをかけてくれたような気配がして目覚めた。それは幻覚で、子供の頃、「風邪ひいちゃうよ」と母に布団をかけてもらっていたことを思い出した。今は母に何かしてもらうことは何もない。しかし、そのような思い出があるので母の世話ができる。

 2008年6月28日

 食事の時、私は母を後ろから支えてソロソロと歩いてテーブルに就かせた。テーブルへ就くと、決まって母は箸がないとか、ご飯がないと文句を言う。私は先回りされて言われると気分が悪い。それでついつい、分かってると強く言い返す。

「ただ、口にしただけなのに」
母はいつも不満げだ。母は自分でできないので、思っていることがすぐに言葉になる。それは重々分かってるが、つい文句を言ってしまう。

 散歩帰り、近所の袋小学校脇を通ると、プールから子供たちの歓声が聞こえた。
「正喜の小学校では、港にロープを張って水泳大会をしていたね」
母は昔の私の小学校行事を話した。

 昭和三十年初頭、漁師町の小学校の水泳大会は漁港内に四角くロープを張って行った。
当時、田舎の子供は水着など使わず、パンツか丸裸で泳いだ。パンツより赤フンの方が機能性は良いが、それを締めていた子供はいない。フンドシは軍国主義の遺物として進駐軍から禁止された、と聞いたことがある。私は白ベルト付きの紺の毛織物の水泳パンツをはいていた。

「ハイカラなパンツをはいているから、泳ぎは上手いだろう」
大人たちは私に注目した。しかし、私は泳ぎが下手だったので、とても恥ずかしかった。それ以来、私はみんなと同じようにパンツで泳ぐようになった。道々、そのことを母に話した。
「パンツを塩分でゴワゴワにして帰って来るので、学校帰りに海で泳いだことがすぐに分かった」
母は当時を思い出して笑っていた。

 2008年7月19日

 九月一日からの個展案内状に使う絵を描いているが、遅々として進まない。先日、ついにしびれを切らした画廊から催促メールが来た。折り返し電話すると、即座に二十二日と日限を切られてしまった。昔から、ギリギリまで仕事を抱え込んでしまう癖がある。だから、日限を決められると無理な日程でもこなしてしまう。

 朝の散歩の行きがけに、母が兄へ書いた葉書を投函した。葉書には毎回母の写真を入れてある。今日の写真は六月三十日に撮ったものだ。二十日前なのに今よりずっと元気に見える。母は僅かな間に急速に弱ってしまった。

 梅雨明けの日射しが強い。赤羽自然観察公園へ着くまで、母に何度も霧吹きした。母の麦わら帽子下の濡れおしぼりは氷水で冷やし直した。母はそれらの措置で熱中症にならないですんでいる。

公園に着くと「いつも、お元気ですね」と顔馴染みの老人が声をかけた。
「とんでもない。見かけばかりで中身はボロボロです」
母は笑顔で答えた。
「いやいや、それでも笑顔が出るのが良いです。お会いすると、自分も頑張れると元気が出ます」
自分が人のはげましになっていると知って母はうれしそうだった。
猛暑が始まってから、常連の老人の殆どは顔を見せなくなった。これから秋まで、老人たちの厳しい耐久レースが続く。

 2008年8月15日

 深夜、母に呼ばれたような気がして目を覚まし、様子を見に行くと母はベットからずり落ちていた。簡易トイレを使おうと起き上がり、腰かけた布団の縁から尻が落ちて私を呼んでいたようだ。そのまま放っておくと危険だった。

「よく起きてくれたね。苦しくて死ぬかと思った」
母は心から安堵していた。母を寝かせてから、ベットの縁に、安物のクッションをガンタッカで留め、滑り止めにした。作業は五分ほどで終わった。手作りの木製ベットはそのように自在に加工できるので便利だ。

ガンタッカとは大きなホチキスで、コの字形のステープルをバネの力で打ち込む大工道具だ。私はキャンバス張りに使っている。

 朝、母の足のむくみが消えていて、とても元気だった。猛暑だったが散歩へ連れ出した。桜並木のアオノリュウゼツランが開花し、暑い中、見物人でにぎわっていた。この花には人を惹きつける神々しさがある。今月末に総てが咲き終えたら寿命は終わる。その潔い生き方が人を惹きつけるのだろう。

強い日射しだが、今日も母は霧吹きで耐え、無事に散歩を終えることができた。

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 2008年8月19日

「先週より色が薄くなっているようですので、悪性のものとは考えられません。経過観察しますか。それとも今日切除しますか」
東京北社会保険病院皮膚科の女性医師は念を押した。私は躊躇なく切除を頼んだ。

 先週朝、母のまぶたのホクロが出血した。それは長い間、小さなシミだったが、今年四月あたりから急速に変化したので、切除を頼んでいた。

切除前に血圧が計られた。それから患部のある左上まぶたを消毒して、使い捨ての灰緑色のシートが母の顔にかけられた。シート裏は軽く肌に粘着して、中央の手術穴がずれない仕組みだ。

次に患部皮膚に局部麻酔の注射。くの字に曲げられた針はまぶた皮膚に薄く刺さり、注入された麻酔薬が患部を半球形に持ち上げた。膨らんだ風船と同じで、患部は固定され切除しやすくなった。

患部の皮膚は横方向紡錘形に使い捨てメスで切れ目が入れられ、ピンセットで持ち上げてすくうように切り離された。要した時間は十分ほどで出血はほとんどない。その間、母は気持ち良さそうに横になっていた。

生理的食塩水に漬けた切除した皮膚を看護師が「見てみますか」と私に渡した。それは赤い小さな破片で、形はよく分からなかった。医師は六ミリほどの傷口を丹念に十針縫った。紡錘形に切除したのは、傷跡がフラットに横一文字になるためだ。

「傷はしっかり塞がっていますから、明日の夕方から顔を洗っても大丈夫です」
医師は手術シートを剥がしながら言った。
「あら、もう終わったんですか。気持ちよくて、眠ってしまいました」
母は陽気だった。傷跡にはゲンタマイシンが塗られ絆創膏が貼られた。
「母は六年前、ボーエンガンを転移するまで経過観察されたことがあります。それで、切除をお願いしました」
急いだ訳を医師に話すと、「それは待ち過ぎですね」と何度も言った。手術跡はシワの方向と一致するので、まったく分からなくなる。 

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                手術が終わった母。まぶたに絆創膏。

第七章 ショートステイと姉の死で、母の老いは一気に進んだ。

 2008年9月2日 母95歳

 三月に、突然銀座での個展が決まった。以来、慌ただしく制作してきて、昨日の個展初日を迎えた。

午前中。銀座へ出かける前に母をショートスティさせいる介護施設に行った。
施設は新河岸川沿いの道を上流へ2キロほど行った工場地帯にある。

母は簡易トイレの臭気のする部屋で電気も付けずに暗い顔で寝ていた。
「散歩へ行こう」
誘うと無気力に「疲れた」を繰り返した。肌はかさつき、声はかすれて消え入りそうだ。たった二日でいつもの快活さが消え、別人のように見えた。
「寝てばかりいると、一気に寝たっきりになるよ」
励ますと母は渋々起き上がった。車椅子で川沿いの遊歩道を散歩させたが、蒸し暑い殺風景な散歩道に母は更に疲れてしまった。すぐに引き返し、母の体調を案じながら銀座の画廊へ向かった。

 午後二時に個展会場に着いた。初日と違い来客は少ない。退屈していると若い外国人のアベックが入って来た。
「ファンタスティク。ビューティフル」
盛んにほめるので、お茶を出して貰い物の栗落雁を二人に勧めた。
国を聞くとコロンビアだと言う。落雁が美味しいと言っているのは分かるが、他は皆目分からない。困っていると、私たちから離れて絵を見ていた中年男性が二人の言葉にうなづいていた。
「言葉、分かりますか」
聞いてみると、その人は笑顔でうなづいた。早速、通訳をお願いすると流暢なスペイン語で二人に話しかけた。

二人は歌舞伎座の帰りにふらりと入ったようだ。若く美人の彼女はお洒落なダイヤのペンダントを下げていて裕福な感じだ。彼の方はウエストサイド物語に出て来そうな小粋な若者だった。もしかすると、コロンビアマフィアの令嬢と子息かもしれない。二人は握手を求め、楽しかったと言って帰って行った。

「自分は長くスペインに赴任していまた。懐かしい言葉が聞こえたので思わず入ってしまいました」
通訳してくれた男性がいきさつを話してくれた。
そのような非日常なことが銀座では起きる。

母の今後の対策のために早めに帰宅した。明日に母を前倒しで退所させることにして、世話をしてもらうヘルパーを手配した。

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 ショートステイをした介護施設。入所者が歩き回らないように、入り口近くの手摺が外してあった。見かけはきれいだが、トイレ掃除は行き届いていず、我が家と比べると不潔に感じた。職員が入所者と会話している光景もなく、入所者は放って置かれていると感じた。

 2008年9月3日

 午前中、母を施設から連れて帰った。母はすっかり気弱になって、昼食は食べたくないと言った。施設の食事は母の好みに合わず、それで食欲をなくしたようだ。僅か2泊3日で、介護施設の限界を見せつけられた気がした。

「寂しくて、二度と行きたくない」
施設の印象を聞くと、母は強く拒絶した。

 昼食後、銀座へ向かった。三時間後に母と親しいヘルパーの江藤さんが来ることになっていた。
会場には姉が来ていた。客がいないので、しばらく母のことを話した。

姉が帰った後、劇団七曜日の宣伝美術をしていたころの女優さんが来た。今は結婚して二人の子持ちだが昔と変わらず可愛い。彼女と昔話をしているうちに次第に客は増えた。

 2008年9月4日

 ショートステイで鬱になった母の回復がはかばかしくなかった。私が出かけてからヘルパーの江藤さんが来るまでの三時間に、母を一人にするのが不安だった。
案じていたように、会場に着くとすぐに母から携帯に電話がかかった。
「隣室で物音がする」
「のどが渇いて気分が悪い」
幻覚と幻聴に体の不調を繰り返し訴えたが、個展が終わるのを待ってもらう他ない。個展が終わり日常生活が戻れば母は回復すると思っている。

 今日、初めて作品が二点売れた。来客は昨日より増えたが、雨がちらつき始めると来客は激減した。
「タダで見ても良いのでしょうか」
終わり近くに来た若い女性客が消え入りそうな声で聞いた。招き入れると、彼女は怖ず怖ずと会場を一周して帰った。住所を見ると向島とある。下町にはまだ、そのような浮世離れした人がいるようだ。

帰宅すると、「迷惑ばかりかけて、ごめんね」と、母は昼間の電話のことを可哀想なくらい謝っていた。そんな気弱な母を見るていると辛くなった。

 2008年9月7日

 午前一時、ベットから落ちそうな母を中央に押し戻していると体が熱かった。熱を測ると三十八度。もしかすると布団で熱がこもったのかもしれない。薄いタオルケットに変えて様子を見た。

午前三時、体温は三分下がった。

午前六時、体温は三十七度に下がったが身体がだるいと訴えた。
更にアイスノンと濡れタオルで頭を冷やした。

午前七時、措置が正しかったのか平熱に戻っていた。
朝食後、生協浮間診療所へ母を連れて行った。診察では肺炎の症状はない。推測したように高齢で体温調整がうまくいかなかったからだった。脱水症気味なので点滴が施された。

三時間だけ一人にさせて大丈夫かと医師に聞くと、まったく心配はないと太鼓判を押された。最悪、個展行き中止を考えていたので安堵した。

 夕暮れ、客で混み合う個展会場に四十代後半の男性が入って来た。身なりはラフで金持ちそうには見えない。
「この絵を譲ってもらえますか」
彼は女性像の前で立ち止まって聞いた。値段はいくらでもかまわないと言う。値づけは今の不景気を考え格安に設定してあった。こんなことなら、通常の値段にしておけば良かった。後悔しながら事務室へ案内すると、彼はその場でカードで支払った。

 八時に帰宅すると、母は気持ち良さそうに寝ていた。
「今日はとても快活にお話されていました」
留守番を頼んでいたヘルパーの江藤さんのメモが置いてあった。医師の診断は正しかったようだ。

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 売れた絵。後で先方の事情で買い戻した。だから「出戻りの絵」と呼んでいる。

 2008年9月28日

 個展は無事に終わった。日常が戻って母は元気になった。
母の腰痛のペインクリニックが終了した。今年始めから腰痛が消えたので、治療間隔を少しずつ延ばしながら様子を見ていたが再発しなかった。それで、医師と相談し、治療を終了することにした。

六年前、川向こうに開院したばかりの北赤羽整形外科を必死の思いで見つけた。
「先生は色白の美少年だったのに、今はおじさんになった」
口の悪い母はそう言っているが、患者が増え過ぎて過労気味なだけだ。
治療終了には開放感があった。これまで起きた副作用は治療後の失禁が一度だけだ。それは薬の量を調整して二度と起きなかった。この治療法のおかげで、母は楽しい老後を過ごすことができた。これからは骨粗鬆症の薬は生協浮間診療所で処方してもらうことにした。

 2008年10月3日

 母の内科診察から帰宅して車椅子から下ろす準備をしていると、家の電話が鳴った。母を車椅子に残し、慌てて家に入って受話器を取ると上の裕子姉の夫からだった。彼と姉は別居中で、現在、離婚協議中だ。

「突然の電話で悪い知らせと感じていると思うけど、あれが今朝、病院で急死した。」
彼は沈痛な声で姉が急死したと告げた。裕子姉は夏前から入院中で、弱っていることは知っていたが、これほど急とは考えもしなかった。葬儀については、姪たちと相談すると伝えて電話を切った。姉夫婦には四人の娘がいて東京近郊で暮らしている。

 すぐに、裕子姉の世話をしていた姪に電話して死に至る経緯を聞いた。
姉は、親しい看護師長が勤務する上福岡の病院に入院していた。中程度の糖尿があったが生死に関わるほどではなかった。ただ、夫との別居などの心労で摂食障害を起こしていた。体力は落ちていたが、死の前夜まで普通に会話していた。急死は生きる気力をなくしたからだろう。享年六十九歳。再起するには遅過ぎる年齢だった。姉が危篤だと伝えたが、母はすぐに真実を察した。

「仕方がないね。」
母は動揺することはなくつぶやいた。火葬は五日。それまで遺体は上福岡の小さな葬儀社にある。明日は下の姉に母を任せて、私一人で対面に出かけることにした。

 2008年10月4日

 爽やかな快晴のもと、母を赤羽自然観察公園へ連れて行った。三日間、散歩を休んだので母の体力は落ちていた。だから、姉の訃報を聞いても散歩を休む訳にはいかなかった。
「繁の次は裕子が死ぬと思っていたけど、自分より先に逝くとは思っていなかった」
どうしても実感がわかない、と母は話していた。

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                   赤羽自然観察公園での母。

 お昼に帰宅すると下の晃子姉が待っていた。午後二時、喪服に着替え、母を姉に任せて出かけた。東武急行でふじみ野下車。タクシーで十五分ほどで葬儀社に着いた。それは看板がなければ気がつかない普通の民家だった。プレハブ作りの簡素な安置所に、遠くで暮らしていた姪が姉に付き添っていた。姪は私の顔を見るなり泣きそうになった。
「バカヤロー。今更泣くな」
叱るつもりはなかったが、姪はすぐに嗚咽を押し殺した。姪は車で待っているからと、外へ出て行った。棺の蓋を開けて携帯で死に顔を撮った。裕子姉は今まで見たことがない優しい表情をしていた。

「やっと、楽になったね」
姉の額に触れると冷たかった。自分勝手な姉とは気持ちのすれ違いが多かったが、冷たくなってしまうと万感迫り、悲しみがこみ上げた。線香が燃え尽きるまで付き添い、外へ出ると姪が車で駅まで送ると言った。
「俺はいい。少しでも長く、お母さんに付き添っていな」
そう言うと、姪は再び泣きそうになった。葬儀社の前に荒れ寺があった。畑とクヌギ林が点在する住宅地を午後の陽が照らしていた。姉の一生は贅沢と挫折を行き交うジェットコースターみたいだった。うら寂しい郊外の祖末な霊安室で終わった人生は姉にふさわしいと思った。

 上福岡駅へ車を拾うつもりだったが、田舎道でタクシーは走ってなかった。歩き慣れない短靴で、ケヤキの並木道を二十分ほど歩いて東武線上福岡駅に着いた。隣のふじみ野駅で下車して、駅近くの友人宅を訪ねた。友人も去年から今年へかけて身内を四人なくしている。
「この歳になると、見送るばかりだ」
下戸の友とチーズケーキを食べながら、しんみりと話した。

 七時過ぎに帰宅すると、待っていた晃子姉はすぐに帰った。裕子姉の死に顔をプリントして母に見せた。
「私もすぐに会いに行くからね」
母は写真をいつまでもなで続けていた。明日の荼毘には晃子姉が列席し、私と母はいつものように散歩へ出かける。

Kami

                       上福岡への道。

 2008年10月5日

 日曜日午前中、裕子姉は埼玉の斎場で荼毘に付される。
「私も参列して、さよならをしたい」
母は言った。
私もそうさせたいと思っていて、訃報を聞くとすぐに介護タクシーの手配をした。しかし、前もっての予約が必要で確保できなかった。
参列を諦めた母を散歩へ連れ出した。住まいから斎場方角に第一硝子の工場が見える。エレベーターを待つ間、白く流れる硝子工場を火葬場の煙の代わりだと母は手を合わせていた。そう言われると、見慣れた煙りが火葬の煙りのように見えた。

 裕子姉の死を知ってから母は気落ちしていた。早く回復させようと、散歩道で知人に会う都度、娘を亡くして母は気落ちしている、と話した。みんなは優しくなぐさめてくれ、母は少しずつ元気を取り戻した。

 赤羽自然観察公園からの帰り、晃子姉から電話があった。火葬が終わって姪たちとは別れ、東上線みずほ台駅のホームにいると話した。様子を聞こうと思ったが、すぐに電車が到着して電話は切れた。

ふいに、祖母や父の葬儀の時、死んだ裕子姉と下の晃子姉が喪服を自慢し合っている姿を思い出した。二人は歳が近く、何かにつけ張り合っていた。
三年前、母が東京北社会保険病院に緊急入院した時、見舞いに来て再会した二人は楽しそうにおしゃべりしていた。
「仲が悪そうでも、やっぱり姉妹だね」
母は嬉しそうにそんな二人を眺めていた。結局それが姉妹の和やかな最後の光景になった。

 死んだ裕子姉からは時折電話があった。
「何もしてやれなくて、ごめんね」
母を任せっきりにしていることを、いつも詫びていた。
最後の電話は六月、病院からだった。ひどく弱々しくて別人のように聞こえた。姪は重い病気ではないのでそのうち回復すると話していた。しかし、姉は死を覚悟して入院していた。

死後、姪たちがアパートに遺品整理に行くと、タンスも布団もカーテンも総て処分してあった。ただ部屋の真ん中に、捨てられなかった娘たちのアルバムとおもちゃの指輪が紙袋一つにまとめて残されていた。

姉の死で、母の終わりも近いと感じた。晃子姉は急に寂しさを感じたのか、沖縄に住む娘と孫を訪ねると話していた。

 2008年10月15日

 散歩道に鳩の羽が散っていた。弱った土鳩が野良猫にやられたのだろう。自然界では殆どの動物が、天寿を全うせずに補食されて死ぬ。寿命が尽きて死ぬのは、人とペットくらいだ。

 姪たちは先日死んだ母親の墓を、墓参のしやすい東京近辺に決めた。散歩の道々、母に話すと、「東京の近くなら、私も入りたいね」と言った。博多の菩提寺の霊廟に父や姑たちを祭ってあるが、母と姑は確執が多く、そちらはいやだと以前から話していた。

 赤羽自然観察公園では山ブドウが実り始めた。山ブドウは霜が降りると甘くなる。
山ブドウを見ると四十年前の秋の尾瀬を思い出す。九月半ば、尾瀬ケ原から奥只見湖方面へ下山していると、山ブドウが熟していた。山ブドウはクマの大好物だ。出て来ないかと心配しながら夢中で頬張っていると、突然かたわらのヤブがガサガサと大きな音を立てた。
「出た。」と蒼白になって身構えていると、可愛い白犬が顔を出した。安堵して声をかけると、うれしそうについてきた。

途中、地元の人に聞くと、尾瀬の山小屋の犬だった。普段、登山者を送り迎えしているので、私にも着いて来たようだ。しかし、私の歩く距離はいつもの登山者より長かった。奥只見湖を見下ろす峠にさしかかった時、白犬は立ち止まって寂しそうに見送った。そこが彼のテリトリーの限界だったようだ。

随分遠くまで来て、心細かったのだろう。いつまでも遠吠えが聞こえた。それから、私は奥只見湖の定期船に乗り、銀山平でバスに乗り換え、上越線小出駅から帰京した。白犬ははすでに影も形もないだろうが、今も無事に帰ったかどうか気になる。

 2008年11月11日

 今年三月まで、母は洗面所で顔を洗っていたが、今はテレビの前で、椅子に座って私が用意した蒸しタオルで拭いている。歯磨きは私が洗面器を顎の下にあてがい自分でさせている。母の歳になると、現状維持がむつかしい。ほんの少し気を抜くだけで際限なく弱って行く。

 やもう得ず寝たっきりになった人は仕方がないが、努力で寝たっきりにならずに済むなら、その方が本人は楽しい。母が毎日、自然公園まで行けるのも、寝たっきりではないからだ。

 2008年11月26日

 最近、母は寝てから咳に伴って透明な水状のタンを吐くようになつた。原因は心臓が弱ったせいだ。先月は肺のむくみが減って安堵していたが、老いは甘くはなかった。
食欲が極度に落ちているので、総合栄養剤エンシュア・リキッドで補っている。おかげで顔色は良く、みんなに元気だと誤解されている。

 毎日、母は散歩を渋るが無理に散歩へ連れ出すと元気になる。今日も、病院下の桜並木で冷たい空気が美味しいと生き生きしていた。緑道公園の陸橋から昔住んでいた家の辺りに向かって母は手を合わせた。その家で祖母と父を在宅で看取ったからだ。

「裕子は本当に死んだんだね」
手を合わせた後、母は寂しそうにつぶやいた。

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                   東京北社会保険病院の待合室。

 2008年12月29日

 夕暮れから深夜にかけて、母は幻覚を起こしやすくなった。
「腕に嵌めておいた輪ゴムを落したから探して」
昨夜、様子を見に行くと母が聞いた。昔、母は食品などにかけられていた輪ゴムを腕にはめて台所仕事をしていた。どうやら、そのころの記憶がよみがえったようだ。

他にも、目薬をさしていない、薬を飲んでいない、日めくりが間違っている、時計が止まっている、と次々と錯覚を起こす。酸素飽和度が低く、脳が酸素不足を起こしているのが原因だ。
しかし、午前中はしっかりしている。
「長いこと、車椅子を押してくれてありがとう」
散歩中、母はしおらしいことを言っていた。「まあね」と答えたが、母は何度もお礼を繰り返した。

 2009年1月8日 母95歳

 正月も母の散歩をさせた。七草粥もいつものように母と食べた。午後は上野上野歯科医院へ行った。歯科衛生士が、残りの歯列を時間をかけてクリーニングしてくれた。歯茎への刺激が気持ち良くて、いつの間にか眠ってしまった。
「とても良好な状態ですので、今回で終わりです」
歯科衛生士の声で目覚めた。十一月は、親知らずの歯周ポケットが深くなっていると指摘された。電動ブラシに手磨きを加え、丁寧に手入れしたら歯茎の状態は良くなった。

 帰宅するとベットに寝ていた母が疲労を訴えた。寝過ぎで身体が目覚めていないのだろう。すぐに強壮ドリンク剤を飲ませると、成分のカフェインが効いてすぐに元気になった。その後すぐに母に呼ばれた。行くと母は片手に目覚まし時計を持っている。聞くと、母は目覚まし時計の頭を押しながら、テレビのリモコンが効かない、と文句を言った。
「それはリモコンじゃなくて、目覚まし時計だよ」
笑いを我慢しながらと言うと、母はやっと気づいた。
「あら本当だ。リモコンと目覚まし時計をどうして間違えたかのでしょう」
母は笑い転げていた。

 2009年1月14日

 久しぶりの好天で、緑道公園で近所のネコたちが遊んでいた。若いお母さんと小さな男の子が日溜まりにしゃがんで、野良の姉妹ネコを撫でていた。
「ネコが二匹いるから、ニャンコ」
母は駄洒落を言った。
昔、一軒家に住んでいるころは、毎日、近所のネコが遊びに来た。
母はネコ語が得意で、「ニャー、ニャー、」と、よくネコたちと話していた。

 散歩から帰ると、ボタンを押さないのに無人のエレベーターが降りて来た。
母は開いたドアーに軽く会釈した。
「誰ものっていなかったよ」
そう言ったが母は意に介さなかった。
「上の階に住んでいた人の魂が降りて来たの」と、すましていた。
「魂は飛べるから、エレベーターなんか使わないよ」と言ったが、
「きっと、飛ぶのが面倒な年寄りの魂なんでしょ」と、母は楽しそうだった。
そう言えば、音もなくフワフワただよう人の魂とネコたちは似ている。だから母はネコが好きなのかもしれない。

 2009年2月11日

 母の足腰は今年に入ってから急速に弱った。色々考えた末、「よっこいしょ」と声を出すように言った。このかけ声は意外に効果があった。今まで、ベットの寝起きは私が力で手伝っていたが、今は母の肩に軽く手を当て、「ほら、よっこいしょ」と励ます。すると母は「よっこいしょ」と自分で何とか起き上がってくれた。テーブルに着く時も、「よっこいしょ。よっこいしょ」と、一人でゆっくり歩いて行った。

 かけ声は別の効果もあった。食事準備などで私が傍にいなくても、かけ声の調子で様子が分かるようになった。更に良いのは、暗い顔で「疲れた。疲れた」とぼやいていたのが、陽気なかけ声で明るくなったことだ。

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                       赤羽台団地にて。

 2009年2月13日

 赤羽自然観察公園に保育園の小ちゃな子供たちが大勢来ていた。
「こんにちわ」
可愛い行列に挨拶すると、子供たちが質問した。どうやら、母がなぜ車椅子に乗っているか知りたいようだ。
「まだ赤ちゃんだから、歩けないんだ」
と答えると、女の子が「どうして赤ちゃんなの」と言った。
「赤いから、赤ちゃんだよ」
母の赤いダウンコートを摘んで言った。
子供たちは「赤ちゃんにしては大き過ぎる」とか「可愛くない」とか、勝手なことを言い合っていた。子供たちは可愛いばかりだが、大きくなったら派遣切りや介護で苦労するのだろう。

 夜9時、ベットの母を見に行った。母は呼吸の動きが小さく、死んでいるように見えた。しばらく眺めていても動く気配がないので、試しに布団を直すと母は目覚めた。何でもないと分かっているが、つい万が一を思ってしまう。

「私、寝る前に飲む薬、飲んだかしら」
母は睡眠薬と緩下剤のことを聞いた。それらは1回分づつプラスチックケースに入れてある。
「飲んだよ。ほら、空でしょう」
空のケースを見せると、「うん、飲んだみたいね。ありがとう」と母は礼を言って寝入った。
母が死んだら、そんな何でもない感謝の言葉を思い出すのだろう。立派な言葉より、日常のささやかな言葉が深く心に残るのかもしれない。

 2009年3月10日

 母に毎日、風邪予防に葛根湯を一包飲ませている。その思わぬ効果で、肺の水が取れ咳が治まり体力と食欲が回復した。しかし、良いことがあれば悪いことがある。それは、私の収入がとだえたまま、日に日に生活費が減っていることだ。

先日、生活の先行きを晃子姉と相談していたら、傍らで聞いていた母の表情が暗くなった。
「今までと同じに暮らせるように考えているのだから、心配しなくて良いよ」
二人で母を安心させようとした。
「私が長生きしたばっかりに、みんなに苦労かけるね。早く死んでしまいたい」
母は柄にもなく弱気だった。
「バカバカしい。今は死ぬにも金がかかるんだよ。死ぬのは景気が良くなってからにして」
姉が怒ると、母はすぐに思い直した。
「そうだね。今死んだら迷惑かけるね。止めた止めた」
母すぐに明るくなった。
人は簡単には死なない。危篤になってから二三ヶ月生き延びるのは普通のことだ。

 2009年3月16日

 毎日、ものを捨てている。ものが多いと保守的になる。明日が分からない時代なだけに、できる限り身軽でいたい。今日はアルミと鉄製の折りたたみ椅子を捨てた。元気なころの母が、その椅子に腰かけて玄関前からの花火を見物していたことを思い出した。

折りたたみ椅子でも大型ゴミ扱いになる。鉄切りノコで小さく切断し、不燃ゴミとして捨てた。先日は本をたくさん捨てた。その中のバートン版千夜一夜物語は今も心残りだ。明日は段ボールを捨てる。売れた絵の梱包に使うので大量に置いてあったが、この不景気では当分不要だ。

 2009年3月31日

 東京北社会保険病院眼科へ母を連れていった。受付で手続きを待っていると、七十代のおばあさんが手押し車を押してやって来た。おばあさんはでっぷりと太り息が苦しそうだ。

「さっさと、すましなさいよ」
おばあさんが突然、私たちに文句を言った。そう言われても、事務手続きは待つ他はない。
「こちらなら、すぐに提出できますよ」
誰も並んでいない隣の受付をおばあさんに教えた。
「余計なお世話だ。あんたたちは元気だからそんなことが言える。息が苦しい病人の身で、後ろにならんでいる私のことを考えなさい」
おばあさんは、顔を真っ赤にしてまくしたてた。
「手を伸ばせば、すぐ済みますよ」
聞こえなかったと思い言い直したが、おばあさんは更に悪口雑言をまくしたてた。それくらいの元気があるなら、大丈夫なようだ。
「よほど、こちらの受付が好きみたいだね」
母にぼやいていると、経緯を眺めていた受付の女性が笑いをこらえていた。

「あの性格では、一緒に暮らしている家族は苦労するね」
母が言った。家族がいれば、そんな偏屈な性格にはならない。多分、一人暮らしなのだろう。性格が良いか悪いかで、老後の快適さはかなり変わる。穏やかな年寄りは大切にされるが、偏屈だと粗末に扱われる。

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                    赤羽自然観察公園にて。

 2009年4月14日

 散歩道のソメイヨシノは跡形もなく消えて新緑に変わった。母の体調は弱ったなりに落ち着いてきた。会話はしっかりしているが、日に何度も、「今日は何日」と聞くようになった。

 ベットや椅子から立ち上がる時も私を呼ぶ。身体を支えながら少し前へ重心を移動させると、母は自力で立つことができる。公園での歩行は十五メートルで下げ止まっている。十四メートルあたりでいつも、疲れたと言うので、あと50センチ頑張らせる。そのわずかな頑張りで母の体力は維持されている。

 2009年4月18日

 朝五時に母のブザーに起こされた。母は時計を見誤り、私が寝過ごしていると思ったようだ。寝床に戻ったが二度寝ができず、朝刊を読んでいたら七時になった。

母を起こしてテレビ前の椅子に座らせ、洗面器と蒸しタオルと口内洗浄剤を用意した。洗面前に母は自分で髪を整えるので、その間、私は流しの後片付けをした。片付け終えて行くと、母は一人で洗面を終えていた。時間を間違えたことがショックでプライドがよみがえったようだ。
「全部、済ませたよ」
母は自慢げに言った。
「一人でできて偉いね」
ほめると、母は笑顔になった。これをきっかけに、一人で洗面してくれると助かる。

 2009年4月26日

 素晴らしい朝だ。玄関を開くと、雨に洗われた大気の向こうに奥秩父の山塊が青々と見えた。四日間、病院行きと雨で休んでいたが、公園に着くと、母はいつもより長く二十メートル歩いた。
帰り、桐ヶ丘生協に寄って宇治金アイスを買って、緑道公園で母と食べた。持参した抹茶をかけると、とても美味しくなった。

 離れたベンチに、三十歳半ばの男性がぼんやり座っていた。彼は散歩の行きがけも、同じベンチに腰かけていた。傍らにに大きな荷物があるので、新人ホームレスのようだ。
「可愛そうね」
母はしきりに同情していた。
大手企業に勤める知人に、安定した収入が羨ましいと言ったことがある。
「サラリーマンの給料は、いやなことの我慢代だよ」
知人は自嘲的に答えていた。その若いホームレスも正社員で神経をすり減らすのが辛かったのかもしれない。

 2009年4月27日

 先日、シェーバーの外刃が壊れたので有楽町の電器店へ行くことにした。母には銀座行きは伝えず、いつものように散歩へ連れ出した。
「電車に乗って電器屋へ行くよ」
赤羽駅で母に話した。
母を京浜東北線に乗せるのは、六年前の駒込病院への通院以来だ。
「何処まで行くの」
上中里を過ぎた辺りで母が聞いた。銀座と答えると、母は黙り込んだ。いやなのかと思って聞くと
「うれしくて声も出ない」と笑顔になった。
昔、母は芝居や買い物に銀座へよく出かけていたが、車椅子になってから諦めていたようだ。

 有楽町ビックカメラはバリアフリーが行き届いていて、楽に売り場へ行けた。外刃を買った後、和光手前を左折して、去年個展をしたギャラリーへ行った。入り口に段差があるので、ギャラリーの川口さんに手伝ってもらって車椅子を抱え上げて入れた。
「もうすぐ、こんな世界へ行くんだよ」
臨死体験をイメージした作品の前で母に言うと、「また、そんなことを言って」と川口さんにたしなめられた。

その後、マリオンへ向かった。母が最後に行ったころに日劇の解体が始まったので、その跡に建設されたマリオンを見るのは始めてだ。着くとすぐに十二時の時報が鳴って人形カラクリが動き出した。母は楽しそうに見上げていた。

 元気な頃、母は日劇近くのドイツ料理店へ黒パンを買いに出かけていた。四十五年前、私が始めてハンバーガーを食べたのもその店だ。そのころは、ザワークラウトとビーツの輪切りを添えたハンバーガーをナイフとフォークで食べていた。そのドイツ料理店は十年前に大手薬局チエーン店に変わった。

 帰りの電車で、母は昔のことを楽しそうに話していた。二時過ぎに帰宅した。私はクタクタに疲れていたが、母はとても元気だった。こんなに喜ぶなら、次は母の思い出が多いお台場に連れて連れて行こうと思った。

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                  銀座、マリオンのカラクリ時計。

 2009年5月2日

 母は朝の連続ドラマ「つばさ」を見ていた。今日のストーリーはラジオポテトの試験放送だった。主人公のつばさは喋りが上手く行かず、ひどい自己嫌悪に落ち込んでいた。私も十四年前、彼女と同じ経験をした。

FM東京の一時間番組で私は自然を語った。収録の後、ひどい自己嫌悪に陥り、局から送られて来たテープを聞く気になれなかった。それから四、五年過ぎたころ、引き出しの奥からテープを取り出して再生してみた。喋りに嫌みがなく、素朴で良かったと思った。

 午後は母の写真を整理した。その中には見たことがない写真を見つけた。一瞬、葬儀の写真かと思ったが、すぐに晃子姉の最初の結婚式だと分かった。

 それは私二十歳、母五十一歳の写真だった。場所は東京近郊、嫁ぎ先自宅での結婚式だった。私と母は田舎風の宴席に馴染めず、抜け出して、裏の空き地に出た。それを義兄が望遠で撮った。
晃子姉は裕福な土地持ちの息子と見合い結婚した。しかし、その一ヶ月後、姉は運送屋を手配して家財を積み込みさっさと家を出てしまった。

「金目当てに嫁に来たのだろう」
姑たちの度重なる嫌みが原因だった。私は嫁ぎ先の姑たちと婚礼の日に始めて会った。挨拶すると、「ふん」と尊大な態度をした。その時、姉の破局を予感した。姑たちは、嫁に取ったら煮ようと焼こうとこっちの勝手と、言いたい放題だったようだ。どうやら、九州女の思い切りの良さを見誤ったようだ。

今、その辺りは東京のベットタウンとして発展し、マンションが建ち並んでいる。後年、家を出る時、別れた相手がおろおろしていて可哀想だったと、姉はポツリと話した。

 当時、私は芸大に落ちて彫金の修行をしていた。彫金は大変景気の良い時代で、収入は同世代の三倍以上あった。土木技師の資格を持っていた父は、高度成長期の大手ゼネコンに再就職し、安定した収入を得ていた。
調理師免許を持つ母は、馬喰町のレース問屋の寮に勤めた。ビル最上階の明るくて広い部屋に住み込み、破格の高給で二十人ほどの若者の食事を作っていた。だから、嫁ぎ先の姑たちが思っていたより、私たちは豊かだった。

 結婚前、晃子姉は母のツテでその問屋に勤め、母と同居していた。嫁ぎ先での経緯を聞いた問屋の社長は会社へすぐ戻るように言った。姉は嫁ぎ先から問屋ビルへ出戻って来た。それから四、五年、平穏な生活が続き、姉は再婚し母も問屋を辞めた。

今も母と姉は、豊かだったその頃を懐かしむ。馬喰町から銀座や歌舞伎座は近く、二人は頻繁に遊びに行っていた。当時は時代も我が家も勢いがあり、少々のつまずきは簡単に乗り越えていた。

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 2009年6月5日

 劇団四季のポスターの絵を受注した。デザイン会社にラフ提出が終わったが疲れが抜けない。
「睡眠薬飲んだかしら」
夜、テレビを見ていたら、隣室から母が声をかけた。
「十時過ぎだよ。飲ませない訳がないだろう」
面倒くさそうに答えた。
「ごめんね。信用しているんだけど、飲んだか飲まないか分からなくて聞いちゃった」
母はしきりに謝った。仕事に戻るとすぐに、またブザーが鳴った。
「私のメガネ、何処へ行ったかしら」
母は半身を起こして、探していた。メガネをそこらに置いたままだと、壊してしまうからだ。探すとベット傍らの箱にメガネはあった。
「こんなことは気にせず、早く寝な」
優しく言うと、母は眠れないとぼやいた。

ふいに、昼間、赤羽自然観察公園で会った女性が話していたことが頭を過った。
「十年前まで母親の介護をしていました。心身共に疲れはて、逝ってくれた時は正直ほっとしました。でも、その後が辛かった。心にぽっかり穴が空いて、今も寂しさが埋まりません。大変でも、親は生きていてくれるだけでありがたいです」
その気持ちはとてもよく分かる。母は間違いなく数年内に逝ってしまう。年の順に命が終わるのは幸せなことだ。しかし、母がいなくなれば寂しくなりそうだ。

 2009年6月9日

 緑道公園を車椅子を押していると、保育園児が芝生に丸く座って昼食をとっていた。
「正喜はみんなと一緒は、絶対にダメだったね」
母は私が大堂津小学校一年のころの授業参観を話した。ダンスの授業授業参観に母が行くと、私はダンスの輪の真ん中で地面に絵を描いていた。
「ダンスがいやなら、一人でお絵描きをしていなさい」
先生に叱られた私は喜んでそうしていた。

私は好きなことしかしない問題児だった。しかし、先生たちは優しく、私がどんな絵を描いても満点をくれた。それで絵に対してゆるぎない自信をつけることができた。 もし、都会の小学校だったら先生はえこひいきしていると非難され、そのような自信は生まれなかったと思っている。

 2009年7月26日

 久しぶりに好天。朝から気温が上がり、母は気怠そうだった。
「疲れたから、今日はこのまま寝ていたい」
散歩に連れ出そうと行くと、消え入りそうな小声で言った。
いつものことなので無視しソロソロと玄関へ連れて行った。

外は風が強かった。今日のような乾いた風は霧吹きの効きがよい。熱中症予防に、母の帽子と首筋にたっぷりと霧吹きした。いつものように、御諏訪神社の階段下へ車椅子を止め母の日傘を広げていると、青年が声をかけた。
「お手伝いしましょうか」
青年は母を境内まで連れて行くのを手伝うと言った。丁重に断ると、青年は会釈して階段を上って行った。

青年の後に私もお詣りをしてから母の元へ戻った。
「さっきの方が通ったから、丁寧にお礼を言ったら、うれしそうにしていたよ」
母は笑顔で言った
「無理してでも出かけると、良いことがあるでろう」
青年に声をかけられたことを言うと母は笑顔になった。

 赤羽自然観察公園は強い夏日射しだった。暑い中、母は自分から、ウグイスカグラからハナイカダまで二十メートルほどを歩いた。今日は歩けなくても良いと思っていたが、青年との出会いのおかげで母は元気になったようだ。

 2009年7月28日

 母はテレビ前に腰かけ、丹念に頭皮をマッサージしいた。家事の合間に様子を見に行くと、母の頭がホルスタイン模様になっていた。ヘアトニックと部分白髪染めを間違えたようだ。

「どうして、こんな分かりやすいことを間違えるんだろう」
文句を言いながら、水無しシャンプーをたっぷりかけ、丹念にタオルで拭き取った。タオルは真っ黒に汚れたが、白髪染めは綺麗に落ちた。
その後、母は無口になり、ボーッと座っていた。いつもなら次々と呼びつけるのに何も言わない。ショックで一気に惚けたのではと心配になった。

「お化粧しないの」
朝食準備が終わったので声をかけた。母はハッと我に帰って化粧を始めた。するとすぐに頭がしっかりして、いつもの母に戻った。女性の化粧はリハビリ効果抜群のようだ。
朝食後、いつもより早く散歩へ連れ出した。母は桜並木で大型犬の小次郎くんに会って、更にはじけるように元気になった。

 2009年8月8日

 今日の散歩中の母はしっかりしていた。
しかし、帰宅後に母は強い疲労を訴えて頭が混乱し、意味もなく何度もブザーで呼びつけた。
「風が冷たいから、窓を閉めて」
「暑くなったから、窓を開けて」
母は次々と呼びつけた。
「老いたら子に従ったが良いよ」
困り果てて言うと、母はすぐに正気に戻った。

 それから夕食まで静かだったが、八時過ぎにブザーが鳴った。またかとうんざりしながら行くと、灯りを消した部屋で母は外を見ていた。
「稲光がとてもきれい」
母は夜空を指差した。遠く、稲光に黒雲のシルエットが美しく浮かび上がった。テレビニュースで、お台場辺りが猛烈な雷雨と言っていた。しばらく母と一緒に眺めてから仕事部屋へ戻った。どんなに手がかかっても母は生きていてほしいと心から願った。

 2009年10月3日 母96歳

 朝、散歩の準備をしていると姉が来たので、ベットの母を起こし、連れて来るように頼んだ。
「今日は疲れたから出ないと言っているよ」
困惑顔で姉が戻って来た。

「仕方がない」
私はベットへ行き、強引に母を起こして抱えるように連れ出した。
「疲れて動けない、と言っているのに」
ヨタヨタと歩かされながら、母は駄々っ子のように文句を言った。
車椅子に母を座らせ荷物を出していると、お隣の吉田さんが出て来て声をかけた。
「お出かけですか。今日もお元気そうですね」
吉田さんに声をかけられた母は明るく挨拶を返した。
「何をおっしゃいます。もうすっかり弱ってしまってヨタヨタです」
それから、母と吉田さんは雑談をしていた。
その様子を姉は驚いたように見ていた。年寄りに慣れていない姉に、この短い間の母の変化は理解できない。姉は少し安堵したように散歩へ出る私たちを見送った。

「苦労をかけている上に、勝手なことばかり言ってごめんね」
道々、母はしんみりと謝った。
「どんなに疲れている様子でも、大丈夫と判断したら外へ連れ出すからね」
私はきっぱりと言った。部屋でベットに寝ているだけなら、生きていると言えない。外気を吸い、自然を眺め、色々な人と声を交わしてこそ生きている意味がある。たとえ、3年の余命が半年に短くなっても外へ連れ出すと母に話した。

 帰り、桐ヶ丘生協に寄って仏壇の供物に林檎を買った。今日は去年死んだ姉の命日である。
「あの子とはあまり話したことがない。縁が薄かったのかな」
母がポツリと言った。家族兄弟でもそれぞれに会話の量は大きく違う。姉がこの住まいを訪ねたのは三度程で、その間に会話した時間の総計は20分ほどだ。

 今夜の母は静かだと安心していたら、咳の刺激で吐いてしまった。ベットには専用の防水シートが敷いてあるので、敷き布団は汚れていない。しかし、寝間着などが汚れたので、すぐに洗濯した。夜、ベランダに洗濯物を干していると、雲の切れ間に満月が見えた。ぼんやり見上げながら、忙殺されている内に、母はテレビのスイッチを切るように逝くのだろう、と思った。

 2009年10月17日

 昨夜は一時間おきに母にブザーで起こされた。殆ど眠れないまま朝を迎えると母が粗相をしていた。粗相の処理は大変とは思っていないが、今朝の私の体調はいつもと違っていた。母の清拭と汚れ物の洗濯を終えた時、今まで経験したことがないめまいを感じた。それでも、母に朝食を食べさせた。しかし、めまいと疲労感はひどくなる一方で立っていられず、自室に戻って横になった。

血圧も体温も正常だった。家庭の医学で調べたが「過労」は病名にない。めまいの項目にも、私の症状はどれも当てはまらない。横になったがまったく眠れず、めまいは治まらない。加えて、ひどい頭痛と吐き気がある。母のナウゼリンを飲むとすぐに治まったが、立つとふらつき、トイレへ行く間に何度も倒れそうになった。それでもお昼食を用意した。母は私をとても心配し、食べようとしない。
「食べてくれないと、かえって気になって具合は良くならないよ」と頼むと、
「一緒に食べてくれるなら食べる」と母は言った。

久しぶりに母とテーブルに並んで食事をした。いつもは母の給仕に追われ一緒に食べることはない。私はナウゼリンを飲んだおかげでなんとか昼食はのどを通った。母は私が食べるのを見て食べてくれた。

 食事が終わったころに晃子姉が来たので母を任せた。
困ったことに姉は黙っているのが苦手だ。まるで放送局のように母に話しかけ続けていた。母が疲れるからと注意すると、姉は話しかけるのをやめて、編み物を始めた。

横になっていると、少しずつ疲れが取れめまいも治まって来た。姉には夕食まで居てもらった。時折、母の様子を見に行くと、傍らで姉が編み物をしていた。このような家族らしい光景は長い間、見ていない。しかし、すぐに消えてしまう光景でもある。まず母が消え、多分、姉は私より先に逝くだろう。

 2009年10月21日

 朝、母は起き上がるのは無理だと言った。背を押して起こしたが、足が震えて立っていられない。
「今、立たないとこのまま寝たっきりになって死んじゃうよ」
きびしく言うと、このまま死んでもいいと母は弱気だ。
「希望通り、すぐに死ねれば良いけど、死ぬまで半年くらいはかかる。それだけでなく、介護に追いまくれて仕事ができず、生活も破綻するよ」
可哀想だが、現実を話した。すると、母は一瞬で足がしっかりして一人で椅子へ歩いた。今日はきびしい言葉でふるい立ってくれたが、いつまでも通用する方法ではない。

 散歩へはいつものように出た。弱っていた母が三時間の車椅子に耐え、自然公園では伝い歩きをした。この経緯を見ていると、母の本当の体力の判断に迷ってしまう。

 夜、様子を見に行くと、母は流れ星が見たいからベランダのカーテンを開けてくれと頼んだ。
十一時からオリオン座大流星群が最大になる。
「流れ星が見えたら仕事が上手く行くように、しっかりお願いしておくよ」
仕事に戻ろうとする私に母が言った。今夜の母の頭はしっかりしている。一時間後、様子を見に行くと母は気持ち良さそうに眠っていた。ベランダに出てオリオン座流星群を待ったが、夜空が明る過ぎて見えなかった。

 2009年10月24日

 昨夜、呼ばれて行くと、痰つぼがないと母は言った。今時、痰つぼなどお目にかかったことはない。始めからそんなものはないと説明したが納得しなかった。

昔は、映画館、床屋、駅などの公共の場所には必ず痰つほが置いてあった。円筒形の白い陶器で、ふたを取るとロート状の中ぶたがあって、そこにタンを吐くと下の石炭酸の消毒液に落ちるしくみだ。石炭酸は、私たちの世代は保健室の臭いとして記憶している。

「私が自分の子供も分からないほど、惚けていると思っているでしょう。お前が正喜だとよく分かっているよ」
痰つぼなどないと言う私に、母は自分は惚けていないことを回りくどく説明した。それからあれこれ、へんてこなやり取りを続けているうちに、母はベットの端に転がっていたテレビリモコンを見つけた。
「ほら、痰つぼはここにあったじゃない。このふたを取って使うの」
母はしばらくリモコンの裏ぶたを取ろうとして、やっとまちがいに気づいた。
「あら、痰つぼではなくて、リモコンを探していたみたい」
どうやら、リモコンを痰つぼと言いまちがえただけだった。それにしても、奇妙な言いまちがえだ。母は自分がおかしいといつまでも笑っていた。

 2009年11月10日

 テレビ画面に森繁久彌死去のテロップが入った。彼は母と同じ大正2年生まれだ。母も私も彼の映画を数限りなく見ている。直ぐに思い出すのは駅前シリーズと社長シリーズだ。

駅前シリーズでは赤羽駅前商店街が舞台になったことがあった。当時、賑わっていたその商店街は人の流れが変わり、今は見る影もなく、空き地だらけの寂しい商店街に変わってしまった。
訃報を聞き、渥美清死去の時と同じくらいの寂しさを感じた。共に昭和を代表する役者で、代わる者はいない。森繁が死んだと母に話すと同じ歳なだけに気落ちしていた。その母も先は長くなく、かろうじて踏ん張っているだけだ。

母が漫然と服用していた利尿剤ラシックスを止めた。先日、私のミスで母の1週間分のピルボックスにラシックスを入れ忘れた。しかし、尿量減少も、浮腫みもなく、むしろ元気になっていた。

その経緯を主治医に話すと「さほど、影響はありませんので止めましょう」と承諾した。睡眠導入剤のレンドルミンは完全に止めたが、眠れない夜には4分の1錠を偽薬と一緒に飲ませている。この量なら、混乱、幻覚など、まったく起きない。脳がしっかりして来ると身体もしっかりして来る。その結果、深夜に起こされる回数が減り、私の体調も良くなった。

 今夏の終わりから肺に水が溜まり始め水様のタンが増えた。一昨年、同じ症状で一時的に著しく体力が低下したので厭な予感がした。しかし、頭がしっかりした母は呼吸をしっかりする事を自ら努力し、体力低下は緩やかになった。高齢になると吐ききれない汚れた空気が肺胞に溜まり酸素飽和度を悪くする。それで吐気をしっかりさせている。

食事は色の濃いものを少量出すとよく食べてくれるが、色の薄い食べ物は殆ど残す。固形物もだめで、水分の多いものを好む。
だから、白味魚を大根おろしであえたものなどよく食べてくれる。それでも、おかずを残すので、食後にプリンを食べさせて蛋白質不足を補っている。そのように小さな工夫を重ねた結果、最近、食事が美味しいと言うようになった。それもまた、母が踏みとどまっている理由の一つかもしれない。

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 紅葉が盛りになった。東京北社会保険病院下の公園で柿の紅葉した葉を拾って母に見せた。母は笑顔になったが、元気な頃と比べると何となく弱々い。そんな姿を見ると、母は終末期に入ったのでは、と寂しくなる。

 2009年12月5日

 せっかちだった母が、最近やっと年相応にのんびりして来た。これまで、私がどんなに夜更かししても朝六時にブザーで起こしていたが、先週あたりから起こさなくなった。おかげで、身体が少し楽になった。

しかし、惚けたことはよく言うようになった。先日、小用で簡易トイレを使うと、使い終えたトイレットペーパーを手渡して言った。
「ちょっと濡れているだけだから、とって置いておいて」
濡れたトイレットペーバーは乾かして、もう一回使うと言う。
「汚れの多少じゃないよ。使ったら汚れていなくても捨てな」
笑いをがまんしながらすぐに捨てさせた。老人介護は変なことだらけだ。すべてに真面目に対応せず、大ざっぱにならないと疲れ果ててしまう。

 2009年12月17日

 室温十六度。母には寒いのでストーブを入れた。年賀状のプリントに八時間費やしたが、まだ四十枚ほど刷り残しがある。刷り始めは動作は早かったが、十枚を過ぎるとスローダウンし、一枚に二分ほど費やしてしまう。私たち同様、プリンターも老いたようだ。

 毎日、ゆるやかに母から生気が失せて行く。血液検査ではLAPが異常値を示していた。この異常値の原因に肝臓周辺のガンが含まれている。

 昨日、緑道公園のベンチで若いホームレスが寝ていた。寒さが厳しくなると、夜間眠れないホームレスはそのように昼間寝ている。彼らを「気の毒に」と思う人はゆとりがある。生活に追いつめられている私には自分と重なって見えてしまう。

 今朝、母はベット傍らの簡易トイレに間に合わなくて粗相をした。いつものことなので、予め床に新聞紙が敷いてある。寝間着と汚れた新聞紙を手早く取り替え、母をベットに寝かせた。
「いつもすまないね」
ベットからあやまる母に「気にしなくてもいいよ」となぐさめた。
「あたしが死んだら、正喜をあの世から必ず幸せにしてあげる」
せめてそのくらいのことはしたいと母は言った。
本当にそうしてくれるならうれしい。

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 カメラを向けると明るい笑顔になっていたのに、最近、それが少なくなった。

第八章 終末期、母の死を覚悟した。

 二千十年一月三日 母九十六歳

 元旦は人出が多かったので、今日に初詣を延ばした。八幡神社急坂を車椅子を押し上げて母と初詣をした。
「今年は死にそう」
帰り道、母がポツリと言った。
「毎日、死ぬと言っているよ」
またか、と思いながら応えると、
「あら、そうだったの」と、母はてれ笑いした。
最近、母は穏やかになった。
気休めを言ったが、母の言葉は本当になりそうな気がしてならなかった。

夕食後、仕事をしていると、母が鐘を鳴らした。
鐘は知人の彫刻家の作品でウサギ飾りの付いたステンレス鋳物だ。堅い素材なので、とても澄み切った音がする。ブザーでけたたましく呼ばれるのが嫌で、先日、ブザーを外してそれに代えた。

テレビの前に腰かけていた母はベットへ連れて行ってくれと言った。
母が逝けば、この鐘の音を思い出しそうだ。失うことを恐れるなと釈迦は説いたが、その境地はとても難しい。彼は多くの大切なものを失って、やっと、その境地に達したのだろう。

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                    八幡神社の境内にて。

 二月四日

 昨夜は四時まで絵を描いていたのに、朝六時に母に起こされてひどく眠い。今日は母のシャワー介助の日だ。九時半にヘルパーの小黒さんが来た。先週、母が元気がなかったのを心配して、チューリップを見舞いにもらった。母のシャワー介助が終わるまで五分ほど寝ようと自室で横になったら、そのまま寝過ごしてしまった。

介助が終わって帰る小黒さんの気配で目覚めた。
「ぐっすり、寝ていらしたので、黙って帰ろうと思いました」
彼女は、起こしてしまったことを詫びた。
見送ってから、母の様子を見に行くと、ベットでぐっすり寝ていた。自室に戻り、一時間ほど何もせずにぼんやりしていると、母が呼んだ。
「静すぎるので、誰もいなくなったのかと心配になったの。ところで、裕子はどうしているかしら」
母は上の姉が一昨年死んだことを忘れていた。
裕子姉は死んだと言うと、「ああ、そうだったね」と寂しそうにしていた。

 生活に追われている今は、生死へのこだわりが薄い。逆に、生活にゆとりがあるころは、生死への執着が強かった。幸せはバランスよく巧妙にできている。死に対する恐れはないが、死ぬまでの長い孤独は寂しそうだ。だから根拠もなく、老いても平気だと虚勢を張っている。虚勢でも孤独への対処法になる。覚悟ができていない孤独ほど辛いものはない。

 三月十日

 毎夜、午前二時まで仕事に熱中している。おかげで、頭がさえて寝付けない。眠れないまま先行きを考えていると、母が呼んだ。急いで行くと、電灯の笠の上で赤ん坊が遊んでいると言った。幻覚が始まったようだ。部屋を明るくすると、母はすぐに正気に戻った。
「夜中に起こして、ごめんね」
母は何度もあやまった。

一時間後、再度呼ばれた。今度は壁の写真から水かあふれ出ていると言う。母の幻覚は次第にシュールになって行くようだ。
「さっきは、赤ん坊がいると言っていたよ」
母に話すと「そんな、怖いこと言わないで」と、一時間前のことをすっかり忘れていた。
「早く寝な」
母の掛け布団を整えて仕事部屋にもどった。深夜になると酸素飽和度が極度に低くなり、幻覚を見るようだ。

 2010年3月15日

 最近、母の散歩の出発に手がかかるようになった。その上、車椅子まで連れて行くと、決まってトイレに行きたいと言う。今日もそれで出るのが一時間遅れてしまった。

母が用を足すあいだ、テレ朝の「ちい散歩」を見ていた。今日の散歩コースは相模原。古い通りの映画館に「君の名は」の看板がかかっていた。地井武男は、私とほぼ同時代の人間だ。彼は歩きながら「君の名は」の主題歌を口ずさみはじめた。

「君の名は」は、女湯が空になったと伝説がある大ヒットのNHKラジオ連続ドラマだ。当時小学二年生の私はメロドラマには興味がなく、ラジオ放送の記憶はない。昭和二十八年に岸惠子と佐田啓二主演で映画化された「君の名は」は死んだ裕子姉と見た。

不良だった裕子姉がとなり町の油津へ映画を見に行くと言うと、母は見張り役に私をついて行かせた。その映画が「君の名は」の北海道編だ。印象に残っているのは後宮春樹・佐田啓二を慕うアイヌ娘の唄う黒百合の歌だ。アイヌの娘役は北原三枝で、唄っていたのは主題歌と同じく織井茂子。おどろおどろしい前奏から入るエキゾチックな歌は強烈に記憶している。

「どんな映画を見たの」
帰宅すると母が聞いた。
「川で、女の人が裸でカエル泳ぎしていた」
そのシーンを身振り手振りで一生懸命に説明すると、「子供にそんなものを見せて」と母は姉をしかった。
「君の名は」にそのようなシーンはない。摩周湖に娘が投身自殺するシーンを、私が勝手に空想したようだ。今の母同様、私も幻覚を見がちな子供だった。

 母は映画狂で、油津で話題の洋画が上演されると、必ず私を小学校から早引けさせて連れて行ってくれた。だから小さな漁師町に住みながら、戦後の名作洋画はすべて観ている。

母が学校をさぼらせてまで見せてくれたのは、田舎では名作洋画は人気がなく、四、五日で西部劇などの活劇に入れ替わっていたからだ。後年母は、名作映画は学校より勉強になると話していた。

 ようやく散歩へ出発してエレベーターに乗ると、途中の階で突っ張った風体の若者が乗りこんで来た。
「こんにちは」
意外にも、若者は礼儀正しく車椅子の母にあいさつした。
「足の悪いおばあちゃんが、一人暮らししているので、訪ねて帰る所です」
若者は母に話しかけた。
「優しいですね。暖かくなったから、車椅子で連れ出してあげると喜ばれますよ」
母が言うと「今度連れ出してあげよう」と若者は笑顔になった。
若者との出会いで、いつになく母は心地良さそうだった。

 以前行っていた赤羽自然観察公園は管理方針が変わり、自然の草は苅られ樹木は剪定されてしまった。野趣がなくなったので自然公園行きは止め、今は近くの東京北社会保険病院下の公園で母を歩かせている。私も母も体力が低下したので、その方が楽で良くなった。

 夕暮れ、旧知の羽生さんが私の窮状を知って、訪ねて来て絵を買ってくれた。家賃を滞納し契約解除通告を受け万事休すと思っていた。これで何とか苦境を乗り越えられそうだ。

「絵を買ってもらったから、生活は大丈夫だよ」
母に話すと、気丈な母がベットの中で声を出して泣いた。いつもは。ノー天気なことばかり言っていたが、内心、生活の行く末を案じていたようだ。先が長くない母に心配かけていたと思うと、すまなさで一杯になった。

 2010年4月8日

 午前中、母はシャワー介助を受けたので、散歩は午後おそく出た。好天だが冬のように冷たい。今朝は各地で遅霜が見られ、寒さのおかげで桜はほとんど散っていない。夕暮れの光に、花びらがキラキラ光りながら母に舞い落ちた。
「今年の桜は、いつもより美しいね」
帰り道、母は何度も言った。

 公園で親子連れが花見をしていた。その五六歳の男の子は玩具のブルーのサングラスをしていた。男の子はブルーの世界が気に入っているようで、体を回転させながら桜を見上げていた。
「よっ、かっこいいね」
声をかけると、男の子は反っくり返りながら照れていた。
「バカばっかりやって」
若い母親は笑った。去って行く男の子は振り返り振り返り私たちに手をふった。
そんな親子を母は目を細めて見送っていた。

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 住まい下の桜。 右は新河岸川。十四年前、この住まいに引っ越したころは幼木だったのに、今は花見ができるほどに成長した。

 2010年4月19日

 散歩帰り、住まい近くで信号待ちをしていると、片足スクーターに乗った五歳ほどの女の子が、私たちを見上げていた。青信号に変わると、女の子は片足スクーターを飛ばして先に行った。住まいに着くと、女の子がエレベーターのドアを開けて待っていた。

「いい子だね。ありがとう」
母が一緒に乗った女の子にお礼を言った。
「帽子のお花がきれいですね」
女の子が笑顔で母に話しかけた。母は楽しそうに受け答えしていた。
途中で、女の子はぺこりとお辞儀して下りて行った。
その時、その顔に見覚があると思った。数年前、エレベーターでよく一緒になる若い親子がいた。そのお母さんにだっこされていた赤ちゃんの面影が女の子に残っていた。それで女の子は、信号待ちをしている私たちをしげしげと見上げていたようだ。

「赤ちゃんのころのことを覚えているなんて、本当に利口な子ね」
母はしきりに感心していた。最近、疲れた顔ばかりだったので、母の明るい顔がうれしかった。

 2010年4月19日

 深夜、ブザーで呼ばれて行くと「時計が止まっている」と訴えた。壊れていないと説明しても
「針が動いていない」と納得しない。面倒なので、新しい時計を置いた。

 母はカレンダーの日付を毎日マーカーで消している。最近、消したことを忘れて何度も消すので、一日で四、五日過ぎてしまう。それで、次々と新しいカレンダーを増やした。おかげで母の部屋は時計とカレンダーだらけになった。余命を短く感じると、時間や日付が気になるようだ。

 2010年5月1日〜5日

 私は急性胆のう炎にかかり、五月一日に東京北社会保険病院で緊急切除手術をした。腹腔鏡での手術なので回復は早い。胆のう炎にかかったのは、一年前からの睡眠不足と過労とストレスによるものだった。この病気は極端に体力が弱った寝たっきり老人に多いと言われている。私は相当に衰弱していたようだ。

 入院の間、母の世話ができないので、緊急措置として母を同じ東京北社会保険病院に入院させた。しかし、母は病院食が口に合わず殆ど食べなかった。それに気づいたのは、私の術後三日目のことだ。訪ねると母はやつれて悄然と寝ていた。不安になって食事内容の変更を看護師に頼んだ。
「食べられなくても特別な対策はしません。次の食事で補えば済むことです」
彼女は平然と答えた。しかし、それは九十六歳の老人には通用しない。食べないと急速に体力は低下して回復は不可能になる。危惧したように、母は翌日も食べなかった。仕方なく、売店でヨーグルトやゼリーを買って来て食べさせた。

 2010年5月6日

 母を訪ねると、柵に囲まれたベットで意味不明のことをつぶやいていた。かたわらの簡易トイレを使った形跡はない。私は背筋が寒くなった。急いで柵を取り除き母を車椅子に座らせようとしたが、まったく立てなくなっていた。私は手術後の痛みに耐えながら抱え上げ車椅子に座らせた。外へ連れ出せば、回復すると思ったからだ。

病院の庭は五月の新緑だった。
「気持ちがいい」
始めて母にいつもの笑顔が戻った。外の刺激で頭が正常になれば、体力も戻るかもしれない。しかし、このまま入院させていては弱る一方だ。すぐに担当医師にたのんで、私の月曜退院を土曜に前倒しさせてもらった。

 2010年5月8日

 退院の朝、病室に晃子姉が手伝いに来た。姉に身の回りのものを持たせ、先に帰らせた。
「また元気になって、公園へ散歩へ行こうね」
帰路、車椅子の母に話すと、うれしそうにうなづいた。しかし、母の足は痩せ自立歩行はむつかしくなっていた。帰宅して、ベットまで母を連れて行こうとすると、何度も膝がガクリと落ちた。その都度、支える私の術後の傷がキリキリと痛んだ。

 その夜も、母の幻覚と尿意で一時間毎に起こされた。夜の小用はおしめにするように頼んだが、母はプライドからどうしてもできなかった。一晩に何度も、母は私を起こして手伝わせて簡易トイレを使った。私は疲労困憊した。

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               やっぱり家は良いと母は嬉しそうだった。

 2010年5月12日

 ひんぱんに母に起こされ、私は睡眠不足でめまいを覚えるほどに疲労した。しかし、目覚めた母に夜の記憶はなかった。毎夜、起こされていると話すと、「ごめんね。ごめんね」と可哀想なくらい謝っていた。

 朝食後、母の様子を見に行くと死んだように寝ていた。来訪したヘルパーの小黒さんは、げっそりと痩せた母を見て悄然としていた。小黒さんと協力して母の体を清拭した。
終わっても母は死んだように眠っていた。

一時間ほどして、目覚めた母が私を呼んだ。
「今日は死にそう。今まで本当にありがとう」
母は私に手を合わせた。
「バカバカしい、いつごろ死ぬと言うんだよ」
強く言うと、母はすぐに正気に戻った。
「あと、二、三日かかるかもしれない」
母はそう言ってから照れ笑いした。 

 2010年5月16日

 食欲が回復してきて、母のほおはふっくらしてきた。毎日来てくれるヘルパーの小黒さんも、見違えるように元気になったと喜んでいた。しかし、老人の体調は日替わりで上下する。過去、何度も驚異的に回復して来たが、今回はむつかしいと思った。

深夜、母が私を起こすのは迫って来る死の影に怯えていたからかもしれない。母の部屋を暗闇にしないように、隣室の明かりはいつも点けたままにしておいた。

 2010年5月17日

 日に日に、夜の母の幻覚がひどくなった。
「どなたか、いませんか」
昨夜は呼び続ける声で目覚めた。急いで行くと
「正喜がいてくれたの。ああ良かった」
母は笑顔になった。
「ここは病院じゃないよ。いつもそばにいるから安心して寝な」
頭を撫でながら話すと、母は次第に正気を取り戻した。
「起こしてしまってごめんね。さあ早く寝なさい」
母は何度も謝っていた。

 2010年5月18日

 朝から雨が降ったり止んだりしていた。お昼前、食材の買い出しから帰宅して母に声をかけたが、死んだように寝ていて目覚めなかった。以前なら玄関を開けると「お帰り」と声をかけてくれていた。

 今日も昼食はほとんど残した。夕食後、母はすぐにベットに横になった。暗闇と消えたテレビを嫌がっていたのに、今夜はテレビと電灯を消せと言った。闇や無音が気にならなくなったのは、死を受け入れ始めたからかもしれない。

 2010年5月19日

 東京北社会保険病院眼科の定期診察に母を連れて行った。母は待合室で昔なじみと会うと元気になった。そんな姿を目にすると、外出の大切さを痛感する。しかし、帰ると好きなテレビも見ずに、死んだように眠り続けていた。いずれ弱ると覚悟していたが、予想より早く進んでいると思った。室内の歩行がむつかしくなったので室内用車椅子を借りた。

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                 東京北社会保険病院の屋上庭園にて。

 2010年5月24日

 母は突然に元気になった。顔色も良く、言葉も表情も明るい。毎日、散歩へ連れ出した効果が出たようだ。しかし、元気になれば一人で簡易トイレを使い、ベットに戻れなくて深夜に私を起こす回数が増えた。

 絵が仕上がったので母に見せると絵を指先でうれしそうになでていた。母は老いても絵を見る感覚は確かだ。失敗した絵には興味を見せないが、上手く行くと心底喜んでくれる。

 午前中の母は冗談が出るほどに元気だったのに、昼食後は口数が減り、死んだように眠っていた。母が眠っている間に赤羽駅前へ出かけ、ガラス磨きワイパーを買って来た。早速、母の部屋のベランダのガラス窓をスプレーで湿し、汚れをすくい取ると面白いようにきれいになった。

 夜、様子を見に行くと母はすぐに目覚めた。
きれいになったガラス窓から満月が見えた。
「月がきれいね」
母はベットから、しばらく夜空を眺めていた。
「私の世話で疲れたでしょう。やさしくしてくれて本当にありがとう」
母は礼を言った。どうやら眠っている間に逝ってしまうと思っているようだ。
「大した世話じゃないよ。明日も散歩へ連れて行くから早く寝な」
そう言うと、母はまた「ありがとう」を言った。

 2010年5月31日

 朝、母の体調は極度に悪かった。
「とても疲れているから、このまま死ぬまで寝かせていてほしい」
母は起きようとしない。そうなった訳は思い当たる。母は午前三時に朝と勘違いして私を起こした。
「外は真っ暗だよ。朝か夜か分からないの」
二時に寝てすぐに起こされた私は機嫌が悪く、きびしく言ってしまった。
その後、私はすぐに二度寝したが、母は朝と間違えたことがショックで眠れなかったようだ。
「このまま寝ていても辛いだけだよ。ご飯を食べて散歩しよう」
やさしく説得すると母は渋々起き上がった。しかし、朝食を済ますとすぐにベットに戻してくれと頼み、死んだように眠っていた。もう無理はさせずそのまま寝かせておいた。

 2010年6月7日

 母の足元はふらつき、支えても何度も膝がくずれ落ちた。母の体重は五十五キロほどある。母を抱え上げると術後の傷が激しく痛んだ。母の筋力が弱ったのはベットに寝ている時間が長いからだ。それで、日中は椅子に座らせておいた。しかし、座ってばかりいると血流が悪くなるので三十分毎に立たせてマッサージをした。

 母の夏の寝間着が傷んで来た。
「明日、イトーヨーカ堂で新調しよう」
母に言うと、無駄になるから必要ないと言った。ほとんど着ることなく死ぬと思っているようだ。
「無駄になっても良いから買いに行こう」
さらに言うと、母はうれしそうにうなづいた。

 2010年6月9日

 午前三時に、母は朝と思って私を起こした。

 午前四時、一緒に寝ていた人形がなくなったから探してくれと起こした。
そのように眠らせてもらえない夜が続いていたので、早朝に母と口論してしまった。繰り返し説明していると、母はやっと幻覚に気づいた。しかし、そのあと母は自己嫌悪におちいってしまった。
「私は生きている価値がない、これから死ぬから起こさないで」
母は頑としてベットから起きようとしなかった。それを時間をかけて説得してやっと朝食を食べさせた。

 朝食後は室内用車椅子で玄関まで連れて行き、外用の車椅子に乗り換えさせて散歩へ連れ出した。
「お子さんは、いらっしゃいますか」
車椅子を押している私を母はヘルパーと間違えていた。
「正喜だよ。分からないの」
何度も聞くと、やっと、私だと気づいた。

 道々、母の頭をしっかりさせようと兄姉たちの名前を順に言わせた。しかし、姉たちの名だけが抜けた。それを晃子姉が知ったら怒るだろうと、おかしくなった。

東京北社会保険病院下の公園で母を歩かせた。先日の頭がしっかりしていた時は二メートルしか歩けなかったのに、頭がおぼろげな今日は八メートルも歩いた。体が弱っていることすら、忘れているのかもしれない。

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 東京北社会保険病院下の公園にて、元気そうに見えた母最後の写真。後ろはガクアジサイ。

 2010年6月14日

 早朝四時、母が呼んだような気がして目覚めた。様子を見に行くと、母は編み物をしているように手を動かしていた。
「大丈夫」と聞くと、
「さっきから、襟を探しているけど、見つからないの」
母は笑顔でタオルケットの端を見せた。どうやら、セーターを編んでいるつものようだ。
「それはタオルケットだよ」
教えると、やっと正気に戻った。行ったついでに簡易トイレで小用をさせ、テレビを点けた。教育テレビで落語をやっていたので点けたまま自室へもどった。

その後、母に二度起こされた。最初はテレビに裕子姉が出てると言った。
「二年前の秋に死んだだろう」と言うと、
「そうなの。死んだの」
母は悲しそうな顔をした。
次はマチ針を落したから探してくれと起こした。今度は裁縫しているつもりだった。

 2010年6月16日

 先日、新調した夏用の寝間着を改造した。母の体型を採寸し、新しい寝間着に帯を縫い付けた。タンスの古い傷んだ寝間着は捨てた。古ぼけた品ほど思い出がこもり、遺品になってからでは捨てられなくなる。

 昔、母が祖母の遺品を整理していると明治時代の古い痛んだ着物が出できた。他人には惜しげもなく金を使う人なのに、祖母は自分自身には無頓着だった。
「こんな粗末なものを東京まで持って来て」
母は寂しそうに古い着物を撫でていた。
寝間着を捨てながら、その時の母の姿が今の自分に重なった。

 2010年6月18日

 母は私が手伝っても、まったく立てなくなって、抱え上げて室内用車椅子に乗せるのは大変な作業になった。急に弱ったのは心臓が弱ったせいだ。先日の朝、母は大量に汗をかいていた。後日、それは心不全の発作だったと知った。

帰りの緑道公園でサクランボがたくさん実っていた。食べてみると甘い。十粒ほど食べると、アントシアニンで口の中が濃紫に染まった。
「どおだ」
紫に染まった口を開けて母に見せた。
「気色が悪い」
母は笑いながら顔を背けた。

 母は更に弱り、深夜に私を呼ぶ回数が減った。食欲も激減し、さかづき一杯のごはんを、やっと食べている。足りない栄養は、エンシュア・リキッドやプリンで補った。
母は残り時間が少ないと感じているのか、子供のころの思い出をしきりに話すようになった。

 2010年6月20日

 母は朝から殆ど喋らなかった。
母を抱えるのは腰を酷使する。ぎっくり腰に注意していたら、鼠径ヘルニアを悪化させてしまった。

朝食後、母は死んだように寝ていた。それでは弱る一方なので無理に起こし、何とか散歩へ連れ出した。家では何に対しても無反応だった母が、外で知人に会うと明るく挨拶していた。

 午後、注文していたミシンが届いた。新しいミシンは下糸のボビンが水平釜になり、糸通しが付いている。
「これなら糸通しに苦労しないよ」
ベットの母に見せると、嬉しそうに目を輝かせていた。
母は無類の手芸好きだったが、弱ってから止めていた。

ミシンを見て元気になった母は起きると言った。
椅子に座らせて夕食を作った。母は食事中も明るく、食欲も少し回復していた。しかし、それはつかの間で、夕食後は「龍馬伝」も見ないで死んだように眠っていた。そんな母を眺めながら、私が胆のう炎を起こさなかったら今も元気なのに、と後悔が募った。

 2010年6月21日

 母の散歩から帰ると車椅子のクッションにしている円座がパンクしていた。まるで、母を支えてきた役割を終えたように思えた。母をベットに寝かせて円座を買いに出た。

最初に行った大きな薬局にはなくて、昔ながらの小さな店にあった。円座は三年は保つ。今回は一度も使うことなく逝きそうな不吉な予感が頭をよぎった。
数日前に母の右踵が赤くなっていた。どこかにぶつけたのだろうと思っていたら、赤黒く変化していた。心臓が弱り、血行が悪くなって床ずれができたようだ。プロスタンディン軟膏を塗ってガーセで覆っておいた。

 2010年6月22日

 朝、生協浮間病院に往診を頼んだ。それから、ケアマネージャーに介護ベットの手配をしてもらった。
介護ベットを入れるには、ベット下に保管してある額やキャンバスの木枠が邪魔だ。それらは大宮の浜田氏に引き取ってもらうことにした。浜田氏は絵描きの知り合いが多いので、有効に使ってくれるだろう。
昼まで、ベット下や部屋を片付けていると、母が寝たまま粗相をした。以前なら母は体を動かしてくれるので手間はかからない。しかし、弱った母はピクリとも動けず、清拭は大変な作業になった。無我夢中でかたづけ、寝間着やシーツを洗濯し、シャワーを浴びた。それから、薬局へ防水シーツの予備を買いに行った。

 急いで帰宅すると、すぐに診療所から若い医師が往診に来た。酸素飽和度を測ると七十二と極端に低い。
医師は心不全から肺がむくみ酸素交換がうまく行っていないと話した。
「すぐに入院しなければならない状態です」
医師は深刻そうに話した。しかし、母はわずか一週間、病院にいただけで弱ってしまった。
「入院治療すれば心臓は一時的に回復すると思います。でも、入院すれば母は孤独に苦しみます。そして心臓もすぐに悪くなります。だから入院はさせません」
在宅で介護すると答えると、医師は困惑していた。しかし、私の考えは変わらなかった。母が元気な頃、もうダメと分かったら入院はさせないと、何度も約束を交わしている。だから、迷いはなかった。
「お考えはごもっともです。在宅で、できるだけのことをしましょう」
医師は納得して、すぐに在宅での酸素吸入設備の手続きをしてくれた。

 夕暮れに小型冷蔵庫ほどの酸素濃縮機が届いた。装着したままシャワーが使えるように、酸素供給ホースは八メートルまで伸ばせるようにした。ベットの母にカメラを構え「笑いな」と言うと、頬に当たる酸素チューブに引きつりながら笑ってくれた。

元気づけようと母が好きだった昔の絵を枕元に持って行った。メガネをかけさせて見せると、母はうれしそうに指で絵をなでていた。心不全のために肺がむくみ声は出せなかったが、母は精一杯の笑顔を見せた。

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 先日、知人からグルメ便のカタログが届いた。一年間、好きな食べ物を選ぶと毎月送って来る。冬の月、母が好きなカニを選らびながら、それまでは生きていない気がしてならなかった。

 夜、1972年制作「男はつらいよ 柴又慕情」を見た。
母は始めだけ見ていたが、直ぐに寝入った。映画好きの母は「男はつらいよ」シリーズを一番愛していたのに、その気力も失せたようだ。

一人で寅さんを見ながら、映画が作られた38年前の59歳の母の元気な姿が画面の風景と重なった。
「雲のように、自由に旅したいなー」
寅さんが空を見上げながらつぶやいた台詞が心に残った。
渥美清は言葉通りに68歳で大空へ消えた。

 深夜、開け放ったベランダから、涼しい風が玄関へ抜けて心地良かった。様子を見に行くと、母はすぐに目覚めた。
「いろいろとありがとう。苦労ばかりかけてごめんね」
母は途切れ途切れに言った。
最近母はお礼ばかり言う。

 2010年6月23日

 母が眼科受診に行けないので、処方箋を貰いに東京北社会保険病院へ行った。帰りに駅前に出て食材を買った。帰宅すると母の意識がない。ゴロゴロと変な寝息をたてている。出かける時は「行っておいで」と見送ってくれたのに、わずか二時間での急変だ。すぐに、診療所に往診を頼んだ。

 駆けつけた若い医師は心電図を取り、ペンライトで瞳孔の反応を調べ、念入りに聴診器をあてた。
診察の後、彼女は私を隣室へ呼び、深刻な顔で言った。
「お母さまは、今夜危篤になられてもおかしくない状態です。それでも、在宅をご希望ですか」
在宅で看取ると、幾度となく母と話し合っている。
「危ないのなら、なおさら在宅で看取ります」
私は迷いなく答えた。

 医師の説明では、母の急変は、カリウムのバランス異常から起きていた。母に点滴をすると見る間に意識を取り戻した。重篤だが、短期間なら母を元気にする自信があった。医師が帰るとすぐに、牛黄主成分の漢方薬を飲ませた。牛黄は強力な強心作用がある。すぐに効き目が出て、夕方には元気になり普通に会話しながら夕食を食べてくれた。

 2010年6月24日

 母はコップ一杯の栄養剤を飲ませるに十分以上かかった。食事全体となると小一時間は必要だった。もし、医師の薦めにしたがって入院させていたら、一人の患者にそれだけの手間はかけてもらえない。結局は点滴とチューブで栄養をとることになり、病室に一人で放っておかれ、母は孤独に苦しんだはずだ。しかし、在宅なら毎日、見舞い客が次々と訪れ、寂しくはなかった。改めて、緊急入院させなくて良かったと思った。

 お昼前、生協浮間診療所から看護師が点滴に来た。彼女は昨日より母が元気になっているのに驚いていた。看護師が帰った後、母の万一を考えて銀行へ金を下ろしに行った。

 窓口の係に「身分証明をお持ちですか」と聞かれた。払い戻し用紙に書いた「正喜」の「喜」の一番上が「士」ではなく「土」になっていると重箱のすみをつつくような理由だった。
「それは字が乱雑なだけでしょう。書き直せば済むことです」
反論すると、係はしばらく上司と相談して、やっと認めてくれた。多分、預金の殆どを下ろしたので怪しまれたのだろう。

 午後、大宮の浜田さんが額と木枠を受け取りに来た。台車で車まで運び見送ると入れ替わるように介護ベットが届いた。夕食後、ベットの母の上半身を電動で起こすと、月が見えると喜んでいた。

床ずれ予防の電動エアマットは、動いているのが分からないほど静かだった。昔、寝たっきりになった父のために外国製の床ずれ予防の電動マットを買ったが、体がたえず揺らされ、船酔いしそうだと父はいやがった。マットは三十年の間に格段に進化したようだ。

 深夜様子を見に行くと、
「あら繁、会いに来てくれたの」
母は私を死んだ繁兄と間違えて満面の笑みを浮かべた。
三十五年前に繁兄が死んだ後、母は私たちの前で一度も嘆いたことはなかった。しかし後年、布団の中で何度泣いたか分からないと話していた。母は今も繁兄に会いたかったのだろう。私は黙って母の頭をなで続けた。

 2010年6月25日

 朝、母を室内用車椅子に乗せて玄関前通路を行ったり来たりした。
「外は気持ち良いね」と母は喜んでいた。

 お昼前に医師が往診に来た。彼女は瀕死だった母がはきはき受け答えするのが不思議だったようだ。
「先生の処置が良かったようです。点滴のあと、とても元気になりました」
お礼を言うと、彼女は照れていた。

 午後は大型犬の小次郎くんが飼い主の小林さんに連れられて見舞いに来た。母は大喜びで小次郎くんを呼んだ。ベット脇まで来た彼は母の手をペロペロなめていた。その姿を見ていると、もっと頻繁に会わせてあげれば良かったと後悔した。

 先月、散歩している時、小次郎くんの家が近づくと母は彼に会いたいと話していた。
「小次郎は元気に散歩しているから、そのうちどこかで会えるよ」
私は気楽に答えていた。今思うと、母は彼に別れを告げたかったようだ。

小次郎くんが帰ってから、買い物に出ようと、母に声をかけたが意識が遠くなっていた。しばらく声をかけ続けると、やっと意識がもどった。
「行ってらっしゃいは」
催促すると、「バカ」と母は答えた。
そして間を置いて、「行っておいで」と、いつもの笑顔で送り出してくれた。

 その夜、母は急変した。意識がたえず遠くなって、話しかけても反応しなくなった。不安になって、懇意にしている上越で内科医をされている杉田さんに電話を入れた。深夜に関わらず、分かりやすく死間際の症状と対策を説明してもらえた。その中に、死の間際には呼吸と脈拍が不規則になるとあったが、母は弱いなりに安定していたので安堵した。

 2010年6月27日

 朝から母の意識は一度も戻らなかった。お昼、晃子姉が来たので、おむつ交換を手伝わせたが殆ど役にたたなかった。
「話しかけても反応がないし、居ても仕方がないから帰るね」
姉はすぐに帰った。姉は反応がないと思っているが、聴力は最期の間際まで保たれる。耳元で呼びかけると、母はかすかにうなづいた。スポンジに含ませた氷水で口元を濡らすと少しずつ飲んでくれた。

 神棚のサカキが枯れたので、午後、駅前に買いに行った。途中、顔馴染みに会った。母のことを聞かれたので、心不全で危ないと手短かに話した。話していると悲しくなり、気持ちが折れそうになった。
帰りは誰にも会わないように師団坂を上り、東京北社会保険病院の庭を抜けた。病院庭のヤマモモが熟していたので少し摘んで帰った。

 一旦帰宅してから母の付き添いをお隣に頼み、公団管理事務所へトランクルームの鍵を借りに行った。母の棺をエレベーターに乗せる時、トランクルームを開けて長さを確保しなければならない。それで、今から借りておくことにした。

母は献体の白菊会の古い会員だ。その時、慌てないように献体の書類に目を通した。必要なのは死亡診断書のコピー、火埋葬許可書、遺族の解剖承諾書だ。遺影用には三年前の九十四歳の写真を選んだ。元気な頃の写真を選んでいると喪失感がこみあげ悲しくなった。夜十時、突然に猛烈な眠気におそわれ、仕事部屋で十五分ほど寝た。夢の中で、母が笑顔で話しかけた。

「何だ、元気だったの」
喜んでいるところで目覚めた。母が急変したのではと、急いで様子を見に行くと、呼吸は小きざみで浅く、苦しそうだった。点滴で皮下出血だらけの手首の脈を取ったが殆ど触れない。胸に耳をあてると、弱くて早い拍動が聞こえた。もしかすると今夜、私が寝ている間に逝くかもしれない。
「いつも、近くに居るから、朝までがんばってね」
髪をなでながら話しかけると、母はかすかにうなづいた。

祖母千代は五月一日、父は六月一日に死んだ。母が元気なころ、四月か七月の一日に死んでくれれば覚えやすい。だけど、四月一日はエイプリルフールで信じてもらえないからだめだ、と話すと母は笑っていた。

 車椅子生活になったころから、母の姿を記録し続けたデジカメが先日壊れた。円座もパンクし、親しくしていたケアマネージャーも移動になった。総てが母の命に合わせたように思えてならなかった。

 2010年6月28日

 母の意識は少し戻ったが、食事は取れなかった。乳酸飲料をスプーン数杯とプリンを一口だけ、やっと飲み込んだ。食後の薬とサプリメントを飲ませようとしたが、口に含んだまま飲み込めないので綿棒でかき出した。お昼前、診療所から看護師が来て点滴をして帰った。

「口から食べている限り、人は死にません」
昔、在宅で祖母と父を看取った時の老医師の言葉を思い出した。祖母と父は終末期に入ってからもチューブによる栄養補給はしなかった。だから、殆ど苦しむことなく自然死した。

母の言葉は口の中でこもり、聞き取りにくくなった。しかし、私が話しかけることはよく分かり、小さくうなづいてくれた。タンの排出機能が弱り、絶えず絡むので先日、診療所から借りた吸引機でタンの吸引を繰り返した。

 深夜も、何度も様子を見に行った。母の意識は戻ったり遠くなったりしていた。
2時過ぎ行くと、母はハラハラと一筋の涙を流した。私は黙って涙を拭いた。
二ヶ月前に私と同年代の絵描き仲間が急死した。未亡人に最期を聞くと、彼も死ぬ前に一筋の涙を流した、と話していた。彼と同じように母も死を覚悟して万感迫り、涙を流したのかもしれない。

母が私の前で泣くのを見たのは、それを含めて生涯で二度だけだ。
もう一つの涙は今年三月、絵が売れて生活危機を乗り越えられた、と伝えた時だ。それまで母はのー天気に振る舞っていた。しかし、本当は私の苦境をよく分かっていて、声を出して泣いた。

 2010年6月29日

 朝、母は丸くなっていた腰が延びて背が高くなっていた。母の元々の身長は百六十三センチと昔の女性としては大きい。借りた女性用の介護ベットは小さく窮屈に見えた。腰椎が五個も圧迫骨折している状態で、腰が伸びれば二度と立てない。それは母も分かっているようで、声をかけると母は私の後方遠くを眺めていた。その時、母が死を受け入れたことを強く感じた。

 朝から母は食べ物も水分もほとんど摂らなかった。水分は、午前中の抗生剤入りの点滴だけだ。それでも意識ははっきりして元気そうに見えた。一時的に身体の需給のバランスが取れているからかもしれない。水分を無理に摂らせると心臓や肺がむくんで辛くなると医師は話していた。終末期は飲ませたり食べさせない方が本人は楽だ。しかし、異常なバランスはすぐに破綻する。

 深夜、母の神経は鋭敏になった。様子を見に行って声をかけるとハッと目覚めて私を見た。しかし、脈はまだらで、所々抜けた。いよいよ、最終段階に入ったようだ。母は天井の一点を凝視していた。
「何を見ているの」
聞くと、笑顔で「とても、綺麗」と言った。
それは臨死体験に登場する色とりどりの光かもしれない。
「苦しくはないの」
聞くと母は笑顔で首をふった。

 八十四歳の時、母は臨死体験をしている。母は胆石手術の後の腹壁瘢痕ヘルニアの手術を、近くの病院で受けることになった。母の腹膜は弱く、大病院でも何度も失敗した難手術だ。しかし、院長の自信満々の安請け合いに乗って、母は承諾してしまった。

その病院には麻酔医はいなかった。簡単な検査だけで執刀医が全身麻酔をすると、母の心臓は止まってしまった。十回近く母は手術をしてきたが、そのような荒っぽい麻酔は始めてだった。いつも事前に心肺機能を入念に検査して慎重に麻酔をし、手術中も麻酔医が付きっきりで異常を監視していた。

母は執刀医の救命措置で、なんとか生き返った。手術は即刻中止になり、翌日、母を退院させた。その時、母は色とりどりの光りを見てとても気持ちが良かったようだ。その臨死体験以来、母は死ぬのが怖くなくなったと話していた。

 毎日、母の品を大量に捨てている。今夜は、母用のトイレ手摺を分解してベランダに置いた。手摺がじゃまで掃除ができなかった床を石鹸水で洗った。便器もパイプもピカピカに磨いた。

去年始めから、母は部屋の簡易トイレだけを使っていたので、トイレを使うことはなかった。しかし、かたづけなかったのは、回復の希望を持っていたからだ。何もしないでいると、哀しみが間歇泉のようにこみ上げた。だから、休みなく動き回った。食事も立ったまま済ますので、いつ食べたのか記憶にない。役にも立たない年寄りなのに、なぜこんなに悲しいのだろうか。

「お一人でお母さまを看ていて、不安はありませんか」
午前中に来た看護師が聞いた。
「今は連日、見舞客が来てにぎやかです。でも、逝ってしまえば世間から忘れられ辛くなりそうです」
そんなことを話すと、看護師は何度もうなづいていた。この診療所の若い看護師たちは、昔の青春映画に出て来るような、やさしくて健気な人が多い。

 2010年6月30日

 朝から母は部屋を歩き出しそうなくらい元気だった。母の持ち物は殆ど捨ててあるので、「どうして捨てたの」と怒るのでは、と慌てたくらいだ。介護ベットの背中を上げると、外が見えると喜んでいた。それから母は子供の頃の思い出を途切れ途切れに話した。

 元気そうなので「夕飯を食べるか」と聞くとうなづいた。急いで、有り合わせの材料で鳥雑炊を作った。
誤嚥しないようにトロトロに煮込んだ雑炊を少しずつ母の口に運んだ。食べた量はサカズキ一杯ほどだが、何も食べていないのでうれしかった。それから、飲み物を用意していると母は急変した。雑炊を気管へ入れたのではと心配したが、呼吸の出入りはある。
念のため、吸引チューブを気管まで入れて吸引した。いつもの透明な粘液だけで異物はない。しかし、ただごとではない。心音は乱れ終末期の様相だった。
このまま逝かせたら、食事をさせたことを生涯後悔する。ベットの角度を変え、励ましたり揺らしたりしたが呼吸は弱まる一方だった。急いでベットに乗り「声を出せ」と母の胸を押さえた。母は「あー」と声を出しながら息を吐き、そして吸った。
しかし、人工呼吸を止めるとすぐに呼吸は弱って行った。人工呼吸を続けて深夜一時過ぎ、母はやっと自発呼吸を始め、声をかけるとかすかにうなづくまでに安定した。

 2010年7月1日

 午前九時半、ヘルパーの小黒さんが来たので、一緒に母の洗髪をした。それから体の清拭をしてもらい、新しい寝間着に着替えさせた。しかし、母の意識は戻らなかった。

 午後一時、生協浮間生協浮間診療所から若い医師が来た。頼んでいた口鼻を覆う酸素マスクを装着すると、酸素飽和度が七十から一気に九十へ回復した。しかし、一昨日の血液検査の数値は更に心不全の悪化を示していた。昨日、母が元気だったのは気分が高揚していただけかもしれない。気分が良くてご飯を食べてみたが、身体は受け入れる能力がなく急変したのだろう。
「水分を入れると心肺が浮腫み、苦しくなりますので」
医師はそう言って点滴はしないで帰った。

 午後二時、母の付き添いをお隣の吉田さんに頼んで、買い物へ出た。母の好きな甘えびが新潟から入荷していたので買った。水すら飲みこめない母に甘エビを買う意味はなかったが、かすかに希望を持っていた。帰宅して、甘エビ半分を吉田さんにお裾分けした。お隣が帰ったあと、母のかたわらで甘エビを食べた。最近は介助に追われ立ったまま食べていたので、腰かけての食事は久しぶりだった。
「とても、美味しいよ」
話しかけると、母はかすかにうなづいた。

 午後六時、近くの公園から「夕焼け小焼け」の放送が聞こえた。タンがからむ音が途絶えず、何度も吸引したが、出るのは透明な粘液が少量だけだった。それは肺胞の中が粘液で泡立っていることを示していた。その状態では吸引はほとんど効果はなく、母を苦しませるだけだった。心音は乱れ弱々しい。いよいよ別れの時が来たかと覚悟すると、涙が畳にポタポタと落ちた。呼吸音に乱れがあっても、もう何もせずに静かに見守るだけにした。

「十分に頑張った。もう、ゆっくり休みな」
手をにぎり、髪をなでながら声をかけていると、母の呼吸が弱まった。やがて、苦しそうに喘いでいた肩が動きを止め、表情から苦痛が消えた。呼吸が止まってからすぐの六時三十分に心音も消えた。

タンを吸引し続ければ呼吸は低水準で維持されたかもしれない。しかし、母は回復する訳ではなく、いずれ死は訪れる。私は母の苦しみを長引かせずに看取ることだけに集中しようと決意していた。だから、最期は医師を呼ばなかった。

 診療所へ電話を入れた。電話に出た看護師に母が死んだと言えなかった。今まで、どんなに辛い時でも言葉を出せないことはなかったのに、どうしても言葉が出なかった。
「お亡くなりになりましたか」
絶句していると聞かれたので絞り出すように「はい」と答えた。

十五分ほどして、昼間の医師と看護師が駆けつけた。丁寧なお悔やみに受け答えするのがとても辛かった。六時五十五分、医師が死亡を確認した。明日、白菊会に献体するので、今夜中の死亡診断書作成を頼んだ。

 医師が帰ると哀しみが幾度も幾度もこみあげた。生涯、これ以上の哀しみは訪れない気がした。お隣の吉田さんに母の死を伝えてから、哀しみを振り払うように台所や部屋をかたづけ続けた。新橋の店で働いている姉には、店が終わるまで伝えないことが母との約束だった。

一時間ほどして、白百合の花束を持ってお隣が夫婦で訪ねて来た。
吉田さんの奥さんに手伝ってもらて母の清拭をして新しい寝間着に着替えさせた。
それから私が死に化粧をした。
「どう、七月一日に死んでみせたでしょう」
母は威張っているように見えた。飲み食いから排泄まで人手に頼る寝たっきりは七日間。危篤になってからも二日。やつれていないのが救いだった。これは伝統的な自然死だった。もし、病院に入れていたら、骨と皮になるまで生かせ続けただろう。

祖母は五月一日、父は六月一日、母は七月一日と命日は覚えやすくなった。大正二年八月二十四日生まれ、享年九十六歳と十ヶ月。波瀾万丈の生涯だった。

 総てが終わった頃に日医大の白菊会から派遣されて葬儀社社員が来た。丁重に母の周りにドライアイスを置き、明日の予定を説明して帰った。入れ替わりに、母が親しくしていた病院関係の洲崎さんが来た。彼女は毎日見舞いに訪ねて来て、辛い気持ちの支えになってくれた。

新橋の小料理店で働いている晃子姉には夜十時半に知らせた。十二時前に駆けつけた姉と二人だけの通夜をした。明日、お昼に母は日本医科大に献体する。

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            死去した後、浮腫みが取れた母は若く見えた。

 2010年7月2日。

 午前九時、献体に必要な火埋葬許可書を王子の北区区役所で発行してもらい、予定の十分前に帰宅した。

時間通り日医大解剖学の助教授二人と葬儀社の二人が来た。助教授たちに一時間ほど今後の説明を受けた後、母は十二時半に家を出た。

 晃子姉は見送りの人達に笑顔で愛想を振りまいていた。
「晃子のバカが、みんなにお愛想している」
車に積まれた母がそう言って笑っているような気がした。
付き添いは規則で禁止されている。涙で曇るファインダーを覗きながら、小さくなって行く車を撮り続けた。母の遺体は二年後に町屋葬祭場で荼毘に付される。それまでは遺髪を仏壇に祭っておき、その時、正式な葬儀をする。

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                     母は運ばれて行った。 

第九章 母の死の深い喪失感から 安らぎへ

 2010年7月5日

 今日も午後六時に、近くの公園から「夕焼け小焼け」の曲が聞こえた。
母が死んだ日、その曲とともに容態が急変し、三十分後に息を引き取った。以来、「夕焼け小焼け」が聞こえると、抑えようもなく哀しみが噴出する。

「お母さんには長生きしてもらいな。死なれると、いつまでも辛いぞ」
母を散歩に連れて行っているころ八十歳近い老人に言われた。今、その意味が心底理解できる。

買い物へは毎日出かけている。母の車椅子を押していた頃、赤羽駅高架下のペットショップには必ず寄っていた。今日はお休み中の子ネコや子イヌの可愛い寝顔を眺めながら、母の笑顔を思い出した。

 母の遺体は献体したので、遺骨が戻って来るのは二年後になる。今は遺髪を母愛用の備前の湯のみに入れ、母が縫った赤い絞りの袋に入れて仏壇に飾ってある。私は遺体に対してこだわりはない。それは母も同じで、世の役に立つのならと、自ら進んで30年前に献体に申し込んだ。しかし、検体先の解剖学教授が待ちくたびれる程に長生きしてしまった。

 七月六日

 絵の締め切りが近づいている。イメージは固まっているので描き始めるだけだ。しかし、出来上がった絵を喜んでくれる母がいないのが寂しい。
母が逝ってしまった時、外は真っ暗だったと思っていたが、今日、まだ明るかったと気づいた。今日も六時に「夕焼け小焼け」が流れ始めると哀しくなった。

散歩へは毎日出かけている。どのコースを通っても母のことを思い出す。最後に散歩に連れ出した六月二十一日、母は緑道公園でネコに会って、「ニャ、ニャ」と話しかけていた。その場所を通ると、母の声がよみがえり辛くなる。 

 母のことは何でも分かっていると思っていたが、それは過信だった。死が迫った頃、母は一度だけ涙を浮かべた。気丈な母でも、迫り来る死の恐怖で涙を浮か べて耐えていると勝手に思っていた。今、それは違うと気づいた。話しかける私の声に母は寂しさを感じ、惜別の涙を浮かべていたのだと思っている。

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 七月十日
 母には年金も、財産と言えるものも何もなかった。それでも、独り身で貧乏しながら介護し続ける私が母は不憫でならなかったようだ。
「あの世に行ったら、正喜を必ず幸せにしてあげる。いつも、見守っているから信じてね」
車椅子を押す私に、何度も話していた。
「それなら、死んだらすぐに宝くじを買うから、当たりにして」
私は現実的なことを母に頼んだ。
「宝くじなら当てられるかもしれない。幽霊になって抽選の矢をグイッとつかんで当ててあげる」
母はうれしそうに話していた。

 後かたづけに忙殺されている内に、初七日が過ぎた。イトーヨーカ堂へ行く途中、赤羽駅前の宝くじ売り場が目にとまり、スピードクジを千円分買った。係が十枚の束を二つに分け、選べと言うので上を選んだ。結果は五枚中、三百円一枚、百円二枚と大当たりだった。額の多少ではない。母が約束を果たしてくれたような気がして、とてもうれしかった。当たり券は換金はしないで、大切にしまっておいた。

 2010年7月13日

 今日はのどが痛い。昨夜、夜風が涼し過ぎて夏風邪を引いたようだ。誰にも母の死を知らせなかったが、噂で広まった。死後半月近く経つが、毎日、弔問客が訪れる。みんな親しい人ばかりなので、その場で香典返しをすることにした。生前母は、抹香臭くない粋な扇子をお返しに希望していた。扇子なら小さくて軽くじゃまにならない。風邪を押して銀座の老舗扇子屋へ出かけた。

最近、ふいに悲しくなるので、外出にハンカチは欠かせない。しかし、今日はハンカチもティッシュも忘れてしまった。銀座に着くとすぐデパートに寄って、一階の女性ハンカチ売り場でハート模様のタオルハンカチを買った。紳士用は四階で上るのが面倒だったからだ。

扇子は多めに買った。午後五時、和光前の交差点を渡っていると、突然呼び止められた。昔、世話になった出版社嘱託の弘田さんだ。
「お母さんはお元気」
いつもと同じ第一声だった。彼女も老親の介護をしているので気になるのだろう。母の死を伝えると彼女の顔はみるみる曇った。近くの喫茶店に入って経緯を話した。しかし、悲しみが押さえきれず言葉は何度も中断した。

いつも悲歎にくれているわけではない。大部分の時間はいつもと変わらず、冗談も言い仕事もこなしている。しかし、母のことを語り始めると絶句してしまう。女性を前に、ビンクのハート模様のハンカチで涙を拭っている姿は、オカマの愁嘆場みたいで恥ずかしかった。母からと言って扇子を渡し、逃げるように別れた。

有楽町駅へ向かっていると、雑踏の中から鐘の音が聞こえた。母が杖に下げていた鐘の音にとても似ていた。惹かれるように雑踏をかき分けて行くと、雲水が鐘を鳴らしながら読経していた。私は反射的にお金を僧の鉢へ入れた。雲水も先程の彼女も、出会いは母が導いてくれたような気がした。最近、不思議なことが次々と起こる。出かける時、いつも無人のエレベーターが待っている。それは、母が先回りして、ボタンを押してくれたのだと思っている。

Enkaku
自分用に使っている扇子。鎌倉で撮った。

 2010年7月15日

 散歩中、ホウセンカが咲いているのを見つけた。
「ホウセンカが咲いたら摘んでね」
死ぬ前、母が咲くのを待っていたことを思い出した。母は毎年、ホウセンカで小指の爪を染めるのを楽しみにしていた。花弁を明礬で練って爪に塗り、乾かないようにラップで包み一晩おくと、美しいオレンジ色に染まった。

韓国の風習が、ホウセンカと一緒に九州に伝わったものだ。母は祖父甚兵衛から染め方を教わり、毎年、小指の爪を染めていた。しかし、最後に散歩に出た六月二十一日にはホウセンカは咲いていなかった。路傍のホウセンカを見ながら、小指を染めて旅立たせてあげれば良かったと哀しくなった。

 時間は私の中で止まったままだ。それでも月日は容赦なく過ぎて行く。今日は夕暮れにカナカナが鳴いていた。母の介護について後悔ばかりしている。寝たっきりにならないように、母に厳しい要求をしたこと。疲れてゆとりを失い、優しく話しかけられなかったこと。思い出すと後悔で一杯になる。

 2010年7月19日

 三十年前に買った扇風機が、異常音をたてるようになった。古い扇風機からの発火事故は多い。即刻、使うのを止めて新しい扇風機を買いに出た。

赤羽駅高架下のビバホームで四十センチの大型を買った。六千九百円と格安だ。台座が鋳鉄製で重いので、折りたたみ式二輪キャリーを買って積んだ。人にぶつけないように、車椅子のように前に押して進んだ。何となく母の車椅子を押している感覚を思い出して懐かしくなった。

 御諏訪神社前で信号待ちをしていると、キャリーが邪魔だと、自転車の中年男が言い放って過ぎた。
「邪魔なのは歩道を行くお前だろう」
言いかけて止めた。母の生前はみな優しく、暴言を吐く者はいなかった。母を散歩へ連れ出せば、多くの人が話しかけねぎらってくれた。母の死で突然世間が冷たくなったように感じた。

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                東京北社会保険病院下の公園にて。

 2010年7月21日

 床屋さんは敬虔なクリスチャンだ。今日、頭を刈ってもらいに行くと、「神は人へ、乗り越えられない試練は与えない」と、聖書の言葉を教えてくれた。最近で一番心に響いた言葉だ。確かに、どんなに辛いことでも、努力すれば必ず救われる。努力しても救われないと思っている人は、救われていることに気づかないだけだ。

 母が死んでから、桐ヶ丘生協へ行かなくなった。行けば必ず母の知り合いに出会い、「お母さんは」と聞かれるからだ。今日は必要なものがあったので、客の少ない暑い午後に買い物へ行った。途中、緑道公園を通ると母が好きだった百日紅が満開だった。

 夕食にリンゴを食べた。生前、母に毎日、リンゴをおろして絞りジュースを飲ませていた。今は丸ごとかじっている。簡単になったことが、かえって寂しい。

 母の写真は百枚前後を一つのフォルダーに入れてハードディスクに保管してある。フォルダーはナンバー三十五で終わった。それがパソコン上での母の死だ。

 2010年8月8日

 昨夜は戸田の花火大会だった。その方向に高層マンションができてから眺望が半減し、この建物からの見物客は減った。花火見物はすぐに止め仕事へ戻った。遠い花火の音が、いつもより乾いて聞こえた。

十三年前に引っ越して来たころは玄関前通路に浴衣姿の見物客が大勢集まった。玄関を開けっ放しで宴会をやっている家も多く、前を通ると飲んで行けと誘われた。子供や若者も多く長屋の祭りみたいで和気あいあいと楽しかった。
「玄関前で焼き鳥屋を開けば儲かるね」
元気だった母が、冗談を言っていたのを懐かしく思い出した。

 午後の母の部屋は三十三度だった。この暑さでは、元気なころの母でも耐えられなかっただろう。だから、まだ涼しい七月一日に逝ってくれて良かったと思った。そのように、少しずつ母の死を受け入れている。

仏壇の花が枯れたので昼食後買い物へ出た。緑道公園で空を見上げると、雲間に澄み切った青空がのぞいていた。「秋は近いな」とか「風が涼しい」と、独り言をつぶやきながら歩いた。以前、老人が独り言をつぶやいているのを滑稽に思っていたが、その滑稽な老人に私は近づいているようだ。

 夕暮れ、旧友が弔問に来た。人と話す機会が減っているので来客はうれしかった。彼は去年末、見舞いに訪ねて、ベット脇わきで母としばらく話していた。その時の母のうれしそうな顔が今も眼裏に焼きついている。
「逝ってしまったね」
彼がポツリとつぶやいた。思わず涙が落ちそうになったので、「お茶を入れる」と、台所へ行った。

 十時半、彼を北赤羽駅まで見送った。
彼は道々、二年前に亡くした母親のことを話した。
「仕事で大きな成果を出すと母がとても喜んでくれて嬉しかった。でも、伝える相手が妻や子供だと母ほどの喜びがない。それがとても寂しい」
私は彼に自分もまったく同じだと答えた。別れた後、駅前のライフで豆腐とハムを買って帰った。

 2010年8月12日

 生協浮間診療所の若い医師と看護師が弔問に来た。もらった百合の花束を飾ると仏壇が華やかになった。母が寝ていた辺りから、「まーきれい」と声が聞こえたような気がした。

「私が一人で看取って、母に苦痛を与えたのではと悩んでいます」
帰り際、医師に聞いた。
「そんなことはありません。とても立派に看取られたと思っています」
彼女はそう言ってから、医師でも人の死に対しては十分なことはできない、となぐさめてくれた。

 2010年8月18日

 猛暑は続いているが、秋は確実に近づいている。先日、東京北社会保険病院の庭を抜けると母が大好きだったパンパスススキが穂を出していた。
今日は母の四十九日。知人に母の法要をお願いした。私と二人だけの法要は、午前十一時から始まった。朗々とした読経を聞いていると、母を思い出して万感迫った。死者は死後七日ごとに閻魔大王によって裁かれる。最後の四十九日目は殊に重要で、極楽浄土に行けるかどうか判定が下される。知人の心のこもった法要のおかげで、我が家に留まっていた母の魂が極楽真浄土へ旅立ったように感じた。その安堵感とともに、なぜか一抹の寂しさを覚えた。

 その後、二人で赤羽駅前に出て、ウナギの「まるます家」で生ビールを飲んだ。特上ウナギが千五百円。二人で食べて飲んで三千八百円と格安だった。カウンター席は、昼間から飲んでいる老人たちで一杯だった。母の介護を始める前は、買い物ついでに寄って飲んでいた。だから、八年ぶりで懐かしかった。赤羽駅で知人と別れてから、地鶏の胸肉と供物用のナシを買った。

 2010年8月20日

 忌が明けたので御諏訪神社にお詣りした。境内から階段を下りると、いつも車椅子を待たせていた場所で、「あの世から、ちょっと帰って来たの」と、母が笑顔で振り返ったような気がした。

 毎日、母の死と必ず迎える自分の死を複雑なパズルを解くように考えている。しかし、その仕組みは意外にシンプルな気がする。家族に囲まれての安らかな死。落盤や海難での絶望的な死。安アパートでの孤独な死。それらの死へ至る過程はまったく違うが、死の瞬間はどれも同じだと思っている。

 2010年8月22日

 やっと、止まっていた時間が動きはじめた。午後六時に流れる「夕焼け小焼け」から母が死んだ六時半までの哀しみは相変わらずだが、引きずることはなくなった。

 先日まで、医師の薦めに従わず母を病院に入れなかったのは誤りでは、と悩んでいた。今は、在宅で母を逝かせたことは正しかったと思っている。それは、母と死別して孤独の辛さを味わったからだ。けんか相手でもいて欲しいと願うのが本当の孤独だ。もし、入院させていたら母は孤独に耐えられず、必ず家に帰りたいと訴えたはずだ。

不十分な介護でも在宅なら母は最期まで孤独ではない。私は昼夜いつでも母のかたわらに駆けつけることができた。知人たちも毎日見舞いに来て、母のベット脇で過ごしてくれた。入院させなかったことで母の死期は早まったが、自宅で終える安らぎは病院では得られないものだ。

 朝から御諏訪神社の祭り囃子が聞こえた。去年の夏祭りは母の誕生日の八月二十四日だった。日記を読み返すと、その日は子供の頃の夏祭りの思い出を母と話しながら車椅子を押していた。

 私が育った大堂津には三島神社と秋葉神社の二つがあった。秋葉神社は無人だったが三島神社の方には宮司がいて、大きなムクロジュの木があった。ムクロジュの実の皮はサポニンを含みよく泡立つので、年寄りたちは石鹸代わりに使っていた。黒い種は羽子板の羽根の頭に使った。

夏祭りの間は社殿で氏子たちが神楽を舞った。古い面をかぶり、衣装をつけて単調な踊りを延々と続けた。子供たちはドラマチックな変化を期待していたのですぐに飽きた。

三島神社の裏山にはテニスコートほどの草原があった。草原では数年に一度、しめ縄を張って神楽が舞われた。母はその草原が好きで、よくゴザを持って昼寝に出かけていた。草原からは太平洋と七ツバエ(七つの岩礁)と大島が一望できた。山裾には鈍色の屋根瓦と、軒の低い町並みが広がっていた。

以前も書いたが、母がその草原が好きだったのは、当時、父が事業に失敗し、家に借金取りが押し掛けていたからだ。母は日中はそこで過ごしていたので、私は小学校から帰ると、お小遣いを貰いに草原まで駆け上っていた。

当地の借金取りに暗い記憶はない。親の借金と子供は別と考える土地柄で、厭な思いをしたことは一度もなかった。それは漁師町の特性かもしれない。漁師は浮き沈みが激しく、住民に明日は我が身の思いがあったからだろう。

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                     環八を行く神輿の列。

 2010年8月26日

 午後は母の遺品を整理した。アルバムを整理していて、二十代前半に大連で撮ったチャイナドレスの母の写真が見つけた。その写真に至るまでのできごとは、母の車椅子を押しながら断片的に聞いていた。

 母は子供の頃から身体が大きく、近所の男の子を引き連れて遊んでいた。墓場に行って、男の子に命じて墓石に小便をかけさせたり、夏は男の子たちと筑後川で泳いだりと、活発にのびのびと過ごしていた。

    

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                       二十歳の母。           

 二十歳前後のころ、母はたびたび上京していた。成人しても水泳好きは変わらず、東京の近郊のほとんどの海水浴場へ行った。都内ではお台場でよく泳いだ。昭和初期のお台場の海はきれいで、海水浴客のための渡し船が出ていた。

梅雨明け前の肌寒い雨の日に母はお台場で泳いだことがあった。その後、母は風邪をこじらせて肋膜炎を発症した。肋膜炎は結核の一種で当時は死病と言われていた。病名が知らされた日、これで自分の一生も終わりだと、泣けて泣けて仕方がなかったと、後年話していた。

 母は稲毛のサナトリウムで療養した。当時の治療は、十分な栄養をとり、オゾンの多い清浄な大気の中で過ごすだけだった。だから、冬でも病室の窓は開け放ってあった。体力があった母は10ヶ月の療養で生還した。
退院する日、同年代の女性患者が羨ましそうに見送っていたと母は話していた。おそらく、その人は亡くなっただろう。当時の結核患者たちの多くは母のように生還できなかった。

 その後、東京でのんびりしながら、横浜根岸で競馬があると出かけていた。幕末外国人居留地に作られた日本最古の競馬場で、英国風の社交場の雰囲気が残っていた。母はそこで若い中国領事館員と知りあった。

彼は中国の大財閥の息子で、仕事のため外交官身分で横浜に滞在していた。山の手の邸宅には料理人や使用人が大勢いて、何度も豪華な中華料理に招待された。
そのころ、母は彼から大きく立派な名刺を貰った。名刺裏には「この人に最大限の便宜を図るように」と墨書されていた。その名刺を見せれば、中国のどこでも生活は保証されると彼は話していた。

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                   東京でのモガ時代の母。

 間もなく、母は祖母千代に久留米へ呼びもどされた。帰ってみると、祖母は次々と人の保証人になって、今の金で三億ほどの債務を負わされていた。母は奔走して債務の一割の金を作り、債務者全員を一室に集めた。
「一割の金で承服していただきたい。もし、承服できなければ今後一円も払いません」
母はみんなの前で言い渡して債務を帳消しにさせてしまった。

債権者には高利貸しもいて、若い娘の無茶な要求をやすやすと承服するはずがない。それでも承服したのには裏があった。養父健太郎は早世したが、母と祖母は九州各地の侠客たちと交友を続けていた。債権者たちはそのつながりを恐れて、泣く泣く承服したのだと私は思っている。

 債務は解決したが、人の借金を引き受けてばかりいる祖母がつくづく嫌になっていた。ある日母は「銭湯へ行く」と言って家を出た。母は広い風呂が大好きだった。それは幼時期に遊郭で大きな風呂へ入った体験が影響しているのかもしれない。
私が小学生の頃、母は列車に乗って隣町油津の銭湯へよく連れて行ってくれた。今の赤羽に引っ越してからも、元気な頃は近所の銭湯へよく行っていた。

遅くなっても帰宅しない母を、祖母は足を伸ばして二日市温泉にでも行っているのだろうと、少しも心配しなかった。
その頃、母は洗面器にタオルだけで門司港から大陸行きの連絡船に乗っていた。玄界灘の寒風に吹かれて冷静になると、まだ洗面器を抱えている自分が可笑しくなった。母はセルドイドの洗面器を厳冬の玄界灘に投げ捨てた。

母は上海へ行きたかったが手持ちの金が足りず大連で下船した。大連港は氷結していて、船は何度も接岸を試みてやっと下船できた。その時、やっと大陸へ来たと、感動が沸々と沸き上がったと、後年、母は楽しそうに話していた。

母はいつも名刺を大切に持ち歩き、いつか満州へ行きたいと思っていた。銭湯へ行くと家を出た時、母は迷っていたが、その名刺が家出を決意させたようだ。
泊まった和式の旅館はガラス窓も障子も二重になっていて暖房がよく効いていた。落ち着いてから宿の中国人従業員に横浜でもらった名刺を見せると、財閥の支社に案内された。

名刺の威力は絶大で、すぐに住まいと仕事を世話してもらえた。最初の仕事は高級クラブの奥の席に座って客と雑談するだけで高給がもらえた。財閥の御曹司の後ろ盾のおかげで、母は上海でも満州でも、自由で豊かな生活が保障されていた。落ち着いてから祖母千代に大連にいると伝えたが心配はしていなかった。祖母は母の自由奔放な性格をよく心得ていた。

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                     満州で撮った写真

 母は大連、上海から満州のハルピンまで、日本にはない自由を楽しんだ。子供の頃、白系露人の少女の美しさや、合唱の素晴らしさを、母から何度も聞かされた。母の 好物のロシアケーキやボルシチはそのころに覚えた味だ。母は日本の狭苦しさから解放されていたが、同時に、日本人の横暴さにも嫌悪を感じていた。

帰国を決 定的にしたのは、日本人商社員たちとの夜のドライブだった。当時の夜道には中国人ホームレスが沢山寝ていた。彼らは面白がってハンドルを切っては彼らの足 を弾いた。
「どうして、そんなひどいことをするの」
母は怒ったが、彼らは平然としていた。母はすぐに帰国を決意して荷物をまとめ、数日後には満州から朝鮮半島経由で帰った。母は他にも酷い行状を見聞きしていたようだが、同じ日本人として恥ずかしいと、ドライブのこと以外は話さなかった。

  母は上海で買った宝石類を持っていた。列車が鴨緑江を渡る時、鉄橋の日満国境で列車は停止し税関検査があった。当時、朝鮮半島は日本の一部で、満州国は独 立国家だった。日本が満州国を独立国だと主張していた手前、形式的に税関審査はされていたようだ。母は宝石類の処置が心配になり、向かいの席の紳士に相談 すると、心良く預かってくれた。やって来た税関官吏は彼に直立不動で敬礼して去って行った。後で聞くと彼は満州国の高官だった。

 京城で祖母への土産に真鶴の味噌漬けを買った。今では天然記念物だが、当時は普通の野鳥だった。祖母千代は長生きできると喜んで食べた。帰国した頃から大陸での戦火は急拡大し、日本は戦争の泥沼に落ち込んで行った。

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               若い母のイメージでレトロな雰囲気を描いた。

 2010年8月31日

 昨夜、舌の先の皮がむけ赤くなっているのに気づいた。下前歯の角が当たっているのが原因のようだ。放っておくと舌ガンに変異するので、悩まず上野 歯科医院へ行った。予約なしだったが、運良く空きがあり、待ち時間なしで歯の角を丸くしてもらえた。昔、私のガンノイローゼは有名でアエラから取材を受 け、ガン特集で掲載されたことがあったくらいだ。しかし、母と死別してから病を恐れなくなり、処置への行動も迅速になった。

 歯科医院は赤羽自然観察公園の近くにある。治療の後、母が死んでから始めて公園に寄った。しかし、さらに野趣が失われていて、懐かしさはなかっ た。すぐに帰ろうと裏門へ急いでいると、田圃の係だった松下さんと会った。彼と私は同じ床屋さん使っていたので、母の死を伝え聞いていた。丁重にお悔やみ を言われると、胸が詰まって言葉が出ない。挨拶をプリントした死亡報告をいつもバックに入れていたので、それを渡し、何度も頭を下げて別れた。

 2010年9月3日

 誰とも話さない日が増えた。狭い住まいなのに使わない部屋ができた。生前、母が元気なころは、その部屋の椅子に腰かけテレビを見ながら手芸を楽し んでいた。テレビの上には五十号の私の絵が掛かっている。母は疲れると、絵の世界に入り想像して楽しんでいた。絵の題名は「夏の終わりに」絵描きに転身し た四十三歳に賞を取った作品で、買い取りの打診も多く、絵描きへ転身の自信を深めた作品だ。以来二十二年、母は毎日この絵を見て過ごしていた。

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 久しぶりに母の椅子に腰かけた。絵の右壁に六月からめくられていないカレンダーを見つけた。母のカレンダーは総て処分したつもりだったが、見落としていたようだ。すぐに八月までめくっておいた。

 2010年9月4日

 気温は三十七度まで上昇したが湿度が低く過ごしやすかった。散歩は夕暮れに出かけた。外出に音楽プレイヤーを欠かさなくなった。母の車椅子を押し ている頃は安全を考え、音楽は聞かなかった。耳栓型イアホーンなので外の音はほとんど聞こえない。夕暮れの緑道公園でイアホーンを外すと、ツクツクホーシ が降るように鳴いていた。

子供のころ、遠くへ遊びに行っての帰り道、夕日に照らされた山からツクツクホーシの声を聞くと心細くなった。息せき切って駆けて帰ると、「どこまで遊びに行っていたの」と、母が優しく迎えてくれた。その安堵感や暖かい夕餉を懐かしく思い出した。

 2010年9月8日

 涼風で目覚めた。玄関前通路の手摺に雨が打ちつけている。室温は二十八度と涼しかった。今も、介護中のクセが抜けず、二時間おきに目覚める。今日 は日中もウトウトと眠っていて、総計すると十時間は眠った。開け放った窓から雨音が聞こえ、涼風が吹き抜けた。毎日、生きている充実感を取り戻そうと懸命 になっている。

 2010年9月17日

 新しくジーパンを買った。二十年は保つので、はきつぶす前に私の寿命は終わりそうだ。
母は多くの衣服を残して逝った。昔なら無駄にせずに、誰かが使い回してくれたが、今はそうはいかず、ほとんどは捨ててしまった。

 午前中、近所のおばあさんが弔問に来た。母より一回り下の八十七歳。
「良い人は若死にしますね」
彼女はさめざめと泣いた。彼女より年上の母が若死にとは変だと思いながら、神妙にうなづいていた。この話しを母にしたら、楽しそうに笑っただろう。

 最近、年齢の近い絵描き仲間が次々と逝く。話し相手が減るのは寂しいので、努めて若い友達を作るようにしている。それでも、年と共に話し相手は確実に減って行きそうだ。ものが減るのは快適だが、友人知人が減るのは寂しい。

 2010年9月19日

 深夜、背中が痒くなったが孫の手が見つからなかった。母の部屋まで行って探したが見つからない。生前、母は背中が痒くなると、深夜でも私を呼んで痒み止めを塗らせていた。
私は年取っても自分で工夫するほかないと嘆くと、「その時は、わたしが化けて出て、背中を掻いてあげる」と、母が気楽なことを言っていたことを思い出した。

「約束したのに、出てくれないね」
私は暗い部屋で仏壇に話しかけた。それから仕事部屋に戻ると、孫の手は仕事机の前に落ちていた。何度も探して見つからなかった場所なので不思議な気がした。もしかすると、母がそこに置いてくれたのかもしれない。

 2010年9月20日

 画家の遺作展に鎌倉の大船を訪ねた。画家は私より少し上の六十八歳。まだ活躍できる歳なのに肝臓ガンで八月に逝ってしまった。湘南は七年ぶりだ。早く着いたので、会場のある大船は通り過ぎて北鎌倉で下車して円覚寺を訪ねた。

北 鎌倉駅裏の円覚寺は、休日にもかかわらず静かだった。本堂にお詣りを済ませた後、木陰の茶席で休んだ。客は私一人で、点ててもらったお茶が美味しかった。 抹茶が大好きだった母を連れて来たら喜んだだろう。涼風がサラサラと木の葉を揺らすのをぼんやりと見上げていると、止まっていた時間がゆっくり流れ始める のを感じた。

 お茶を済ませ蝉の声を聞いていると、点ててくれた女性が話しかけた。最近亡くなった知人の法要に来たと話すと、気の毒そうな顔をした。その憂いを 帯びた表情に、ほのかな色気を感じた。今年は訃報が多く、死についてばかり考えていた。ふと、生きていることを享受しなければと思った。

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 大船へ引き返し、知人と合流して画家の遺作展を拝見した。遺作はすばらしく、多くの可能性を残して逝かなければならなかった作家の無念さが伝わっ た。残されたご主人と故人の思い出を話した。彼は私より十歳年上。故人は世話好きだったので、彼は家事はまったくできない人だった。そんな彼が一人で老後 を過ごすのは大変に思えた。

 2010年9月30日

 母が元気なころは、銀座や浅草に外出すると、必ずお土産を買って帰った。帰宅すると「楽しかった」と、ベットから母が聞いた。土産を見せると子供のように喜んでくれた。しかし、母のいない住まいに帰宅しても以前のような安らぎがなくなった。
死別以来、人生に旅を重ねるようになった。様々な人と出会っては別れ、最期に総てに別れを告げ、生まれたままの無に帰る。

 2010年10月2日

 桐ヶ丘生協からの買物帰り、とぼとぼと歩いているおばあさんに会った。追い抜いて振り返ると知っている人だった。声をかけると、「どなた様でしたか」と彼女は聞いた。
「母の車椅子を押していた私ですよ」
説明したが思い出せない。今年の春に母と会った時、
「しばらくお会いしなかったので、どうされているのか心配していました」
彼 女は母の手を取ってさめざめと泣いていた。それから半年足らずなのに、何も覚えていない。

彼女は八十五歳のご主人と二人暮らしだ。子供は遠くに住んでい て、ほとんど出入りしていない。老夫婦の先行きを思うと気持ちが沈んだ。母の死は伝えず、「お体を大切に」と、ねぎらって別れた。

 その後、赤羽台団地商店街の昔馴染みの文房具店に寄った。団地は老人ばかりになって、商店街はシャッター通りになった。一人ぽつんと座っていた女 店主に声をかけると笑顔になった。手に取ったメモ帳は必要なかったが買った。支払いを済ませた後、七月一日に母が死んだと伝えた。

母の死を聞くと、彼女の 顔は曇り涙声になった。私たちは四十年前に彼女が嫁に来た頃からの知り合いだ。それから生まれた子供たちは成人し、今は小学生の孫がいる。死の二ヶ月前に 会った時、母と彼女は懐かしそうに昔話をしていた。昔の団地は子供が多く活気があった。そして、私たちもとても元気だった。その後の変遷を振り返ると夢の ようだ。

 2010年10月5日

 毎日、東京北社会保険病院の庭で椎の実を拾っている。この数日は数分で両手一杯に拾えるほど落ちている。椎の実は煎ると香ばしくてほの甘く、食べ 始めると止まらない。母も、数粒なら喜んで食べていた。椎の実を拾い終えて腰を伸ばすと、風に揺れる梢の音が母が話しかけているよう に聞こえた。

 昨夜、死んだ母と裕子姉の夢を見た。
「やっと着いた、着いた」
母は陽気に姉と喋りながら帰って来た。母の持ち物をぜんぶ処分していたので、私は慌てた。
「正喜が使いやすいようにしたら良いの」
言い訳する私を母は笑っていた。夢はそこで終わって目覚めた。深夜二時近くで外は真っ暗だった。哀しくはないのに涙がいつまでも流れ落ちて止まらなかった。母の夢を見たのは、私の体調がすぐれないからかもしれない。

 2010年11月13日

 昨夜の雨で濡れた紅葉が一段と鮮やかになった。毎日、枯れ葉の積もった道を選んで散歩している。知人たちの作品展のオープニングが続く。連日、介 護生活中の不義理を埋めるように銀座へ出かけている。飲むとサービスしてしまう性格で、バカ騒ぎしては自己嫌悪におちいってしまう。飲んでしゃべっている 私はふだんと落差が大きいらしい。だから、飲んだら人前ではしゃべるなと友人たちに釘をさされている。

 2010年11月21日

 十五日、右左両側の鼠径ヘルニアの手術を一度にした。一週間過ぎて、痛みは残っているが普通に歩き回っている。術後、なぜかワインが美味くなった。鼠径管を塞いだポリプロピレンのメッシュの影響でもないだろうが、人の生理は変なものだ。

 先日、晃子姉が来た。
「早いね、死んでから五ヶ月も過ぎた」
姉は少しなげいてから、そそくさと帰って行った。母が元気な頃、姉 は何か良いことがあると訪ねて来て、自慢話をして帰っていた。二人が楽しそうに話していた声が今も耳に残っている。

姉は何も言わないが、話しを聞いてくれ る相手がいなくなり、張り合いがなくなったようだ。心から耳を傾けてくれる親は他では替えられない。私も、絵を見せる相手がいなくなって張り合いがなく なった。

 いつも寂しさがあるせいか、ささやかな幸せに敏感になった。仲の良い家族連れや、楽しそうに遊んでいる子供たち。そのような何気ない光景を眺めるだけで胸が一杯になる。

散歩に行こうとエレベーターホールへ行くと、ボタンを押していないのに無人のエレベーターが下りて来て止まった。
「雲までエレベーターで昇れたら楽しいでしょうね」
生前、母がよく話していた。もしかすると、雲の上から母がエレベーターで下りて来たのかもしれない、と思った。

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                   東京北社会保険病院の庭。

 2010年11月30日

 母が死んで直ぐのころの喪失感は、暴風にさらされているようだった。今は、しんしんと深まる厳冬の冷気のようだ。すぐに終わる苦しみはどんなに激しくても耐えられるが、いつ終わるとも分からない辛さは耐えがたい。

先 日、両側の鼠径ヘルニア手術を受けた時、左側の脊椎麻酔が弱くてメスの痛みを感じた。しかし、若い執刀医の集中をじゃましないように、だまって激痛に耐え た。それができたのは、すぐに終わると分かっていたからだ。

しかし、その後の首の寝違いは耐えがたかった。一日中、痛みが続き、吐き気を覚えるほどだっ た。それはいつ終わるとも分からない終末期の苦しみに似ていた。すぐに終わる死の苦しみは手術の痛みのようなものだ。だから、死の苦しみは耐えられると 思っている。

 買い物帰り、東京北社会保険病院庭のベンチで休んだ。飛行船が上空を過ぎて行くのを、ぼんやりと見上げていた。そんなことが自由にできるは、母の介護が終わったからだ。

 2010年12月30日

 正月を迎えるために、台所と神棚と仏壇の大掃除をした。ゴキブリたちが気持ち良く食事をしてくれるように「ゴキブリレストラン」のホコリもきれ いに拭いた。

父は博多、母は久留米の出身なので、おせち料理にガメ煮は欠かさなかった。ガメ煮とは、鶏肉、ゴボウ、人参、蓮、クワイ、里芋、コンニャクな どを煮込んだものだ。クワイの皮むきは母の仕事で、去年の暮れ、テーブルで皮むきをしていた後ろ姿を思い出した。一人なのでガメ煮作りは止めた。

それでも 屠蘇を漬け、雑煮の材料に、数の子、黒豆などをそろえた。博多の雑煮はブリ、エビ、伊達巻き、青菜、椎茸と具沢山だ。料理を減らしたが、今日一日、買い物 に駆け回っていた。

 今年ほど喪失感について考えたことはない。かっての大家族では老人を頂点にしたピラミット型に子供、孫と裾野が広がっていた。頂点の老人が死ね ば、順繰りに下位の家族が出世するように入れ替わった。そのシステムのおかげて年を取るほど尊敬を受け、喪失感は軽かった。

失ったものの代わりがあれば辛 さは薄められる。しかし、見つからないと長く引きずる。老いが受け入れやすいのは徐々に進行するからだろう。対して、突然の大切な人との死別や、事故によ る運動能力の喪失、末期がんの宣告、いずれも深い喪失感をもたらす。

去年から今年にかけて私は収入が途絶え、家賃を滞納し、母を抱えたままホームレスになると本気で恐れていた。しかし、知人たちの尽力で奇跡的に危機を回避し、今も生活を続けている。そのように金が原因なら新たな収入で、失恋なら新しい恋人ですぐに解決する。

 午後、買い物へ出る時、エレベーターでマサキ君兄弟とお母さんの三人連れと一緒になった。マサキ君は私と同じ名なので、赤ちゃんのころからよく知っている。
「よおっ、いい車だね」
マサキ君の補助輪付きの自転車をほめた。
「車じゃないよ。自転車だからエンジンはないんだ。でも、ビューンと走るよ」
マサキ君は無邪気に説明した。子供たちの笑顔はとても可愛い。久しぶりにほのぼのとした。

 2011年1月13日

 散歩に音楽プレーヤーを持って出るのを忘れた。音楽がないと、回りの物音が良く聞こえた。風の音、小鳥の声、日溜まりで子供をあやす母親の唄声、 どれも優しく心に染み入った。

見上げればいつも青空は見えたのに、長い間、その美しさを忘れていたようだ。母と死別してから半年。ようやく、明るい現実へ 一歩踏み出せたようだ。

母の記憶も変化して来た。去年までは死ぬ前の弱った母の姿ばかり思い出していた。今は元気な頃の姿が目に浮かび、懐かしい気持ちで一杯になる。

 2011年1月16日

 六十六回目の誕生日だった。今年は私とパソコンだけが覚えていた。朝、ニフティからメッセージが届いたが、自動送信なので、さほど嬉しくなかった。

「尾頭付きを用意しなくてはね」
母が生きていれば、必ずそう言っていた。しかし、料理するのは私なので、いつもメザシやチリメンジャコの尾頭付きを食べていた。そんな私を母は楽しそうに眺めていた。今日も、郷里大堂津から送って来たメザシを焼いて祝った。私はタイより、メザシの方が好きだ。

 先日、東京北社会保険病院でコレステロールと動脈硬化の検査受けた。父の家系は脳梗塞が多いので、何としても避けたい。結果を聞きに病院へ急いで いると、道路の向こう側を顔見知りのコーギーが散歩していた。
見つかると厄介なので、隠れて行き過ぎようとしたら、「こっちにいるよ」と吠えられてし まった。仕方がない、道を横切って可愛がっていたら遅刻してしまった。診察結果は動脈硬化はなかったが、総ステロール値は三百と、とんでもなく高かった。

 病院帰りに、知らないトイプードルと目が合った。ワンコは立ち上がって尻尾を振り、おいでおいでをしていた。飼い主はきれいな人なので、よしよしと相手をしてあげた。
「この子はとても臆病で、知らない人は怖がるんです」
飼い主は目を細めていた。
「私のことをワンコだと思っているだけですよ」
謙 遜したが、どうして好かれるのか不思議だ。母と死別してから、イヌやネコに好かれるようになった。今日は東京北社会保険病院の庭で、警戒心の強いツグミが 近づいて来た。動物たちだけでなく、年寄りや子供たちからもよく声をかけられる。
今日も買い物先で、「寒いですね。」と、知らない年寄りから親し気に声を かけられた。昔、子供や動物たちには死んだ人の魂が見えると聞いたことがある。もしかすると、私のかたわらいつも母がいて、動物や子供たちを呼び寄せてい るのかもしれない。

 2011年1月18日

 寒さの所為でケフィアヨーグルトの発酵が遅くなった。母がいないので暖房を抑えているせいだ。ヨーグルトは食べ終えたら一割の種に新しい牛乳を加える。夕食にヨーグルトを食べ、新しく仕込もうと思ったら牛乳がない。慌てて、川向こうのライフへ買いに行った。

帰り道、満月を見上げながら新河岸川河畔をのんびり歩いた。遊歩道には街灯がなく、地面に私の影が映っていた。ふいに、子供の頃、満月の夜に影踏みをして遊んだことを懐かしく思い出した。

 昭和二十九年ころ、郷里大堂津隣の港町目井津で、短い期間、父は小さな映画館を経営していた。当時は映画全盛期で、父は一発当てようと畑違いの仕 事を引き受けたのだろう。母は毎日出かけて切符売りを手伝っていた。時折、私たちは映画を見に訪ね、

帰りは母と一緒に大堂津まで歩いて帰った。子供心に深 夜だと思っていたが、九時くらいだったと思う。その時間は汽車もバスも終わって、一里程の海岸沿いの夜道を母たちと歩いた。父の姿がなかつたのは自転車で 先に帰っていたからだ。

満月の夜は母とすぐ上の姉と影踏みをしながら歩いた。月に照らされた白く光る道を、母たちと遊びながら帰ったことを夢のように思い出す。映画好きの母は毎日楽しそうに手伝っていた。殊に大入りの帰りは、十円玉で膨らんだ袋を「重い重い。」とうれしそうに下げて歩いていた。映画狂の母は映画館の仕事は楽しかったようだ。

 父は大阪まで新作を借り入れに行き、日本で二番目のカラー作品「夏子の冒険」を南九州で最初に上映した。父は晩年までそのことを自慢していた。宮 崎の少女歌劇団や、三つの歌や、東京の奇術師や、父は手当り次第に興業を打ったが、どれも入りははかばかしくなかつた。結局経営は行き詰まりすぐに経営か ら手を引いてしまった。

しかし、私には楽しい記憶が残った。映写技師からもらったカーボンや映画フイルムの切れ端を友達に自慢して羨望を集めた。 カーボンとは銅の被覆で覆われた黒鉛の丸棒で、鉛筆のように落書きに使えた。当時の映写機はカーボン先端をショートさせたアーク光を光源にしていた。アー ク光は高熱を発し、たびたびセルドイドのフイルムは焼き切れた。フイルムが切れると「早くしろ」と館内は大騒ぎで、映写技師は汗をかきかきハサミでフイ ルムの画像を削り取り接着剤で繋いでいた。 

 2011年2月3日

 私は無宗教だが、先に逝った父母や兄姉の魂は信じられる。それは母も同じで、死んだら溺愛してくれた祖父甚兵衛に会えると楽しみにしていた。母は呼吸困難に苦しんでいても、心の中では先に逝った死者たちに囲まれ、楽しかったのかもしれない。

魂は現実にはないものだが、ひたすら信じれば心の中で共に生きてくれる。医学が死に対して無力である以上、神や魂を信じるのはきわめて合理的なことだ。

 死別から八ヶ月過ぎた。八年間の母の介護に対して、今は次のように思っている。母を在宅で看取った直後、失うばかりで、これほど報われない行為はないと思っ ていた。今は介護をしたことが無駄ではないと思っている。最大の収穫は、誰にでも訪れる老いや病や死を恐れなくなったことだ。

 母の介護については不十分なことが数多くあり、そのことを悩んでいた。しかし、今は違う。先にも書いたが、本当の孤独を知ったからだ。孤独とは、た とえ喧嘩相手でも傍にいて欲しいと願う程の辛さだ。まして、私は母の子供だ。介護が不十分で腹立たしいことがあったとしても、私が最期まで傍らにいたことに、大きな救いを感じていたはずだ。

母の死の1ヶ月ほど前、私が疲れて自室で寝ていた時のことだ。母が不自由な体で私の部屋までやって来た。
「どこか悪いんじゃないの。あまり静かなんで、心配になって・・・」
部屋の入り口に、やっと立っている母が言った。
「ちょっ と昼寝していただけだから、心配いらないよ」と、母をベットまで連れて行った。母は孤独に弱い。人の何倍も苦労はしたが、本当の一人暮らしは経験してい ない。いつも傍らか、直ぐ近くに家族がいた。
そのような母が、もし、病院の危篤患者用の病室にいたとしたら、私は24時間母に付き添う訳にはいかず、母は 最期の大切な時間を地獄のような孤独の中で過ごすことになった。しかも、現代医学なら命を2,3ヶ月延ばすことは容易だ。おそらく、骨と皮になるまで苦し みながら生き続けただろう。しかし、私は母の死の瞬間まで手を握り、頭を撫で続けた。そして、母はやつれることなく、ふくよかな顔で逝くことができた。

 2011年6月27日

 生協で買い物をすると、入り口脇にゴールデンが繋がれていた。飼い主は買い物中で寂しそうだ。声をかけると情けない顔で私を見た。以前は、そのような出来事を母に話すと、とても喜んでいた。今、そのような平凡な日々がとても懐かしい。

テレビで3月11日の3時以前に戻りたいと三陸の被災者が話していた。
今日も公園で頸椎損傷の後遺症のため必死にリハビリをしている熟年男性に会った。彼もまた、頸椎損傷する前の健康な自分を思い出しては否定する毎日なのだろう。

そして今の私は、喪失感に加え体の節々が痛み悲鳴をあげている。平凡でも平和な生活のすばらしさを嫌と言うほど思い知らされている。

  命日の7月1日が近づくにつれ、母のことを思い出す。今日も、買い物帰りの13階への長い階段を上りながら母の死を考えた。上りきった13階の明るい空を 見上げた時、死の直前、母が遠い視線をしていた意味が分かった。母は息絶え絶えの苦しい時間を過ごした末に、明るい空が見えて安堵したのだろう。だから母 は、空を見上げるような遠い視線をしたのだと思う。生きているとは終わりのない階段を上り続けることだ。死は、疲れはててもう一歩も上れないと立ち止まった時に訪れる。だから、階段を上る苦しみの中に生きていることを実感している。

 2011年7月5日

 上野歯科医院に、3ヶ月に一度の歯石クリーニングに行った。たまたま昨夜、奥歯に詰めていた紫外線硬化樹脂が外れたので、ついでに治してもらった。治療は手早く、樹脂を詰めて擦り合わせもすぐに終わった。歯肉も歯も健康を保ち気分がいい。

歯科医院からの帰り道、母が生きている頃は、「治療が終わったからすぐに帰る」と家に電話を入れていた。それを思い出して、何となく家に電話を入れてみた。誰もいない家で呼び出し音が鳴り続けるのを聞いて、「だれも出る訳がないのに・・・」と、つぶやいて切った。

  最近、母のクセが自分に移っていることに気づいた。母は料理に被せるラップを一度で捨てられず、何度か使い回していた。「安いものだから、捨てなよ」と 言っても、もったいないからと聞いてくれなかった。しかし今、私が同じことをしている。もったいないからではなく、そうすることで、母が私の中に生き続けているような気がするからだ。母もそんな気持ちで使い回していたのかもしれない。

 2011年8月28日

 去年の夏は1度しか赤羽自然観察公園に行かなかった。行くと母の記憶が蘇り辛かったからだ。しかし、今年の夏は3日に1度は行っている。
公園に行くと管理棟前の椎の木陰で休む。母を車椅子散歩に連れて来ていた夏、私はいつも木陰の四角い石に腰かけて休んだ。その場所は、いつも涼風が吹き抜けて心地良かった。

私はその石を母の墓石だと思っている。とは言っても、拝んだりはしない。
今日もいつものように石に腰かけて休んだ。
「疲れたでしょう。ゆっくり、休みなさい」
休んでいると、と母の声が聞こえたような気がした。
車椅子を押して炎天下を行く私を、母はいつも気遣っていた。最近、終末期の母の笑顔をよく思い出す。あれは死を覚悟して潔くなれたから笑顔が多かったのだと思っている。
もうすぐ夏休みが終わる。近くのテーブルに水鉄砲を置いて、子供たちが駆け回っていた。

 2011年9月3日

 母が死んでから、独り言をつぶやくようになった。回りを見渡して誰もいないことを確認してからつぶやく。そ うしないと、変な人に思われてしまう。先日、散歩しながら「あー、嫌だね」と昔の失敗を思い出してつぶやいたら、直ぐ横を歩いていた若い女性がビック リして見た。彼女に言ったのではないと、再度、自分の頭を叩きながら「嫌だ嫌だ」と繰り返すと彼女は安堵していた。

家で絵を描いているの で人と会うことは少ない。おまけに一人暮らしなので、その気にならないと本当に人と話す機会がない。定期的に友人に電話をするが、相手によっては長電話になるので、毎日は無理だ。一番良いのは散歩コースで出会う顔馴染みたちとの数分の立ち話しだ。しかし、毎日都合良く知人に会うわけではなく、勢い独り言が 増える。

最近、つぶやくのは次のようなことだ。
「色々苦労したけど、悪い一生じゃなかったな」
そして、「かあちゃんも、悪い一生じゃなかったね」と続ける。
私は母を「かあちゃん」と呼んでいた。高校生になった頃、それを恥ずかしいと思い「かあさん」と呼んだことがある。すると「バカ、何言ってるの」と母に一蹴され、二度と使わなかった。

可愛いペットに会ったり、旧知の人の近況を聞いた時など、心の中の母に語りかけている。当然だが母の返事は聞こえず、少し寂しくなる。
先日、そのことを知人の未亡人に話した。
「私の場合は、話しかけると、彼があの世から返事してくれる」
彼女はそう話していたが、その境地に私は達しそうにない。

 2011年9月8日

  朝食後、少し眠った。夜、十分に眠れず、5時間ほどで目覚めるので、眠くなったら少しだけ昼寝をすることにしている。眠ったのは30分ほどで、久しぶりに 母の夢を見た。私は車椅子の母と喫茶店でコーヒーを飲んでいた。それから帰途につくと、突然、石ころだらけの海辺の道に変わり、車椅子を押せなくなった。 それから先はどうしても思い出せない。

ほの暗い眠りの中で、私を呼ぶ母の声が聞こえて飛び起きた。すぐに、「また、幻聴か」と、つぶやきながら虚しさがこみ上げた。しかし、母の声がとても明るかったことに救われた。

ふ いに、長年介護していた父親を亡くし、喪失感に苦しんでいた知人を思い出した。彼女が父親と死別から4年過ぎた頃、父親の夢を見たと手紙が来た。それには 夢の中で父親と話したとあり、目覚めた後、喪失感が薄れていたと書かれていた。どんな会話なのかの説明はなかったが、今、彼女の気持ちが何となく分かっ た。

 2011年10月2日

「1日が終わるのが早くて、嫌になっちゃう」
母が元気な頃、夕暮れになるとそう言っていた。
そして、97才と長命だった最期も
「一生が終わるのが早くて、嫌になっちゃう」
と、思いながら逝ってしまったのだろう。

 97歳で死んだ母ですら、一生は瞬時で終わった。自分の一生を確認するには、日記のページをめくるにように時間を遡る他ない。

総ての過去は今の一 瞬に集約されている。だから、私が死ぬ時、記憶にある総ての人は、60年前に死んだ父方の祖母も、36年前に死んだ母方の祖母も、30年前の父も、去年死 んだ母も、共に死ぬことになる。幸せな時間も辛い時間も一瞬で過ぎ去る。だから、思い出はとても大切なものだ。

八年間で私が母の車椅子を押した距離は二万 キロを越えていた。その記憶は、私のかけがえのない大切な思い出になった。
そして、もう一つ大切なものは母の残した言葉だ。
「私は世界一幸せだった」
死が近づいた頃、母はよくそう言っていた。何と大仰なと思ったが、今はその言葉が救いになっている。母は、残された私が後悔しないようにそう言ってくれたのだと思っている。

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そして、最期の吐息と心音を記憶できたのも、母の心遣いだと思っている。

2012年11月10日

日医大講堂での献体の白菊会合同返骨式に姉と出席した。
母を献体した日、来訪された解剖学の助教授に母の両膝のチタン合金製人工関節を貰えないかと話した。そのことは主任教授にも伝わっていて、保管瓶に入れたチタン製の関節を会場で手渡された。教授の誠実さがとても嬉しかった。

左右の人工関節はそれぞれ標本を入れる密封瓶の防腐剤水溶液に入れてある。関節は乾燥させ、母の組織が付着した接続面に樹脂を含浸させた上で石膏で固めてオブジェを作る予定だ。
空になった瓶は果実酒を漬けるのに最適だから、姉にやると言うと「いらない」と拒否された。

帰りは姉と千代田線千駄木駅まで歩いた。
道々、姉は母の墓をどうするのかと聞いた。私は墓などどうでも良いと思っているが姉にはそれは出来ない。それで、樹木葬について話すとすぐに賛同した。
姉とは京浜東北線西日暮里駅で別れた。

赤羽駅からは母の車椅子散歩の道を辿った。母が親しくしていた床屋さんを覗くと主人は散髪中だった。ガラス越しに手を振ると、彼はすぐに友禅染の風呂敷に包んだ四角い箱に気づいた。
「お帰りになったの」
外に出て来た彼は遺骨に手を合わせた。
突然に、それまで押さえていた哀しみがこみ上げてきたので、挨拶もそこそこに辞した。

住まいの1階エントランスには、母が白菊会に向かう時に乗ったエレベーターが止まっていた。エレベータは三つあるが、それだけが遺体を載せられるように奥行きを広くできるように作られている。白菊会へ向かったあの日のことが走馬灯のように想い浮かんだ。

「本当に久しぶり。やっぱり家は良いわね」
帰宅して母の部屋に遺骨を置くと、母の明るい声が聞こえたような気がした。
仏壇の前の台を片付け遺骨を置く場所を空けた。その時、母が好きだったオルゴールに触れて、飾りのグラスファイバーが七色に光り「星に願いを」のメロディーが流れた。長く動かしていなかったので、電池はすぐに切れメロディーだけを奏で続けていた。

死別から2年4ヶ月のフワフワとした存在感のない日々から現実の重みが戻って来た気がした。現実の重さには煩わしさが伴うが、それは嫌なことではない。

その日から1ヶ月かけて、遺骨を乳鉢で微粉末にして、母のゆかりの公園に撒いた。
一番多く撒いたのは、最後に連れて行っていた公園の、古墳のように優しい草原の丘だ。毎日の散歩途中に立ち寄って眺めていると、とても安らぐ。遺骨の主成分リン酸カルシウムは花の肥料と言われている。その所為か、母が生まれ変わったように色鮮やかな花が咲いた。 

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母の人工関節を石膏で固め、生前、母が作ったビーズのブレスレットで飾った。

2013年11月

今も思い出したように自然公園へ行く。
すっかり早くなった秋の夕暮れ、歩道の手摺に寄りかかっていると、タイムマシンから眺めるように、母をリハビリさせていた若い私を想い出す。

思い出の中で、若い私はソロソロと手摺を伝い歩きしている母の後ろを追っていた。
伝い歩きしている母の足元を、鳩たちが馬鹿にするように追い抜いて行った。
「鳩は足が短いのに、歩くの早いね」
若い私が母に話しかけた。
「笑わせないでよ、転んじゃうから」
母は立ち止まって笑っていた。
やがて若い私は母の車椅子を押して去って行ていった。

秋の夕暮れに一時の追憶は消え、老いた私が取り残された。
若い頃の私は行く末を様々に予測していたが、老いの陰翳までは考えていなかった。

「秋が過ぎ冬が過ぎて春が来て、夏が過ぎ1年が終わる。再び季節が巡り、それを何度か繰り返している内に季節が止まり人生は終わるのだろう」
人生が舞台なら、そのような台詞をつぶやいて舞台はフェードアウトする。

御諏訪神社下の道で、よく会っていたおじいさんを最近見かけない。彼はいつも境内から舞い落ちる落ち葉を掃除していた。
「いつも綺麗にしていただいて、ありがとうございます」
生前、車椅子の母が礼を言うと、彼は嬉しそうだった。その頃、80歳くらいだったから、健在なら80代後半だ。寝込んでいるのか、それとも亡くなったのか、老人の年月はあっという間に過ぎてしまう。

老いてからの年月は荒馬のようだ。しっかりとしがみついていても、やがて振り落とされる。我々にできることは心の準備くらいで、どんなに周到な準備をしても、最後は意味をなさなくなる。

そう言えば、父母の世代は子供たちに最期まで面倒を見てもらえた。だから、老後を心配しなかった。祖母も父もいい加減に生きて来たが、それでも家族に看取られて旅立って行った。